神永ジーザスは孤高が
厳しさのときと、静けさのときがある。
運命を受け入れ進んでいるのに、
ときおり普通の青年に戻る。
辛いこの3年、自分で治せ、捕らえられてからも。
仔犬のような瞳。
晩餐も冒頭で瞳が潤んでいるのに、
それを見る人がいない。
ユダも蹲っている。
様々な表情はジーザスの内面の複雑さ。
佐久間ユダは若くて、それゆえ真っ直ぐ。
嫉妬も恋心も滲まないし、
本心を隠して理性での言葉でもない。
ただひたすらジーザスのために、ジーザスを思って。
邪念の無さが痛々しい。
真っ直ぐではあるけど、
田中ユダのような爽やかさはないので、
こういう系もありよね、と思う。
ジーザスの屈折がよくわかるというか。
地獄に落ちてからの問いは、
「言ったとおりだろう」の快哉と、
あとはなんだろう。
ジーザスを救えなかった実感?
忠告しただろう、俺が思ったとおりになっただろう、
と。自分の正しさを証明できた喜びの笑顔なのに、
血の涙を流しているかんじかな。
芝ユダは血を吐き、金森ユダは透明な涙を流す。
佐久間ユダの血の涙はその中間ではなく、全くの別物。
おっさん達のユダは地獄に落ちたときは
余計な気持ちは全部剥ぎ取られて、
最も純な気持ちで彼の名を唱える。(奪衣婆が出張)
佐久間さんは彼の名を唱えているときに、
これからのしかかる後悔を予兆するような?
地獄に落ちて初めて気付くことがあったような?
佐久間ユダについては、
なんだか「こうあって欲しい」妄想の域に行っちゃった気がするので、
来月しっかり確かめます。
本城シモンはアレンジしまくり。
そこも歌うか!
五十嵐ペテロも熱血系かな。
マリアとのハーモニーが美しい。
山本マリアは可愛い、可愛い!
司祭様たちの歌も絶好調。
後生の怨嗟を恐れる村ピラトもいいよー。
阿久津ヘロデは、
役としてのコメディリリーフというより、
役者個人の存在感で振り切ってるかんじ。
睫毛の金色盛りに目が釘付け。
ちょい白塗りのせいか顔の輪郭がちょっとふっくら?
確かに仏像系。
民衆がいまいちかなー。
声ばかりで、エネルギー、熱量が2階席まで届かない。
こんなに小さなハコなのに。
名古屋はもっと広いよ!
市場のウサギは一匹?捌けた。
売れたというより強奪された?
佐久間さんは私の好み基準だと真ん中芝居が少し薄いかな。
話を引っ張る力がまだ足りない。
ただそれゆえ、対ベテランじゃない神永さんが
強く話を引っ張っていて、
それがジーザスの孤独に繋がっているのがまた良いな、とも。
佐久間さんは言うなれば新公主演2回めぐらいだから、
20年以上(ぐらい?)同役の人と比べるのは間違い。なのよ。
歌もまだパンチが、と思うときもあるけど、
それもキヨミチ比もあるし。
神永さん本人も痩せてきてることもあり、
「眠ろう 今夜だけは」のジーザスはすごく疲れているから、
睡眠薬を仕込みたいよねー、なんなら金曜日朝まで起きないぐらいの、
と、馬鹿な話を友人とする。
ロレンス神父がベラドンナから作った薬なら
爽やかな目覚めみたいよ!
(ジーザスが無事金曜日も朝まで寝てたら
ロレンスは神父になれないけどさ。
なに?タイムパラドックス的な?)
芝ジーザスに対し「あの人が可愛い」と歌ったマリアには
「落ち着け!」って思ったよなあ、、、
名古屋に行くぞーーーーっっ!