ゆるっと読書

気ままな読書感想文

【街かどのパフォーマンス】今こそ必要な存在

2009-11-22 20:25:06 | Weblog
【街かどのパフォーマンス】高崎明・著(太郎次郎社)

障害=欠陥。障害があるより、ないほうがいい。
こうした視点を転換することは、なかなか難しいと思う。
いろいろなことを言ってみても、「綺麗ごと」になってしまう気もする。

しかし、「街かどのパフォーマンス」を書いた高崎明さんは、障害がある人の存在をとても魅力的な存在としてとらえている。「綺麗ごと」ではなく、心の底から、「彼らと一緒に生きていきたい。そうしたほうが楽しい」と感じている。

「あとがき」によると、高崎さんは、大学卒業後、会社員になった。
しかし、山が好きで、マッキンリーに登るため会社を辞めた。
その後、富士山を登山中の事故で、大怪我をしてしまう。やがて、養護学校の先生になり、それまで出会ったことのなかった障害児たちと向き合うことになった。とてもユニークな経歴の持ち主だ。

まっすぐに教育の現場に入らなかったからこそ、高崎さんは、とても新鮮な気持ちで障害児たちと触れ合うことができたのかもしれない。

高崎さんは、障害児たちと街の中でお芝居をしたり、月1回開催される地域の市場で「うどん屋」を開いたり、学校を飛び出して、さまざまな活動に取り組んだ。
そうした活動の中で起こった出来事や、そこに参加した人たちからの感想などが、この本にまとめられている。

高崎さんの言葉を読むと、障害のある人と向き合うことは、障害のない人が自分自身の「生」と向き合うことなのかもしれないと思う。

高崎さんたちの活動に参加したら、自分も、これまで忘れていたり、気がつかなかったことを発見できるのかもしれない。生きる意味をあらためて問い直すことにつながりそうだ。
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【告白】語られる殺人

2009-11-13 21:41:22 | Weblog
告白
湊 かなえ
双葉社

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【告白】語られる殺人

湊かなえのミステリー小説「告白」は、1つの殺人事件について、それに関わった複数の人間の語りを使って描いている。

語りのなかで、4歳の女児が学校のプールで水死した事件が、事故ではなく殺人であったことや、その殺人の背景が明かされるが、物語の主軸は、事件の「謎解き」ではなく、関係者たちの「その後」に置かれている。

関係者たちは、事件を振り返り、それぞれの解釈をする。
1つの殺人に対する受け止め方は、人それぞれで、多様なことが浮き彫りになる。
事件に関わっていても、彼らの人生の時間は現在進行形で、それぞれの人生を生きている。
苦しみながら生きる者もあれば、殺人を他人のせいにして生きる者もいる。

それぞれの語りを読み進めるなかで、読者は「私がこの立場なら・・」と想像力をかきたてられる。関係者たちが、その後どうなっていくのかという興味で、一気に読まされる。

日常生活の中で、テレビや新聞などのメディアを通じて、殺人事件を知ることは少なくない。
しかし、「犯人はこういう人」、「被害者はこういう人」、「その家族はこんなふうに発言している(多くの場合、悲しみ)」などなど、提供される情報は表層的で、通りいっぺんのような印象がしていた。

「小説だから」といえばそれまでだが、
「1つの出来事を、異なる視点からとらえることで、それまで気がつかなかった側面に気がつくことができる」ということを教えてくれる作品だ。

なお、本作品は、2009年本屋大賞第1位に輝いた。
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【日本のドキュメンタリー】ドキュメンタリーとは、考える材料である

2009-11-08 20:51:07 | Weblog
シリーズ 日本のドキュメンタリー (全5巻) 第1回 第1巻 ドキュメンタリーの魅力
佐藤 忠男,吉岡 忍,森 まゆみ,池内 了,堀田 泰寛,小泉 修吉,矢野 和之,佐藤 博昭
岩波書店

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【日本のドキュメンタリー】ドキュメンタリーとは、考える材料である

面白かったのは、第1章「ドキュメンタリーは何をどう撮ってきたか」(佐藤忠男氏)
と、第3章「ドキュメンタリーの実際」の中の「ドキュメンタリーの制作と上映の実際」(小泉修吉氏)だった。

佐藤氏は、日本のドキュメンタリーのこれまでをまとめながら、
また、小泉氏は、ドキュメンタリーの制作会社「グループ現代」での仕事を振り返りながら、ドキュメンタリーとは「何か」という大きなテーマに触れていた。

佐藤氏によると、ドキュメンタリーという言葉は、「ドキュメント=資料」に由来するという。

語源を想像すると、なんとなくそうだろうとは思うのだが、「ドキュメンタリーとは、芸術というより、考える材料である」という説明は、ドキュメンタリーの特長を簡潔に表していると思う。

小泉氏は、「ドキュメンタリーとは、日常性の中に人間と社会の深層をのぞきこみ、存在の真実を探ることだと考えているので、日々の暮らしの経験の積み重ねから発する言葉には啓発されることが多々あるのだ」と書いている。

また、ドキュメンタリーの制作にあたり、「撮影や取材対象の人と心のかよう人間として信頼を築くことが、その基本にある」と指摘している。
ドキュメンタリーの制作は、取材・撮影する側と、される側の協働といえるのかもしれない。

視聴者の立場で考えると、私の場合、ドキュメンタリーを観る時には気合が要る。

ドキュメンタリーは、社会的に「問題」となっている素材を取り扱っている。観ているとき、そして、観終わった後にも、作品が訴えてきたものを受け止め、考えることを求められる。それによって、思考の幅が広くなったり、深くなったりしたように感じることは多い。

しかし、観るのに気合がいるために、ほかの事に気を奪われていたり、疲れていたりして精神的に余裕がないときは、ドキュメンタリーを観るという選択を避けてしまうこともある。

本書で紹介されていた作品は、タイトルは聞いたことがあっても、観たことがないものが多い。図書館などで探してみたい。
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【感染宣告】そして、人はどう生きる?

2009-11-04 00:20:51 | Weblog
g2 ( ジーツー ) 創刊号 vol.1 (講談社MOOK)
講談社
講談社

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【感染宣告】そして、人はどう生きる?

「月刊現代」の後継誌として創刊された「g2」に掲載されている石井光太氏の「感染宣告 日本人エイズ患者と性愛の連鎖」は、HIV感染を宣告された人が、「宣告後の人生をどう生きているか?」に焦点を当てたルポである。

HIV感染は、他の病とは異なる特長を持っていると思う。

1つは、性行為(セックス)により感染するものであり、また、感染者は、「他人に感染させてしまうかもしれない」というリスクを念頭に生活しなければならないこと。

そして、もう1つは、治療を継続すれば「すぐ死ぬ病」ではないにも関わらず、感染が死につながるイメージが強く残っていることだ。「汚れた血で死ぬ」と誤解される病だろう。

HIV感染を知った後、家族、配偶者、恋人などとの関係をどう築いていくことができるのか?。
石井氏は、感染を宣告された人や、その周囲にいる人々に、感染の経緯や感染が判明したときのこと、そして、その後の生活について尋ねている。

人と人が触れ合うこと、抱きしめあうこと、愛し合うこと。
これらは、人と人が関係をつくり、それを維持していくうえで重要な要素になる。HIV感染は、これらの行為を妨げる。だからこそ、感染は、それぞれの人生に重くのしかかる。

感染者の孤独は深い。
それは並大抵のことでは拭い去れず、一生抱えていくものかもしれない。
一方で、HIV感染者は、「誰かを愛する」「生きる」ということについて、他の人よりも
真剣に悩み、考えなければならない人々でもある。

感染を宣告された後の、感染者の人生の一端を示すことは、HIV感染に対する無知や、そこから生まれる偏見を解消する取り組みといえるだろう。

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【いっぽ いっぽ】家族を愛するということ

2009-11-01 20:47:54 | Weblog
いっぽいっぽ―ダウン症の娘と共に
幸田 啓子
ぶどう社

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【いっぽ いっぽ】家族を愛するということ

「いっぽ いっぽ ダウン症の娘と共に」の著者、幸田啓子さんに、挨拶程度のお話する機会があった。パッと見た瞬間、素敵な女性だなぁと思った。
ダウン症の娘さんがいるということは、その時、聞いていた。そして、私は自分の持っていた偏見を自覚したように思う。

家族に障害者がいることについて、「大変」「苦労が多い」とマイナス面ばかり考えてしまうのは、日頃、障害者に接していない人の勝手な解釈にちがいない。そう思う一方で、「そうはいっても、障害がないほうがいいだろう」とか「きれいごとだけでは生活はできない。大変なことも多いにちがいない」と考えている自分がいた。

幸田さんから受けた印象で、私の考えは少し変化した。さらに「いっぽ いっぽ」を読んで、「障害者が家族にいることは大変な部分があるかもしれないが、だからと言って、不幸せというわけではない。むしろよりいっそう幸せな家族もいる」と感じている。

先日、朝日新聞の書籍広告欄に、「座間キャラバン隊」と幸田さんの名前を発見した。
座間キャラバン隊とは、ダウン症や自閉症の子どもたちがどんな気持ちを持っているのか、どう接すればいいのかを分かりやすく紹介する活動をしている。そして、その活動の一環として「障害のある子って、どんな気持ち?」(ぶどう社)を出版。広告は、この本の出版を宣伝するためのものだった。

私が手に取ったのは、もう1冊の本、幸田さんの子育てエッセイ「いっぽ いっぽ」だった。これは、共同通信を通じて配信され一般紙でも掲載されたものなので、新聞紙上ですでに読んでいる人も多いかもしれない。

私自身は、初めて目を通し、そして、なんども涙がこぼれた。
幸田さんの文章に、家族に対する思いがあふれていたからだ。

子どもに対する親の思い、兄が妹を思う気持ち、家族の中で互いに大切に思うこと。
障害者がいる、いないに関わらず、どの家族にも重なるような思いが綴られている。

また、出生前診断のことに触れて、幸田さんは、こう振り返っている。
「(ダウン症の)まどかと出会う前の私が、もし妊娠中に医師の勧めで検査を受けていたら、まどかはこの世に誕生していなかった、と断言できる」
「出産時こそ、ショックにうちひしがれたが、一緒に暮らしていくうちに、ダウン症の子のピュアでやさしい性格を知った」

幸田さん自身の価値観や気持ちは、まどかちゃんの出産前と出産後で、大きく変化していることを示している。

1つ1つのエピソードは短いが、行間から、ダウン症の娘まどかちゃんをかけがえのない存在として受けとめ、家族の一員として愛していることがひしひしと伝わってくる。

障害者のことに関心がなくても、子育てに悩む人、家族関係に悩む人などには、ぜひ、手にとってほしい。

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