ゆるっと読書

気ままな読書感想文

【世に棲む患者】せっかく病気になったんだから

2011-06-23 00:18:50 | Weblog
世に棲む患者 中井久夫コレクション 1巻 (全4巻) (ちくま学芸文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房

 

 

「世に棲む患者」(中井久夫・著、ちくま学芸文庫)は、医師の中井久夫氏がこれまでに書いた文書や講演の記録が詰め込まれています。

 

精神疾患患者の治療や、医師・患者関係などをテーマにしていますが、医師向けに書かれたものだったり、一般向けの講演の記録だったり、想定した読者はさまざまです。

 

 私は、医療の専門知識を持ち合わせていないので、正直ちょっと難しいところもあるのですが、「なるほど」と思った箇所もいくつかありました。

 

■社会復帰って何でしょう? 社会の中に安定して入れたらOK

 

 一つは「社会復帰」についての指摘。

これは書籍のタイトル「世に棲む患者」に結びつくテーマです。

 

『私は、いわゆる“社会復帰”には、二つの面があると思う。一つは、職業の座を獲得することであるが、もう一つは“世に棲む”棲み方、根の生やし方の獲得である。

 

そして後者の方がより重要であり、基礎的であると私は考える。すなわち、安定して世に棲みうるライフ・スタイルの獲得が第一義的に重要である。

 

「働かざるもの食うべからず」と人はいうだろうか。しかし、安定して世に棲みえない―そのような座をもたない―人に働くことを求めるのは、控え目にいっても過酷であり、そして短期間しか可能でないことだろう』

 

病気でも、安定して「世に棲めて」さえいれば、十分に社会に復帰しているということです。働くことが難しく、実現できなくても、社会のなかにいれば、それだけで十分に社会復帰しているということです。

 

■「せっかく」は効きそうです

 

もう一つ興味を持ったのは「疾病利得」についての指摘。

 

精神医学では、疾病利得という考え方があり、『病気をすると、病気は不幸だけれどそれによって労働を免除されたりすることもあるわけだから、そのために病気に逃げ込んでいるところもある』

 

 ただし、病気に逃げ込むというのは余り感心したことではないという社会通念があるので、患者は逃げ込んでいると指摘されると「逃げ込んでいない」と言ったり、「逃げ込むくせがあって、私が悪い」と責めたりして、いずれにしても実りがなく、疾病利得は正面から戦って勝ち目がないものだとのこと。

 

では、どうするか?というと、

中井氏は、「せっかく」という言葉をよく使うそうです。

 

人間は、生きやすいならば、わざわざ精神の病気などにはならない。

治ったら孤独が待っているとか、治り難くて無理のないような場合もあるわけで、それで病気になっている。

 

そういう認識を踏まえて、

たとえば、うつ病でとても狭い生き方をしている人には、「せっかく病気になったんだから、少し生き方を変えてみてもいいんじゃないか…」と言ってみる。

 

「せっかく病気になったんだから、少しはいいことをしないとね」と言ってみる。すると、患者から「治ったらこういうつらいことが待っている」と話しだすきっかけになるという。

 

そうして、患者さんが、生きやすいようにアドバイスしていくそうです。

 

病気という負、マイナスのものを、どのように受けとめてもらうかという点がポイントになっていますが、「せっかく」という言葉は、あまり良くない出来事を、その後に活かす、良い経験としてとらえる方向に視点を変更させる効果があると思いました。

 

「せっかく」は、病気以外でも、うまくいかないことが起こったとき、失敗したとき、などなど、いろいろ使えそうです。

 

「せっかく、上手くいかない経験をしたんだから…」

「せっかく、失敗したんだから…」

 

なんとなく、気持ちが上向きになりそうな気がしませんか?

 

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【母よ!殺すな】脳性まひ(CP)として生きる!の強烈なパワー

2011-06-11 22:24:49 | Weblog
母よ!殺すな
クリエーター情報なし
生活書院

 

横塚晃一氏の著書「母よ!殺すな」。

 

この本は、障がい者について書かれた固めの本を読むと、必ず「参考文献」の欄に登場していました。

 

とてもインパクトのあるタイトルなので記憶に残り、

「障がい者運動の歴史において、とても重要な位置づけにある本なのだろう」。

「きちんと読んでおいたほうがよいにちがいない」。

と思って購入していたのですが、しばらくの間、机の上に「積ん読」状態になっていました。

 

タイトルからとても重い内容を想像してしまい、手にとるには気合いが必要だったのです。

 

自分の元気がないと読み通せないような気がして、気楽に読めそうな他の本に浮気をしてしまい、読むのを後回しにしていました。

 

でも、やっぱり、手に取ろう!

ようやく決意して読み始めたのですが、「もっと早く読んでおけばよかった!」と思いました。

 

想像していた暗さを感じることはなく、生きることに対するとても強烈なパワーを感じさせられたからです。明るさ、清々しさ、もあるかもしれません。

 

この本に収録されている横塚氏の発言は、1970年代前半にされたものもあります。

しかし、

障がい者として生きること、

障がいのある人とない人(健全者)との関係、といったテーマは、

時代や社会が変わっても、決して古くないのです。

「今、ここ」で考えなければいけないものだと思いました。

 

横塚氏は、「我が子の五体満足を願うのはエゴイスティックな愛といわれようとも、親として偽らざる思い」という手紙を書いた婦人に宛てた返信の中で、次のように綴っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分よりも重い障がいの人を見れば「私はあの人より軽くてよかった」と思い、また知能を侵されている人を見れば「自分は、体は悪いが幸いあたまは…」と思うのです。

なんとあさましいことでしょう。そのように人間とはエゴイスティックなもの、罪深いものだと思います。この自分自身のエゴを罪と認めることによって、次に「では自分自身として何をなすべきか」ということが出てくる筈です。お互いの連帯感というものはそこから出てくるのではないでしょうか。まして、我々障害者とそうでない人との交わりとは? 障害者福祉とは? ひいては人間関係のあり方とは? 先ず自分が罪人であると認めるところから出発しなければならないと思います。その根底に自分の罪悪性を省みることがない限り、そこから出発した障害者福祉とは、強者の弱者に対するおめぐみであり、所謂やってやるという慈善的官僚的福祉とならざるをえないでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

読んで、少し考えてみました。

 

人は誰でも、自分のことが大事だと思います。

より良い状態でいたい、満足したい、楽しみたい、という欲求があると思います。

 

その欲求を満たすために、他人と比べて「自分のほうが良い」とか「自分のほうがマシ」と感じていることもあるはずです。

 

障がい者だけでなく、最近では、東日本大震災の被災者に対する支援にも通じることだと思いますが、何かをして「あげる」というとき、その背景には、とてもエゴイスティックな感情、罪悪性があるのです。

それを自覚しておかないと、「何かしてあげる」の「何か」は、される側にとって抑圧的なものになりそうです。

 

もう少し、考えてみると、

障がいのある人、ない人の関係だけでなく、

親子、恋人、友達関係など、すべての人間関係の背景には、自分の欲求を満たそうとする人同士の力関係の「争い」があるといえるのかもしれません。

 

「○○してほしい」「▽▽であってほしい」「□□すべきだ」。

親が子に、思いを寄せる男・女に、親しくしている友達に、お互いに、何かを求めていると思います。

 

欲求と欲求のぶつかり合いのなかで、互いに折り合いをつけられれば関係を続けることができますし、切っても切れない関係では、どこかで折り合いをつけなくてはなりません。

 

でも、ときに、自分が求めるものが得られず、空しくなったり、欲求のぶつけあいの争いに疲れたりすると、相手と関わることさえ苦痛になり、相手から逃げたり、距離を作ったりするのでしょう。

 

私自身、本当にエゴだな。って思います。

 

それを自覚して、他人との関係をどうするか? ですね。

 

一人で生きていくことはできないし、独りでは寂しいから。

 

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