ゆるっと読書

気ままな読書感想文

【レバレッジ・リーディング】読書は投資

2010-04-25 23:22:15 | Weblog
レバレッジ・リーディング
本田 直之
東洋経済新報社

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【レバレッジ・リーディング】読書は投資

ビジネス書は、とにかく多読することに価値がある。
なぜなら、読書は、投資だから。

本書の結論は、これに尽きる。

投資をするには、投資対象に関する情報を集める。その分野や関連企業に関する情報を収集する。必要な情報を拾い集めて、活用して、投資する。読書も同じで、必要な情報を拾い集めて、活用する。「これだ!」と思った知識や情報は、実践にまで結びつけるということだ。

ただし、画期的な方法が紹介されているわけではない。

しかし、多くの人は、読書の方法を工夫することなく、漫然と本を読んでいる気がする。
「非効率」な読書を考え直したり、改善するきっかけを与えてくれる本といえる。

私が参考になったのは、「レバレッジメモ」の作成方法。
読書で得た知識・情報を、活用するためのメモの作り方だ。

メモをつくり、持ち歩く。暗記するくらいまで、自分のものとする。
メモがたまったらテーマごとに分類する。
そういうところまで実践して、読書がその人の資産になるということらしい。

中途半端では、駄目。本を読むのも、貪欲に、徹底的に、といわれている気がした。

私の場合、関心したり、感動した言葉はメモをしている。
しかし、私のメモは五月雨的なもので、特に整理してはいない。

自分の関心の高い分野は、もっと多読をしてみよう。
そして、そこから得た知識・情報を私なりに活用してみたい。


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【新世紀メディア論】ネット時代のメディアとは

2010-04-20 21:37:16 | Weblog
新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に
小林弘人
バジリコ

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紙媒体を制作する仕事をしていると、出版不況といわれている状況を実感せざるをえないことがある。「どうしたら、売れるだろうか?」は、日々、直面する課題だ。

最近は、なんといってもネットの時代。
ウェブサイト、ブログ、SNS、ツイッターまで出てきた。

情報がほしい個人は、インターネットで検索して入手できる。
わざわざ本や雑誌を買わなくても、おおまかな情報なら無料で手に入れることができる。
個人と個人がネットを介してつながり、互いに情報を交換すれば、問題が片付いてしまうこともあるだろう。

そんな時代のなかで、情報を有料で販売して稼ごうと行為そのものが難しいのかもしれないと思う。

ネットと紙媒体とを連動させて相乗効果を狙ったらどうかなどと考えたこともあったが、
小林弘人・著「新世紀メディア論」を読むと、どうやら、こうした発想自体が間違いのようだ。

この本は、知人がブログで紹介しており、刺激的な副題「新聞・雑誌が死ぬ前に」に魅かれた。日経ビジネスオンラインの連載に加筆された書籍で、正直なところ、あまり読みやすいとはいえない。

「lecture」01から28までの章立てで構成されているのだが、体系的にまとめられていない。それぞれのlectureを「読みきり」ととらえたほうがいいだろう。


私が「なるほど」と思いながら読んだのは、

『あらゆるコンテンツは、ネットに偏在し、その探し方も「検索」「発見」「行動」「共有」へ変化しています。(中略)(ユーザーが)集う場所がネットであるなら、媒介者は紙メディアという間接的なものより、さらに直接的な行動に遷移できるネット上にあるほうが理想的でしょう』

という記載。

情報の検索、発見、行動、共有すべてがネットで済ませられる時代に、わざわざ紙媒体を使う必要はないということだ。

紙とネットを比べてうんぬん言っている場合ではなく、メディアの役割、機能をとらえなおしたほうがいいのだろう。

著者は、「これからの編者は、コンテンツをつくるだけではなく、人の動線をどう設計できるかが求められている」と指摘している。

コンテンツ(中身)が面白い、有意義であるだけでなく、多くの人を、コンテンツがあるネット上の「場」まで誘導できること。

さらに、集った人びとが、その「場」に関する自分の意見や評価を発信したくなるように動機づけること。

こうした「場」の注目度を高めるような仕掛けをつくれることが必要だとしている。

理屈は、よく分かる。

しかし、こうした仕掛けを戦略的につくれる人は、そう多くはないように思う。
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【暮らしの哲学】春は残酷な季節、その理由とは?

2010-04-11 21:49:34 | Weblog
暮らしの哲学
池田 晶子
毎日新聞社

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 大学生の頃、友人のひとりが、「毎年、春になると、とても憂鬱な気分になる」と言ったことを覚えている。

春は、寒い冬が終わり、暖かくなる季節。
桜が咲き、新入学の学生や、新入社員の姿は、とても初々しい。
明るい雰囲気が漂う季節に、どうして憂鬱になったりするのだろう?
当時の私は、友人の「春は憂鬱」発言を、不思議に思った。

池田晶子・著の「暮らしの哲学」のなかに、『春に思う「この感じ」』というエッセイが収められている。
これを読んで、「春は憂鬱」の理由を、少し理解できた気がする。

私自身について考えてみても、春は「憂鬱」まではいかないが、小さな痛みを感じる季節になりつつある。

池田晶子氏は、安岡章太郎氏の文章のなかに「春は残酷な季節だ」と書かれていたことについて触れる。学生時代には、「春は残酷な季節」の意味がよく分からなかった。しかし、年月が経ち、人生を積み重ねたとき、この言葉を実感した。

池田氏は、次のように書いている。

春を残酷と感じるのは、始まりは痛みであるからだ。

 始まりが痛みであるのは、過ぎ去って還らないものを後ろに残して始まる、そのことが「痛い」のだ。

 人生は過ぎ去って還らないけれども、春は、繰り返し巡り来る。
一回的な人生と、永遠に巡る季節が交差するそこに、桜が満開の花を咲かせる。人が桜の花を見たいのは、そこに魂の永遠性、永遠の循環を見るからだ。それは魂が故郷へ帰ることを希う(ねがう)ような、たぶんそういう憧れに近いのだ。

 始まりを繰り返すことの痛みは、終わりへ向かうことの痛みでもあるだろう。花は儚いと人は言う、自分の人生がそうであるように。

 「春は憂鬱」と言った友人は、おそらく、私よりもずいぶん大人だったのだろう。

過ぎ去った10代は戻らない。
あと数回、春が来たら、その後は、社会へ出なくてはならない。
私の友人は、すでに社会に出ている大人たちの姿に幻滅し、「春が来なければいいのに」などと考えていたのかもしれない。

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