ゆるっと読書

気ままな読書感想文

【活動家一丁あがり 社会にモノ言うはじめの一歩】「いうこと」よりも「つくること」

2011-04-25 00:27:08 | Weblog
活動家一丁あがり!―社会にモノ言うはじめの一歩 (NHK出版新書 343)
クリエーター情報なし
NHK出版



「この人の発言は、すごく力があり、心に響いてくる」と感じさせる人。
そのひとりが、反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さんです。

湯浅さんたちが開催したアジア太平洋資料センター(PARC)の特別講座の記録をもとに、「活動家」についてまとめたのが本書「活動家一丁あがり 社会にモノ言うはじめの一歩」。

「活動家」というと、ちょっと危険なイメージをもってしまいそうですが、湯浅さんによると、『より生きやすい「場」をつくる人=活動家』。

今、目の前にある現状に対して、「なにか、おかしい」「もっと、こんなふうだったらいいのに」と感じ、行動を始めた人は、すでに「活動家」といえそうです。

湯浅さんによると、

『場をつくる人としての活動家は、言うべきことは言うが、ただ言っているだけではない。自分の言っていることにカタチ(場)を与える。活動家は不平家とも違うし、理論家とも違う。「言うこと」よりも、「つくること」のほうが難しいのを知っている。「言うこと」は一人でできても、「つくること」は一人ではできないことが多く、そうである以上、いろんな人との接点を見出しながら、ときには妥協しつつ合意形成しながらやるしかないからだ。』

『活動家とは、「場」をつくることを通じて多くの人に気づきの機会を与え、変化のスピードに遅れすぎないよう社会を引っ張っていく存在である。だから活動家は、その活動が特定の誰かを対象にしていたものであったとしても、特定の誰かのためだけのものではない。社会全体のためのものであり、社会の持続可能性をつくるものだ』

活動家のひとり、川添誠さん(反貧困たすけあいネットワーク代表)は、言う。
『新しいことを始めるというのは一人の活動家の発案だとしても、それを実現するのは孤立した活動家ではない。活動家にとってまず必要なのは社会を変えたいという熱意だが、それだけでは足りない。仲間とつながることのできる活動家だけが、新しい社会運動をつくることができる。そして、活動家にとってもっとも必要なことは、一人では何もできないという自覚だ。仲間とつながりながら、どのような新しい状況に直面しても考えることをサボらないのが活動家だと私は思う』

ただし、活動家は特別な人ではありません。

派遣切りの経験から活動家となった人鈴木重光さんは、
『まずは自分の身の回りのことや周囲の人たちに思いを馳せ、その(人たちの)ために何ができるのかを考える。そしてその一市民たちが、今の生活を少しでも良い方向に変えていこう、と声を上げて集まることが何よりも必要だと信じている』

私なりに整理をすると、
・社会・現状について「もっと、こうしたい」「こうありたい」という思いがあること
・思いをもっているだけでなく、行動を起こしていること
・一人ではなく、同じ思いを抱く仲間とつながり、ともに行動していくこと

こうしたことができるのが「活動家」であり、そういう人の活動だからこそ、周囲の人や社会のなかで影響力をもつのだと思います。

思い、行動、人とつながる。
考えてみれば、とてもシンプルなことです。

でも、これをコツコツと積み重ねていくことに価値があると感じています。



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【発達障害は治りますか?】希望や夢を増やす言葉

2011-04-11 00:15:57 | Weblog
発達障害は治りますか?
クリエーター情報なし
花風社

 

「障害」という言葉が、なくなってしまえばいいのに…。

そんなふうに、考えたことがありました。

 

「障害」は、「害」という漢字が使われていることもあり、「○○できない」「○○するのに困難がある」というマイナスの意味で受けとめられがちな言葉です。

 

文章を書いたり、話しをするなかで、「視覚障害のある○○さん」「知的障害のある▽▽さん」と表現するとき、私は、なんとなくその人にマイナスのラベルを貼りつけるような気がしていました。「障害」「障害者」って、なんだか、嫌な言葉だなぁ…と、思っていました。

 

「発達障害は治りますか?」(著者・神田橋條治ほか)を読み、発達障害という障害を「害」としてではなく、「可能性」や「希望」をもって見ていく見方、考え方を教えられました。

 

著者のひとり、医師の神田橋氏は、「発達障害は、発達する」といいます。

 

「発達障害」といわれると、「発達できない。発達しにくい」と受けとめてしまいそうですが、「発達障害は、発達する」といわれると、とたんに目の前が開けて、希望が膨らみます。

「発達障害」に「発達する」を加えただけなのに、マイナスからプラスに意味が逆転し、世界がひっくり返ったような気持ちになりました。

 

「障害」に伴うマイナスの意味が、一気に払しょくされて、「これです!」という感覚です。

 

神田橋氏によると、

「要は知的障害も含めて、全部脳にシナプスの発育のおくれがあるだけのことだからね。だから現れるかたちは様々だし、一般の人との間にきれいな連続性がある。そりゃあね、軸索が一本少ないとか二本少ないとか、いっぱいいますよ。ちゃんと社会適応している人の中にもね。だから、みんなみんな発達障害だ」

 

改めて、「障害者って、一体、誰のことだろう?」と、よくよく考えてみれば、制度上で一定の線引きがあるけれど、それは、それだけのこと。「みんな発達障害だ」に「なるほど!」でした。

 

病気についても同様です。

 

神田橋氏は、

 

「うつの患者さんには、『意志が強い人しかうつ病にはなれないのよ』と言うことにしています。どうしてかというと、意志の強い人しか頑張れないからです。意志が弱い人は、うつ病が完成するほどに脳を酷使することができません。だから患者さんには『うつになる能力があったね』と言います」

 

うつ病という病気も、こんなふうに言われると、患者さんの肩の荷が軽くなりそうです。

 

神田橋氏は、人の「生きる力」を深く信じているからこそ、こういう言葉を発することができるのでしょう。

 

生きる力は、成長する力、発達する力と言い換えられるのかもしれません。

 

病気や障害を抱えた人に対する「支援」や「関わり」を考えたときも、その人ももっている「力」を深く信じて、支援や関わりをもつことが大事だと感じています。

 

「障害」という言葉を使うとき、私自身が、どういう方向に向けて使っていくか。信念に基づき、誠実に、言葉を発することができているか。そこが肝心でした。

 

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【施設長の資格】「誰かのため」と「自分のため」

2011-04-01 23:07:04 | Weblog
施設長の資格!―福祉経営に役立つ30項
クリエーター情報なし
中央法規出版

社会福祉の施設長さん向けに、「戦略の立案」「新規事業」「集客力」「人財育成」など、経営に役立つ項目をまとめているのが本書「施設長の資格」です。

 「このままではいけない」「なんとかしよう」と考えている施設長さんにとっては、施設の職員や利用者に対する見方を変えるきっかけになったり、提供しているサービスについて発想の転換を図ることにつながるかもしれないと感じました。

 私は、社会福祉施設の施設長さんでも、職員さんでも、利用者さんでもありません。

 しかし、本書のなかで、もっともいろいろ考えさせられたのは、『「権利擁護」を施設・事業所の長所=USP(unique selling proposition)にする』のなかで、著者が「自分が虐待していることを前提にしよう」と書かれていた部分でした。

著者によると

虐待は、虐待をしてやろうと思ってするわけではなく、「相手のため」と思ってしている。

 虐待とは、自分の判断基準や都合や思いを相手に押しつけること。

この点を考えていくと、私は、自分がしていることも、ここでいう「虐待」に含まれるんじゃないかと思い当たることが出てきます。

 障害者就労を推進する活動に参加していますが、それは「障害のある人のために、何かしたい」というより、私自身が「みんながいきいきと働ける社会だったらいいな」と思うからです。

言いきってしまえば、「自分のため」。

「誰かのために献身している良い子ちゃん」という自己評価の錯覚をもちたくないという思いもあります。

 でも、結局、いろいろ話しをしているなかで、「障害のある人」という表現を使うことがあり、そのとき私自身は「障害のない人」のほうへ置き、自分ではない「誰かのために」という前提で話しを進めてしまっている瞬間があるのは事実です。

 そんな瞬間に気がつくとき、私の心のなかに「誰かのため」という偽善があるのだと思い、また、虐待の芽が潜んでいるような気にもなるのです。

著者は次のように書いています。

 『「私は自分の都合を相手に押しつけていないか。自分の価値観を相手もそのまま受け入れるべきだと考えていないか。そのほうが、結局相手にとってもプラスになることであり、今は理解できなくても将来必ず理解できるときが来るはずである、自分の振る舞いは必ず感謝されるときが来るはずである、と思い込んでいないか。このときが虐待の芽の出ているときであり、その芽を摘む訓練と努力をどのようにしているか」と問うべきなのです。』

 虐待の芽を摘む訓練と努力とは、自分自身の考えや行動、その根拠となる思いや信念を、よい意味で「疑う」ということかな。と考えています。

 それは、日々の修行なのかもしれません。

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