子育てをしている友達から、「子どもの一言に、はっとさせられることがある」と聞くことは、よくある。
子どもの発言が、物事の核心をついているように感じたり、
大人が言葉にすることができずにいたことを
子どもにバッと言葉にされて、「それだ!」と気が付かされたりするようだ。
子どもは、自分が知っている言葉、多くの人にとって分かりやすい言葉で発言するから、
それが、大人の心にストレートに響くのかもしれない。
私自身は子育てをしていないので、そうした体験することは少ないが、
母親となっている友達や知人の話を聞いて、幼い子どもとの会話は、大人にとって「哲学」することになるのかもしれないと思う。
哲学の研究者・永井玲衣さんは、学校や企業などで「哲学対話」を行っている。
「哲学」というと、なんだかとても難しそうな印象がするが、
集まった人たち(生徒や社員、一般の人々)が、共通の問いについて、自分の考えを話し、他人の考えを聞くものだ。
考えを闘わせる「ディベート」とは異なり、他人の考えを聞いて、自分の考えを深めていく、時には、恐れずに自分の考えを
変えていくものだという。
著書「水の中の哲学者たち」には、著者が実践した「哲学対話」のエピソードが収められている。
本書の中で、哲学対話の参加者が考える「問い」について、次のようなことが書かれてあった。
ある小学校で哲学の授業をしたとき、子どもたちに、考えてみたい問いを紙に書いてもらった。
全国どこでも相変わらず小学生に人気なのは「なぜ、ひとは生きているのか?」「死んだらどうなるのか?」
「人間とは何か?」で、年齢が上がっていくと「本当の友だちとは何か」「なぜ目上の人は敬わないとならないのか」など、
人間関係の問いに入っていくのが面白い。
高校生や大学生になると「責任とは何か」「平等であることは可能か」など社会正義の問題に集中し、
社会人になれば「なぜ人間関係はつらいのか」など、人生に対する疲労が見え隠れする。
私自身の人生を振り返って、子どもの時、学生の時、社会に出たばかりの頃、その時々でどんなことを考えていたか?
を考えてみると、まさに上記のような問いを考えていたように思う。
歳を重ねるにつれて、問いは、より現実的な内容になっている。
幼いときのほうが、広い視野で物事を見ていて、自分を取り巻く世界をずっと大きく捉えられていた気がする。
冒頭にあげた、大人(親)が子どもの言葉にハッとさせられる経験は、
「哲学対話」の一端に近いものかもしれない。
「哲学対話」は「正解」のない「問い」を考えることだ。
そういう時間を持つ、そういう時間をつくることが、
点数やお金には代えられない価値があるように思う。