(57)方南橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/53/e2ece99fb5ba470965db960d29f0db51.jpg)
橋の名は地名(字)に由来する。初架橋は、昭和の初期、和泉通りから梅里方面に行く道路が開設された時であろうか。現在は、交通量の多い環七がこの橋で神田川を渡っている。前に来た時は取水施設が工事中であったが、現在は完成していて、実際に使用もされている。
(58)上水橋
「上水橋」は「方南橋」のすぐ下流にあり、代田橋から鍋屋横丁に出る旧道が通っていた。ここには江戸時代から橋があり、この橋を渡ったところの、東雲寺・通称釜寺の念仏堂から、古くは「念仏堂橋」とも呼ばれていたという。この辺り、神田川は川幅一杯に流れているが、何となく汚れているように見えるのが、残念な気もする。
(59)たつみ橋
次の橋は、釜寺の辰巳の方角に当たる「たつみ橋」である。昭和になってからの橋だろうが、この橋には変遷があるらしい。この先、神田川は台地の南側を回り込むように流れるが、左手に崖地が現れるようになると、川は中央部の狭い水路を流れるようになる。
(60)向田橋
次は「向田橋」。前に来た時の欄干とは、塗色が違っている。欄干を取り換えたらしい。ここに最初に橋が架けられたのは明治の頃。橋の名は地名(字)に由来する。戦前、この辺りから善福寺川との合流点付近までは水田で、「たつみ橋」の下流で神田川を分水し、東側の台地の裾を流して用水としていたらしい。橋の向うは田圃というわけだ。
(61)神田橋
次は「神田橋」。道路開設と同時に造られた新しい橋のようだ。この辺り、神田川沿いには柳が植えられ、川の流れも早く、水は透き通って見えるので、都市河川に付き物の汚れた感じは無い。橋の欄干や川の柵は、前に来た時と違っているので、取り換えたらしい。
(62)角田橋
「角田橋」も、欄干や川の柵が新しくなっている。橋の名は、細長い角のような田があったからという。この橋は、大宮八幡から中野に向かう旧道が通っており、江戸時代から、要路の一つであったようだ。この橋を渡ると、多田神社に出るが、この神社から北に向かう鎌倉街道があったとする説もある。
(63)睦橋
次の「睦橋」までは、右岸が通行出来ないので、左岸を歩く。この橋は、欄干に金網が取り付けられていて、養護学校の専用橋のようになっている。
(64)栄橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/58/7bf29e4b8b6849389156dc2496e83017.jpg)
栄町通りが開設された時に、栄橋も架けられたようで、橋の名も旧町名の栄町に由来している。現在は、交通量の多い方南通りが橋の上を通っている。「栄橋」から先、神田川の右岸は地下鉄の検車区・工場になっているため、左岸を歩くことになる。道は低い位置にあり、神田川の水面も近くに見える。やがて、道は神田川を離れるようになり、善福寺川を和田広橋で渡る。橋からは、善福寺川と神田川の合流点が見える。川幅を狭められているので、何れの川も流れは早い。地下鉄の検車区・工場の敷地は、昔は田圃で、その中を神田川が流れていたらしく、善福寺川との合流点も現在より北に位置していたようである。この合流点の少し上流には、江戸時代から橋が架かっていたが、今は消滅している。現在は、合流点から先、川沿いに目隠しのようなコンクリート壁が作られている。少々殺風景なところを和らげようとしたのだろうか、壁面に飾りを付けるなど工夫がなされている。
(65)和田見橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/05/73236c5ce4bd1719d97ec903d5fc318e.jpg)
神田川に沿った道を歩いて、「和田見橋」に出る。昭和になってからの橋だろう。その名は、旧町名の富士見と和田からとったものである。ついでに、江戸時代から使われていた本郷堰の址という小公園に立ち寄る。本郷堰は毎年4、5月に、神田上水の水を東側の水田に落とすための堰で、堰の下には水垢離場もあったという。農業用と水垢離に使った後の水は、用水堀を流れて長者橋付近で神田上水に合流していたが、その水を、江戸の人々は飲料水として飲んでいたことになる。神田上水から農業用に分水する事は、他の土地でも行われており、支流の善福寺川でも堰による分水は行われていた。玉川上水と異なり、神田上水は自然河川で低い所を流れていたため、分水した水を、また神田上水に戻すことになったのだろうが、当時は、あまり神経質に考えなかったのかも知れない。なお、昭和に入ってから、東側の田圃も埋め立てられ、堰も用水堀も消滅している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/53/e2ece99fb5ba470965db960d29f0db51.jpg)
橋の名は地名(字)に由来する。初架橋は、昭和の初期、和泉通りから梅里方面に行く道路が開設された時であろうか。現在は、交通量の多い環七がこの橋で神田川を渡っている。前に来た時は取水施設が工事中であったが、現在は完成していて、実際に使用もされている。
(58)上水橋
「上水橋」は「方南橋」のすぐ下流にあり、代田橋から鍋屋横丁に出る旧道が通っていた。ここには江戸時代から橋があり、この橋を渡ったところの、東雲寺・通称釜寺の念仏堂から、古くは「念仏堂橋」とも呼ばれていたという。この辺り、神田川は川幅一杯に流れているが、何となく汚れているように見えるのが、残念な気もする。
(59)たつみ橋
次の橋は、釜寺の辰巳の方角に当たる「たつみ橋」である。昭和になってからの橋だろうが、この橋には変遷があるらしい。この先、神田川は台地の南側を回り込むように流れるが、左手に崖地が現れるようになると、川は中央部の狭い水路を流れるようになる。
(60)向田橋
次は「向田橋」。前に来た時の欄干とは、塗色が違っている。欄干を取り換えたらしい。ここに最初に橋が架けられたのは明治の頃。橋の名は地名(字)に由来する。戦前、この辺りから善福寺川との合流点付近までは水田で、「たつみ橋」の下流で神田川を分水し、東側の台地の裾を流して用水としていたらしい。橋の向うは田圃というわけだ。
(61)神田橋
次は「神田橋」。道路開設と同時に造られた新しい橋のようだ。この辺り、神田川沿いには柳が植えられ、川の流れも早く、水は透き通って見えるので、都市河川に付き物の汚れた感じは無い。橋の欄干や川の柵は、前に来た時と違っているので、取り換えたらしい。
(62)角田橋
「角田橋」も、欄干や川の柵が新しくなっている。橋の名は、細長い角のような田があったからという。この橋は、大宮八幡から中野に向かう旧道が通っており、江戸時代から、要路の一つであったようだ。この橋を渡ると、多田神社に出るが、この神社から北に向かう鎌倉街道があったとする説もある。
(63)睦橋
次の「睦橋」までは、右岸が通行出来ないので、左岸を歩く。この橋は、欄干に金網が取り付けられていて、養護学校の専用橋のようになっている。
(64)栄橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/58/7bf29e4b8b6849389156dc2496e83017.jpg)
栄町通りが開設された時に、栄橋も架けられたようで、橋の名も旧町名の栄町に由来している。現在は、交通量の多い方南通りが橋の上を通っている。「栄橋」から先、神田川の右岸は地下鉄の検車区・工場になっているため、左岸を歩くことになる。道は低い位置にあり、神田川の水面も近くに見える。やがて、道は神田川を離れるようになり、善福寺川を和田広橋で渡る。橋からは、善福寺川と神田川の合流点が見える。川幅を狭められているので、何れの川も流れは早い。地下鉄の検車区・工場の敷地は、昔は田圃で、その中を神田川が流れていたらしく、善福寺川との合流点も現在より北に位置していたようである。この合流点の少し上流には、江戸時代から橋が架かっていたが、今は消滅している。現在は、合流点から先、川沿いに目隠しのようなコンクリート壁が作られている。少々殺風景なところを和らげようとしたのだろうか、壁面に飾りを付けるなど工夫がなされている。
(65)和田見橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/05/73236c5ce4bd1719d97ec903d5fc318e.jpg)
神田川に沿った道を歩いて、「和田見橋」に出る。昭和になってからの橋だろう。その名は、旧町名の富士見と和田からとったものである。ついでに、江戸時代から使われていた本郷堰の址という小公園に立ち寄る。本郷堰は毎年4、5月に、神田上水の水を東側の水田に落とすための堰で、堰の下には水垢離場もあったという。農業用と水垢離に使った後の水は、用水堀を流れて長者橋付近で神田上水に合流していたが、その水を、江戸の人々は飲料水として飲んでいたことになる。神田上水から農業用に分水する事は、他の土地でも行われており、支流の善福寺川でも堰による分水は行われていた。玉川上水と異なり、神田上水は自然河川で低い所を流れていたため、分水した水を、また神田上水に戻すことになったのだろうが、当時は、あまり神経質に考えなかったのかも知れない。なお、昭和に入ってから、東側の田圃も埋め立てられ、堰も用水堀も消滅している。