(66)富士見橋

和田見橋から少し先に行くと、地下鉄の「中野富士見町駅」がある。人通りも増え、車の往来も多くなって、間もなく、旧町名に由来する「富士見橋」に出る。昭和の初期、神田川と善福寺川の合流点から長者橋の間の、蛇行する神田川を改修し、直線部分の多い流路に直すことが行われたが、同時に周辺の区画整理も行われ、現在とほぼ同じ位置に橋が架けられる。その中で、富士見橋は、他の橋よりかなり遅れて架けられたようである。橋のたもとには記念碑があるが、読めそうになく、読む気もないので、黙って通り過ぎる。
(67)高砂橋
「富士見橋」から先は、神田川に沿って歩けないため、回り道をしながら橋を探して歩く。前に歩いた時は、所々、高圧線の鉄塔が川の中に仁王立ちになっていたような気がしたが、記憶違いかも知れない。次の橋は、「高砂橋」。両岸から樹木が枝を伸ばして、川の上を覆っている。川の流れは意外と早く、そのせいか、汚れた川と言う印象はない。
(68)寿橋

次の「寿橋」は、交通量の多い中野通りが通っており、北へ行けば十貫坂の上に出る。江戸時代、神田川と善福寺川の合流点から長者橋の間には、二か所に橋が架けられていた。現在は、神田川の流路が変わっているため、当時の橋の位置と同じにはならないが、「寿橋」は、そのうちの一か所に該当しそうである。一説によると、鎌倉街道中道の西回り道は、多田神社から北に直進して、十貫坂に出ていたという。道筋からすれば、鎌倉街道が神田川を渡っていた場所は、「寿橋」の近辺になるのではなかろうか。
(69)本郷橋
「本郷橋」の名は旧村名に由来する。明治の末ごろ、旧神田上水にあった橋が、場所的には近いが、この橋の前身と言えるかどうかは分からない。現在、「新橋」から「寿橋」まで、遊歩道を作る計画があるようだが、今は川沿いに行けないので、回り道をして歩く。
(70)柳橋
次は「柳橋」だが、橋の名の由来は分からない。他の橋と同様、ここにも、道幅の割には重たげな鋼橋が架かっている。この橋も、明治の末ごろ旧神田上水に架かっていた橋に、場所的には近いが、関係があるかどうかは不明だ。
(71)千代田橋
次の橋は「千代田橋」で、その名は旧町名に由来する。町名は、田圃が千代に続くことを願ってのものだろうが、この橋が架けられた、昭和の初めには、千代田町から田圃が消えていたかも知れない。
(72)氷川橋
次の「氷川橋」の名は、氷川神社に由来する。ただ、氷川神社の参道ということではなさそうだ。前に来た時は「新橋」の赤い欄干が見えたのだが、工事中のため、今は不可。
(73)新橋

次の橋は朱色の「新橋」。花街だった頃の面影が残っている。地下鉄の中野新橋の駅も近く、橋の周辺は商店街になっている。現在は工事が始まったばかりだが、計画では寿橋まで川沿いに遊歩道が出来るらしい。その時は、「新橋」も塗装し直すのだろう。ところで、江戸時代から明治にかけて、この近辺に橋があり、中野に出る道が通っていたという。道筋からすると、「新橋」が、その橋に該当しそうである。ただ、橋の名が「新橋」である理由が、よく分からない。河川改修前の旧神田上水にあった橋も「新橋」であったらしいが、中野に出る道が開かれた時に、新しく架けた橋なので、「新橋」と称したのだろうか。

和田見橋から少し先に行くと、地下鉄の「中野富士見町駅」がある。人通りも増え、車の往来も多くなって、間もなく、旧町名に由来する「富士見橋」に出る。昭和の初期、神田川と善福寺川の合流点から長者橋の間の、蛇行する神田川を改修し、直線部分の多い流路に直すことが行われたが、同時に周辺の区画整理も行われ、現在とほぼ同じ位置に橋が架けられる。その中で、富士見橋は、他の橋よりかなり遅れて架けられたようである。橋のたもとには記念碑があるが、読めそうになく、読む気もないので、黙って通り過ぎる。
(67)高砂橋
「富士見橋」から先は、神田川に沿って歩けないため、回り道をしながら橋を探して歩く。前に歩いた時は、所々、高圧線の鉄塔が川の中に仁王立ちになっていたような気がしたが、記憶違いかも知れない。次の橋は、「高砂橋」。両岸から樹木が枝を伸ばして、川の上を覆っている。川の流れは意外と早く、そのせいか、汚れた川と言う印象はない。
(68)寿橋

次の「寿橋」は、交通量の多い中野通りが通っており、北へ行けば十貫坂の上に出る。江戸時代、神田川と善福寺川の合流点から長者橋の間には、二か所に橋が架けられていた。現在は、神田川の流路が変わっているため、当時の橋の位置と同じにはならないが、「寿橋」は、そのうちの一か所に該当しそうである。一説によると、鎌倉街道中道の西回り道は、多田神社から北に直進して、十貫坂に出ていたという。道筋からすれば、鎌倉街道が神田川を渡っていた場所は、「寿橋」の近辺になるのではなかろうか。
(69)本郷橋
「本郷橋」の名は旧村名に由来する。明治の末ごろ、旧神田上水にあった橋が、場所的には近いが、この橋の前身と言えるかどうかは分からない。現在、「新橋」から「寿橋」まで、遊歩道を作る計画があるようだが、今は川沿いに行けないので、回り道をして歩く。
(70)柳橋
次は「柳橋」だが、橋の名の由来は分からない。他の橋と同様、ここにも、道幅の割には重たげな鋼橋が架かっている。この橋も、明治の末ごろ旧神田上水に架かっていた橋に、場所的には近いが、関係があるかどうかは不明だ。
(71)千代田橋
次の橋は「千代田橋」で、その名は旧町名に由来する。町名は、田圃が千代に続くことを願ってのものだろうが、この橋が架けられた、昭和の初めには、千代田町から田圃が消えていたかも知れない。
(72)氷川橋
次の「氷川橋」の名は、氷川神社に由来する。ただ、氷川神社の参道ということではなさそうだ。前に来た時は「新橋」の赤い欄干が見えたのだが、工事中のため、今は不可。
(73)新橋

次の橋は朱色の「新橋」。花街だった頃の面影が残っている。地下鉄の中野新橋の駅も近く、橋の周辺は商店街になっている。現在は工事が始まったばかりだが、計画では寿橋まで川沿いに遊歩道が出来るらしい。その時は、「新橋」も塗装し直すのだろう。ところで、江戸時代から明治にかけて、この近辺に橋があり、中野に出る道が通っていたという。道筋からすると、「新橋」が、その橋に該当しそうである。ただ、橋の名が「新橋」である理由が、よく分からない。河川改修前の旧神田上水にあった橋も「新橋」であったらしいが、中野に出る道が開かれた時に、新しく架けた橋なので、「新橋」と称したのだろうか。