(74)桜橋
次の橋は「桜橋」と名付けられている。ここから先の橋の名は、風雅な名前が付けられているが、周辺が花街であった頃の名残だろう。前に来た時は、道幅の割に重量感のある鋼橋が架かっていたが、生活感があり、どこか懐かしい場所でもあった。現在は、川沿いの遊歩道の完成とともに、桜色の軽快な橋に変えられている。
(75)花見橋
他の橋より、幅の広い橋である。橋の名は花街ならではといったところ。前に来た時は、川沿いに歩けずに回り道をしたが、今回は川沿いの遊歩道を歩いて、たどりつく。
(76)月見橋
次の橋も「月見橋」という風流な名前が付けられている。前に来た時は、橋の名にそぐわない鋼橋だったが、今は、軽やかな橋になっていて、月見も出来そうである。橋からは都庁が望めるが、前に来た時は、木が茂っていて見えなかったような気がする。
(77)中ノ橋
明治時代、河川改修前の旧神田上水に架けられていた橋が、この橋の前身だろう。橋の名の由来だが、「新橋」と「長者橋」の中間に新しく架けた橋という意味だろうが、以前は「中野橋」とも呼ばれていたようなので、別の由来があるのかも知れない。
(78)皐月橋
この橋も花街ならではの名が付いている。前に来た時は、小学校の裏手に橋がある事に気付かず、通り過ぎてしまった橋だが、もともとは、学校の専用橋のような橋だったらしい。ここから、行く手に新宿の高層ビル群を望みながら、遊歩道を歩いて次の橋へ行く。
(79)桔梗橋
次も風流な名を付けた橋である。この辺、新しく作られた橋が続くが、色を変えて変化をつけているようだ。中ノ橋が青なら、皐月橋は緑、桔梗橋は赤、といった具合である。以前の橋が、緑色の武骨な鋼橋で、どの橋も同じようだったのに比べれば、ずっといい。
(80)東郷橋
次の「東郷橋」の名は地名(字)に由来する。この橋も新しくなった橋である。ここまで来ると長者橋が見えるようになる。川沿いの遊歩道は開放的で、緑はまだ少ないものの、川は改修されたばかりで、川底や岸壁に汚れが少ないのが、何よりだ。
(81)長者橋
次の橋は、山手通りが通る「長者橋」である。以前来た時は、重量感のある親柱の橋だったが、現在は、改修されて明快な橋になっている。ただ、交通量の多い道路の橋としては、存在感が薄れてしまった事は否めない。この橋の名の由来は、近くの成願寺に居館があったと伝えられる中野長者に由来する。現在、成願寺の山門は東側の山手通り沿いにあるが、江戸時代は南側にあり、神田川を橋で渡って参詣するようになっていた。山手通りを渡って左後方に見える森の辺りが、現在の成願寺で、中野長者の塚と称するものがあるが、今回は先を急ぐゆえ立ち寄らない。
(82)宝橋
右岸の遊歩道を歩き、新装なった「宝橋」に出る。江戸から明治にかけて、長者橋から淀橋まで橋は無かったが、昭和の初期に、蛇行して流れる神田川を改修した際、今と同じ四か所に橋が架けられる。その中で、最初に架けられたのが、この「宝橋」であったらしい。本郷堰で神田上水の水を入れて東に流れていた用水堀は、長者橋の下流で神田上水に合流するが、合流点の直ぐ上の用水堀に架かっていた橋が、「宝橋」の前身といえる橋である。橋の名は、中野長者が財宝を埋めたという伝説に由来するのだろうが、伝説が真実なら、西は十貫坂から東は十二社まで、長者の土地の何処かに、財宝が埋まっている筈である。
(83)菖蒲(あやめ)橋
十数年前に、ここに来た時は、工事が始まったばかりで、川沿いに行く道が無く、遠回りをして行き着いたのが、この橋である。今回は川沿いの遊歩道を歩き、新しくなった橋を渡る。それから、前回は歩けなかった左岸の道を、下流に向かって歩いていくと、右岸に暗渠の出口らしきものが見えた。幡ヶ谷付近を水源とする神田川支流の合流点だという。その跡が、遊歩道のようになっているという事だが、先を急ぐゆえ、今回はパス。
(84)相生橋
以前の「相生橋」は、どっしりした親柱のある橋だったが、今回の改修で軽快な橋になり、橋のたもとにあった樹木も姿を消した。ついでに、けやき橋商店街の看板も新しくなっている。けやき橋とは、玉川上水から分水して、淀橋付近で神田川に落ちていた助水用水路に架けられていた橋のことだという。その水路の跡を訪ねてみたい気もしたが、先を急ぐゆえ、以前は無かった川沿いの遊歩道を歩いて、次の「豊水橋」へ行く。
(85)豊水橋
続く「豊水橋」は地名(字)による名である。前に来た時は、工事が始まったばかりだった。それから十数年も経っているので、橋が新しくなっているのは当然だが、この橋から次の「淀橋」までの間の遊歩道の完成には何故か時間がかかり、「淀橋」まで通行出来るようになったのは、つい最近のことである。
次の橋は「桜橋」と名付けられている。ここから先の橋の名は、風雅な名前が付けられているが、周辺が花街であった頃の名残だろう。前に来た時は、道幅の割に重量感のある鋼橋が架かっていたが、生活感があり、どこか懐かしい場所でもあった。現在は、川沿いの遊歩道の完成とともに、桜色の軽快な橋に変えられている。
(75)花見橋
他の橋より、幅の広い橋である。橋の名は花街ならではといったところ。前に来た時は、川沿いに歩けずに回り道をしたが、今回は川沿いの遊歩道を歩いて、たどりつく。
(76)月見橋
次の橋も「月見橋」という風流な名前が付けられている。前に来た時は、橋の名にそぐわない鋼橋だったが、今は、軽やかな橋になっていて、月見も出来そうである。橋からは都庁が望めるが、前に来た時は、木が茂っていて見えなかったような気がする。
(77)中ノ橋
明治時代、河川改修前の旧神田上水に架けられていた橋が、この橋の前身だろう。橋の名の由来だが、「新橋」と「長者橋」の中間に新しく架けた橋という意味だろうが、以前は「中野橋」とも呼ばれていたようなので、別の由来があるのかも知れない。
(78)皐月橋
この橋も花街ならではの名が付いている。前に来た時は、小学校の裏手に橋がある事に気付かず、通り過ぎてしまった橋だが、もともとは、学校の専用橋のような橋だったらしい。ここから、行く手に新宿の高層ビル群を望みながら、遊歩道を歩いて次の橋へ行く。
(79)桔梗橋
次も風流な名を付けた橋である。この辺、新しく作られた橋が続くが、色を変えて変化をつけているようだ。中ノ橋が青なら、皐月橋は緑、桔梗橋は赤、といった具合である。以前の橋が、緑色の武骨な鋼橋で、どの橋も同じようだったのに比べれば、ずっといい。
(80)東郷橋
次の「東郷橋」の名は地名(字)に由来する。この橋も新しくなった橋である。ここまで来ると長者橋が見えるようになる。川沿いの遊歩道は開放的で、緑はまだ少ないものの、川は改修されたばかりで、川底や岸壁に汚れが少ないのが、何よりだ。
(81)長者橋
次の橋は、山手通りが通る「長者橋」である。以前来た時は、重量感のある親柱の橋だったが、現在は、改修されて明快な橋になっている。ただ、交通量の多い道路の橋としては、存在感が薄れてしまった事は否めない。この橋の名の由来は、近くの成願寺に居館があったと伝えられる中野長者に由来する。現在、成願寺の山門は東側の山手通り沿いにあるが、江戸時代は南側にあり、神田川を橋で渡って参詣するようになっていた。山手通りを渡って左後方に見える森の辺りが、現在の成願寺で、中野長者の塚と称するものがあるが、今回は先を急ぐゆえ立ち寄らない。
(82)宝橋
右岸の遊歩道を歩き、新装なった「宝橋」に出る。江戸から明治にかけて、長者橋から淀橋まで橋は無かったが、昭和の初期に、蛇行して流れる神田川を改修した際、今と同じ四か所に橋が架けられる。その中で、最初に架けられたのが、この「宝橋」であったらしい。本郷堰で神田上水の水を入れて東に流れていた用水堀は、長者橋の下流で神田上水に合流するが、合流点の直ぐ上の用水堀に架かっていた橋が、「宝橋」の前身といえる橋である。橋の名は、中野長者が財宝を埋めたという伝説に由来するのだろうが、伝説が真実なら、西は十貫坂から東は十二社まで、長者の土地の何処かに、財宝が埋まっている筈である。
(83)菖蒲(あやめ)橋
十数年前に、ここに来た時は、工事が始まったばかりで、川沿いに行く道が無く、遠回りをして行き着いたのが、この橋である。今回は川沿いの遊歩道を歩き、新しくなった橋を渡る。それから、前回は歩けなかった左岸の道を、下流に向かって歩いていくと、右岸に暗渠の出口らしきものが見えた。幡ヶ谷付近を水源とする神田川支流の合流点だという。その跡が、遊歩道のようになっているという事だが、先を急ぐゆえ、今回はパス。
(84)相生橋
以前の「相生橋」は、どっしりした親柱のある橋だったが、今回の改修で軽快な橋になり、橋のたもとにあった樹木も姿を消した。ついでに、けやき橋商店街の看板も新しくなっている。けやき橋とは、玉川上水から分水して、淀橋付近で神田川に落ちていた助水用水路に架けられていた橋のことだという。その水路の跡を訪ねてみたい気もしたが、先を急ぐゆえ、以前は無かった川沿いの遊歩道を歩いて、次の「豊水橋」へ行く。
(85)豊水橋
続く「豊水橋」は地名(字)による名である。前に来た時は、工事が始まったばかりだった。それから十数年も経っているので、橋が新しくなっているのは当然だが、この橋から次の「淀橋」までの間の遊歩道の完成には何故か時間がかかり、「淀橋」まで通行出来るようになったのは、つい最近のことである。