当ブログのカテゴリー“富士塚めぐり”の中には、天神社に築かれている富士塚が二カ所取り上げられているが、その二カ所、成子天神から西向天神まで歩いてみた。
中野坂上から青梅街道を下り、淀橋で神田川を渡り、坂を上がって成子天神に行く。御府内場末往還其外沿革図書によると、柏木村のうち青梅街道沿いの町屋が成子町となり、その鎮守に相当する天満宮の社地は、青梅街道から入る細長い参道とその先の境内になっている。この社地は現在まで受け継がれてきたと思われるが、2014年に社殿などを建て替え境内を整備した代償として、住宅棟が建つことになった。都会の神社が存続するためには仕方がないことかも知れない。新しい植栽はまだ神社の杜には程遠いが、何れは都心に相応しい緑を供することになるのだろう。
天神山という小山を崩して富士塚を築いたのは大正9年。富士講による富士塚としては新しいものになる。この富士塚は、全体としては当初の姿を残しているとして、区の史跡に登録されている。築造された当時、遥かに富士を望み町を見下ろしていたであろう富士塚も、今は住宅棟から見下ろされる身とはなったが、史跡としての価値はまだ残されている。
青梅街道沿いの道を適当に歩き、大ガードを潜って雑踏をすり抜ける。日影になった四季の道を通り抜け文化センターの先を右に入ると、斜面を利用して天保13年(1842)に築かれた富士塚が見えてくる。この富士塚は、江戸名所図会の西向天神の挿絵には、まだ描かれていない。挿絵には西向き天神の下に弁天の池が描かれているが、この池は既に無い。
石段で西向天神に上がる。境内の大半は日影。都心の喧騒も遠のいている。境内には梅の木が何本か。紅梅はすでに咲いているが、白梅は咲始めといったところ。心静かに参拝し、都心の喧騒の中に戻る前に、境内を見て回る。先ほど見かけた参詣の人たちは帰ったのか、境内にはもう人影は無い。