夢七雑録

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30.1 石神井の道くさ

2009-05-14 20:14:32 | 江戸近郊の旅・嘉陵紀行
 文政五年九月十一日(1822年10月25日)、石神井の弁才天に詣でようと、嘉陵は朝早く家を出ている。椎名町の慶徳屋の先に分かれ道があり、ここで上板橋への道と分れて、楢の木が植えられた馬道を行き、下って上がり、また下ると田圃があった。ここに田中屋長助という豆腐を売る店があったので、腰掛けて持って来た飯を食べたと記す。現在の道でいえば、目白通りと山手通りの交差点より手前(目白寄り)が、慶徳屋のあった椎名町で、交差点から少し先の二又交番の辺りが分かれ道の場所に相当している。ここを右へ行けば上板橋または長命寺に出られる。余談だが、交番から右の道を少し行った右手に、手塚治虫をはじめ多くの漫画家が住んだトキワ荘というアパートがあった。現在、そのアパートは跡形も無いが、最近、トキワ荘に因んだ記念碑が少し先の南長崎花咲公園に建てられたこともあって、見に来る人もいるようである。さて、もとに戻って、交番のところから左の目白通りを行き、大江戸線落合長崎駅の先から新青梅街道を辿るのが、嘉陵が歩いた道に相当する現在の道筋である。新青梅街道は、蓮華寺と哲学堂の間を通って西に向うが、旧道は蓮華寺の先で北に曲がって、妙正寺川支流の江古田川を渡っている。豆腐を売る店は、この辺にあったのではなかろうか。

 嘉陵は椰子の器を水筒代わりに持参していたが、店の人には珍しがられたらしい。また、この店の姥は親切で、酒を温めて持ってきたり、畑の芋を料理して出してくれたりした。嘉陵は酒をあまり嗜まなかったようだが、この時は少し呑んだと書いている。店の者からは、近くの山で初茸が取れるが、番人が居るので断りなしには入れないという事も聞いている。山とは和田義盛の陣場跡という和田山(現在の哲学堂付近)で、孫右衛門という農家の持ち山だという。家康が江戸に移ってきた時に、榊原康勝(徳川四天王の一人、榊原康政の子)が孫右衛門の家に立ち寄ったことがあり、それ以来、年初には必ず来て白銀三枚を贈るという話を聞いたことがあったので、地元の人に確かめたところ、その通りであったと、嘉陵は記している。この孫右衛門とは、深野孫右衛門のことと思われる。深野家は江戸時代の始めから江古田村の名主を勤め、榊原家の御用を勤めていた旧家である。

 ここから先に進み少し上ると、大きな蔵があった。山崎喜兵衛という醤油造りの家で、近くに分家で燈油搾りの七兵衛の家もあった。嘉陵によると、醤油は運賃込み五百銭で江戸に出しており、樽には山の形の下に上と書いた商標を付けていたという。当時の商標を付けた樽などは、現在、残っていないようだが、山崎の山をかたどった形の下に喜兵衛のキを付けた商標を用いていたとされるので、キの字が汚損して上の字に見えていたのかも知れない。なお、山崎家は名主を勤めた旧家であり、江戸時代の後期に建てられた茶室書院(中野区江古田4。写真)が、中野区立歴史民俗資料館に隣接する場所に残されている。




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