夢七雑録

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36.中村[相馬]から平へ

2008-10-11 22:32:18 | 巡見使の旅
 江戸幕府が奥州方面に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、その旅も福島県に入りました。一行は中村[相馬]から平、棚倉を経て国境まで巡見を続けます。

(154)享保2年9月2日(1717年10月6日)。
 巡見使一行は、中村からは浜街道を離れ、草野経由の迂回路をとる。実は境界争いに関連して、第一回の巡見使が草野に近い相馬郡玉野と伊達郡石田の境界を見分したことがあり、享保の巡見使もこれを踏襲したものと思われる。一行は粟津から宇田川(宇多川)沿いの道を進み、滝明神のある山神(山上)を通り、霊仙山(霊山)近くの笹町(東玉野)で休憩。草野に出て泊まる。行程は七里半。ここに草野兵庫古館ありと記す。

【参考】享保2年の第5回巡見の時は、平穏無事に草野経由で小高に向ったようだが、延享3年の第6回巡見の時は、訴状が提出されるということがあったという。この時は、一村の訴願は吟味し難いとして取り上げられなかったが、宝暦11年の第7回巡見使が草野に宿泊した際には、伊達郡十三ケ村連名で助郷免除の訴状が提出され、巡見使もこれを受け取っている(誉田宏「奥羽松前巡見使と一揆訴願について」福島県歴史資料館研究紀要14)。江戸幕府の伝馬制度では宿場に所定数の人と馬を置くことを義務付けるとともに、これで不足する場合は近隣の村から人と馬を徴発する、助郷という仕組みをもっていた。ただ、近隣の村にとっては助郷の負担が重かったため、助郷免除の訴えが各地に発生することになった。幕府は、安易に助郷を免除すると、伝馬制度の根幹を揺るがしかねないと考えたためか、この訴えを取り上げることはなかったようである。ところで、天明8年の第8回巡見の時は、草野を経由せずに直接、小高に向っているが、草野でのトラブルを避けようとしたのであろうか。

(155)同年9月3日。
 草野から赤坂、沖見峠、はら坂を越えて大原で休憩し、原町近くの新田に出る。途中の牛越に牛舘ありと記し、また、二本松に通じる関の沢脇道についてもふれている。新田には、東西二里南北二十二丁の原があるが、ここでは、五月中の申の日に行われる妙見宮の祭礼において、藩主の御越しをえて、家中五百人余が武装してこの原に集まり、放された野馬を騎馬で追うという祭事が行われるという話を聞いている。これは、日程や内容は当時と異なるとはいえ、現在も続けられている相馬野馬追い祭のことである。ここから、小高に出る。相馬孫九郎重胤籠城の妙見舘や、千葉妙見堂ありと記す。この日の行程は八里、小高に泊まる。

(156)同年9月4日。
 高野(浪江)で休憩し、高瀬を経て、狼河神右衛門古館のある熊を通り、新田で藩境を越え、富岡で泊まる。行程は六里半余である。

(157)同年9月5日。
 薬師堂のある前原、八幡宮のある北迫を通り、廣野で馬継(馬と人足の交代)をし、塩釜が多く見られる草野浜(久之浜?)と田の網を過ぎ、薬師のある八立を経て、四倉で休憩。花園権現のある下神谷を通って岩城平に出る。この日の行程は十里余。平に泊まる。藩主の内藤右京大輔が旅宿に御見舞のため訪れている。

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