松前藩は、米の産出量すなわち石高に裏付けられた土地の支配ではなく、蝦夷地交易の独占権によって支えられた特異な藩である。藩の支配域は北海道渡島半島の南端部であり、巡見使の監察対象もこの地域に限られ、他の蝦夷地は対象外であった。巡見使の経路は、はじめ、西在郷すなわち松前の西側を乙部まで巡視して松前に戻り、次に東在郷すなわち東側を黒岩まで行き松前に戻っていた。
(89)享保2年6月25日(1717年8月2日)、曇。
松前福山を出立。町西でばくち石を見ている。また、海中に弁才天の島を見る。たて石野を通り、小島を見つつ折戸坂を下り折戸川を渡る。ねふた、さつまい(札前)、あまたれ石、熨斗の下を過ぎ、清部で小ケ持川(小鴨津川)、大ケ持川(大鴨津川)を渡る。この辺から海中に大島が見えてくる。この日は、江良にて泊まる。行程は五里弱であった。
(90)同年6月26日、晴。
二越坂を越え、をこしえ(奥末)を経て原口で休憩。岩鼻に熊が出たので鉄砲で撃ち、その様子を巡見使も見る。蝦夷松前では熊による人的被害が多いため、松前藩から銃を持った警護の者が同行し、先行して警戒していたのである。この辺から前方に奥尻島が見えてくるが、道は上り下りの多い難所となる。この日の行程は六里余、石崎に泊まる。
(91)同年6月27日、晴。
塩吹(汐吹)で観音堂と潮吹岩を見る。その先、滝沢に観音堂と滝を見る。小安在川、大安在川を渡って上之国で休憩。ここに、松前藩主の松前志摩守先祖、蠣崎伊豆守の古館があり、村末には毘沙門堂ありと記す。また、上之国の天下川(天の川)は献上品の鮭を取る故、この名があると聞く。椴川を渡り、この日は江差に泊まる。行程は六里余。江差に当地の神である姥神の宮ありと記す。
(92)同年6月28日、晴。
つめき石、田沢を通り、厚沢部川を渡って乙部に出る。江差から三里、ここで休憩する。乙部では恒例により、藩役人に付き添われた蝦夷人が、庭前において巡見使に御目見えに出る。そのあと男女揃って踊り、また浜辺にて的を射るのを見る。セタナイ国のナヲ、オフレ。ヒトロ国のペシクシ、イワヒ五郎。ウスイシ国のシイアリ、ユウヘリコホ、ハイクホ、メナシクホ、シウクホの名を記す。巡見使一行は乙部から船で江差に戻り宿泊する。
(93)同年6月29日。
日記役の記録はないが、石崎泊まりと思われる。
(94)同年7月1日。
日記役の記録はないが、江良泊まりと思われる。
(95)同年7月2日。
松前に帰着し宿泊。松前から乙部までの道は、風雨が激しい時は通行できなかった。実際、宝暦及び天明の巡見使一行は、帰途、悪天候のため江差に逗留している。享保2年の時は、悪天候ではなかったのか、途中の逗留は無かったようである。
(89)享保2年6月25日(1717年8月2日)、曇。
松前福山を出立。町西でばくち石を見ている。また、海中に弁才天の島を見る。たて石野を通り、小島を見つつ折戸坂を下り折戸川を渡る。ねふた、さつまい(札前)、あまたれ石、熨斗の下を過ぎ、清部で小ケ持川(小鴨津川)、大ケ持川(大鴨津川)を渡る。この辺から海中に大島が見えてくる。この日は、江良にて泊まる。行程は五里弱であった。
(90)同年6月26日、晴。
二越坂を越え、をこしえ(奥末)を経て原口で休憩。岩鼻に熊が出たので鉄砲で撃ち、その様子を巡見使も見る。蝦夷松前では熊による人的被害が多いため、松前藩から銃を持った警護の者が同行し、先行して警戒していたのである。この辺から前方に奥尻島が見えてくるが、道は上り下りの多い難所となる。この日の行程は六里余、石崎に泊まる。
(91)同年6月27日、晴。
塩吹(汐吹)で観音堂と潮吹岩を見る。その先、滝沢に観音堂と滝を見る。小安在川、大安在川を渡って上之国で休憩。ここに、松前藩主の松前志摩守先祖、蠣崎伊豆守の古館があり、村末には毘沙門堂ありと記す。また、上之国の天下川(天の川)は献上品の鮭を取る故、この名があると聞く。椴川を渡り、この日は江差に泊まる。行程は六里余。江差に当地の神である姥神の宮ありと記す。
(92)同年6月28日、晴。
つめき石、田沢を通り、厚沢部川を渡って乙部に出る。江差から三里、ここで休憩する。乙部では恒例により、藩役人に付き添われた蝦夷人が、庭前において巡見使に御目見えに出る。そのあと男女揃って踊り、また浜辺にて的を射るのを見る。セタナイ国のナヲ、オフレ。ヒトロ国のペシクシ、イワヒ五郎。ウスイシ国のシイアリ、ユウヘリコホ、ハイクホ、メナシクホ、シウクホの名を記す。巡見使一行は乙部から船で江差に戻り宿泊する。
(93)同年6月29日。
日記役の記録はないが、石崎泊まりと思われる。
(94)同年7月1日。
日記役の記録はないが、江良泊まりと思われる。
(95)同年7月2日。
松前に帰着し宿泊。松前から乙部までの道は、風雨が激しい時は通行できなかった。実際、宝暦及び天明の巡見使一行は、帰途、悪天候のため江差に逗留している。享保2年の時は、悪天候ではなかったのか、途中の逗留は無かったようである。