池袋近辺に芸術家が住み始めるのは大正の初めの頃からだが、昭和の初めごろ、農村風景が残っていた池袋の西側の地域にアトリエ付きの貸家が次々と建てられるようになると、若い芸術家たちが多く移り住むようになった。アトリエの並ぶ一帯はアトリエ村と呼ばれていたが、詩人で画家の小熊秀雄は、パリのモンパルナスにならって、このようなアトリエ村を池袋モンパルナスと呼んだ。現在、アトリエ村の建物は殆ど残っていないが、地下鉄の要町駅を起点に、その跡地をめぐってみた。
要町駅を南側に出て西に向かい、次の信号で左に入りやや上がって下る。信号のある交差点を右に行くと、道の右側に地蔵堂がある。この道の左側の宅地の辺りに、小熊秀雄が住んでいた東荘があった。坂を上がって、江戸時代からの道を通り過ぎ、城西学園に沿って西に進み次の角を左に折れる。南に向かって進むと右側に千早フラワー公園がある。この辺りにもアトリエがあったようである。さらに南に進んで八幡神社のある角を右に折れる。洋画家の松本俊介の旧居はこの近くにあったらしい。先に進んで巣鴨信金を左に、以前は谷端川が流れていた道を横切る。さらに西に進んで二つ目の四つ角の南側は、さくらが丘のアトリエ村旧地で、南北の道を挟んで西側を第一パルテノン、東側を第二パルテノンと呼んでいた。四つ角を少し西に行くと、左側の小公園に長崎アトリエ村の説明版が置かれているが、当時のアトリエ村の跡らしきものは見当たらない。さくらが丘パルテノン(アトリエ村)は1935年頃から建てられ始めており、原爆の図で知られる丸木位里も、ここに住んでいたという。小公園から先に進み、次の角を右に行くと、右側に西向不動の祠がある。今は存在しないが、ここには不動湯という公衆浴場があり、その東側には第三パルテノンと呼ばれたアトリエ村があった。アトリエ村が建てられた当時、この辺りは湿地で周辺には田圃があったという。
北に向かって進み変電所を過ぎて信号を渡り二つ目の四つ角を右に行くと、熊谷守一美術館に出る。熊谷守一は単純化した独自の画風を築いた画家で、文化勲章を辞退したという逸話があり仙人とも呼ばれていた。熊谷守一は1932年にこの地に住むようになったが、当時は一面の大根畑で所々に農家が見えるような場所だったという。その住居あとに建てられたのがこの美術館で、現在は区立の美術館になっている。
熊谷守一美術館から東へ行き、二つ目の四つ角を左に折れて北に進む。以前は谷端川が流れていた道を進めば、左側に峯孝作品展示館があり、つつじが丘アトリエ村跡の表示がある。峯孝は彫刻家で1937年にさくらが丘のアトリエ村に入居しているが、1938年に建てられたつつじが丘アトリエ村に仕事場を移している。峯孝作品展示館の北側に西部区民事務所があるが、もともとは平和小学校の敷地だったところで、廃校後の校舎に西部区民事務所のほかアトリエ村資料室も開設されていた。校舎が取り壊されたあと、区民事務所は新しい建物になったが、アトリエ村資料室は休室になっている。
西部区民事務所を過ぎて北に進み、谷端川の水源の池があった粟島神社の横を通り、先に進むと要町通りに出る。ここを渡って東に行くと千川彫刻公園がある。彫刻家の中野素昻は1930年からこの地に住んだが、その旧宅跡を公園としたもので、中野素昻のほか峯孝や中野蒋の作品が設置されている。
千川彫刻公園から東に行き、信号のある交差点を右に曲がり、南に進んで次の信号のある交差点を左に曲がる。突き当りの道は南に突き出た舌状台地の稜線部分を通る江戸時代からの道で、左へ行けば富士塚の横を通り大山の辺りへ、右へ行けば要町通りを渡り城西学園、長崎神社を経て目白通りへ向かう道となる。ここを右に行き次の角を左に折れて進むと、左側に培風寮跡の表示がある。培風寮は詩人で書店主でもあった花岡謙二が1923年に賄い付き学生寮として建てたものらしいが、下宿として使われ画家の靉光などが住んでいたという。
培風寮跡から東側の突き当りを左に折れ次の角を右に入るが、この先は曲がりくねった細い道が続くので、へび道と呼ばれている。道は天理教の前を通り右に曲がって直ぐ左に折れるが、その先の塀に、少々汚れているが、すずめが丘アトリエの表示が架かっている。すずめが丘アトリエ村が建てられたのは1931年で、最初のアトリエ村ということになる。建物は培風寮の南側や、へび道の周辺にあったようである。へび道を下って、えびす通りに出るが、この辺りは戦災の被害が少なく、区画整理も行われなかったらしく、道は少々わかりにくい。
えびす通りを北に行く。えびす通りは江戸時代からの道の形を残しているようで、曲がりくねった道になっている。延命地蔵を過ぎ、庚申塔の先の丁字路を右に進むと山手通りに出る。ここを右に行き次の信号で山手通りを渡って直進すると、暗渠化された谷端川の緑道に出る。ここからは南に向かって緑道の上を歩いて行く。緑道の右手の辺りはアトリエ村があった場所で、みどりが丘アトリエ村(1935年頃)は北側に、光が丘アトリエ村(1937年頃)は南側にあった。なお、この二カ所のアトリエ村は板橋区で、他は豊島区に属している。
谷端川は粟島神社の池を水源とし千川上水からの助水を入れて南に流れ、椎名町駅の南側を回り込んで北上し、下板橋駅を回り込むようにして南東に流れていたが、現在はすべて暗渠になり、西武池袋線の線路際から下板橋駅までの間が緑道になっている。緑道を南に進み立教通りを渡った先の谷端川の周辺にはアトリエが幾つか建てられていたようである。緑道を南に進み、線路の手前で右に行き山手通りの下をくぐると椎名町駅に出る。
<参考資料>「池袋モンパルナスそぞろ歩き」「豊島区史地図編」