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文政四年十月二十四日(1821年11月18日)。この秋、道宮の君(教宮)が清水家の殿舎に移られたので、その手伝いのため星の出ている時分に家を出て、星が出てから帰宅するという日々が続いていた、と嘉陵は記している。伏見宮貞敬親王の姫宮であった教宮英子女王は、徳川清水家第四代斉明と婚約していたが、この年の九月に京都を立って、清水家の屋敷に移っている。そのため嘉陵も多忙な日々を過ごしていたというわけだが、それも十月には終わり、のどかな日々を送れるようになった。そこで嘉陵は、紅葉が綺麗だと本で読んだ事のある目黒の明王院(廃寺。跡地は目黒区下目黒1の雅叙園内)に、紅葉を見ようと出掛けている。
途中、白金台の高松藩下屋敷(自然教育園付近。港区白金台5)の向かいに、前庭の左右に竹を植え、茶室を二ヶ所造った竹の茶屋というのがあった。庭は南を前に、なだらかな山を築き、裾の池に橋を架け、紅葉もあちこちにある。ことさら奇をてらった近頃の庭とは違い、緑も紅葉も自然のままで、嘉陵には好ましく思えたのだろう。清水家の庭にも、このような所があったら良かったのにと書いている。
嘉陵は、行人坂(目黒区下目黒1)を三分の二ほど下った所の茶店で、明王院の場所を聞いている。茶店の向いは大円寺だったが、明和九年二月二十九日の大火の火元であったため、当時は廃寺となっていた。その跡地で五百羅漢の像を作り始めていた事を嘉陵は知っていたようだが、中には入らなかったようで、完成したかどうか分からないと記している。大円寺(目黒区下目黒1)は後に再興し、五百羅漢石像(写真)ともども現存している。明王院(廃寺。目黒区下目黒1)はその並びにあり、大黒天を祀る堂の傍らからは、西に目黒不動の山が見え、南には夕日の岡が続き、裾には田圃が見渡せた。嘉陵は紅葉を探して境内を見て歩くが、一本も見当たらない。仕方なく、茶店に戻って休み、庭の一本の紅葉を眺めただけで、この日は終わっている。
嘉陵は、「江戸砂子」という書物を読んで、明王院に紅葉を訪ねたのだが、結局、空振りに終わったということになる。嘉陵は文政三年三月にも、道永寺から園照寺に行く途中、西向天神の続きにある七面社の桜についての「江戸砂子」の記述が、実際とは違うことに気づかされていたのだが、また欺かれたわけで、人に尋ねもしないで、書物に書かれていることを本当の事と信じてしまったからだと書いている。実は、明王院の裏手の岡が夕日の岡と称されたのは、楓が多く夕日に映えていたからで、「江戸砂子」が書かれた当時は、明王院は楓の名所であったのだろう。
途中、白金台の高松藩下屋敷(自然教育園付近。港区白金台5)の向かいに、前庭の左右に竹を植え、茶室を二ヶ所造った竹の茶屋というのがあった。庭は南を前に、なだらかな山を築き、裾の池に橋を架け、紅葉もあちこちにある。ことさら奇をてらった近頃の庭とは違い、緑も紅葉も自然のままで、嘉陵には好ましく思えたのだろう。清水家の庭にも、このような所があったら良かったのにと書いている。
嘉陵は、行人坂(目黒区下目黒1)を三分の二ほど下った所の茶店で、明王院の場所を聞いている。茶店の向いは大円寺だったが、明和九年二月二十九日の大火の火元であったため、当時は廃寺となっていた。その跡地で五百羅漢の像を作り始めていた事を嘉陵は知っていたようだが、中には入らなかったようで、完成したかどうか分からないと記している。大円寺(目黒区下目黒1)は後に再興し、五百羅漢石像(写真)ともども現存している。明王院(廃寺。目黒区下目黒1)はその並びにあり、大黒天を祀る堂の傍らからは、西に目黒不動の山が見え、南には夕日の岡が続き、裾には田圃が見渡せた。嘉陵は紅葉を探して境内を見て歩くが、一本も見当たらない。仕方なく、茶店に戻って休み、庭の一本の紅葉を眺めただけで、この日は終わっている。
嘉陵は、「江戸砂子」という書物を読んで、明王院に紅葉を訪ねたのだが、結局、空振りに終わったということになる。嘉陵は文政三年三月にも、道永寺から園照寺に行く途中、西向天神の続きにある七面社の桜についての「江戸砂子」の記述が、実際とは違うことに気づかされていたのだが、また欺かれたわけで、人に尋ねもしないで、書物に書かれていることを本当の事と信じてしまったからだと書いている。実は、明王院の裏手の岡が夕日の岡と称されたのは、楓が多く夕日に映えていたからで、「江戸砂子」が書かれた当時は、明王院は楓の名所であったのだろう。