文政二年二月九日(1819年3月9日)、嘉陵は木下川薬師に詣でたあと、平井聖天(写真。江戸川区平井6)を訪れている。文化十二年八月十一日にも、逆井の渡しを渡って平井聖天を参詣しているので、今回は再遊ということになる。現在の木下川薬師(木根川薬師。葛飾区東四つ木1)は荒川の東側にあるが、江戸時代には中居堀(現在は暗渠化され中居堀通りとなる)の近くにあった。また、荒川(放水路)もなかったので、木下川薬師の大門を出て東へ行けば、中川の西岸に出ることが出来た。嘉陵は中川の岸堤の上を行くと、東南が開けて景色が良いと書いている。
上平井の渡しで中川を渡ると、石の鳥居があり、その傍らに瓦葺で、唐臼を多数並べて、精米雑穀あぶら紙等を貯えている家があった。田口源右衛門の家である。昔、家康がここに御成りになって、腰を掛けたことがあり、その時の褥、手あぶり、たばこ盆など悉く下賜されたので、子孫に伝えて家宝とし、毎年四月十七日と七月七日にはこれを拝するということであった。ここから平井の聖天に向うが、この辺はそれほどの景地ではないと嘉陵は書いている。また、木下川薬師からここまで、飲み物や食べ物を得ることが出来ず、ここにある蕎麦切りの家や酒を売る店も、むさ苦しく汚そうで食事できそうになかったという。酒を売る店の主人の言うには、昔は参詣者も多かったが、今は寂れてしまっている。たまに通る人も、ここで食事をとることは無いので、何の用意もしていない。自分達が食べているものでよければ出してもよいということであった。それでも良いと言うと、菜を漬ものにしたものと、豆腐かすを炒ったものを皿に盛って出してきた。腹も大分空いていたので、贅沢な料理にも勝るような心地がしたと嘉陵は書いている。
ところで、嘉陵は、上平井の渡しを渡らずに中川沿いに行けば、数多くの梅があると聞いて、その梅を見に来たのだが、道行く人から、梅は下平井にあるので向こうに渡って行くようにと言われて、上平井の渡しを渡った。ところが、行ってみると下平井に梅は無かった。結局、だまされて梅を見ることも出来なかったわけで、思い通りにならず、つまらぬ一日を過ごした男があったものだと、呟きながら帰ったと嘉陵は書いている。この日の往路と帰路の記載はないが、略図からすると、往路は亀戸天神(江東区亀戸3)の裏手に出て境橋を渡り、中居堀に沿って木下川薬師に行き、帰りは下平井の渡しで中川を渡り、中居堀沿いの香取宮(香取神社。墨田区文花2)から亀戸に出て、両国橋を渡って浜町に帰ったのだろう。
嘉陵の紀行文には、「下総国葛飾吾嬬森碑」の一文が付属している。吾嬬森は、亀戸天満宮の北側の北十間川の近くにあり、日本武尊の妃の弟橘媛を祀ったところである。吾嬬森碑は弟橘媛の顕彰碑であるが、作者の山県大弐は日ごろ皇室の衰えを慨嘆し、幕府の専横を非難していたため、捕えられ死罪に処せられた人物である。嘉陵が、その事を知った上で、この文を付けた理由は分らない。単に、吾嬬森に立ち寄った際に入手したという事かも知れないが。なお、この石碑は、吾嬬神社(墨田区立花1)の境内に現存している。
上平井の渡しで中川を渡ると、石の鳥居があり、その傍らに瓦葺で、唐臼を多数並べて、精米雑穀あぶら紙等を貯えている家があった。田口源右衛門の家である。昔、家康がここに御成りになって、腰を掛けたことがあり、その時の褥、手あぶり、たばこ盆など悉く下賜されたので、子孫に伝えて家宝とし、毎年四月十七日と七月七日にはこれを拝するということであった。ここから平井の聖天に向うが、この辺はそれほどの景地ではないと嘉陵は書いている。また、木下川薬師からここまで、飲み物や食べ物を得ることが出来ず、ここにある蕎麦切りの家や酒を売る店も、むさ苦しく汚そうで食事できそうになかったという。酒を売る店の主人の言うには、昔は参詣者も多かったが、今は寂れてしまっている。たまに通る人も、ここで食事をとることは無いので、何の用意もしていない。自分達が食べているものでよければ出してもよいということであった。それでも良いと言うと、菜を漬ものにしたものと、豆腐かすを炒ったものを皿に盛って出してきた。腹も大分空いていたので、贅沢な料理にも勝るような心地がしたと嘉陵は書いている。
ところで、嘉陵は、上平井の渡しを渡らずに中川沿いに行けば、数多くの梅があると聞いて、その梅を見に来たのだが、道行く人から、梅は下平井にあるので向こうに渡って行くようにと言われて、上平井の渡しを渡った。ところが、行ってみると下平井に梅は無かった。結局、だまされて梅を見ることも出来なかったわけで、思い通りにならず、つまらぬ一日を過ごした男があったものだと、呟きながら帰ったと嘉陵は書いている。この日の往路と帰路の記載はないが、略図からすると、往路は亀戸天神(江東区亀戸3)の裏手に出て境橋を渡り、中居堀に沿って木下川薬師に行き、帰りは下平井の渡しで中川を渡り、中居堀沿いの香取宮(香取神社。墨田区文花2)から亀戸に出て、両国橋を渡って浜町に帰ったのだろう。
嘉陵の紀行文には、「下総国葛飾吾嬬森碑」の一文が付属している。吾嬬森は、亀戸天満宮の北側の北十間川の近くにあり、日本武尊の妃の弟橘媛を祀ったところである。吾嬬森碑は弟橘媛の顕彰碑であるが、作者の山県大弐は日ごろ皇室の衰えを慨嘆し、幕府の専横を非難していたため、捕えられ死罪に処せられた人物である。嘉陵が、その事を知った上で、この文を付けた理由は分らない。単に、吾嬬森に立ち寄った際に入手したという事かも知れないが。なお、この石碑は、吾嬬神社(墨田区立花1)の境内に現存している。