夢七雑録

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16.米沢から山形へ

2008-06-18 21:58:30 | 巡見使の旅
(41)享保2年5月7日(1717年6月15日)。
 一行は米沢を出立し、花沢を経て川井に出る。ここで、馬継(馬と人足の交代)を行い、武井(竹井)、長手、下和田を経て亀岡に向う。亀岡では大聖寺、文殊堂を参詣。本堂裏に桜の古木があり、虫食いの跡が獅子に乗った文殊の姿であったため御神体としていたという。そのあと、高畑に出て宿泊する。この日の行程は四里ほど。川井に最庭周防守の古館、竹井に網代伯耆守の古舘、下和田に飯坂左衛門の古館、塩森に塩森兵庫の古舘、高畑に水野蔵人の古館と小簗川氏の古館ありと記す。

(42)同年5月8日、晴。
 高畑を出立し、阿久津で正八幡宮を参詣。駄子町、新宿を経て貝吹山の横を上がり、仙台との境界に当たる屋代峠(二井宿峠)を越えて、湯原で休憩する。途中、新宿に志田殿の古舘、湯原に横尾氏の古舘ありと記す。湯原からは羽州街道となり、陸奥出羽国境の猿鼻峠(金山峠)を越える。羽州街道は、奥州街道の桑折から、湯原、楢下を通り、山形、久保田(秋田)を経て、青森近くの油川で奥州街道に合流する街道で、参勤交代の道筋としても利用されていた。巡見使がわざわざ峠越えして湯原に来たのは、この街道と国境の見分のためと思われる。巡見使一行は峠で藩の出迎えを受け、楢原下(楢下)に出て泊まる。この日は六里半の行程であった。なお、楢下には脇本陣格の家屋が現存しているとのこと。享保はともかく宝暦以降の巡見の際には、宿舎の一つとして利用されたのだろう。

【参考】 宝暦の巡見使が楢下で宿泊した時の、夕食と朝食の献立が記録に残っている(上山市史編さん委員会「巡見使関係資料集」)。
 それによると、巡見使に供された夕食は、「鱠 ます、うと、くり、しゃうか、けん青梅。御汁 つみ入、皮牛坊。御香物。御食。御平皿 あわひ、長いも、竹のこ、椎茸、かまほこ。御汁 たい、青なミやうか。水あへ。御猪口 くらけ、うと。御菓子。御焼物 味噌漬のたい」となっている。
 また、朝食は、「御平皿 かんひゃう、玉子はんへん、かうたけ、大和いも、石かれい切め。御汁 すすき、うと。御香物。御食」であったという。  
 
(43)同年5月9日、晴。
 皆沢、関根を通り、長清水で米沢への街道を分け上山に入る。途中、河原期に小簗川貞伴の古舘ありと記す。また、上山は出湯が三か所ある温泉地で、上と下の湯畑があり、湯守は四人であったと記す。上山で休憩したのち、四谷で羽州街道と分かれ、窪手(久保手)を経て長谷堂に向う。この日の行程は四里弱。長谷十一面観音のある長谷堂で泊まる。ここに、志村伊予守の後、坂紀伊守が居城とした山城跡ありと記している。また、平清水の村内にある千年山(千歳山)が見えたといい、千年山から続く瀧山と蔵王の峯についてふれるとともに、千年山に植えられている、あこやの松にまつわる伝説についても書き記している。

(44)同年5月10日、晴。
 柏を通り村木沢に出る。ここから西に向い峠を越え、畑谷郷の用水をまかなう人造湖の大沼に出る。ここでは、沼を築いた村木沢の開沼与左衛門にまつわる不思議な話を聞いている。この日の休憩地は畑谷。畑谷に江口五兵衛の古館ありと記す。畑谷から七曲坂を経て東に向い、簗沢、滝の平、若木を通り南舘に出る。若木に神保壱岐守の古舘、南舘に氏家尾張守の居城跡ありと記す。この日は山形城下に宿泊。七里余の行程であった。


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