夢七雑録

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17.山形から鶴岡へ

2008-06-25 21:16:52 | 巡見使の旅
(45)享保2年5月11日(1717年6月19日)、晴。
 山形から天童まで羽州街道なら三里半の距離だが、巡見使の経路は脇道を通り、志戸田で須川を渡り、見河(三川?)を通って山野辺に向っている。ここに山邊右衛門大輔の古舘ありと記す。また、出羽の郡司・良実(小野良実)の娘、小町の塚があったという。各地に残る小町伝説の一つであろう。ここから中野に出て休憩し、千手観音堂のある千手堂を経て、漆山で羽州街道に戻り、清池を通って天童に出て泊まる。行程は四里ほどである。

(46)同年5月12日、晴。
 天童では愛宕宮のある山上に登る。天童丸頼久の居城だったところで、本丸のほか、家臣の八森石見守、小畑山城守、湯村和泉守、安斉形部、成生伯耆守が守る五つの支楯で構成されていたと記している。天童からは、また羽州街道と分かれて西に向い経檀のある蔵増を通り、最上川を船で渡り、寒川(寒河江)で馬継をし、出羽越後国境の朝日岳を遠望しつつ、八鍬を経て白岩に出て休憩する。ここに大江備前守の古舘ありと記す。また、ここから三里ほど先に浮嶋のある大沼があると聞く。この後、巡見使三人同道し、寺領二千七百十二石の大寺、慈恩寺に立ち寄っている。この日は谷地で宿泊。六里余の行程である。谷地には八幡宮があり、また、白鳥十郎長久の古舘、里見薩摩守古館跡ありと記す。

(47)同年5月13日、晴。
 谷地から最上川を船で渡り、大森という森のある郡山に出る。六反(六田)で羽州街道に戻り、東根で馬継をし、楯岡[村山]に出て休憩する。ここに楯岡甲斐守古館ありとし、また、江持?に江持播磨守の古舘、本枝(本飯田?)に飯田播磨守の古舘ありと記す。この日は尾花沢で泊まる。六里の行程であった。

(48)同年5月14日、晴。
 巡見使覚書には、芭蕉も訪ねたという向川寺について書かれた付箋が付けられているが、単に話を聞いて書き留めただけかも知れない。この日は、名木沢の先で、さはね(猿羽根)峠を越えて舟形で休憩。鳥越を経て新庄で泊まっている。六里余の行程であった。途中、山出?と名木沢に古舘、舟形に沼澤新左衛門の古舘ありと記す。

(49)同年5月15日、晴。
 新庄を出立。右手には鳥海山が姿を見せている。この日は、清水大蔵太夫の古館跡のある清水(大蔵)から、最上川を船で下る。新庄藩から供された馳走船に茶湯料理菓子などを積み込んでの出発である。船は最上川を進み本合海を過ぎる。本合海は、源義経上陸の地と伝えられ、芭蕉もここから最上川を船で下っている。この先、矢向明神、古口の番所、三の滝、甲明神、佐々木明神、たけくらへの滝、沓上(沓喰?)の馬爪の滝、大滝、大戸川の八幡太郎義家の八幡舘や仙人堂を見る。仙人堂に関しては、二千年以前この地に住んでいた仙人の伝説と伐採禁止の付近の山林についての伝承を聞いている。船はこの先、鎧明神のある高谷、白糸滝のある土湯、柏沢を過ぎて清川に到着。天明の巡見の時は暴風雨に見舞われ散々な目にあったが、享保の時は天候に恵まれ、快適な船旅を楽しめたことであろう。この日の宿泊は清川。清水まで二里。清水から清川まで八里の船旅であった。

(50)同年5月16日。
 狩川を経て藤嶋で休憩。船を百二十四揃えて筵敷きにした船橋で赤川を渡って、鶴岡に入る。城下を巡見。町外れに山王権現社ありと記す。この日の行程は四里半。鶴岡城下に泊まる。藩主の酒井左右衛門が御見舞のため旅宿を訪ねている。

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