今日のツイートのまとめです。
自民党と民主党政権時に衆参のねじれが生じて「決められない政治」が問題視された。このねじれからの決められない政治は自民・民主という保守二大政党制の中で生じたものだが、保守として本来はそうは違わない政策の中でのねじれであったり決められない政治だった。
もちろん政権交代での民主党の政策は「国民生活が第一」というマニフェストにあったし、年金問題をはじめ自民党政治の矛盾をどう解決するかといったいわば自民党政治の尻ぬぐいをはじめようとした政権であった。その意味では当初は単なる保守二大政党ではなくて社会民主主義的政策。
しかし民主党の脱官僚や無駄を省く財政支出の見直しは失敗をして反小沢問題から消費増税が提起されはじめる。もちろんそこには大震災や原発事故というものも加わる中での財政の考え方の変化もあっただろうが消費増税は政策として進む。そして野田政権となり民主党の自民党化が進む。
このような保守二大政党が政策的(国民生活から見て)にはそうは変わらないなかに、ねじれや決められない政治が生じたのはなぜか?
そこにはまず『政権交代』というものが期待として現れていたという事だろう。この政権交代というものは、昔から「万年野党」という社会党批判もあったし、政権を担える「責任野党」そして政権を目指した連立が現れた。その延長線に民主党への政権交代の波が押し寄せたものと思われる。
この中で起きた政策的な変更は、財界・自民党と社会党・総評という55年体制を崩壊させて政策の違いの明確さが失われた。その政策の明確さという壁がなくなる中で「責任野党」「連立」は保守二大政党に向かう。
政策の違いの壁がなくなったところでの『政権交代』は何を意味するか?その政権交代の行われ方がどのようになっていくか?それはスキャンダル国会であったりどちらがより国民に対して実際の政策ではなくて「期待」を持たせるかといったものであり、そして保守二大政党しかない選択肢。
自民党がダメなら民主党そしてまた民主党がダメだから自民党へといった動きである。ここにはやはり政策よりも狭い二大政党制の保守の政策の選択肢として現れる。ここでは失望と期待という悲しい選択肢の中で国民は判断せざるを得ない。
保守対革新という政治対立は国民意識からなくなり、どちらの保守に期待して期待をしたがそうは期待に応えられなくてさらにひどくなったという失望。そしてまた毛筆つもう一つの大きな政党に期待をする。。。。。ここに国民の主体性の道は閉ざされるのではないか?
この期待と失望そして失望と期待といった狭い選択肢の保守二大政党制は、55年体制のような政策のぶつかりからの「政策のねじれ」ではなくなり、保守二大政党制の「数の力」のねじれと同時に失望に現れるような国民生活の低下傾向での国民意識と政治のねじれが生じてしまう。
国民生活の低下傾向での国民意識と政治のねじれは経済問題だけではなくて国民の心にも大きなねじれを生じるだろう。投票率の悪さ、無党派層(実は政党不信)の増加として現れる。
しかし国民意識を代表する政党がないのかといえばそうではないが、そのような政党は小選挙区制の下で、あるいは社会党のように自らが55年体制を否定してしまったことで、あるいは共産党の「唯一の革新」という中でその勢力は小さくなった。そこにも国民の失望と選択肢を狭くさせる。
国民は自ら今の政治情勢において国民生活と政治のねじれを見つめねばならないだろう。このねじれをどう解消するかの答えは得られていない。誰かが教えてくれもしないだろう。自ら考えなければならない。このねじれ解消を統一戦線的な国民運動としなければならない。そこに政治家も動く
自民党と民主党政権時に衆参のねじれが生じて「決められない政治」が問題視された。このねじれからの決められない政治は自民・民主という保守二大政党制の中で生じたものだが、保守として本来はそうは違わない政策の中でのねじれであったり決められない政治だった。
もちろん政権交代での民主党の政策は「国民生活が第一」というマニフェストにあったし、年金問題をはじめ自民党政治の矛盾をどう解決するかといったいわば自民党政治の尻ぬぐいをはじめようとした政権であった。その意味では当初は単なる保守二大政党ではなくて社会民主主義的政策。
しかし民主党の脱官僚や無駄を省く財政支出の見直しは失敗をして反小沢問題から消費増税が提起されはじめる。もちろんそこには大震災や原発事故というものも加わる中での財政の考え方の変化もあっただろうが消費増税は政策として進む。そして野田政権となり民主党の自民党化が進む。
このような保守二大政党が政策的(国民生活から見て)にはそうは変わらないなかに、ねじれや決められない政治が生じたのはなぜか?
そこにはまず『政権交代』というものが期待として現れていたという事だろう。この政権交代というものは、昔から「万年野党」という社会党批判もあったし、政権を担える「責任野党」そして政権を目指した連立が現れた。その延長線に民主党への政権交代の波が押し寄せたものと思われる。
この中で起きた政策的な変更は、財界・自民党と社会党・総評という55年体制を崩壊させて政策の違いの明確さが失われた。その政策の明確さという壁がなくなる中で「責任野党」「連立」は保守二大政党に向かう。
政策の違いの壁がなくなったところでの『政権交代』は何を意味するか?その政権交代の行われ方がどのようになっていくか?それはスキャンダル国会であったりどちらがより国民に対して実際の政策ではなくて「期待」を持たせるかといったものであり、そして保守二大政党しかない選択肢。
自民党がダメなら民主党そしてまた民主党がダメだから自民党へといった動きである。ここにはやはり政策よりも狭い二大政党制の保守の政策の選択肢として現れる。ここでは失望と期待という悲しい選択肢の中で国民は判断せざるを得ない。
保守対革新という政治対立は国民意識からなくなり、どちらの保守に期待して期待をしたがそうは期待に応えられなくてさらにひどくなったという失望。そしてまた
この期待と失望そして失望と期待といった狭い選択肢の保守二大政党制は、55年体制のような政策のぶつかりからの「政策のねじれ」ではなくなり、保守二大政党制の「数の力」のねじれと同時に失望に現れるような国民生活の低下傾向での国民意識と政治のねじれが生じてしまう。
国民生活の低下傾向での国民意識と政治のねじれは経済問題だけではなくて国民の心にも大きなねじれを生じるだろう。投票率の悪さ、無党派層(実は政党不信)の増加として現れる。
しかし国民意識を代表する政党がないのかといえばそうではないが、そのような政党は小選挙区制の下で、あるいは社会党のように自らが55年体制を否定してしまったことで、あるいは共産党の「唯一の革新」という中でその勢力は小さくなった。そこにも国民の失望と選択肢を狭くさせる。
国民は自ら今の政治情勢において国民生活と政治のねじれを見つめねばならないだろう。このねじれをどう解消するかの答えは得られていない。誰かが教えてくれもしないだろう。自ら考えなければならない。このねじれ解消を統一戦線的な国民運動としなければならない。そこに政治家も動く