【2024年】ツイッターつぶやき
今年は入学式まで桜が持ちそうです。やっとほぼ満開です。
今日はまた寒さが戻り花冷え。
週明けぐらいに散るかな。
入学式の後に校門の横の桜が花を散らし記念写真。
いいもんですなぁ。
桜の寿命は案外身近いようですね。
大木になってきたと思ったら、しばらく見に行かないといつの間にか切られている。
公園は倒れたら危ないのが理由かもしれません。
最近はクレーマーが増えて、子供の声がうるさいからと公園がなくなる時代です。
桜の花がたくさん散って嫌だというクレームも考えられますね。
残った桜はほぼ満開。。。
≪過去の記事≫
【2004年】
風邪がはっきりしません。
昨夜は調子がよかったので久しぶりに風呂に入ったのですが、なんだか今日はまた調子が悪い。。。。
しつこい風邪です。
また医者に行き薬局で栄養ドリンクでも買ってきます。
【2005年】
桜も5分咲きぐらいです。
今夜「本屋」大賞が発表になります。角田さんの「対岸の彼女」がノミネートされているのですが、大賞は。。。。?
本屋さんに勤める店員さんが選ぶそうなのですが、直木賞や芥川賞とは少し違った観点があるのでしょうか?より一般読者の気分が反映されるのかな?
去年からできた賞らしいのですが、賞金10万円。。。。ううう
でも賞金額ではないですよね。
今夜8時過ぎにはHPで発表されるようです。
【2006年】
『間宮兄弟』
小学館
江國 香織 著
江國さんの作品や、エッセイを読むと、そこには生活臭のしない男女を見るというのが共通した僕の感想であり、同姓の友人関係、異性間の友人関係そしてもちろん恋愛関係を描くが、そこでの人々はその生活から離れたところにその人々の関係が描かれる。もちろん生活者という部分は持っているが、素敵な友人関係や恋愛関係の背景として霧の中にあるような生活である。
友人関係や恋愛関係という美しいものが描かれ、その背景としての生活は抽象化されたような霧に包まれているような形で背景として描かれるそんな絵画のような印象を受ける。
この美しい絵画を読者は見るのだが、生活から離れたものに読者も素敵な時間を持つことができる。小説に「恋愛小説」というジャンルがあるとすれば、背景にある生活が写実的に描かれているとそれが邪魔になるのではないかと思う。もちろん、生活臭たっぷりな恋愛小説というのもあるのだが、この生活臭を背景に押しやって人の心のぶつかり合いだけを描くのもまた恋愛小説の中の一つの手法だろう。僕は江國さんという作家はこの後者の恋愛小説家だと思っている。
読者も自身の生活をすべて忘れて友人関係や恋愛関係の中に陶酔できるという世界が江國さんの世界だと思う。
もちろん、ただ読者を陶酔させるだけの甘ったるいだけという意味での「読み物」としての恋愛小説ではなく、「小説」としての優れた作品である。
人は、友人と飲み、語り、恋をし人の心に触れ合う。それが私生活や仕事から離れての関係になら喜びを感じるだろう。生活を背景に押しやって。
しかしその後にそれぞれの生活(仕事)の中に帰っていく。
時間の流れの中の心は、この生活から離れた心と、生活の中にいる心とがかけ離れたところにあり、時には葛藤をするものだろう。江國さんの作品は、恋愛小説という形を持って、前者の生活から離れた心を描くのが軸足である。やはり恋愛ならば素敵な男女が描かれ、友人関係でも素敵な男女が現れる。ここがやはり魅力なのである。ここには生活者としての心の葛藤はやはり背景に押しやられる。
江國さんの作品をこうした性格のものとしてみたならば、「間宮兄弟」は、生活者を描き、江國さんの作品としては異色ではないだろうか?
間宮兄弟は、子供の頃からもてない男であった。苦い失恋の思い出を持つ。失恋というよりもその前提である恋愛関係すらなかった。兄明信は失恋をすると黙り込み、弟徹信は、失恋をすると近くに通る新幹線を見に行く。お互いに失恋したことにすぐに感じ取れるほどにお互いを知り抜いていた。そんな兄弟は30代半ばになっても2人で生活をしている。
兄弟それぞれは、また恋をした。。。。。。この作品は、生活者である兄弟のそれぞれの恋を約1年にわたって描く。
兄弟は子供の頃から遊んだおもちゃを大切にしまってある。2人の心地よい時間の流れは、本を読むことと好きな映画ビデオを見ること。この時間の使い方や楽しむためのグッズはどことなくオタクを思い起こされる。
しかし、オタクといってもテレビなどに出てくるような鉄道オタクや人形を集めたりするようなある意味かたよった物へのオタクではなく、「生活オタク」である。
マイホーム主義などという言葉があるが、既婚者の中にも家族の生活を一番大切にした生活を営むことがある。単身者にしても自分の時間を戴せうにして趣味なども含めたものを大切にする人もいる。間宮兄弟は、独身だが、母親の誕生日を一大イベントと考えたり、死んだ父親が生きていた頃の過程の思い出を大切にする。この意味では、ごく普通に家庭や自分の時間を大切にするという生活者なのである。これはある意味オタクと名づけるならば「生活オタク」ということになる。
これまで読んだ江國さんの作品が、この生活者の部分を背景に押しやったものとすれば、この作品は、背景であった生活をはっきりと書き表した作品といえる。
作品からは、オタクっぽさを感じるのだが、オタクという言葉だけでは現せないものがある。日常の生活のあわただしさに追い回され、江國さんのほかの作品のようなこの生活から離れた時間を持ちたいとする日々を考えれば、その生活自体に喜びを感じ取れるというのは素敵なものである。これを「生活オタク」という言葉で書くこと自体が間宮兄弟への変な見方なのだろう。
兄弟は、それぞれに恋をする女性を自宅に招き、おでんパーティーをしたり花火大会をする。アットホームなおデートである。招待された女性たちは、それぞれに恋人がいたり、不倫相手が居る。まさに恋の世界に陶酔をしている。その女性たちから見れば、間宮兄弟のアットホームなおデートは異質である。女性たちは戸惑う。
しかしその戸惑いの中になんとなく落ち着きを感じていく。その落ち着きさの中に陶酔という形の恋から抜け出そうとする。それぞれに不倫から離れ、肉体関係からの恋から離れていく。それに相対するように、徹信が恋する離婚寸前の人妻とその夫、そしてその夫の不倫相手の泥沼化。
陶酔する恋と生活者としての恋の対比もあり、そこに間宮兄弟が間に入る。
この絶妙さにこの作品の面白さがある。
間宮兄弟と接することにより、間宮兄弟が恋する女性たちは変わっていく。女性たちは自分自身の恋を見直しはじめる。このことで間宮兄弟のそれぞれの恋は破れていく。
間宮兄弟自信の寂しさが残る。
周りの女性対は間宮兄弟にホンワカとした落ち着きを見るが、やはりそれは恋ではなく友情なのかもしれない。よく聞く「あの人はいい人なんだけど。。。。」といったところかもしれない。
間宮兄弟自信も、恋に破れつつも今ある2人の生活に安心感をまた持つ。
読み終わって持つ読後感は、生活オタクの恋の道化師という感じで、人に笑いやいろいろな面での影響を心に投げかけるが、その道化師には寂しさが残る。面白おかしくも読めるが寂しさをもっても読める。読者も間宮兄弟に暖かさを見るだろうが、女性の読者が「もし。。。」と考えた場合に間宮兄弟と結婚をしようとするか?
これはその女性の年齢や人生観によってちがってくるだろう。
40歳を過ぎた江國さん。この作品を書いた頃に40歳を迎えたのかもしれない。この40歳という年齢による江國さんの変化も出てくるだろう。陶酔した恋だけを描くと同時に生活者という面での恋を描く江國さんも出てきてもおかしくないのではないか?
【2007年】
この前から気になっていた味噌ラーメンの麺。市販の味噌ラーメンを買うと2人前入っているのですが、それを3人で食うには少ないし2袋買うと多くなってしまう。仕方ないのでいつも2袋かいます。というわけで冷蔵庫には麺が1玉残る。その1玉の麺がどうも気になっていた。
ラーメンにして食えばいいけど、具が何もないのでどうも寂しい。
というわけで麺が1玉残る。
そこで夕飯を作るときに思いついたのが『ラーメンサラダ』
サラダの野菜は買ってきておいたので、そこに茹でて冷やした麺を3センチほどに切って入れました。ドレッシングは和風のごま。
思ってもみないようなおいしさでした。
そういえば、夏にはラーメン屋さんによってはサラダラーメンというのもある。冷やし中華も同じようなものだろう。こう考えればラーメンサラダもそうはとっぴなものではないはず。
野菜がまり好きでない息子が「これなら俺も野菜が食える」といってました。
もう1品は、骨付きの鶏のから揚げを竜田揚げ風に。
でもタレがちょっと中華風。中華なべにごま油を引き、ニンニクと山椒の実を入れて風味を出します。そこに中華スープを少し入れ砂糖味醂しょうゆで味付け。そのタレに揚げた肉を絡め、仕上げのラー油・長ネギ・待つのみを入れて出来上がり。
これもまた好評でした。
今日、本屋大賞が発表になりました。
『一瞬の風になれ』
著/佐藤 多佳子
(講談社)
近いうちに読みたいと思います。
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】
今夜は、竹の子と鯛の炊き込みご飯を作ろうと思いスーパーに行ってきました。
ところが。。。。ううう。。。。いつも売っている鯛の刺身がなかった。どうしようかと思ったのですが、すでに僕は炊き込みご飯モードに入り込んでいたので仕方なくアジのたたきを買ってきました。
今電気釜をセットしたところですが、アジでは臭いかな?
臭いが気になるようなら糸状に切って水にさらした生姜をいれてかき混ぜてみようと思います。
この他、竹の子と高野豆腐の煮しめと柔らかジューシー豚カツ。残り物のエリンギの味噌汁です。
これを買うと決めて出かけて、それがないときのショックは大きい。。。
今日は、坂本冬実の「また君に恋してる」が入ったアルバムを買う予定があったのですが、ありませんなぁ。。。。CD屋さん。国道を走ってもない。大型電気店に行ったけど、音楽CD売り場はなくなっていた。スーパーの3階まで行ったが、やはり売り場がなくなったと。。。今はダウンロードで買う時代ですし、レンタルの時代ですからなぁ。
昔は、どこの小さな町でもレコード屋さんが1軒ぐらいはあったのに。。。。
【2011年】ツイッターつぶやき
地震そして津波の災害に対する復興作業。この地震や津波に対しての原発の脆弱性(絶対安心という神話)からの原発事故に対する復旧作業。
だんだんとその被災や被害の状況が明らかになってきていてその復興や復旧にかかる予算が議論され始まっている。
地震や津波の復興は国内的なものでどうにかなるが、原発事故は国際化してきている。そしてそこにプラスされて経済的先進国としての復興・復旧作業の経済的なものも国際化している。
原発事故はあらゆる人間の専門家の知恵に依拠するしかない。そして経済もその専門家の知恵に依拠するしかない。しかしこれらの問題は原発・経済の先進国であるからこそ世界への波及作用は大きいし、国民生活に直結する問題である。一歩間違えれば国民生活に大きな犠牲を及ぼす。同時にそれは世界へと波及する。
復興・復旧作業の財源。。。。
すでに政府の考え方は出ているが、それは所得税や消費税の増税と国債の日銀引受による新たな発行といえる。
しかし国内の金融資産や借金といううらにある国債の引き受けによる国内資産、そして外貨やアメリカ国債という形の試算資産が国内にはある。
これらを活用する段階に来ているのではないか?
もちろん国債を海外に売るとなるとそうとうな未来への負担が残る。そしてアメリカ国債の売却をやればアメリカ経済にも波及をしてそれは中国の保有する世界で1位というアメリカ国債の売却にも連動して世界経済は混乱をしていくのではと思う。
幸いに日本の国債はほとんどが日本国内で引き受けられている。そうならば国家予算に占める大きな負担である国債費をどうにかして凍結をして財源とすることもできるのではないか?またアメリカ国債については70兆ドルとも言われているが、アメリカ政府に買い取ってもらうか、世界の国家レベルでの引き受けを検討してもらうことはできないだろうか?市場に出したらそれは原発の放射能を世界に振りまくようなもので致命的である。
もちろんこれらの国債を持つのは私的企業や年金の積立金やや郵貯の役割もあるから難しい面はあると思うが、どうにか年金や一般国民の負担とならない方法はあるはずです。
民主党が掲げた「国民生活第一」が今こそ再確認されなくてはならないのではないでしょうか?国民生活に大きな負担をかければそれは企業活動にもめぐってくる矛盾となることは震災前から見えていたものです。困窮のない変わりにセレブもないその平均的な生活の国民生活全体の低下をどう見ていくかにあります。
【2012年】ツイッターつぶやき
NHKのブラタモリという番組をいつも楽しく見ている。
今夜は江戸の食文化。
食を楽しむ江戸市民。食を楽しめるというのは豊かさの表れではないかと思います。一般市民の生活にも一定の豊かさが出てきた時代なのでしょうか。もちろんこの豊かさは大都市江戸の市民だからこそのものがあったのだと思いますが、関東にはところどころに「小江戸」と称される観光地が残っていますが、そこに小都市なりの文化が勿論あったわけですが、江戸に似たような年をと考えていたのでしょうか。
封建制の時代ですから武士の力は圧倒的なものがありましたが、あんがい封建制も形骸化をして武士の力もだんだんと形式的になり、社会を支える力は豪商の財力に。武士はその家柄に縛られて案外質素な生活を送りますが、形式に縛られない市民は自由があったのかもしれません。豪商の財力は様々な産業や職を生み出して貨幣経済が発展していく。武士の年貢に頼る力も結局は年貢米を貨幣にしなくてはならなくなり、その米は流通により市民の中にも流れたのでしょうか。
江戸の市民生活を眺めることは面白いですね。
【2013年】ツイッターつぶやき
日銀が金融政策会合で大胆な金融政策を行うとして貨幣量の増加を言った。
これはもちろんアベノミクスでの2%のインフレでありデフレ脱却を目標とする。しかしデフレとは商品価格が下落し続けることという現象面だけなのだろうか?この現象面を見てインフレ目標も生まれたのだろうし、そのインフレを起こすためにインフレだから貨幣量を増やすと。
このような単純な問題なのだろうか?
どうも貨幣の回転という面が忘れ去られているのではないか?今の金融政策といった場合量的緩和だけでこの貨幣の回転が見えない。
貨幣量が少なくても貨幣の回転が良ければ景気は良いと判断できるでしょう。いくら貨幣量を増やしてもその貨幣が回転しなければ景気はよくならない。こう見るとむしろ景気回復には貨幣の回転率をどう高めるかの政策が必要なのではないか。
デフレについては、生産性の向上により商品価値は低下するわけですから物価が低下すること自体は経済の法則として受け止めるべきで、むしろ経済の発展なわけです。そして国民がより安く商品を手に入れられるならそれは社会自体の発展でしょう。しかしなぜこの商品価値の低下からの商品価格の下落がデフレとして問題視をされるのか?それは企業の利潤率の低下を起こすからです。この利潤率を維持しようとする中にあほらしいインフレ目標という悪性インフレが起きるわけです。
ですから今はデフレ克服と経済の再生を別に考えるべきで、経済の再生によりインフレ傾向が起きれば自動的にデフレも克服されるのです。
貨幣の回転は消費量を増大させますからこの回転率を上げる政策が経済の再生につながるわけです。
この貨幣の回転率は消費市場における現象ですが、同時に資本主義はこの貨幣が資本へ転嫁しなければ成り立たない社会なのです。貨幣が所費消費を高めるために回転するばかりではなくて貨幣が資本へ転嫁することによる貨幣の回転でなければならないわけです。消費としての貨幣の回転と生産という面での貨幣の回転が必要です。
今現在のアベノミクスあるいは日銀の量的緩和がこの両面で見た貨幣の回転を促しているかといえばそうではないでしょう。たしかに株式の上昇とともに高級な商品の売り上げが伸びているという現象は出ているようですが、このようなバブル的な貨幣の回転では経済全体の下肺貨幣の回転率を高めることはできない。貨幣の資本への転嫁例えば設備投資ですがこの面の貨幣の回転率が高まり、同時に消費面での貨幣の回転が高まるというには大衆消費財の商品が動かなければならないのです。
日銀の資金は株価を上昇させるためでは、それが消費における貨幣の回転率を自動的に上げるとは限らないのが資本主義です。
金融商品や国債あるいは海外に貨幣が流れていくだけでは経済の再生はないでしょうし、そこから経済発展の副産物としてのインフレもなく、もちろんデフレからの脱却もなくなる。日銀資金という新たな資金としての貨幣の回転が国内市場においてゼロ状態になってしまいます。
国民に残るのは円安からの悪性インフレ(経済発展なきただの物価上昇)と国債の更なる発行という借金の増大です。そして経済の再生がない中にあらゆる矛盾のしわ寄せ(たとえば消費増税や雇用のさらなる不安定化)が襲ってくるだけです。もちろんこれはさらなる拡大されるデフレとして現れて銀行や大企業の存続に大きな障害となっていくことでしょう。
【2014年】ツイッターつぶやき
料理というほどでもないのですが。。。。。
春キャベツが出てきましたね。
やわらかくて甘みがあっておいしいです。
そんな春キャベツは生が一番!!
大きくちぎって味噌をつけて食べるのが好きです。
味噌は。。。。。
味噌・砂糖・七味唐辛子・ごま油・すりゴマそしてとろみが出るくらいの水です。
東大日次物価指数プロジェクトというのがある。日々の物価動向を現すプロジェクトらしい。これ自体の社会的な評価はわからないのですが、ひとつの目安として使われているようです。
このプロジェクトの結果をつかった二つの記事があった。
ひとつは消費増税が順調に価格移転されているという結果の記事です。もうひとつはこのプロジェクトの結果から消費増税分超えて物価上昇、便乗値上げかという結果です。
消費増税による価格への転嫁は政府が強く市場に対してけん制して物価上昇を後押しする形をとっていましたから当然という結果と思われます。同時にこの価格への転嫁にお墨付きが出ているならば便乗値上げも起こりうるでしょう。
価格というものは日々変動が激しいものですから消費増税分の物価上昇がどのような形で起こっているかは消費者にはわかりませんね。
今の政府による経済政策は物価上昇に見るデフレからの脱却ですから、好景気による経済の過熱からのインフレと円安と消費増税からの悪性の物価高を混同する傾向があります。味噌も糞も同じといっては言い過ぎかもしれませんが、社会全体で物価が上がることはよいことという論理が正当化されているでしょう。
その中での消費増税分の価格転嫁ですから、価格破壊などといった値下げ競争から値上げ競走に移る可能性が出ているのではないでしょうか。値上げ競争に倫理がなくなれば便乗値上げも出てくるでしょう。
これまでは株など金融商品での経済の成長が言われていましたが、今後は商品市場においての悪性の物価上昇が経済判断としては景気の動向となっていきます。
株価も上がった。商品価格も上がった。。。。経済は持ち直したから消費税も10%へと。
小泉政権時の国民生活には実感な気好景気の再来です。
雇用状況の改善は言われますがその中身は不安定雇用と低賃金の労働者が増えるだけで、そこに高齢者や女性の労働力の活用が入り、その上外国人労働者の労働力の利用も出てきています。低賃金労働者は相対的に増えていくでしょう。好景気の裏に消費の減退からの不況が同時に現れる。スタグフレーションがまた拡大する。
バブル崩壊からの自民党政治は今も何も変わらないわけです。そこに悪性の物価上昇が加えられたのです。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
ちょっと変わった春巻き。。。。
でとるとデトルトのキーマカレー(温めない)に茹でてよく冷まし細かく裂いた鶏ささみ肉をまぶします。
それを春巻きの皮に巻きますが、上にとろけるチーズをのせます。
もう一つはスーパーのポテトサラダを巻きます。
これを高温の油で皮がかりっときつね色になったら出来上がり。
具は火が通っているものばかりですし、じっくり上げると具がはみ出しそうなので。
ソースはケチャップにしてみました。
【2017年】ツイッターつぶやき
先に書いた「アベリスク」の続きです。
安倍政権においての経済政策における基本は、インフレ目標2%でした。
経済政策では、アベノミクスの成功により賃金も上がるし国民生活も豊かになるはずでした。また、消費税の8%(3%増税)では、消費税はすべて社会保障に充てるはずでした。
アベノミクスの成功による経済の好循環は、経済学理論ではリフレ派といわれる方の力が大きく働きました。アベノミクス自体そして政府と一体となった(独理性の脆弱性)日銀の量的緩和が現実の政策として実施されました。
2%インフレ目標が言われましたが、インフレとは経済の好循環がなければ起きる現象ではありません。しかし政府・日銀は「インフレ目標」を「物価目標」と言葉を濁し、経済の好循環のためにはインフレが必要と逆立ちをしてしまいました。
結果としてはもちろん経済の好循環によるインフレは起きずに、円安誘導による自給率が少なく輸入に頼るエネルギーや食品が値上がりしただけでした。政府による物価が騰がることは良いことだというお墨付きの中で食品の中では10%を超える実態になっています。そのために最近の統計ではエンゲル係数が上がっています。そのたの根狩りは国民生活の隅々に起きています。
賃金は自然に上昇するといわれましたが、管制賃上げも腰折れで経済の好循環からの賃上げはありませんでした。最近の労働力人口の減少等による賃上げは経済の好循環があったからというものではありません。
消費増税を行っても社会保障は伸びません。
年金支給年齢はすでに65歳となりました。今後厚生年金部分も段階的に65歳となります。そのうえ最近ではさらに支給年齢の引き上げが討議されるようになりました。
女性の活躍はとん挫しましたが、議員の数や企業役員の数ばかりが議論となり、一般の女性はどうなったでしょうか。労働力人口の減少により女性の労働力に期待が高まり、一方では生活が苦しくなる中で就労する女性が増えましたが、保育園問題としての社会保障は充実されずに女性の自己責任でかたずけられています。
政府は常にこのアベノミクスの失敗を認めずに「道半ばにある」と主張しています。
しかし新たな経済政策は古くからの自民党の中にある財政出動による公共事業(企業へのバラマキ)です。
財政の健全化は放棄されています。その自制の健全化の中に社会保障切り下げがあります。
以上のような国民生活における「アベリスク」が強まりますが、これは経済全体のデフレ不況をもたらすでしょう。株価が騰がり企業利益が上昇する一方で国民の貧困化(窮乏化)が進むというある意味スタグフレーションが起きています。これは日本経済全体に大きなしっぺ返しが起きるでしょう。そこでもやはり国民生活が犠牲となります。
gooブログお題「アンパンマンの好きなキャラは?」
年齢からして「今は」観ません。。。。。
「今は」というのも、子供たちが小さいころ抱っこをしながら一緒に見ていました。ですから登場するキャラクターは案外知っていますよ♪
アンパンマンの自己犠牲精神。。。。。
バイキンマンがそのアンパンマンに敵対して悪さをする。
「アン~、パ~ンチッ!」で最後はめでたしめでたしですが、バイキンマンも懲りないですなぁ。。。。
子供の世界もいじめがあり、子供たちも深く傷ついている社会。
大人もやるせない社会に生きるようになりましたなぁ。。。。
何でも有りのバイキンマンだらけ。。。。。
バイキンマンのルールがはびこっている。
皆がジャムおじさんやバタコさんになってアンパンマンの顔を焼き続けるしかない。
バイキンマンも自己崩壊するしかないですから。
「アベノミクス・日銀緩和から4年」
2013年安倍政権ができて間もないころ、「バイ マイ アベノミクス」と声高にアベノミクスが登場。そしてすぐに日銀の異次元緩和が登場。
以下、4年前に書いたものをまず転載します。
日銀が金融政策会合で大胆な金融政策を行うとして貨幣量の増加を言った。
これはもちろんアベノミクスでの2%のインフレでありデフレ脱却を目標とする。しかしデフレとは商品価格が下落し続けることという現象面だけなのだろうか?この現象面を見てインフレ目標も生まれたのだろうし、そのインフレを起こすためにインフレだから貨幣量を増やすと。
このような単純な問題なのだろうか?
どうも貨幣の回転という面が忘れ去られているのではないか?今の金融政策といった場合量的緩和だけでこの貨幣の回転が見えない。
貨幣量が少なくても貨幣の回転が良ければ景気は良いと判断できるでしょう。いくら貨幣量を増やしてもその貨幣が回転しなければ景気はよくならない。こう見るとむしろ景気回復には貨幣の回転率をどう高めるかの政策が必要なのではないか。
デフレについては、生産性の向上により商品価値は低下するわけですから物価が低下すること自体は経済の法則として受け止めるべきで、むしろ経済の発展なわけです。そして国民がより安く商品を手に入れられるならそれは社会自体の発展でしょう。しかしなぜこの商品価値の低下からの商品価格の下落がデフレとして問題視をされるのか?それは企業の利潤率の低下を起こすからです。この利潤率を維持しようとする中にあほらしいインフレ目標という悪性インフレが起きるわけです。
ですから今はデフレ克服と経済の再生を別に考えるべきで、経済の再生によりインフレ傾向が起きれば自動的にデフレも克服されるのです。
貨幣の回転は消費量を増大させますからこの回転率を上げる政策が経済の再生につながるわけです。
この貨幣の回転率は消費市場における現象ですが、同時に資本主義はこの貨幣が資本へ転嫁しなければ成り立たない社会なのです。貨幣が所費消費を高めるために回転するばかりではなくて貨幣が資本へ転嫁することによる貨幣の回転でなければならないわけです。消費としての貨幣の回転と生産という面での貨幣の回転が必要です。
今現在のアベノミクスあるいは日銀の量的緩和がこの両面で見た貨幣の回転を促しているかといえばそうではないでしょう。たしかに株式の上昇とともに高級な商品の売り上げが伸びているという現象は出ているようですが、このようなバブル的な貨幣の回転では経済全体の下肺貨幣の回転率を高めることはできない。貨幣の資本への転嫁例えば設備投資ですがこの面の貨幣の回転率が高まり、同時に消費面での貨幣の回転が高まるというには大衆消費財の商品が動かなければならないのです。
日銀の資金は株価を上昇させるためでは、それが消費における貨幣の回転率を自動的に上げるとは限らないのが資本主義です。
金融商品や国債あるいは海外に貨幣が流れていくだけでは経済の再生はないでしょうし、そこから経済発展の副産物としてのインフレもなく、もちろんデフレからの脱却もなくなる。日銀資金という新たな資金としての貨幣の回転が国内市場においてゼロ状態になってしまいます。
国民に残るのは円安からの悪性インフレ(経済発展なきただの物価上昇)と国債の更なる発行という借金の増大です。そして経済の再生がない中にあらゆる矛盾のしわ寄せ(たとえば消費増税や雇用のさらなる不安定化)が襲ってくるだけです。もちろんこれはさらなる拡大されるデフレとして現れて銀行や大企業の存続に大きな障害となっていくことでしょう。
(以上転載)
経済の好循環時にはインフレが起こる。だからインフレを起こせば経済は好循環するという逆立ちした経済政策が登場してしまいましたが、1+1=2だから2=1+1だという決めつけによるバカげた論理が社会を覆いつくしてしまいました。まず、この逆立ちをした経済政策ですからやはり現在を見れば失敗に終わったということが明らかです。
次に、この逆立ちから物価が騰がることは経済の好循環にとって良いことだ、これがデフレからの脱却だと円安誘導により輸入品が値上がりし、自給率の低いエネルギーや食品だけが値上がりし、それに続いて様々なものが値上げされました。結局はこのことにより個人消費は低迷をして逆に経済の好循環の足を引っ張ることになりました。それに輪をかけて消費税の3%増税をやってしまった。悪性の物価高は経済の好循環を否定する。
個人消費の低迷は、国民生活に貨幣が循環していないことを示すわけで、加平の回転がさらに鈍くなったとことを示す。株式への投資や企業利益に貨幣は吹き溜まり、日銀が国債を買ってもその貨幣は動かない(設備投資などには回らない)。そしてゼロ金利からマイナス金利へと。しかし加平の回転は増加しなかった。管制賃上げをせざるを得なくなったがこれもマラ今年に入って腰折れである。
社会保障のための消費増税は嘘八百に終わり、公共事業や軍事費に回る。
これから起きうることは、当座預金そして株式をはじめ企業利益に吹き黙った貨幣が潜在的デフレ不況の中でバブル化するということでしょう。それはアメリカに資金を回すことであっても解決はしない。アメリカにおいてのバブルとなるでしょう。円の価値は下がり続ける。これは円安誘導によるものとは質の違う円安でしょう。
アベノミクス・日銀の異次元緩和から4年。「道半ば」という詭弁は通用しないでしょう。
【2018年】ツイッターつぶやき
安倍政権発足後5年となりますが、ここにきて森友学園の公文書改ざん、自衛隊の日報隠し、そして働き方改革での裁量労働制関連のデーターや過労死隠しかという疑惑が。そして福島原発の汚染水問題が困難である実態が。
経済面では鳴り物入りのアベノミクスそしてそれに呼応する日銀緩和はずっと道半ばであるという国民への分析の危うさ。
政府はずっと改ざんあるいは誤った情報に基づいて野党に説明をし、それが報道をされて国民の耳にも入ってきていた。野党はあらゆる疑惑について政府を追及したが政府は誤った情報により正当化をさせた。そしてこの国会運営の下に選挙も行われた。
この5年間は何だったのでしょうか?
失われた政治の5年でした。。。。。
それは民主主義の形骸化でもありますが、さらにこの民主主義は数の力というものによっても機能を喪失しました。
【2019年】ツイッターつぶやき
上司「いやぁ・・・君はいろいろと勉強しているね」
部下「ありがとうございます」
「しかし私の意見とは違うところがあるようだね」
「はい、しかし、それは・・・・・」
「君が言いたいことはわかってるから言わなくてもいいよ」
「はぁ・・・」
「理想通りにはいかないことがたくさんあるんだよ」
「はい、私はその点も・・・・・・・」
「うん、私もわかっているんだよ。君の性格を知っているから。」
「恐れ入ります・・・」
「会社だけではないが、大人の対応というものがあるんだよ」
「はい、それは十分に・・・・」
「そういえば、君は今度結婚するんだって?」
「はい、9月には式を挙げたいと思います。」
「家庭を持つことは大変なことだ。仕事も頑張らないとな」
「はい」
「俺が言いたいこと、君はわかるよな」
「は?。。。。」
「大人の対応も必要な時もあることはわかるよな」
「はぁ・・・・」
忖度
(今年1月31日記)
上司が一から十まで教えないと動けない社員と違って一言三言話しすれば仕事をまわせる社員を見れば後の方の社員は優れた部がということになる。これは会社だけではなくて社会全体の中で必要な忖度の必要性である。
しかし上に書いたような上司による同調圧力を忖度してしまうようなものは企業や社会の弊害になってしまうでしょう。
先日国交省副大臣が
「道路建設を推進する県選出国会議員らが副大臣室を訪れ「これは総理と副総理の地元の事業だ」と迫られたと明かした。「私はもの分かりがいい」と応じたとした上で「総理とか副総理がそんなこと言えない。私は忖度した」と語った」(毎日新聞より引用)
上記した上司と部下の例が現実の政治において行われていることをわかりやすく示していますね。
去年から官僚が内閣に対して忖度をしていたという疑念がたくさん出てきましたが、法的にも利益誘導という倫理にも許されないことを忖度しなければならない政治や社会ならば、弊害ばかりで優れた政治家を作り上げることはできないでしょう。忖度政治や忖度社会が既成事実化して当たり前のことと認められるようになる社会は、ある種の強権をはじめとした力の社会を認めそのような社会をつくる意思が見えてくる。
令和の「令」は万葉集をイメージする「麗」ではなくて偉い人に土下座するような時代となるでしょう。その中で偉い人はまずいというものは口にせずに忖度をさせる。新年号と万葉の正解世界が結び付いているが、国民は「令」の意味を忖度するようになっていくでしょう。
【2020年】ツイッターつぶやき
何らかの形で賃金を得て毎日生活をしている労働者とその家族の割合は日本社会の中高い比率になっているでしょう。
こういう賃金を得て生活している人々は賃金労働者といわれる。
そして農業や漁業などの自営の労働者が多くいる。
これらの労働者がいなければ社会は維持できないことはわかりきったことである。
しかし労働者も労働者としてモノを生産する自分と、社会的に生産されたものを消費する市民という二つの性格を持つ。
いつもは苦しい労働で働いているが、いざ消費者としての市民になると消費先の店などで見苦しい態度のモンスター消費者になって労働者を蔑ろにしたり暴力をくわえたりする。
この労働者と市民の分離が起きている社会において、今回のコロナ騒動というものが起きると、感染の恐怖から「早く非常事態宣言を出して、家に閉じこもれ」と声高に叫ぶモンスター市民が現れる。皆さんがそうだと言いませんが、例えば在宅
金m勤務で賃金を得られる人は家にこもれるわけですが、そういう労働者がいきなり市民感情むき出しになって非常事態宣言だ!と叫ぶのはやめたほうがいい。
非常事態宣言が出ても市民として家にこもるために食料品や電気ガスそして水道が必要。社会の安全のためには警察や消防が必要。そして農業や漁業が必要。すべての労働者の労働が最低限必要なのです。これを忘れて緊急事態だと叫ぶだけの人は人の労働の上に胡坐をかけると思っているような市民でしょう。
ライフラインがなくなっていいのか、食料がなくなっていいのか、医療がなくなっていいのか。。。。。誰もがそれは困るという。
ならば自分の中に同居する労働者と市民を分離してはならないのです。
もちろん社会の中は階級がある。労働者階級ではない人々も多くいる。しかしその労働者階級以外の階級の人々も人の労働がなければこのコロナ騒ぎの中で生きてはいけない。
労働者と市民を社会の階級としても分離してはならないのです。
カネがあれば別荘にでも避難すればいいという金持ちもいるでしょう。しかしコロナウィルスは平等です。下層階級だけに蔓延しているときはそれでよいが、下層階級の感染拡大は必然となりそれは上流階級にも及ぶでしょう。
労働者と市民を分離・分断しないようにするのが国家の役割ですが、安倍政権はダメですね。社会を維持するために労働者を大切にするものがマスク2枚や厳しい審査を通らないともらえない1瀬田当たり30万以外見当たらない。あとは企業の救済に軸足を移す。
これは国家の将来に深刻な悪影響を起こすでしょう。経済のV字回復どころではない。
毎日自分と家族のために市民のために働くスーパーの女性労働者の声!(
SFP通信)
【2021年】ツイッターつぶやき
緊急事態宣言でもマンボウでも飲食店における営業時間の制限と会食人数の制限を行っている。しかしなぜ4人の会食なら良いが5人ではいけないのかとなるとはっきりした根拠はあるのでしょうか?そしてなぜ夜8時や10時までなのでしょうか?この根拠もあるのでしょうか。
たしかに飲食の目的は飲食するだけではなくて楽しくおしゃべりをすることにもあります。しかしこの楽しくおしゃべりすることに感染リスクが生じます。ここから4人以下でマスク会食という滑稽なものが提案されています。
飲食の第一義的なものはうまいものを味わいそして呑み腹を満たすことにあります。コロナ禍においてもここは社会を維持するっための労働がある限り必要不可欠な飲食店の役割です。仕事によっては夜遅くまで働いたりする人がたくさんいます。その人のためにコンビニ弁当ではない飲食店の食事とビール1本ぐらいを提供できる飲食店が必要でしょう。
こう見ると、コロナ対策としての飲食店規制は時間の制限ではなくて会食そのものを禁止することにあるのではないでしょうか。もちろん子供連れの家族や恋人(カップル)同士2人の会食などは良いでしょうが。
クラスターはカラオケでも発生しています。これも一つの会食でしょう。若い人たちが街頭で飲み会をするのも会食です。飲食店でないのだからいいだろうという理屈も成り立ってしまいます。
大阪市などマンボウが発令された都市は5月の連休明けぐらいまで発令は続きそうですが、この1カ月会食を我慢して飲食店での食事(孤食など)を働く人たちのために提供すべきでそれに協力すべきです。まぁ、一番我慢できないのは政治家や官僚かもしれないが。。。。。。しかしここが我慢できないなら国民の国への信頼がなくなりどんな対策も効果がなくなるでしょう。
【2022年】ツイッターつぶやき
最近従業員の健康を問題視する企業が増えているようです。健康でなければ生産性が落ちる。健康でなければ新しい発想を生む仕事ができないということらしい。
しかしこの健康
鶴クリチェックがどのように行われるかと言えば、従業員の市生活にも踏み込んだ健康づくりとなる。代表的なのが禁煙運動です。
禁煙運動は社会的にはたばこ増税による強制禁煙があります、企業単位では雇用をしないという強制禁煙がはじまっています。
企業利益のための強制的な健康づくり。。。。
これは何もタバコに限ったものではなくなっていくでしょう。
【2023年】ツイッターつぶやき
日中の気温が高くなってきました。
車に乗っているとクーラーが入ります。
春の花がぐったりしています。
気温が20度を超えるとだめですね。
一月ほど花が終わってしまうかもしれません。
フリージアの香り。。。。。。
今が満開になってきました。