夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「2月26日という日」

2024年02月26日 07時59分55秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
まだ寒さもきついですが、立春を過ぎて陽がだんだんと伸びてくるとどこかへ出かけたくなります。もう、朝も6時というとだいぶ明るくなったし、夕方5時も明るくなった。
ドライブでもいいのですが、温泉に浸かりたいですなぁ。。。。。
このブログの古い記事を読んでいると、案外ドライブとか出かけています。
円安で外国人もたくさん来ているのでドライブや旅行も値上げの中たいへんみたいです。
日本人は相対的に貧乏になっている。
株価が上がっているようですし利益を得た人も多いようですが、今の株価は経済を反映していませんから、ねずみ講のようなもので、最後はアメリカにもっていかれます。預金などの資産2000兆円が危ない。

≪過去の記事≫

【2004年】
めまぐるしく変わる天気です。午前中は天気もよく沖縄並の暖かさでしたが、今は曇ってきて北よりの風に変わりました。
本屋に寄ったら、たくさんの戦争関連の本が並んでいました。ものすごい数でした。
これもイラク自衛隊派遣や北朝鮮問題からでしょう。このたくさんの本の中で、どのくらいの本がまじめに戦争を語っているのか?イラクや北朝鮮問題を語っているのか?国会討論の中身程度ほどの数かな?一番悪いのは、世論が感情的になることだと思う。
こういう時代こそ冷静さが必要だろう。

「椰子・椰子」
新潮文庫
川上 弘美  著

川上さんの日記と言ってもいいのか、日記風の小説と呼ぶべきか?川上さんらしい不思議な世界が広がる作品です。
「あとがきのような対談」で、川上さんは、作品の半分ぐらいは見た夢をまとめたと書いていますが、やはり日記といっていいのではと思います。
書き出し部分は、実際の川上さんの体験で、それを川上さん独特のお話にまとめたのだと感じまいた。そこには、美しさ、ユーモア、少し怒ったもの、皮肉など川上さんの感情が不思議な世界として抽象化されているのかと思います。
現実離れをしたお話としての日記ですが、そこには違和感はなく、その裏に川上さんの生活が見えるような気がいます。子供を畳んで箪笥にしまって出掛けるというところなどは、たまにはうるさい子供たち抜きで出かけたいというような親の心情も感じられます。
列車の踊り子号を待っていたら、それが貸切で、中にいたのはみんなテナガザルだったなどは、想像するとにやっとしてしまうような皮肉です。
やはり「あとがきのような対談」で、ごくありふれた日常の中から材料を拾って書いているとありますが、この日常を題材にしているからこそ不思議なお話しにも違和感がないのだと思います。

【2005年】
(記事なし)

【2006年】
ここのところ、養老さんや藤原さんといった新書とを時々読んでいるが、どうも一般庶民の気持ちを汲み取っていただけないような気がしていたので、この前から本屋さんで目に入っていた三浦展さんという方の「下流社会」を買ってみた。本の題名からして下流意識化する一般庶民の気持ちを現していただけるのかと思ったからです。
まだ読んでいないのでどのような本かはわかりませんが、たくさんのアンケートによる統計数字が出てきます。その統計は、「昭和一桁」「団塊世代」「新人類世代」などと世代別にまとめられています。
団塊世代というのは、どうも1946年から50年までに生まれた人を言い、次の新人類とは、61年から65年に生まれた方を言うらしい。そのあとはもっと最近にうまれた若い人たちです。こういう世代別調査だと、僕の世代は蚊帳の外なのかな?たしかに僕たちの世代は、○○世代とか言う特徴性がないのかもしれない。
しかしこの僕の世代は、30代終わりごろまでは、年功序列の中で団塊世代からいつまでも洟垂れ小僧扱いをされ、今やっと団塊世代も定年でだいぶいなくなり、50歳前後になったら、今度は能力主義になって新人類から追い抜かれるようなことにもなりかねない時代になってしまった。
団塊世代から新人類世代までの空白の10年に生まれた僕たち。。。。
何なのだろ?
団塊の世代は、すでに定年になったり定年間近である。今の社会を見ようとする場合は、この空白の世代の意識も大切ではないか?
養老さんといえば、今日の新聞に「超バカの壁」の書評が出ていた。
その中に「進歩こそが社会の発展」という意見に、養老さんは「そんなに気負うな」と言っているというような書評の中身があった。
僕の感想文は、この「進歩こそが社会の発展」に近いものがあるのだと思うけど、どうも僕の感想が間違いなのか?僕は今も思っていないのだけど。。。。
雨の中を妻と娘と3人で買い物に行ってきました。
昼はイタリアンレストランに行ったのですがなんとなく損をしたような?
ランチでスパゲティーセットをたのむと、サラダと飲み物とデザートがついてくる。ところがセットにしないでスバゲティーと飲み物だけを頼むと、サラダとデザートを食えないで値段も少し高めになる。なんか狐につままれたようで妻がむっとしてました(笑)
僕はセットを初めからたのんだのでサラダもデザートも食えたのですが、それを見ていたら妻が「何でセットのほうが得なことを教えてくれなかったのよ!」と八つ当たりをしてました(笑)僕に言ってもなぁ。。。。
注文をとるときの人が、こういう場合ハンバーガーショップのように「こちらのセットのほうがお得ですよ」と教えてくれるべきですなぁ。そうした僕が妻にも怒られずに済んだのに。。。。トホホ

【2007年】
もう3月に近くなってから寒波が来ています。この3日ほどはこの冬一番といってもよいほどの冷え込み。北風ぴゅーぴゅー・・・・ううう
車で買い物に行ったのですが、交差点を左折しようと思ったら横断歩道を歩行者が渡り始めたので一時停止。そしたら対向車線から右折者が急に割り込んできた。ちょうど僕とその車が同時にひとつの車線に入るような形になったが、どう見ても僕のほうが優先。僕の車は安もので相手の車は高級車。こうなると僕のほうが強気で行けます。まぁ、張り合うわけではないのですが(笑)
都知事選に向けての民主党の混迷に批判が出ていますが、菅さんは立候補しないほうがいいでしょう。これから国会内は大変な議論にもなりますし、民主党のこれからも正念場となります。最悪な場合は、先の日記にも書いたように小沢さんの元での解党も考えられます。これら中で、旧自民党の力に対する民主党内の市民派の力の結集は必要で、菅さんはその中心になるために我慢しなければならないと思います。それプラス旧社会党系や民社党系の議員(連合勢力)の市民派との結集が必要でしょう。ちょうど春闘時期ですから、庶民の生活を守るために市民派と連合派は前に出ないといけません。庶民生活の安定・反失業・護憲。都政では、オリンピック開催中止する中での都内の格差の是正を掲げるならそれはひとつの力になると思いますし、それはまた参議院選にもひとつの力になります。
でも、こういうのは無理かな。。。。?

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】
(記事なし)

【2011年】ツイッターつぶやき
2月11日に「ばらとおむつ」という文を書きましたが、その夏生さんの「続々ばらとおむつ しげちゃん田んぼに立つ」(角川文庫)が昨日発売になりましたのでさっそく買いました。
2008年から約2年間ぐらいでしょうか、夏生さんの兄「せっせ」が兄弟や姉妹に送った通信をまとめられた本です。「ばらとおむつ」「続ばらとおむつ 珊瑚の島で千鳥足」は、その多くの文は夏生さんが日記エッセイ風に「せっせ」の通信を紹介しながら書かれたものですが、今回は「せっせ」の通信だけをまとめて本にしています。
約2年間、、平均毎月2,3本の通信を書かれていたように思われます。
ですからこの本は、「せっせ」の通信を編集してイラストを加えて「あとがき」を書かれた本ということになります。
「なんだぁ・・・」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、そこが違うのです。たしかに兄妹とはいえ別人ですが、長く「つれづれノート」シリーズをお読みになったファンとしては「せっせ」という人が表に紹介されはじめてその魅力にそしてよい意味で「面白い」方ですからそれも含めた魅力にひきつけられています。ですから、ファンにとっては「なんだぁ・・・」とはならないのです。「つれづれノート」番外編といってもいいのかな。。。。興味ある本なのです。
この本の内容は、脳溢血で倒れた母「しげちゃん」の入院と退院後のリハビリの話から「ばらとおむつ」がはじまったのですが、長男と母親の二人の生活に夏生さんがお手伝いするといった方になりますが、面白い親子関係や会話の中にほんわかするものがにじみ出ています。毎日の生活には面白いことがあるし、母親「しげちゃん」の行動にも面白いものがある。ご病気とそのかんびょうという面では本にはあまり見えない苦しさというものがきっとあるはずです。でも、そんな闘病と看病の中で楽しいことはクスッと笑ってしまうようなことに視点をあてる。これが「せっせ」の魅力なのでしょう。それを夏生さんはしんみりと見つめています。ですから、この本ははじめって似する方にもきっと楽しく読むことのできるものだと思います。
今、芥川賞作品「きことわ」を読んでいるのですがあと数ページで読み終わりますので、明日からでも読んでみようと思います。

【2012年】ツイッターつぶやき
コメントをいただいたかのお返事に「行政サービスも有料化すべきと誤解されそうですが、それは間違いで、税金を使ってのサービスですからすでに「料金の先取り」をしてからその上でサービスの内容を議会が決めているわけです。」と書きました。
一般の商品を買う場合は、商品を受け取るときに代金を支払いますが、国や自治体の住民サービスは、先に税金として支払っていたものからサービスを受けるわけです。まぁ、一般商品と行政サービスを同じように見ることは誤りでしょうが、様々なところで赤字が言われているわけでしてその中でサービスの中身が減ってしまったり税金の上にさらに金を出せとも言われる。
介護保険というものが始まってどのくらいたつのでしょうか。これも新たに始まった制度で毎月保険料を払っています。しかしいざ高齢者が制度を使おうとすれば自己負担が大きくかかり、ましてや養護老人ホームになどはいれば目玉が飛び出るほどの金が必要です。結局はある程度金を持っていないと介護保険も利用しずらくなっているのではないでしょうか。もともと高齢者にしても自宅介護が基本での支援としての介護保険ですから、金がなければ自分で面倒を見よということでしょう。施設も足りませんし。
年金をはじめとした社会保障制度も改革は言われてはいたが結局は改悪な面が出ていましたし。
こういう国のやり方を見ていれば、国への信頼は失うわけです。高福祉高負担(消費税など)と言われる東欧諸国の例をあげて高福祉のためには消費税率をあげると日本の国が言ってもそれは信頼されないわけです。すでに消費増税と社会保障の一体改革は切り離されようとしています。
国民は税という形で金を先払いをしているわけですが、それが信用できなくなっている。そこにさらに税をもっと出せと言われても将来が見える設計図もない。

【2013年】ツイッターつぶやき
時間がないのでツイッターから。
商品価値は生産性の向上により常に生産のための労働力量を減らしていくからその価値を減らしていく。貨幣価値が同じなら常にデフレ傾向(商品の価格としてもデフレ傾向)になっていく。
貨幣価値は上昇をしてより少ない貨幣量でより多くの商品量を国民は消費できる。これは国民生活の安定と向上をさせて社会は発展していく。しかし相対的に商品価値の低下は企業利益を下げていく。デフレがなぜ問題視されるかといえばこの企業利益の低下なのである。
アベノミクス(リフレ派といわれる方々)はこの企業利益を保護するために円安誘導によるインフレを起こそうとする。生産性の向上により商品の価値はより少ない労働力量で生産するわけですからその価値は下がる。インフレ誘導は商品の価格を上げるだけである。矛盾は商品価値の低下と価格の上昇である。
商品価値の低下と価格の上昇は、貨幣価値(金による価値ではなくて国の信用)を低下させる。円安誘導(為替)はさらに国内の商品価格を上昇させて貨幣価値を低下させる。しかしこの新たな商品価格において商品価値と商品価格の乖離は広がり価格は市場において価値に一致させようとするからデフレ圧力に
商品価値と商品価格の乖離が大きければ大きいほどデフレ圧力も大きくなるだろう。バブルの崩壊はこれによる。商品価格の下落の幅は拡大されたデフレの矛盾として現れる。それは企業利益の低下の幅を大きくするだろう。インフレにならなければ日銀の金融政策は切れ目なく続く。また矛盾は拡大される。
貨幣価値の低下は国民生活を悪化させるだろう。株価や不動産収入という不労所得は増えるが労働による所得は低下をしていき大衆消費財の消費は低迷していくだろう。設備投資の伸びがあっても、企業の設備投資も最終的には大衆消費財に価値移転しなければならない。拡大されたこの価値移転が困難となる。
株価も正常な企業活動による評価としての価値から売買による差益に依拠する価格によって表示される。土地には使用価値(価格)はあるが価値(人間労働力)はない。まさに価値と価格の乖離の激しさはこの株価や不動産価格に現れるだろう。円安誘導による貨幣価値(紙幣という信用)の低下の中で。
アベノミクスやリフレというのは、価値と価格の乖離の人為的(自然な経済活動によるインフレではない)拡大という矛盾の拡大再生産である。(文章上による再ツイート)

【2014年】ツイッターつぶやき
戦後レジームからの脱却を安倍政権は前面に掲げてさまざまな政策を数の力によって成立させています。
しかしこの戦後レジームからの脱却とは、発展性のある制度や政治体制なのでしょうか?
実は「戦前レジーム」からの脱却の中に戦後の制度や政治体制があったのですがその中で自民党政権が続いていました。それが「戦後レジーム」だったわけです。これは発展性の中にありました。もちろん自民党自身がその意思によって戦後の体制を発展性の中において作り上げたわけではなくて、社会党などの野党との国会内闘争や労働運動市民運動の中において一定の平和主義と民主主義的な国民生活の安定というものを作り上げたわけです。
しかし自民党はその経済や政治の舵取りを誤り国民から見放されて民主党政権が生まれました。その中にはさまざまな矛盾を社会の中で作り上げてしまった自民党政治への批判でした。民主党政権は一時「戦後レジーム」の形骸化から立ち直る役割を果たそうとしましたが失敗に終わりました。
ですから「戦後レジームからの脱却」とは、形骸化した中での矛盾を深めてしまった戦後の制度や政治体制を取り戻してさらに発展させるものでなければなりません。
その役割を安倍政権が担っているかといえば安倍内閣の「戦後レジームからの脱却」は「戦前レジーム」のにおいがするものとなっています。数の力による国会運営自体も古い自民党政治に戻っています。
ですから海外からも批判が出てきます。もちろん戦後の世界体制もアメリカの軍事力による世界秩序の維持には矛盾が強まっていますが、世界史の中での戦後レジームはまだ維持をされていてそれと安倍内閣の「戦後レジームからの脱却」ずれが生じてきて言うということでしょう。ですからアメリカさえ批判的にならざるを得ず、中国の戦後秩序の維持という言葉が一定の説得力を持つようになります。
国内では安倍政権の「戦後レジームからの脱却」をその中身のとらえ方として政治や市民の中に入ってきています。政治家や期間の養殖に達人あるいは一般国民による一連のさまざまな言動が問題視され始めています。政治や経済の動きに矛盾が出てきているということです。安倍政権の抽象的な耳障りのよい言葉としての「戦後レジームからの脱却」がその中身においてはっきり見える形として現れてきているということです。
政治も経済も期待感からは売れて離れてきているのではないでしょうか。期待感というバブル状態の中での現実。。。。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
時間がないのでついったからの短文。
1日中忙しい一日でした。そして今の政治の縮図を見るような一日でした。決められる政治とは何か。。。。。それは討議ではなくて、数の力であったり、わからないようにしての何となく賛成であったり。。。。民主主義の形骸化が進んでいます。
疲れましたので、時間のある時にまとめてみたいと思います。
とりあえず忘備録として。。。。
民主主義の形骸化って、身の回りにありませんか?

【2018年】ツイッターつぶやき
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。俳句の伝統とは。」の続きです。
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。俳句の伝統とは何か。」では、俳句による自然の保護や平和性については俳句の普遍的な遺産ではないと書いた。人は自然に働きかけながらその恵みを得ていた。そしてその自然の厳しさや恵みと人の生活の営みとの関係をうたったものが俳句の一つの遺産でしょう。未来に向かっても同じであります。自然保護のために俳句は作られてきたのではないという事です。自然を破壊していけば自然からの驚異は増大をしてめぐみは少なくなります。その過程から俳句はまた生まれるでしょう。平和についても現在「積極的平和主義」が言われ、アメリカの軍事政策も世界平和が言われています。この中におて積極的平和主義自体が戦争による平和の維持という面を色濃くしてきました。俳句もこの積極的平和主義の平和感から詠まれるようになるでしょう。一方で戦後の平和主義からの俳句も詠まれるでしょう。ここでは俳句の平和性は抽象的であり俳句の遺産としては普遍性を持たなくなります。平和のための戦争を煽る俳句も、平和主義を直接問う俳句も交通安全運動や防火運動の標語的5・7・5のような月並み俳句以上の物ではなくて俳句の遺産という発展の中では「下手な俳句」等の位置づけになるでしょう。一方ではその中での自然とともにある生活の営みの本来の俳句から自然を愛することや平和を愛することの心が現れてくるでしょう。これが未来に向かっての俳句の発展性であり、未来への遺産となるでしょう。
さて、それでは過去の俳句の歴史からの遺産とは何か、伝統とは何かが問題となります。
まず、「5・7・5定型有季」と「大衆性」「娯楽性」を見てみましょう。
交通安全運動の標語に見る17文字のリズムは日本人の表現方法として血肉のようになっています。もちろんこの17文字のリズムは俳句からきており俳句が無意識的にも遺産として残されているという事です。しかし交通安全運動の標語と俳句とは違います。正岡子規によって俳句の詩的な重要性が遺産として残されました。ですから俳句は詩でなければなりません。
日本人の血肉ともなっている5・7・5のリズムと17文字内に詩的な気持ちを込めるという定型こそが俳句と言えるでしょう。ですから俳句の歴史における遺産の一つは定型という事になります。そこには変調やどうしても必要な字余りは許容範囲内となるでしょう。もちろん5・7・5が基本形とはなるでしょう。表現の強さや心の現れの表現として必要な場合に変調は許されるでしょう。
俳句の定型としての詩形は、自然と向き合う生活の営みにあります。
自然と向き合う事では日本では四季があり、その四季に人は向き合い生きていくために不可欠な農業などと結びついてそれが生活の営みとなります。現代は農業から離れた自然との向き合いが多くなりましたが、ファッションなどの文化を通じても自然に向き合い心は変わりないでしょう。ですから有季は俳句には切り離せないものですからそれは俳句の歴史における遺産です。
以上に「定型」と「有季」については「俳句の窮屈さ」と「季語の窮屈さ」で思うところを書いていますが、この二つの窮屈さこそが俳句の死としての特徴でもあるのでしょう。窮屈さから解放されたいという中に定型破りや無季も生まれますが、川柳を見てみれば、無季であり俳句の持つ滑稽さや自虐性等に特化していけば俳句とは違う世界観の一つの文学となります。俳句の窮屈さから離れた川柳のような文学を作り上げることも俳句の発展であり、同時に俳句からの飛躍となるでしょう。しかしそれを俳句だと言い張るのは無理があります。
俳句が持つ「大衆性」ですが、これをどのようにとらえるべきか。
「俳句はその遺産から何を引き継ぐのか。伝統とは何か。」につづく

【2019年】ツイッターつぶやき
火曜日だから焚火のお話。。。。
ではなくて、テレビで「マツコの知らない世界」という番組を今やっていて焚火のお話をしています。
そういえば火の光や暖かさを感じる機会が全くありませんね。
今はやたらと焚火などすればすぐに通報されてしまいます。
子供のころは東京でも焚火という習慣が残っていたり、畑で野焼きもしていました。ドラム缶で作った焼却炉もありました。さすがに枯葉も少ないので焼き芋は無理でしたが。
若いころは毎年キャンプに行っていましたので焚火でご飯を炊いたりした経験はあります。
子供のころは母親の実家に行くと囲炉裏があって夕方になると祖母が煮炊きをしていました。学校の夏祭りでキャンプファイヤーを囲んでフォークダンスなども。
火というのは心に対して不思議な作用をしますね。心を落ち着かせてくれると同時にその落ち着いた心で話ができる。そしてロマンチックな心にもしてくれる。そしてまじめにしてくれる。
テレビの番組では今この焚火が再認識されているようです。
子供のころ、囲炉裏の灯を時を忘れてみていました。ずっと見つめながらとりとめのない話をしをしていれば人間関係のぎくしゃくさもなくなるかもしれませんね。

【2020年】ツイッターつぶやき
アメリカ大統領選民主党候補7名の中で左派のサンダースさんがリードしているらしい。
しかしサンダースさんが左派とはいえ台湾問題では必要となれば躊躇なく軍事行動を起こすつ言うのが持論のようです。これまでの民主党大統領を見れば軍事行動を起こすという考え方について驚かないのですが、アメリカだけではなくヨーロッパの左派は平和主義という面では弱さを抱えています。
民主主義や自由というものは、それを守ることだと軍事行動を否定しないものとなっています。
世界の中で日本の左派(旧社会党)が世界の左派勢力との違いとして平和主義を持っていました。
アメリカややヨーロッパの左派の限界ですが、左派がいろうことにより民主主義や自由は守られるのであり、それを支持する多くの市民の中には平和主義は根強くあると思います。アメリカの市民は自国の戦争をやめさせる力を持っています。ヨーロッパも同じでしょう。
しかし同時に世界的に資本主義の矛盾による貧困化や格差拡大の中で排外主義が強く表れてそこに結びついた政治がポピュリズムとして市民を煽動する。
世界中でこの排外主義をどう排除するかが世界平和の課題となっているでしょう。
ではこの排外主義を排除するには何が必要か?
それは先にも書いたように資本主義の経済矛盾をどう解決して格差の縮小と貧困化の歯止めをかけるかにあります。それにはサンダースさんのような左派的な経済政策が欠かせないでしょう。
サンダースさんを100%支持することでもなく、平和主義ではないとして支持しないという両極端ではなくて今のトランプさんのアメリカをどう改善するのか、同時にそれは今までの民主党の経済政策をどう改善するかであります。

【2021年】ツイッターつぶやき
都立高校で「地毛証明書」というものがあるようです。
あくまでも任意で提出のようですが学校から言われれば出さざるを得ないでしょう。
だいぶ前に神が少し赤い地毛の子や天然パーマの子に対して黒く染めさせたりストレートパーマをかけさせたりとひどい仕打ちがありましたが、これに対して今は学校の中も国際化が進み様々な髪質や色の子がいますから一見その個性を認めようとするものかもしれません。しかし地毛照明を提出させること自体が人道に反しています。
髪質や色だけではなく髪型も厳しくなっているんでしょうね。
そういえば、先日下着の色は白でなければならないという規則があるというニュースもありました。
子供たちへのこの非人権的とも思われる厳しさはなぜなんでしょ?
今は18歳になれば選挙権も与えられていますが、これには子供たちの自由な考え方や言動を与える必要があるでしょう。これに反して大人というよりも権力が子供たちを抑えるというものは危険です。子供たちの中には少し爆ぜれたこやルールを守らない子もいるでしょう。しかしこうした子供たちも含めて全体的に子供たちの自主性の中で子供たちはモノを考えなくてはいけないと思います。
僕はこのブログでも時々禁煙ファシズムという言葉を使ったりしましたが、強権的な子供たちへの縛りは禁煙運動にも似ているような気がします。こういう禁煙運動の日人権非人権性は社旗社会に広がり子供たちへも広がっている。

【2022年】ツイッターつぶやき
東京都のホームページ年齢別感染者数を見ると、60代以上の高齢者と10歳未満と10代の子供たちの感染が増加をしている。子供たちの感染はオミクロン株の特徴でしょうか。子度たちの感染により重症や死亡のニュースはあまり見ないのですが、後遺症は大丈夫でしょうか。また子供たちから家庭内感染がどのくらい発生しているかが心配です。
島根県では一部小中学校を10日間ほど休校としたら新規感染者数が減少したようです。勉強の遅れも心配ですが休校というのも一つの感染拡大防止の手段ではないでしょうか。
また幼児の感染から保育園の運営自体が困難になり両親の就労にも影響が出ているようですから経済面からしても国の労働者保護が必要でその中から救援も考えなければならないでしょう。
すでにクラスター状態で学級閉鎖や休校も発生しているかもしれません。休校が発生する前に休校を選択すべきでしょう。共働き世帯では子供たちの休校は厳しいでしょう。しかし授業を続けることが結果休校につながることになるわけですから国の政策として親の労働環境を整える政策が必要です。
家庭内感染では親も濃厚接触となりますから仕事を休みやすいでしょうが、クラスターが発生した場合は休みずらいですね。

【2023年】ツイッターつぶやき
最近、ネット上で昆虫食のニュースを見かける。
日本では昔からイナゴの佃煮とか蜂の子なんかも食べていた。ですからそうは驚かないのですが、昆虫食は珍味として食べるようになったのではなく、蛋白源として市場に出回り始めている。子供たちに昆虫のパウダーとか食べさせているニュースもある。興味本位で食べることからはじまり蛋白源として普通に良く宅に並ぶ日も近いのかもしれない。
しかし好き好んで蛋白源を昆虫からという人はいないでしょう。
スーパーに行くと肉類や魚卵も高くなっている。日本は貧しくなるばかりですから肉や魚も食えなくなるのかもしれません。それを見越して昆虫食なのかもしれません。
日本ばかりではなく先進国の貧困化が顕著になっています。
途上国が発展すればそこからの食糧輸入品はその国で消費される。インドの人口が中国を抜くそうです。そしてそのインドは経済成長が早い。こういう国が増えてくるでしょう。
先進国はこのライバルを戦争で食い止める。カイライ政権にならないと。。。。。

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