「奥の細道」の旅の途中、元禄2年(1689年)8月27日(旧暦7月13日)滑川の川瀬屋という旅籠に泊まりました。弟子の曽良は「暑気甚し」と記しています。ここでの句は残されていません。
前日は親不知の難所を越えて市振宿で泊り「一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月」と詠んでいます。
翌日は高岡に泊まり、その翌日金沢に着きました。高岡でもやはり猛暑だったようです。
(1)芭蕉滑川で一泊(碑)
「芭蕉翁宿泊のまち」の記念碑
(2)曽良の日記(碑)
その記念碑の横に曽良の日記の一文「元禄二年七月一三日申の下刻滑川に着、宿暑気甚し」が記されています。しかし、現代ほどの猛暑ではなかったでしょう。
(3)(奥の細道の)小公園
元の川瀬屋の跡かもしれません。先の記念碑などが建っています。
(4)「奥の細道」関連の説明文
小公園のところに立っています。市内各所に「なめりかわ宿場回廊」の案内標や説明板が建てられています。
(5)わせの香や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)
7月14日越中那古の浦(射水市新湊)で詠んだとして「数しらぬ川を渡り終えて」の前書きがついています。越中に入ってから、黒部川をはじめとする多くの川を渡ってきた感慨とともに、早稲の稲穂をかき分けながら富山湾の海を右手に見て詠み、高岡に向かいました。(この写真は滑川の海岸です)
(6)滑川・櫟原神社の芭蕉句碑「しばらくは 花の上なる 月夜かな」
滑川の俳人4人が安政2年(1855年)に建立したものです。奥の細道とは関係ありません。碑の文字は金沢の俳人が書きました。
(7)櫟原神社の芭蕉句碑の説明文
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前日は親不知の難所を越えて市振宿で泊り「一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月」と詠んでいます。
翌日は高岡に泊まり、その翌日金沢に着きました。高岡でもやはり猛暑だったようです。
(1)芭蕉滑川で一泊(碑)
「芭蕉翁宿泊のまち」の記念碑
(2)曽良の日記(碑)
その記念碑の横に曽良の日記の一文「元禄二年七月一三日申の下刻滑川に着、宿暑気甚し」が記されています。しかし、現代ほどの猛暑ではなかったでしょう。
(3)(奥の細道の)小公園
元の川瀬屋の跡かもしれません。先の記念碑などが建っています。
(4)「奥の細道」関連の説明文
小公園のところに立っています。市内各所に「なめりかわ宿場回廊」の案内標や説明板が建てられています。
(5)わせの香や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)
7月14日越中那古の浦(射水市新湊)で詠んだとして「数しらぬ川を渡り終えて」の前書きがついています。越中に入ってから、黒部川をはじめとする多くの川を渡ってきた感慨とともに、早稲の稲穂をかき分けながら富山湾の海を右手に見て詠み、高岡に向かいました。(この写真は滑川の海岸です)
(6)滑川・櫟原神社の芭蕉句碑「しばらくは 花の上なる 月夜かな」
滑川の俳人4人が安政2年(1855年)に建立したものです。奥の細道とは関係ありません。碑の文字は金沢の俳人が書きました。
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