碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

北海道は燃えているか

2008年08月31日 | 本・新聞・雑誌・活字

雷雲の中、旧式のエレベーターに乗ったような不規則なアップダウンを繰り返しながら、飛行機が高度を下げていく。って、冒険小説じゃないけど、結構どきどき感のある羽田上空だった。

昨夜、最終のひとつ前の便で、北海道から戻った。

日中は、札幌ドームで「HTB北海道テレビ開局40周年記念企画」の生イベント&生放送を見に行った。

広いグランドには、一般のお客さんがたくさんいる。番組ブースもある。記念グッズの店もある。

そして、大泉洋さんたち「チーム・ナックス」が”挑戦”する数々のアトラクション。彼ら5人が、サッカーのゴールキックをしたり、綱引きをしたり。周囲で見物する観客も、目の前の”北海道産”の人気者たちに大喜びだった。

おお、これはもう、放送局の「周年イベント」というより、チーム・ナックスの「ファン大感謝祭」みたいではないか(笑)。チーム・ナックスの、チーム・ナックスによる、チーム・ナックスのための催しに見えるぞ。

チーム・ナックスが所属する「オフィス・キュー」は、北海道においては、ジャニーズ事務所と吉本興業を合わせたような力を持っている。そのことが垣間見られた札幌ドーム、いや、すごいもんでした。

個人的に面白かったのは、ヒロ福地さんと北川久仁子さんがMCを担当していた「この40年を振り返る」コーナー。60年代から70年代、80年代と順番に登場する当時の映像と、そのころの出演者たちの写真が、それぞれ現在との比較もあって、見ていて飽きない。

それと、道内の高校のOB・OGが、3人一組となってクイズに挑戦する企画もよかった。「高校生ウルトラクイズ」のシニア版みたいなものだ。かつての秀才高校生も、やんちゃ高校生も、等しく40代、50代となって、自分の顔に自分の人生が現れている。彼らの顔を眺めているだけでも十分楽しめた。

ヒロさんたちの中継現場から「イチオシ!」のブースに移動。スタッフと雑談していたら、ちょうどカメラがやってきたので、そのままチョイ生出演となった。HTBの荻谷社長もTシャツ姿で現れ、ご挨拶。

スタッフの皆さんにとっては、そんなに長くない準備期間で、普段の番組作りもしながらの大仕事。とにかく、相当な人数の参加者があって、よかった、よかった。おつかれさまでした。

HTBの40周年関連としては、『水曜どうでしょう』の藤村ディレクターが初めて演出したというドラマ『歓喜の歌』(9月7日放送)が楽しみだ。

地方局で、ドキュメンタリーやバラエティを自社制作することも大変なのだが、ドラマとなるともっと大変。それをやってのけたわけで、それだけでも拍手だ。前評判もいいらしい。乞う、ご期待だ。

その後、私はドームから札幌駅方面へ。

FMノースウエーブで、特番の「ステーション・”トラベル”・サタデー」に生出演。海外への旅をテーマに8時間の放送という、こちらも大胆な企画である。

お題が「大人の旅」ということだったので、これまでに行ったいくつかの海外の街の話をさせていただいた。話しながら、一番好きなのはチェコのプラハなんだよなあ、とあらためて思った。迷宮の街、いつかまた行ってみたい。

終わって、千歳空港へと向かう。例によって、ラジオのプロデューサー氏が愛車・シトロエンで送ってくださった。高速を走りながら、車内での雑談が楽しい。

そして、定刻より少し遅れて出発した飛行機は、冒頭の雷雲を突き破っての羽田着。今回も、かなり密度の濃い2泊3日だった。

鈴井貴之編集長 大泉洋
OFFICE CUE Presents
新潮社

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クイック・ジャパン (Vol.52)

太田出版

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飛び石だけど全部足したら10時間テレビ

2008年08月30日 | テレビ・ラジオ・メディア
引き続き、札幌に滞在中。

UHB北海道文化放送「のりゆきのトークDE北海道」、HTB北海道テレビ「イチオシ!」の生出演も無事終わった。

「トーク」は、31日(日)に行われる北海道マラソンにちなんで、そのコースの沿道にある<味の店>を紹介するという企画。マラソンと美味。こういう柔軟な発想が楽しい。

「イチオシ!」では、<隠れ家的お店>の特集。森の中にある手打ちそばの店などが登場した。店もそうだが、店主がどんな人なのかを、ちゃんと見せている。第二の人生とか、リタイア組とかだが、「こんなことやりたいなあ」と思って見ている団塊世代も多いだろう。しかし、あくまでも成功例だからね。その裏には死屍累々があることも忘れずに。


夜は行きつけの串揚げ屋さんで、親しい演出家さんと夕飯。あれやこれやの話で盛り上がるが、気がつくとテレビの話に回帰しているのが面白い。

深夜、ホテルに戻ってテレビをONに。

すると、夕方まで自分が座っていたHTB「イチオシ!」のスタジオセットに、大泉洋さんたちが座っていて、びっくり。

真夜中なのに、「水曜どうでしょう」のコンビである大泉さん&鈴井さんをはじめとするTEAM-NACS(チーム・ナックス)のメンバーが勢ぞろいして、何やら大笑いしている。「イチオシ!」の司会者・ヒロさんもいる。司会進行役は小野優子アナだ。

実はこれ、HTB開局40周年記念企画「全部たしたら10時間 ユメミル広場に大集合」の一環だった。30日(土)に、あの「札幌ドーム」を借り切って、巨大なスタジオとして使い、早朝から夕方まで延々と生放送をするらしい。

ところが、ネットワーク(系列)というものがある。つまり、HTBが自分のところで作った番組だけを、ずっと流しているわけにいかないのだ。キー局(テレビ朝日)や準キー局(大阪の朝日放送)から送られてくる「全国放送」の番組も入れ込まなくてはならない。

そのため、ぶっ続けで「開局記念特番」を放送するのではなく、いわば飛び石状態になっている。その放送時間の合計が10時間。タイトルの「全部たしたら(=足したら)10時間」は、そういう意味なのだ。

案の定、午前1時半になったら、「朝まで生テレビ」が始まってしまった。いや、私も「朝生」はよく見るし、今回のテーマ「皇室」にも興味はある。ただ、言ってみれば40年に1度の「40周年特番」なんだから、17時間でも、24時間でも、HTBが好きなだけ生放送を続けるのを見てみたかった。

まあ、それにしても、チーム・ナックスの人気は大変なものだ。この3月まで6年間、北海道に住んでみて、実感した。たぶん、ずっと北海道にいなければ、大泉さんたちの道内における「ポジション」がどんなものか、本当のところは分からなかったと思う。

極端にいえば、彼らチーム・ナックスが所属する「オフィス・キュー」という事務所のタレントさん抜きに、北海道のテレビ各局の「自社制作番組」は成立しないのではないか。それくらい、どの局の番組にもオフィス・キュー銘柄の出演者が登場する。

大泉さんは、ドラマや映画でわかる通り、いわゆる「全国区の人」になっている。安田顕さんだって、今や「NHK朝ドラの人」だ。でも、北海道が拠点であることを変えないし、地元の番組でもまったく変わらない元気な(ハチャメチャな)姿を見せている。それがまたファンの支持を集めるのだ。

今日30日は、私も札幌ドームに行く予定。一体どんな趣向で、長時間の生放送を行うのか、現場で見てみたい。朝から行ってみるつもりだ。

そして、夕方からはFMノースウエーブへ移動。17時40分ころから、「なんてったって大人塾リターンズ」の生放送がある。


さて、寝る前の一冊だが、小川隆夫さんの新著『証言で綴るジャズの24の真実』(プリズム)である。ペーパーバックみたいな軟らかい紙質で軽い。上を向いて寝たまま読むのに最適だ。

ジャズの歴史はミュージシャンの歴史でもある。この本は、そのミュージシャンや関係者が自らの思いを語る証言集なのだ。

ディジー・ガレスピー、オーネット・コールマン、ソニー・ロリンズなど、ジャズ界の大物たちが24人。彼らの音楽観からプライベートまでを、ご本人から引き出しているのが、小川さんという一人の日本人であることに驚く。


「証言」を読みながら、ふとテレビに目をやると、西尾幹二さんや猪瀬直樹さんたちによる”東京発”の激論が、まだ続いている・・・。

証言で綴る ジャズの24の真実(プリズム・ペーパーバックス 001)
小川 隆夫
プリズム(PRHYTHM)

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札幌で見る昭和30年代の夢

2008年08月29日 | 本・新聞・雑誌・活字

札幌に来ている。

お天気は、曇ったり小雨が降ったり。そして、この時期の北海道にしては珍しく湿気があるようだ。

札幌の放送関係の人たちと居酒屋で夕食。これがまた、何を注文しても美味くて、実に困る。

あと何時間かすると、UHB北海道放送「のりゆきのトークDE北海道」での生出演が始まってしまう。

とはいえ、さっさと寝ることはできないので、ビジネスホテルのシングルに腹ばって、岡崎武志さんの新著『昭和三十年代の匂い』(学研新書)を読んでいる。

ライターにして書評家でもある岡崎さんには『読書の腕前』などの著作がある。古本関係でも面白い著書が多い。

この本は、タイトル通り昭和30年代をテーマにしたエッセイ集だが、日本全体が「貧乏だった時代」であることを踏まえた回想であり、ブームに乗ったノスタルジーとは一線を画すものだ。

戦後の名残を見せていた「戦記マンガ」。テレビの登場。初めての「シングル盤」。路面を行く「トロリーバス」。そして当たり前のように「汲み取り便所」のある風景。

すべてに岡崎さんの体感があり、現在とのつながりも見えてくる。

谷崎潤一郎から泉麻人さんまで、当時を浮き彫りにする書籍からの巧みな引用も、狂書家の岡崎さんならではだ。

昭和30年代は、まんま自分の少年時代にあたる。読了後、一気に眠れば、懐かしい風景が夢に出てくるかもしれない。札幌で見る故郷・信州の景色も悪くない。

昭和三十年代の匂い (学研新書 30)
岡崎 武志
学習研究社

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蟹工船の次に帰港するのは、どんな船だろう

2008年08月28日 | 本・新聞・雑誌・活字

今年前半の読書界の話題の一つに、小林多喜二『蟹工船』の”復活”がある。

これについては、ニートやワーキングプアの存在が背景にあることなどが、あちこちで論じられている。まあ、そうかもしれないが、現代文学では出会えない、ある”骨太なリアル”がそこにあるからではないか、と思っている。

それは、たとえば、作家(小林多喜二)自身が、官憲の拷問によって虐殺されたという事実だったりして。

そんなことを思うのは、『蟹工船』が大売れしたからといって、「プロレタリア文学」全体にブームが来た、というわけでもないからだ。

でも、もしそうなったら、とても面白い。それに、「プロレタリア文学」の次は何だろう。よもや「白樺派」? 小林多喜二の後に武者小路実篤とか。いや、ひとっ飛びに「戦後大衆小説」っていうのはどうだ・・・。


「本の雑誌」に、創刊から関わっている文芸評論家・菊池仁さんの新著『ぼくらの時代には貸本屋があった~戦後大衆小説考』(新人物往来社)が出た。

かつて貸本屋という“町内の図書館”が戦後文化を下支えしていた時代がある。この本は、菊池さんが貸本屋を通じて親しんできた「大衆小説」に新たなスポットを当てた意欲的評論集だ。

昭和19年生まれの菊池さんが、近所の貸本屋「一二三堂」に、頻繁に出入りし始めたのは小学校5年生の頃。以来、高校を卒業するまで、家との往復が続く。

これがちょうど昭和30年代と重なっており、第1章で当時の店と本、店と客、つまり貸本屋の光景が描かれる。

そして、第2章からが大衆小説の巨匠たちに関する作家論、作品論だ。五味康祐、村上元三、松本清張などが並ぶが、菊池さんの思い入れが強いのは柴田錬三郎、富田常雄、井上靖の3人だ。

柴田錬三郎が生み出した眠狂四郎を「自らの血に戦後思想の否定を宿しつつ、戦後を生きねばならなかった」男として見つめ、富田常雄が書いた『月よりの使者』などの通俗恋愛小説や、井上靖の『あした来る人』を始めとする長編恋愛小説がいかに魅力的かを語っていく。

また、時代小説のヒーロー像を虚無的、求道型、明朗闊達と3タイプに分け、彼らが戦前・戦後を通じていかに継承され、また変貌していくかを分析しているのも興味深い。未読の人への格好の指南書である。

この本をきっかけに「戦後大衆小説」の復権、なーんてことを夢想した。

ぼくらの時代には貸本屋があった―戦後大衆小説考
菊池 仁
新人物往来社

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蟹工船・党生活者 (新潮文庫)
小林 多喜二
新潮社

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閑話休題(お話変わって)。

今日、札幌へと飛ぶ。明日、29日(金)・30日(土)の番組出演のためだ。

29日(金)
午前中が、北海道文化放送「のりゆきのトークDE北海道」。
午後は、北海道テレビの「イチオシ!」。

それぞれの番組で、ゲスト・コメンテーターを務めさせていただく。

30日(土)17時40分ころ~
FMノースウエーブ「なんてったって大人塾リターンズ」

こちらも生放送。

北海道方面の皆さま、よかったらご覧ください。また、お聴きください。

晩夏にサザンを聴きながら

2008年08月27日 | 舞台・音楽・アート
クルマで走りながらラジオを聴いていたら、あちこちの局でサザンが流れる。そうか、ラストライブが終わったんだっけ、と思いあたった。

サザンオールスターズが、あの「勝手にシンドバッド」でデビューしたのが1978年。つまり30年前だと聞くと、はやり驚く。

正直言って、最初に彼らをテレビで見たときは、てっきりコミックバンドの一発屋だと思った。すみません。

いいことも悪いこともあったこの国の30年は、そりゃ「ろくでもない社会」と言う人もいるだろうが、いつもサザンの曲が流れる中で暮らせたことはラッキーだったかも、と思う。

サザンはいくつもの面を持つ、多面体のようなバンドだ。サザンの曲には、ロックも、ポップスも、バラードもある。ずいぶん幅広い。しかも、どのジャンルでも、あるレベル以上。だから、聴く人が、自分史の中で、そのときどきの自分の状態や好みや波長に合ったものを楽しむことができたのだ。

以前、『ジョン・レノンを聴け!』『ディランを聴け!!』といったタイトルで、「全曲批評」というトンデモナイ本を書いてきた中山康樹さんが、昨年2月に『クワタを聴け!』を出した。

新書なのに厚さ2センチ。普通の新書の2倍から2.5倍はある。少なくとも昨年2月までのものに関しては、サザン、クワタバンド、ソロ、そしてシングルのB面まで、とにかく桑田佳祐の楽曲のすべて、1曲1曲について批評しているのだ。これはすごい。

桑田の魅力について、中山さんはこんなふうに書いている。

   「50年代に生を受け、
    アメリカ化していくニッポンで育ち、
    さらに音楽的には
    イギリスがそのアメリカもニッポンも飲み込み・・・
    といった時代的音楽的混沌と融合が凝縮されている」

確かに、サザン・桑田の曲には、不思議な懐かしさがある。それは、和と洋、過去と現在、さまざまな音楽が桑田の中でギュッと圧縮され、壮大なビッグバンを起こしたようなものかもしれない。

ラジオで、パーソナリティーが「好きなサザンの曲をリクエストしてください」みたいなことを言っていたっけ。サザン30周年を祝い、また解散を記念して、自分も<好きな曲>を発表順に選んでみる。

   「いとしのエリー」 1979.4 10ナンバーズ・からっと
   「私はピアノ」   1980.3 タイニイ・バブルス
   「夏をあきらめて」 1982.7 NUDE MAN
   「鎌倉物語」    1985.9 KAMAKURA
   「Melody(メロディ)」     同
   「いつか何処かで(I feel the echo)」
               1988.7 Keisuke Kuwata
   「希望の轍」    1990.9 稲村ジェーン
   「真夏の果実」        同

うーん、どれもいい曲だよなあ。サザンに、桑田さんに、感謝です。

クワタを聴け! (集英社新書 380F)
中山 康樹
集英社

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現実の出来事とノンフィクションとドラマ

2008年08月26日 | テレビ・ラジオ・メディア
昨夜、日本テレビ創立55周年記念のスペシャルドラマ『霧の火~樺太・真岡に散った9人の乙女たち』が放送された。

実際にあった事件に基づいたドラマだ。その事件とは・・・

日本が戦争に敗れた昭和20年8月15日から、すでに5日が過ぎた8月20日。それまで日本の領土だった樺太の、真岡という町にあった郵便局で、9人の女性電話交換手が自決したのだ。青酸カリだった。

樺太を望む稚内の記念碑には、「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」という、亡くなった交換手の最後の交信の言葉が刻まれている。

敗戦直後、ソ連軍の上陸という混乱の中で起きた、若い女性たち(17~24歳)の集団自決。なぜ、彼女たちは死ななくてはならなかったのか?

この事件については、ノンフィクション作家・川嶋康男さんによって書かれた『永訣の朝~樺太に散った九人の逓信乙女』(河出文庫)がある。

川嶋さんは「このとき、真岡郵便局で何があったのか」を掘り起こし、「何が彼女たちを死に追いやったのか」を追求している。

実は、川嶋さんの本のずっと以前に、真岡郵便局の局長(生き残ったのだ)が書いた「手記」が存在し、”当事者”が語る「事実」として広く流布していた。

ところが、この「手記」に対して、さまざまな疑問を抱き、真相を探るべく書かれたのが『永訣の朝』なのだ。

この本では、「8月20日の朝、局長は、なぜソ連上陸前に、郵便局に戻っていなかったのか」、また「最高責任者として、なぜ真っ先に駆けつけなかったのか」という、この事件のポイントでもある、大きな謎に迫っている。

なぜなら、川嶋さんの取材・調査では、「早い時間に局長が局内に復帰し、職員の身の安全を最優先に陣頭指揮を執っていたなら、電話交換室の集団自決は食い止められたかもしれない」という仮説が成り立つからだ。

また、局長は、手記の中で「残留命令」は出していない、としている。あくまでも、女性電話交換手たちが、自ら進んで(「血書嘆願」まで出して)残ったというのだ。これも川嶋さんによれば、元交換手の誰も、「血書嘆願」などの行為を認めていないという。

さらに、「彼女たちが飲んだ青酸カリを誰が渡したのか」についても諸説あって、はっきりしていないそうだ。


ドラマのほうは、「生き残った女性交換手」を主人公にすえて、物語を構成していた。確かに、生き残った人も複数いたのだ。

とはいえ、この事件は実際にあったものであり、関わったのは実在の人たちだ。亡くなった人たちの名前も、生き残った人たちの名前も、すべて明らかになっている。ドラマにとって都合のいい「人物設定」「人物造形」をしてしまっていいのか、という違和感はあった。

それに、責任者である、問題の郵便局長の行動が、ドラマでは、はっきり描かれていない。わざとぼかしたのかどうか、それは分からないが。

もう一つ、真っ先に青酸カリを飲んでしまい、結果的には、他の交換手たちの「連続自決」を誘発してしまった女性リーダーの心理も、見えないままだった。ドラマであるからこそ、描けたのではなかったか。

エンドロールを見ていたら、この本『永訣の朝』は「参考文献」扱いであり、「原作」ではなかった。ノンフィクションを参考にして作った、オリジナルのフィクション、という形だ。

そして、ドラマの終わりに、以下のようなテロップが表示された。

 「このドラマは
  1945年の終戦直後に樺太で起きた
  真岡郵便局の電話交換手集団自決事件を
  題材にしたフィクションです」

まあ、その通りかもしれない。しかし、視聴者に対しては、当然のことながら、ドラマの中のどこまでが事実であり、どこからがフィクションなのかは明かされないのだ。

実際の事件を描くといわれていた視聴者側は、「ドラマではあるが、ノンフィクションに近いもの」として見てしまっただろう。ここでは、テロップ一枚が「アリバイ」となっている。このテロップさえ出しておけば、すべてOKなのだろうか。

そんなこんなで、かなり、もやもやしながら見終わった。現実の出来事と、そのドラマ化。後日、あらためて整理してみたい。

永訣の朝~樺太に散った九人の逓信乙女 (河出文庫 か 16-1)
川嶋 康男
河出書房新社

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僕らには言葉が、有効な言葉が必要だ

2008年08月25日 | 本・新聞・雑誌・活字

最近は、映画監督が、自らの新作の公開に合わせるように本を出すことが多い。

現在なら、『崖の上のポニョ』の宮崎駿監督が『折り返し点~1997ー2008』(岩波書店)、同じく『ポニョ』の鈴木敏夫プロデューサーが『仕事道楽』(岩波新書)、そして『スカイ・クロラ』の押井守監督は『凡人として生きるということ』(幻冬舎新書)である。

この押井さんの新著は、オヤジ論、自由論、勝敗論、コミュニケーション論、オタク論、格差論といった章立てを見ても分かるように、映画本ではない。映画を仕事として生きている一人の男が語る人生論集である。

押井さんは、自分の中で確信がもてる言葉だけを書いているように思う。だから、言っていることが明快だ。

   ○若さに値打ちなどないからこそ、
    人生は生きるに値するものなのだ。

   ○オヤジかどうかは(・・)内面の問題ということだ。
    そして、それは自由に生きる、というただそれだけのことだ。

   ○自由とは「生き方の幅」と、とらえ直してもいいかもしれない。

   ○「常に勝つこと」ではなく、「負けないこと」を狙う

   ○天才の身でない我々は、情熱を持ち続けることしか、
    この世を渡っていく術がないのだ。

監督制作者として、自分と宮崎駿監督との違いを述べたところも面白い。

   ○宮さんは青春を賛歌する作品を作り、
    僕は青春の苦味を描こうとしている。

   ○若者の姿に限って言えば、宮さんは建前に準じた映画を作り、
    僕は本質に準じて映画を作ろうとしているという、映画監督
    としての姿勢の差異だけだ。

この本の終わりのほうで、押井さんは書いている。

   ○今必要とされているのは(・・・)このろくでもない
    社会全体を言い当てる鋭い評論なのだ。

   ○僕らには言葉が必要だ。有効な言葉が必要なのである。

映像で語るためにも、言葉がいかに大切なものであるかを、よく分かっている人の言葉だ。

押井さんが「そこには何かしらの問題提起を込めたつもりだ」という新作『スカイ・クロラ』も、近々見に行こうと思う。

凡人として生きるということ (幻冬舎新書 (お-5-1))
押井 守
幻冬舎

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折り返し点―1997~2008
宮崎 駿
岩波書店

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笑っちゃうほど過激な日常

2008年08月24日 | 本・新聞・雑誌・活字

中場利一さんの小説は面白いが、エッセイはもっと面白い。なんて言ったら、中場さんに叱られるかもしれない。しかし、本当なのだ。

最新エッセイ集『ほたら、一丁。』(本の雑誌社)も、電車の中で読み出して、つい「むふふふ・・・」と笑ってしまった。いや、笑っていたらしい。

隣に座っていた乗客が、ぎょっとして私を見た。たぶん、「大いに怪しいやつ」とでも思ったのだろう。

というのは、私の「むふふふ・・・」を聞いた直後、次の駅でそそくさと下車し、ホームをさっと移動すると、隣の車両に飛び乗ったのだ。つまり、私から逃げたのだ。

最近は、路上やら、駅やら、なんでもない場所で、とんでもない事件が起きる。世間では、怪しいやつ、危なそうな人間からは、とりあえず離れておくほうが無難、どころか最良の自衛策、ということになっている。

私は別に怪しくもなく、危険でもない人物だが、黄色いアロハシャツにサングラスの坊主頭が、電車の中で「むふふふ・・・」と笑っていたから、その乗客も「こりゃいかん」と避難したに違いない。困った世の中である。

私をそんな目に合わせた『ほたら、一丁。』には、以下のような話がざくざくのテンコ盛りだ。

「オレ、ロシアとの混血やねん」と出鱈目な名前を名乗り、いつもの調子で若い女の子(正確には「二十一歳ボイン」と書いてある)を口説いていた中場さん。その娘は、昔つき合っていたカノジョにどこか似ていた。

やがて、相手の女の子も偽名を使っていたことがわかる。本名は秋山奈々子。家は堺。

そういえば、カノジョだった女性の苗字も秋山、名は靖子。住まいは堺だった。別れた後、婿養子を得たことも知っている。中場さんが、この「21歳ボイン」に母親の名前を訊くと、明るく答えた。「え? お母さん? お母さんはヤスコ」。って、元カノの娘じゃん!

他にも、「ばばっちい青のゴムホース色」の中古車(外車だ)を60万円で買ったらその修理代に280万円かかってしまったとか、ダイエットベルトを腹に巻こうとしたら短か過ぎて(ウエストが大き過ぎて)無理だったとか、腹筋台で運動してやせようとしたのに体重が耐用重量をオーバーしていて使えなかったとか、もう「むふふふ・・・」な話ばっかり。

バリバリの武闘派作家が綴る、笑っちゃうほど過激な日常的エッセイ集である。

ほたら、一丁。
中場 利一
本の雑誌社

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映画と青春は相性がいいのだろうか

2008年08月23日 | 映画・ビデオ・映像
原稿の仕事を終えて、急ぎ映画館へ。クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』である。

主演は、これがバットマン2本目となるクリスチャン・ベールだ。敵役のジョーカーを演じたヒース・レジャーが急死したことも話題となった。

見終わっての読後感?は・・・うーん、暗い。

かなりシンドイ内容。何しろバットマンが悩んでいる。なぜなら、悪を倒しているはずのバットマン自身が、「無法者」と呼ばれてしまうのだ。それじゃあ、本人は辛い。

「正義の暴力」と「悪の暴力」のボーダーはどこにあるのか。ゴッサムシティでは、バットマンとジョーカーは、まるでコインの裏表のような存在となってしまう。

とはいえ、見せ場はふんだんにある。フェラーリの装甲車版みたいなバットモービルや、巨大タイヤに跨ったような特殊バイクのバットポッドで疾走するシーンなどだ。これは唸るくらいの迫力。爆破もビッグサイズだ。

そして、戦闘シーンのスピード感、緊張感が強ければ強いほど、一人になったときのバットマンの孤独も深いように見えた。

一方、見ていてホッとするのが、豪華な脇役の面々だ。渋い執事役にマイケル・ケイン。バットマンを機材関係でサポートしてくれるのがモーガン・フリーマン。信頼できる刑事、ゲーリー・オールドマン。みんな、いい雰囲気の役者ばかりで、「バットマン」という架空世界を厚みのあるものにしている。

悩むバットマン。精神的に苦しむヒーロー。まだまだ次回作もあるはずだが、どうなっていくんだろう。だが、こういうヒーロー映画もあっていい。


映画評論家・品田雄吉さんの新刊『シネマの記憶から~名優・名監督と映画評論家の五十年』(角川マガジンズ)が出た。

1930年生まれ。映画評論界の長老が回想する映画と人生だ。1939年製作の『風と共に去りぬ』から、スピルバーグ監督の『宇宙戦争』まで、52本の名作や傑作が語られる。

品田さんの、時系列による選定作品は、以下のようなものだ。

1)1939年~
 『風と共に去りぬ』『カサブランカ』『誰が為に鐘は鳴る』など

2)1951年~
 『禁じられた遊び』『生きる』『雨に唄えば』『ローマの休日』など

3)1961年~
 『ウエスト・サイド物語』『ティファニーで朝食を』『大脱走』など

4)1970年~
 『ある愛の詩』『家族』『ゴッドファーザー』『惑星ソラリス』など

5)1980年~
 『E.T.』『ターミネーター』『プラトーン』『ダイ・ハード』など

6)1990年~
 『ホーム・アローン』『ゴースト/ニューヨークの幻』『ミザリー』など

この本に登場する52本を確認すると、封切館と名画座を併せて、全部、映画館で見てあった。ちょっと嬉しい。

さらに、品田さんは、個人的な「洋画邦画 史上ベスト・テン」を選んでいるが、そのラインナップは「青春時代に見て感動した作品が多い」そうだ。

続けて「映画と青春は相性がいいのだろうか」と書かれているが、うん、そうかもしれない。私もそうだが、青春時代にハマッた映画は、ずっと忘れない。そして、その作品は、意識するかどうかはともかく、どこかで価値観や生き方にまで影響を与えているような気がするのだ。

シネマの記憶から―名優・名監督と映画評論家の五十年
品田 雄吉
角川マガジンズ

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局地的な雷と豪雨の中で

2008年08月22日 | 本・新聞・雑誌・活字

昨日の夕方、キャンパスからの帰り道。まだ空全体に、ほのかに明るさが残るのに、一方の山側には真っ黒な雲。おお、っと思う間に閃光。雷鳴。続いて雨だ。電車に乗ったときには豪雨になった。これがニュースでいう「局地的な雷と豪雨」なのだろうか。まあ、凄まじいこと。

しかし、車内では、読みかけの小説があと少しでラストというところであり、これに集中した。翔田寛さんの『誘拐児』(講談社)だ。さすが今期の<乱歩賞受賞作>、雷雨に負けないインパクトがある。

物語は、昭和21年から始まる。誘拐事件が発生するのだ。わずか5歳の男の子がさらわれ、犯人は100万円を要求。学生アルバイトの日当が30円の時代だから、大金といえる。

身代金の受け渡し場所は、まだ敗戦の混乱が残る有楽町駅前の闇市だ。万全の体勢でこれに臨んだ警察側。ところが、人ごみの中で犯人に金を奪われ、取逃がしてしまう。子どもは、結局、戻ってこなかった。そして15年後が過ぎた。

昭和36年、ある女性が惨殺される事件が起きる。いくつかの手がかりはあるものの、捜査は難渋。しかも面白いのは、事件の解明に挑んでいたのは刑事たちだけではなかったことだ。

やがて、思いもしなかった形で、かつての誘拐事件が再浮上してくる・・・。

「新人離れした」とは、よくいわれる言葉だが、地に足のついた、堂々のストーリーテリング。選考委員の大沢在昌氏、東野圭吾氏が推しているが、その資格は十分にある。

昭和30年代半ばの雰囲気を、懐かしさと共に味わいつつ、謎解きに加えての人間ドラマを堪能した。

ちなみに、「誘拐児」という言葉、私はあまり聞きなれなかったが、「誘拐犯」に対して、「誘拐された児童」を指す。って、当たり前か。でも、重要な意味を持つタイトルなのだ。

誘拐児
翔田 寛
講談社

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北京五輪では、ソフトボールチームが金メダル。おめでとう。よく頑張りました。でも、ソフトボールって、次のロンドン五輪からは消えてしまうそうだ。

というか、五輪の競技が無くなったり、増えたりすること自体に、「ふ~ん、そうなんだあ」と、恥ずかしながら、びっくりした。

子役の問題は、すべての子どもの問題もである

2008年08月21日 | 本・新聞・雑誌・活字

2001年に、『マリオスクール』(テレビ東京で放送)という番組をプロデュースしていた。

司会が渡辺徹さんとこずえ鈴チャン。毎回、マリオバディ(バディは相棒の意味)と名づけた複数の子どもたちが、ゲームをしたり(任天堂の一社提供だった)、様々な挑戦(カトリーヌあやこサンにイラストを習ったり)をしたりするのだ。私の狙いとしては、テレビの中に<架空の学校>を作ってみようと思ったのだ。

この番組を開始する際、マリオバディとして出演する子どもたちを、オーディションで選んだ。対象は、小学校高学年から中学生までの男女。集まった子どもたちの中には、すでに「子役」としてドラマやCMで見たことのある顔もあったし、これが「子役」としての初オーディションという子もいた。できるだけ”新人”を選んだ。

彼らは、収録を重ねるごとに、本当のクラスメートのような、仲間のような雰囲気になっていき、最後の頃は立派なユニットとして画面の中で生き生きと動いていた。そう、彼らは番組を通じて「プロ」になっていったのだ。

ちなみに、この時のマリオバディの一人が、今は声優として人気者となった平野綾さんである。元気な笑顔の13歳だった「アヤちゃん」も、今は20歳だもんなあ。


かつての「天才子役」たちと、かつての「天才子役」が対談するという、ちょっと変わった本が出た。中山千夏さんの『ぼくらが子役だったとき』(金曜日)だ。

ただし、年齢的に、私は千夏さんの子役時代の舞台もドラマも見ていない。私にとって最初の<ちなっちゃん>は、あの「ひょっこりひょうたん島」(NHK)の天才少年・ハカセの声だ。ハカセ、懐かしいねえ。

その後は、突然、70年代。学生時代の愛読誌の一つ「話の特集」で”再会”する。それから、「話の特集」が母体みたいな政治団体「革新自由連合」の活動が始まり、千夏さんは革自連の闘士(?)といった感じ。80年には参議院議員になっちゃった。現在は著述家であり、市民運動家でもある。

さて、対談集『ぼくらが子役だったとき』。

ここには、14人の元「子役」が登場する。松島トモ子・小林綾子・長門裕之・浜田光夫・四方晴美・柳家花緑・小林幸子・和泉雅子・水谷豊・風間杜夫・矢田稔・弘田三枝子・和泉淳子・梅沢富美男。豪華メンバーだ。

私自身は、これまた年代的に、その子役時代を見ていない人も多い。リアルタイムで子役として知っているのは、四方晴美、水谷豊、小林綾子あたりだろうか。だが、直接その子役姿を見ていない人たちの話も面白い。

特に、「オトナばかりの中で働く、(普通の)子どもらしからぬコドモ」という共通点はあるものの、彼らがオトナをどう見ていて、自分というコドモをどう感じていたかという点は、意外や結構ばらばらだった、というところだ。

千夏さんによれば、子役とは「オトナ社会を子どもが生きる体験」である。この対談集で語られていることのいくつかは、「実年齢よりも幼い」と毎年言われてしまう新社会人や新人君が、会社や社会で”体験”していることにも通じるような気がする。ふーむ、新人君は子役か!?

そうそう、千夏さんは以前、『子役の時間』(文藝春秋)という作品で直木賞候補になった。1980年ころのことだ。

ぼくらが子役だったとき
中山 千夏
金曜日

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年輪は時にふてぶてしくなるが、うまく重ねれば魅力になる

2008年08月20日 | 本・新聞・雑誌・活字

今期のドラマの中で、比較的見ている1本が『四つの嘘』(テレビ朝日)だ。

女子高時代の同級生4人。20年が過ぎたとき、その中の一人が事故死してしまう。その結果、残った3人の現在の「内実」が明らかになっていく。主婦、離婚した者、バリバリ仕事系と、その立場は異なるが、それぞれが見えないところで「魔」を抱えていた・・・。

この原作者が内館牧子さんで、まあ、だから見てみたのかもしれない。内館ワールドが、どれくらいドラマになっているのか、という興味だ。もちろん原作そのままではないが、特に永作博美の怪演、いや快演を見るだけでも価値がある。


さて、そんな内館さんの新作長編小説が『エイジハラスメント』(幻冬舎)だ。

うーん、ストレートなタイトル。

「そういうこと」があったとしても、これまで適当なネーミングがなかったから、きちんと取り扱われなかったが、たとえば「セクハラ」と名づけられ、規定されると、「あれも、これも、そうだよね」というふうに一挙に”顕在化”し、存在感を増すことがある。

エイジハラスメントも、その一つで、別に21世紀になって登場した「そういうこと」でも何でもない。それこそ、イニシエより続いていることかもしれない。

本の帯には「日本の男はなぜ若い女ばかりが好きなのか? 」「女は年をとったら価値がないのか!? 」と、男なら誰もが決して「はいそうです」などとは答えない問いかけが書かれていて、ぎくっとする。

主人公は34歳の女性、蜜(みつ)サン。2歳年上の夫は、仕事も家庭も「ちゃんとしてる」いい人だし、6歳の娘もいい子だ。パートに出ているが、経済的にひどく困っているわけじゃない。

でも、このパート先で、蜜は「エイハラ」(この略でいいかどうか)を受ける。当然、怒る。でも、耐える。しかし、悔しい。結局は仕事を辞める。それに、ギャル系女子大生である夫の妹からも、これは同性からのエイハラ攻撃だ。これにもキレそうになる。

さらにさらに、夫婦間の重大事件までもが発生し、蜜は「自分の人生とは?」「一体、自分って何?」の無間地獄、奈落に落ちていくのだ。って、ホラーじゃないから。

いや、実はこの小説、相当怖い。男が読むと、一層怖い。たとえば、蜜は思う。

   しかし、男たちはまず「中身」より「外見」なのだ。
   「中身」は見えるまで時間がかかる。

まあ、そういう面も確かにあるわけで・・・。

一方、年齢について「こんなふうに考えてみたら」と内館さんは伝えたいようだ。

   若いというだけで美しいように、若いというだけで非力なのだ。
   年輪は時にふてぶてしくなるが、うまく重ねれば確かに魅力になる。

さすが練達の内館さん。男と女、もちろん年齢だけが問題ではないが、あなどれない問題であることは確かだ。で、最終的な読後感は悪くないです。

エイジハラスメント
内館 牧子
幻冬舎

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四つの嘘 (幻冬舎文庫 お 20-3)
大石 静
幻冬舎

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美はただ乱調にある。諧調は偽りである

2008年08月19日 | 本・新聞・雑誌・活字

いい本を読み終わったときの、心地よい余韻というか、虚脱感にも似た疲労感は、本の内容そのものが与えてくれる喜びとはまた別の、うれしいオマケのような気がする。

ついさっき、齋藤愼爾さんの新著『寂聴伝~良夜玲瓏』(白水社)を読了した。

今年86歳になる瀬戸内寂聴(晴美)さんの、これまでの軌跡をたどった本格評伝である。400ページ超す長編であり、小説のようにストーリーに「おんぶにだっこ」で身をゆだねて、というものではないので、じっくりと時間をかけて読んできた。

まだ、まとまった感想にならず、断片的な言葉しか浮かばない。それは読了直後というだけでなく、やはり瀬戸内寂聴(晴美)という作家の実人生に圧倒されたからだろう。

自分は、瀬戸内作品の熱心な読者とはいえない。だが、それでも、大杉栄と共に関東大震災直後に殺された伊藤野枝を描いた『美は乱調にあり』などの伝記小説や、『夏の終わり』など自伝的作品群の双方を、それなりに読んでいる。

しかし、この評伝によって、あらためて、作家・瀬戸内寂聴(晴美)の「凄み(魅力と言い換えてもいい)」を知ったような気がするのだ。

たとえば、「夫と幼い娘を捨てて家を出て、文学と恋愛へと走った」というような、一般的に流布されている瀬戸内さんの過去。その内実を知ることもなく、単に卑俗的な、スキャンダラスな図式の中に、勝手に落とし込んで分かったような気でいた部分が、この本を読むことで、いくつも払拭された。

冒頭で、齋藤さんは書く。「寂聴をひとことでいえば<逸脱する作家>ということになろう」と。「逸脱」・・・もう、この言葉だけで、この長編を読み進めようと決意した。

政治学科の学生だった私は、「日本政治史」の授業の中で、幸徳秋水や大杉栄などを知る。さらに、そこから菅野須賀子や伊藤野枝を知った。彼らの著作や、彼らについて書かれた文献を読んでいったが、最も熱心に読んだのが瀬戸内さんの小説『遠い声』であり、『美は乱調にあり』だったのだ。特に大杉栄の言葉が強く印象に残った。

   「美はただ乱調にある。諧調は偽りである」

そこには、近い過去に生きた、なまなましい男や女がいた。彼らは、皆、どこか「過剰の人」だった。いや、「逸脱の人々」だった。そこに魅力があった。

この『寂聴伝』を通読して打たれるのは、過去も、そして現在でさえも、瀬戸内さん自身が「逸脱の人」であリ続けていること。出家して35年を経てもなお、「僧にあらず俗にあらず」を体現しているのだ。

それから、本文中に登場するこの言葉も忘れられない。

   「世間を裁判官としない」

伊藤野枝の夫だった辻潤をめぐる記述で出てくるが、瀬戸内さんをも見事に表現していると思う。

優れた伝記作家でもある人物の「伝記」を書くことが、どれほど大変なことか。それは想像するしかないが、齋藤さんは見事にそれを達成されたのだ。共感と尊敬の念に流されず、対象を直視する姿勢にも感心した。

寂聴伝―良夜玲瓏
齋藤 愼爾
白水社

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カンフー・ダンクとスラムダンク

2008年08月18日 | 映画・ビデオ・映像
昨日は涼しかった。25度であれだけ涼しい。

夏休みなのに、連日朝から学校に行き、普段と変わらずバスケットの練習をしている我が家の中学生によれば、「涼しかったから外周を走るのが楽だった」とのこと。外周とはキャンパスを周回するアップダウンのある1キロの道で、これを、日々何本も走っているらしいのだ。

そんな、現在「バスケ命」みたいな息子の練習帰りを待って、シネコンへ。二人で映画『カンフー・ダンク!』を見た。

『少林サッカー』以来、このテの「少林寺・カンフー×スポーツ」物は結構見ているのだが、ついにバスケだ。バスケも多少はキテいるのか、今、『俺たちダンクシューター』なんてのも上映されている。

『カンフー・ダンク!』というタイトルから、フツーの人が、フツーに想像する内容と、実際に見た内容は、ほぼ同じだと思う。カンフーでダンクシュート。そのままじゃん、って、いや、悪くはないんだ。それなりに楽しめます。

主演のジェイ・チョウ君は、いわゆる二枚目系とは違うけど、魅力ある青年だし。映画の中では、作家の平野啓一郎さんのデビュー当時の顔に、ちょっと似てたりして。『少林サッカー』の俳優陣も何人か参加。バスケコートで暴れてくれる。

しかしながら、見終わって館内から出てきたとき、息子が言ったのは「あ~、面白かったねえ。でも、な~んにも残んないねえ(笑)」だった。私も同感。

ワイヤーアクションによって、雑技団的プレイ、曲芸的シュートを見せてくれるのだが、ゴールに向かってジャンプして、空中でボールを股くぐり(?)させたり、腰のまわりを一周させたりしてからダンク!なんてのが、映画の中で「見せ場」として出てくる。「でも、アメリカのプロ選手たちは、普通にやっちゃってるんだよ、ワイヤー無しで」と息子。

えーと、たぶん、バスケっていうスポーツが、サッカーなどに比べて狭いコートが舞台であること、それと、競技に関する細かいルールがいっぱいあって、『少林サッカー』みたいに自由奔放な演出がしづらいのだと思う。もっと面白くできそうなんだけどなあ・・・。


そういえば、元々、息子は中学生になったらテニス部に入るつもりだった。小学校時代から続けてきたので当然だと思っていたようだ。ところが、入部申請直前に、井上雄彦さんの漫画『スラムダンク』に出会ってしまう。で、感動。で、バスケ部。まったく単純な男なのだ。

その『スラムダンク』だが、当時、息子を追うようにして読んでみたら、まあ、面白いこと。桜木花道はもちろん、赤木も、三井も、流川も、チームのみんなが、それぞれに個性的で、愛すべき奴等だし、試合場面の迫力、緊張感、そしてユーモアがたまらない。

『カンフー・ダンク!』から帰ってきて、さっそく本棚の『スラムダンク』を取り出してしまった。これ、読み出すと、途中で止まらなくなり、全巻読み返すことになるので、要注意だ。

ジェイ・チョウ in 「カンフー・ダンク!」 OFFICIAL BOOK

角川SSコミュニケーションズ

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スラムダンク (1) (ジャンプ・コミックス)
井上 雄彦
集英社

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テールランプが消えるまで

2008年08月17日 | クルマ
数日前に「帰省ラッシュによる高速道路の渋滞」のニュースを見たと思ったら、もう「**トンネル付近渋滞50キロ」といった帰京ラッシュのニュースだ。おつかれさまです。

渋滞にもガソリン値上げにも負けず、勇躍クルマで繰り出したからには、「(子ども連れなどで)クルマじゃないと困る」という人や、「何しろクルマが便利だから」という人だったりすると思う。でも、中には「どうしてもクルマが好きで・・」という人もいるんじゃないだろうか。

私もクルマは好きだ。同時にクルマ雑誌も好きだ。

一番長く読んでいるのは『NAVI』(二玄社)。そして、『NAVI』の編集長だった鈴木正文さんが会社を移って始めた『ENGINE』(新潮社)。この2冊の月刊誌に、隔週刊の『ベストカー(BC)』(三推社)が加わる。

『NAVI』『ENGINE』が主に扱うのが外車系だとすれば、『BC』は国産車系だ。先の2誌が豪華な紙質と美しいグラビア、さらに時計や衣服などの”男のアイテム”まで扱うオシャレでハイセンス(死語?)な雑誌だとすれば、『BC』は巻頭からラストまでクルマ関連の記事で埋められたベタなクルマ雑誌であり、その体裁も思いっきり泥臭い。

だが、この泥臭さこそが『BC』の魅力なのだ。

毎号毎号、よくぞ探してくるなあと感心するのが、「スクープ」連打の新車情報。発売されるかどうかも分からぬクルマについても、メーカー側より熟知しているのではないかと思うくらいの詳細を伝えてくれる。手を変え品を変えの「ベスト&ワースト企画」なども面白い。

今、最もお気に入りのページは、テリー伊藤さんの「お笑い自動車研究所」だ。いつも、真っ先にこの連載を読む。とにかく実際に乗りまくり、好き勝手に評価するその文章が楽しい。「この発想は貧乏くさい、のではないか?」などとバッサリやるし、一方で「私は、これを買う」と有言実行したりするのだ。

愛好連載ページの二番目は「デザイン水かけ論」。自動車評論家の前澤義雄さんと清水章一さんの「掛け合い漫才」、じゃなくて「掛け合いカーデザイン談義」だ。毎回、一台のクルマを俎上に乗せ、互いに譲ることもなく、自ら下した評価を語り合う。かみ合っているような、まったくそうじゃないような雰囲気が可笑しい。

何より「横丁の小言じいさん」みたいなキャラの前澤さんが最高。元日産のデザイナーである前澤さんが「要求された寸法を満たしてクルマのカタチを作りましたというだけで、デザインとしてまったくこなしていないんだ」なーんて平気で言っちゃうのだ。ちなみに、御大をしてこう言わしめたのは、スバルエクシーガである。担当したデザイナー本人が読んだら泣きそうだけど、カーデザインについては、このページでずいぶん学ばせていただいた。

そして、愛好ページの三番目。投稿欄「みんなの駐車場」だ。それぞれに自分のこだわりや愛着をもってクルマと暮らしていることがよく分かる。「嫌われグルマ」の順位をめぐっての反論が載ったりして、ほんと、いろんなクルマ好きがいるんだなあ、としみじみ思う。

といった具合で、隔週で発売される『BC』は、机の上、ソファ、ベッド、トイレ、最後に風呂場と、読まれる場所を移動しながら、2週間、きっちり私を楽しませてくれる。

そんな『BC』の30周年記念の別冊が出た。『別冊BC ベストカークロニクル』である。サイズはそのままで800ページというボリューム。

往年の名企画を再録というか、当時のまま印刷されていて、中には、84年の「五木寛之のヨーロッパ迷走3000キロ」なんて特集もある。しかも、カペラとファミリアで走るのだ。す、すごい。

この『ベストカークロニクル』、国産車30年の歴史書といってもいい。1200円は超格安。

別BC ベストカークロニクル (別冊ベストカー)

講談社

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