碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

「私の生き方そのものが作品だ」とマンガ家は言った

2008年09月30日 | 本・新聞・雑誌・活字
版画による強烈な色合いの表紙。3.7センチと分厚いが、中身もかなり熱い。

『私 まるごとエッセイ』(交遊社)は、『まんだら屋の良太』で知られるマンガ家・畑中純さんの初エッセイ集である。

伊藤整から高倉健まで、マンガは「手書きの総合作業」だという畑中さんが影響を受けた物語、評論、映像などがジグソーパズルのようにはめ込まれている。

中でも、伊藤整が出てきたことには、ちょっと驚いた。そして、嬉しかった。私が今、正面からその門を叩こうと思っているのが(ちゃんと読んでみようってことだけどね)伊藤整なのだ。

畑中さんは、自分はマンガ家に向いていないのでは、と自分を疑い始めたとき、伊藤整の文章に助けられたという。

   「伊藤氏から最大に教わったことは、
    創作に絶対の約束などなく、
    どんな人にもその人に合ったスタイルが必ずある、
    といったようなものだった」

その結果(ってわけじゃないが)、この本の「あとがき」にはこんな一節が・・・。
   
   「私の生き方そのものが作品だ、
    と言ってしまえば鼻じろむ人が多い事も、
    反発を招くことも知っています」

畑中さんの「私」へのこだわりが、この温度の高い文章を生み出しているのは明らかだ。

私―まるごとエッセイ
畑中 純
文遊社

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  <「テレビメディアの現在」文庫展のお知らせ>

図書館が特定のテーマで新たに収集した書籍を、すべて閲覧できる展示会を開催しています。

今回は、<テレビの現在を知る>をテーマに、私が約420冊の選定をさせていただきました。

本学の学生や教員だけでなく、市民の皆さんにも見ていただくことが可能です。

ぜひ、東京工科大学図書館へ足をお運びください。


   専門書籍で探る最新メディアの世界 
       「テレビメディアの現在」文庫展


  期間 : 2008年9月29日(月)~10月17日(金)
       8:45~19:50(土曜 9:00~16:50)

  会場 : 東京工科大学図書館(図書館棟4階)

  主催 : 東京工科大学メディアセンター(図書館)

  連絡先 : (TEL) 042 - 637 - 2033 / (E-mail) library@so.teu.ac.jp

  協力 : メディア学部教授 碓井広義

  「テレビメディアの現在」文庫展 WEBサイト:
               http://www.teu.ac.jp/lib/event/tvmedia/
                 (展示図書リストなども閲覧できます)



投じられた、かなり大きな”一石”

2008年09月29日 | 本・新聞・雑誌・活字
西尾幹二さんの新著『皇太子さまへの御忠言』(ワック)を読んだ。

雑誌「Will」5月号に掲載された時、とても話題となった「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」(本書では改題されて「敢えて御忠言申し上げます」)をはじめとする、「雅子妃問題」「皇室問題」に関する評論集だ。

雅子妃の現状(病状含む)と、皇統の将来、つまり後継問題をめぐる様々な言説を検討(論破含む)しながら、持論を展開している。

軸となっているのは、皇室という「異質な界域」に、「平等」や「人権」といった近代理念を持ち込むことに対する、西尾さんの強い憂慮だ。

まず、今回もまた(っていうのもヘンだけど)、「何ものをも恐れぬ」という感じのテーマと内容に驚く。何しろ、相当きついことを、明確におっしゃっているのだ。

  「今回の件は学歴能力主義と高級官僚の家系が「反近代」の
   天皇家とクロスしたがゆえに起こった例外的な災厄」

  「天皇家の人々は天皇制度という船の乗客であって、
   船主ではないと私は言った。
   船酔いをして乗っていられない個人は
   下船していただく以外にないだろう」

  「私が一番恐れているのは、皇室の内部に異種の思想が根づき、
   増殖し、外から取り除くことができなくなる事態である」

いやあ、その見方・考え方への賛否はともかく、やはり西尾さんでなければ言えないし、書けない内容だ。

天皇制度に関する議論に、かなり大きな”一石”を投じる問題作である。

皇太子さまへの御忠言
西尾 幹二
ワック

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「御忠言」とは関係ないけど、忘れないように、書いておこう。

9月26日に、ポール・ニューマンが亡くなっていた。83歳だった。好きな俳優の一人だった。

映画館で、リアルタイムで観てきた作品は・・・

『明日に向かって撃て』69年
『スティング』73年
『タワーリング・インフェルノ』74年
『スラップショット』77年
『アパッチ砦ブロンクス』81年
『スクープ・悪意の不在』81年
『評決』82年
『ハスラー2』86年
『ロード・トゥ・パーディション』02年

感謝しつつ、合掌。

「アーティストになるな、アルチザン(職人)になれ」と手塚治虫は言った

2008年09月28日 | 本・新聞・雑誌・活字

ある人物の生涯を描いた伝記、評伝。その面白さは、誰について、誰が書いたかによって決まる。

学術的にも評価の高いミネルヴァ書房の日本評伝選の新刊は、竹内オサムさん『手塚治虫~アーティストになるな』。

評論家であり、研究者でもある竹内さんが、国民的マンガ家の実像に迫った野心作である。


戦後のマンガ史や、アニメ史において、手塚治虫が果たした大きな役割や、その作品の高い価値に異論を唱える者はいないだろう。

しかし、竹内さんは、近年の傾向である手塚の「神格化」に強い危惧を抱く。

そこで、実人生の歩みと、創作の過程を丹念な調査でたどり、徐々に真の姿を浮かび上がらせた。

たとえば、初期の手塚は芸術性への志向が強く、作品の底には陰鬱な感情が渦巻いていた。だが、それでは人気マンカ家にはなれない。大衆性が必要だ。手塚はジレンマに悩み、矛盾に苦しみながら、“変質”を遂げていく。

「マスコミのなかで苦悩した芸術家」だったということだ。

また、創作のヒントが、意外と身近に存在する場合が多い、という指摘も興味深い。

手塚が映画から学んだ映像技法は山ほどあるが、それだけじゃない。代表作「鉄腕アトム」と横井福次郎のマンガ「ロボット・ペリー君」の類似性は驚くほどなのだ。

こうした先行イメージの本歌取りから、社会の流行や読者の反応への機敏な対応まで、いわば”見えざる努力”の数々が明かされていく。

それから、手塚の、自身を大きく見せたいという願望や、回想や言葉に垣間見られる「演出癖」のことも、この本で新たに知った。

あれやこれやの「きわめて現実的な生き方の実践」も踏まえ、竹内さんがたどり着いた見解は「妥協する天才」。

周囲からはどんな風に見えようと(見せようと)、「物語作りの才能には抜群のものを持っていたが、その生涯は苦悩の連続」だったようだ。

もちろん、そんな苦悩もまた、手塚作品の中に何らかの形で吸収・昇華されて、現在も生き続けているわけだが、うーん、何かを創造していくのは、いかに大変なことか。

「アーティストになるな、アルチザン(職人)になれ」という後進への助言(名言!)は、手塚の苦い実感だったのだ。

手塚治虫―アーチストになるな (ミネルヴァ日本評伝選)
竹内 オサム
ミネルヴァ書房

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秋風秋雨ニモマケズ、秋へと向かう方法

2008年09月27日 | 本・新聞・雑誌・活字

キャンパスを歩いていると、あちこちで学生たちが地べた(もちろん土じゃないけど)にしゃがんで何かやっている。

のぞいてみると、大きな紙に絵や文字を描いている。学園祭の看板やポスターだ。コンサートやサークルの催しだったりするのだろう。へえ、今年の学園祭の呼び物は「FLOW」なの?

学生の巧みな筆遣いに感心しながら、「そうか、もうすぐ秋祭(あきさい)かあ」。

そういえば、昨日の風も、昨夜の雨も、完全に秋のものだった。秋になっちまったのだ。同時に「今年の夏も終わったんだなあ」と思う。

夏の間にやっておこうと考えていた、あれも、これも、出来なかったなあ、などと、夏休みの宿題を残したまま始業式を迎えてしまう小学生のような、くら~い気分になった。

関係ないけど(いや、あるのか?)、ふと、映画の『さらば夏の日』というタイトルを思い出す。70年公開のフランス映画だ。

毎年、夏の終わりには思い出す。地中海。ひと夏の出来事・・・。主演のルノー・ヴェルレーって、今、どうしてるんだろう?

『風立ちぬ』ってのも、見事なタイトルだ。

「サナトリウム」という言葉を初めて知った。これも秋風が吹き始めると、毎年思い出す。

ただ、困ったのは、ある時期から、堀辰雄の小説のストーリーよりも、高原の風景よりも、真っ先に、松田聖子の歌声のほうが頭に浮かぶようになってしまったことだ。我ながら情けない。作詞家・松本隆さんの罪は重いぞ。

しかし、秋のタイトル(?)で一番凄いと思うのは、何てったって『秋風秋雨 人を愁殺す~秋瑾女士伝』(68年刊)だ。

清朝末期に実在した女性革命家で、詩人でもある秋瑾(しゅうきん)の生涯を描いた、武田泰淳の伝記小説。

「秋風秋雨 人を愁殺す」は31歳で処刑された秋瑾の遺句である。愁殺はたまらんよなあ。

とはいえ、秋風に吹かれて憂鬱になってばかりもいられない。元気を出すべく読み出したのが、岡崎武志さんの新刊『雑談王~岡崎武志バラエティ・ブック』(晶文社)だ。

まさにバラエティ・ブック。岡崎さんが「俺は古本だけじゃないぞお」とばかりに、音楽や、映画や、落語などなどをテーマに書いてきた文章を、まとめたものだ。

いいなあ、こういうの。「岡崎さん、嬉しいだろうなあ」と思って読んでいたら、やはり「あとがき」に、植草甚一さんの名前や植草さんの本『ワンダー・植草・甚一・ランド』のことが出てきた。

そうなのだ。我々70年代の若造たちにとって、植草さんの、それも晶文社から出ていたバラエティ・ブック形式の本は特別な意味をもつのだ。

ここでいうバラエティ・ブックとは、これまた「あとがき」に出てくる坪内祐三さんの言葉を拝借すれば、「一段二段三四段入り混ざった組み方の中に、コラムやエッセイ、評論などが渾然一体となって収められている雑文集」である。

だから、この『雑談王』で読めるのは、小津映画の話だったり、「伊豆の踊り子」や「自由学校」のことだったり、坪内さんや角田光代さんとの対談だったりする。その中でも、小津映画に関する考察など特に面白かった。

本のサイズや、例の組み方も含め、立派な「晶文社のバラエティ・ブック」だ。

あちこちジャンプしながら読んでいるうちに、秋風秋雨に立ち向かうチカラが湧いてきた。

雑談王―岡崎武志バラエティ・ブック
岡崎 武志
晶文社

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テレビは日本人を「バカ」にしたか?と聞かれたら・・・

2008年09月26日 | テレビ・ラジオ・メディア
大学図書館で、「テレビメディアの現在」をテーマに書籍を購入し、いくつかのジャンル別に並べて、小さな展示会(図書展みたいなもの)が開かれる。その<本選び>を担当した。最終的に、その数、約420冊。

あらためて、テレビをめぐる様々な書物があることを再認識した。以前読んだ本が多いが、ぱらぱらとページをめくっているだけで、あっという間に時間が過ぎる。

たとえば、北村充史:著『テレビは日本人を「バカ」にしたか? 大宅壮一と「一億総白痴化」の時代』(平凡社新書)。

大宅壮一の名はもちろん、「一億総白痴化」がテレビを指す流行語だったことを知る人も減ってきたようだ。「大宅文庫」の存在さえ、知らない学生が多い。

しかし、テレビ誕生から間もない半世紀も前に、この“文化的怪獣”の本質を見抜いた大宅はさすがだった。
 
著者の北村さんは、この流行語が成立していく過程を検証すると共に、テレビ幼年期の世相を見事に再現している。

当時、すでに娯楽番組の「低俗化批判」や「テレビ悪影響論」が出ていたが、それもテレビ産業の肥大化の中でなし崩しになっていく様子がよく分かる。

そして今、テレビでは「ニュース・報道番組」さえも娯楽化・芸能化が進んでいる。特に、最近の「NHKニュース」の”軟度”が気になるんだよなあ。この本の意義もそこにあると思うのだ。

テレビは日本人を「バカ」にしたか?―大宅壮一と「一億総白痴化」の時代 (平凡社新書 362)
北村 充史
平凡社

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「CM不況で民放苦戦」という記事をめぐって

2008年09月25日 | テレビ・ラジオ・メディア
23日の朝日新聞に「CM不況で民放苦戦」という記事が載っていた。

キー局の、4月~6月のスポットCMが9~15%のダウン。営業利益は、テレビ東京以外の局が27~67%の大幅ダウン。売上高もTBS以外は全部マイナスだという。

これは別に目新しい話ではない。企業のテレビCM出稿は、かなり前から減少に転じている。ただ、「キー局全部が横並びで」というところが非常事態っぽいということだろう。

広告に関していえば、テレビはずっと王様だった。同じ情報を、同時に、全国に、しかも多くの人に伝える能力で、長い間、テレビに勝るメディアはなかったからだ。

しかし、ケータイやネットなど、新たなメディアの台頭で、メディアの勢力地図は大きく変わってきた。

また、テレビ局は、あまりに長きにわたって<我が世の春>を謳歌してきた。ずっと<一人勝ち>、いや<楽勝>だった。これほどテレビ局にとって”おいしい”ビジネスモデルはなかったからだ。(要は、儲け過ぎてきたのです)

ネット時代の到来といわれようと、「まだまだイケる」「すぐにはヘタらない」とタカをくくってきた。そんな意識の表出が、現在放送されている、視聴者を完全にアホ扱いしたような、惨憺たる内容のバラエティだったりする。

しかし、さすがにやり過ぎた。視聴者だって、少しずつ進化するのだ。成長するのだ。見ているだけで、時間の浪費どころか、脳が退化していくような「お笑い」系。あまりに薄っぺらな内容・ストーリーが、学芸会レベルで演じられる「ドラマ」もどき。

そういった番組群から、徐々に視聴者が離れ始めた。視聴者にとっての「メディア優先順位」の中で、テレビのポジションが急速に低下していったのだ。

当然、全体の視聴率は下がる。それが下がれば、「広告媒体」としての価値も低下する。企業は「費用対効果」を考え、出稿を控える。だから「CM不況で民放苦戦」。当たり前といえば当たり前の話だ。

では、その結果、テレビ局はどうするか? 入る金が減れば、出る金を抑える。それが「制作費の削減」である。テレビ朝日が20億円、日本テレビは40億円という規模で「削減」する予定だ。(ああ、また制作会社が苦しむんだなあ)

その結果、どうなるか。番組の「質の低下」が起きる。これは明らかだ。質が低下すれば、また視聴者が離れる。離れれば、視聴率が下がる。それを見て、更にスポンサー企業が逃げる・・・といった具合で、どんどん状況は悪くなる。いわば「負のスパイラル」に陥るわけだ。

ここで、先日、このブログにも書いた樋口尚文さんの『「月光仮面」を創った男たち』 (平凡社新書)を思い出す。

あの本の中で語られていた、昭和33年、映画とテレビ、2つのメディアの栄華と衰退が交差する話だ。著者の樋口さんは、いみじくも、序文にあたるところで、次のように書いている。

「未知なるメディアが生まれ出ずる時の人びとの反応や行動のありようは、テレビメディアとインターネットメディアが拮抗する二十一世紀にも敷衍できるものだろう」

もしかしたら、いや、かなりの確率で、現在、私たちは、後の時代の人びとから「巨大メディアのターニングポイント」と呼ばれることになる状況を、ナマで”体験”しているといえるのだ。そう、あの「月光仮面」が放送され始めた昭和33年のように。

謎と美しさと静けさに満ちた、小説のみが生み出せる世界

2008年09月24日 | 本・新聞・雑誌・活字

以前、恩田睦さんの『いのちのパレード』(実業之日本社)を読んだときの、迷宮に入り込んだような、不思議な感覚が忘れられない。

恐らく、恩田さんが目指したのは「無国籍で不思議な」短編集だったはずだ。

生物の進化を一気に体感する表題作をはじめ、ファンタジーやSFからホラーまで多彩なジャンルの物語が並んでいた。いかに奇妙で想像力あふれる作品を生み出すかという実験であり、読む側もまた試されているような気がした。

そして、新刊『きのうの世界』(講談社)である。

これがまた、尋常ではない。小説の多様な要素、というか、恩田さんの多様な小説世界を一冊に凝縮したような野心作であり、問題作なのだ。

物語は、「もしもあなたが水無月橋を見に行きたいと思うのならば、M駅を出てすぐ、いったんそこで立ち止まることをお薦めする」という書き出しで始まる。

この二人称の「あなた」とは一体誰なのか? もちろん簡単には明かされない。しかし、読む者は、いつの間にか、この「あなた」に同化し、物語の中に入り込んでしまう。実に巧みだ。

一人の男が突然失踪する。誰もが、すぐに顔を思い出せないような、目立たない、ごく普通の会社員だった男。そして1年後、都会から遠く離れた<塔と水路の町>で、そこにある「水無月橋」という名の橋で、彼は他殺体となって発見される。なぜ、誰に殺されたのか?

舞台となる<塔と水路の町>が変わっている。いや、どこか秘密めいているのだ。男の失踪、殺害と、この町の関係は?

さらに、もう一人、この町を訪れ、男と事件のことを探ろうとする女性が登場する。彼女は誰であり、その目的は何なのか?

いくつもの謎を抱えたまま、町の住人にからんだ、いくつものエピソードが展開される。しかし、読み進めても、なかなか真相は見えてこない。

それにしても、ここで描かれる<塔と水路の町>が魅力的だ。町の中を縦横に走る水路。そびえ立つ奇妙な2本の塔。今は崩壊している1本の塔。町全体が、閉じられた空間、一種の密室であり、物語に陰影や湿り気を与えている。まるで、もう一人の主人公だ。

この作品は、ミステリーであり、ファンタジーであり、伝奇小説とも読める。いや、ジャンルでくくろうとするのは意味がない。深い謎と妖しい美しさと静けさに満ちた、小説のみが生み出せる世界が、ここにあるだけだ。

きのうの世界
恩田 陸
講談社

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「月光仮面」が誕生してから、ちょうど50年

2008年09月23日 | 本・新聞・雑誌・活字

映画批評家・樋口尚文さんの新著『「月光仮面」を創った男たち』 (平凡社新書)が、すこぶる面白い。

まだラジオ東京テレビという社名だったTBSが、『月光仮面』の放送を開始したのは昭和33年。ちょうど50年前。まさに映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の頃だ。

我が家にテレビが来たばかりの私も夢中になった。当時はまだ幼児だったが、全国の子どもたちと同様、すぐに風呂敷をマントにして「月光仮面ごっこ」をしたし、主題歌は今も歌える。それほどのヒット番組だったのだ。

また、放送史の中では<国産テレビ映画>の先駆けとして位置づけられてきた。空前のヒット作にして歴史的番組ということで、オーバーに言えば「メディアの新興勢力であるテレビ界が総力を挙げて制作した」というくらいのイメージを持っていた。

しかし、この本を読むと、まったく逆だったことが分かる。樋口さんの文章を引用すれば「これ以下はないほどの過酷な製作条件のもと、さまざまな蔑視や偏見にまみれながら、当時の無名の若者たちによって辛うじてつくり出されていた作品」なのだ。

もう一つ、注目すべきポイントは、昭和33年というタイミングだ。日本映画が史上最高の観客動員数を記録し、その一方で、東京タワーが完成し、送信を始めた年。

昭和33年は、いわば新旧2つのメディアの栄華と衰退の分岐点であり、「きわめて象徴的な映像作品」として登場したのが『月光仮面』だったのだ。

この時代、町の映画館には、まだ毎週毎週、新作映画がかかっていた。しかし、すでに企画はマンネリ化しており、テレビの急成長と反比例するように客足は遠のいていく。

樋口さんは、まず、こうした当時の時代背景、映画やテレビなどメディアの状況から語りだす。その後で、この番組を「創った男たち」にスポットを当てるのだ。すると、『月光仮面』の誕生が、偶然と必然の両方に支えられていたことが理解できる。

この「創った男たち」列伝が、”小説より奇なり”的なエピソードに満ちている。

製作者である宣弘社の小林利雄。原作者の川内康範。プロデューサーの西村俊一。監督の船床定男。そして主演俳優、大瀬康一。いずれも一筋縄ではいかない男たちである。

中でも、原作者である川内さんの生家が日蓮宗のお寺で、「月光仮面」の原点は月光菩薩だったという話はケッサクだ。薬師如来の脇に仕えて、「善人にも悪人にも平等にふりそそぐ月光のごとく」相手を改心させようとする月光菩薩・・・。

また、当時はまだ監督経験のなかった船床が、監督として抜擢され、徐々にその”職人的”手腕を発揮していく様子も興味深い。ただし、無理がたたって、40歳で亡くなってしまったのは残念だった。

予算に関する話も、きっちり出てくるところも、この本の良さだ。何しろ、1本15万円というのは、当時としても超低予算。本当に安い。これで作れたのは、映画界でなかなか日の目を見なかった若者たちが、ここを自分たちの「戦場」として奮闘したからなのだ。

「無名戦士たちの情熱と、メディアの変遷史における本作の意義はあまりにも大きい」という巻末の言葉もうなづける。

「月光仮面」を創った男たち (平凡社新書 435)
樋口 尚文
平凡社

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さらば!『波瀾万丈』、『ブロキャス』、そして『ウルルン』

2008年09月22日 | テレビ・ラジオ・メディア
昨日(21日)、いつものように日本テレビ『いつみても波瀾万丈』を見てみたら、来週の最終回に向けての「総集編」だった。

放送開始が92年3月だから、足掛け16年の長寿番組だ。初代の司会者は逸見政孝さんだったが、翌93年にガンの宣告を受け、番組を降板。闘病生活を経て、その年の12月に亡くなった。

逸見さんとは特番の約束があったため、あの記者会見に来るよう事務所から連絡があった。まさか「私はガンです」という言葉を聞く会見になるとは、思ってもみなかった。一緒にやるはずだった仕事について、逸見さんは「私も残念です。ごめんなさいね」とおっしゃっていたのが忘れられない。

そんな思い出のある『いつみても波瀾万丈』も、ついに終わってしまう。日曜の午前中、家にいる限りは、ほとんど見ていた番組であり、一人の視聴者として寂しい。

その前夜、20日(土)の夜には、TBS『ブロードキャスター』が最終回を迎えていた。

福留さんとのお付き合いも長いが、歴代のスタッフには知り合いも複数いて、スタジオに行ったこともあるし、親近感のある番組だ。やはり、土曜の夜、あの時間帯に自宅にいる場合は、チャンネルを合わせていた。

こちらの放送開始は91年4月。実に17年間続いたことになる。どんな番組も簡単に打ち切られたり、消えたりするこの世界で、よくぞ頑張ったと思う。

そうそう、先週の日曜(14日)には、『世界ウルルン滞在記』も終了したのだった。これも長寿番組といっていい。13年の歴史がある。

ここ1、2年は、視聴率対策だったのか、スタジオの出演者が変わったり、タイトルが「世界ウルルン滞在記ルネサンス」や「ウルルン2008」になったりした。しかし、「タレントさんが海外でホームステイする」というコンセプトは変わらないまま、ずっとやってきた。

『いつみても波瀾万丈』、『ブロードキャスター』、そして『世界ウルルン滞在記』。マンネリといわば、言え。そのマンネリこそが貴重だったことが、無くなってみると、よく分かるはずだ。遅いけど。

これらの番組は、終了することなく、流され続けているいくつかの、いや、多くの番組と比較して、素直に「いい番組」「良心的番組」だと言える内容だった。

また、これも大事な点だが、「変わらないものが、そこにあること」の安心感と一種の癒しを、見る側に与えてくれていた。

終了するからには、終了させる側にとっての、終了させるだけの理由はあるはずだ。しかし、視聴率や制作費の問題を超えて、これらの番組が持っていた「価値」はあったと思う。それは各局にとっての価値だけでなく、テレビというメディアにとっても大切な価値だったのだ。

よく、お年寄りが嘆く。年をとることの寂しさは、親兄弟にはじまり、知人・友人など、自分が知っている人、自分を知っている人が、どんどん少なくなっていくことだ、と。

今年の秋は、それに似た寂しさを、テレビから感じる秋になったようだ。

3つの番組の関係者の皆さんに、「お疲れさまでした」と「ありがとう」を言いたい。

”奇天烈食道楽”氏いわく「基本は人の味に在り」

2008年09月21日 | 本・新聞・雑誌・活字

台風のせいもあるけれど、急に秋めいてきた。ついこの間まで深夜まで鳴いていたセミに変わって、もう秋の虫の声が響いている。

涼しくなると、食べたいものも何となく秋らしくなり、昨夜は鍋、それも「もつ鍋」を求めて、夜の街に出かけてしまった。

そこは初めて入った店だったが、「博多秘伝醤油味」という、国産黒毛牛の「もつ鍋」が抜群の美味さ。運がよかったみたい。


さて、本のほうも、食に関するものが読みたくなり、村松友視さんの新刊『奇天烈食道楽』(河出書房新社)を開く。

雑誌に連載していたものをまとめた本で、短い文章が並んでいるが、読めば箸を手にしたくなるような食べ物エッセイ集だ。

しかも、値段と敷居の高い店、威張り系高級料理、うんちく系珍味、自慢系海外グルメなどは一切登場しないところがお見事。68篇の“ご馳走”は、いずれも家庭や町なかで気軽に食べられるものばかりである。

村松さんは、タラコと明太子の境界線に迷い、カツカレーの出現で、カツライスかカレーか、選択の悩みが消えたと嘆く。

また、鮨ネタの序列について考察し、ゲソ、シャコ、平貝といった脇役陣の労をねぎらうことも忘れない。

幼い頃に父親を亡くした村松さんは、祖父である作家・村松梢風の元で育った。しかし、梢風は愛人の家で生活していたため、祖母との二人暮らしになる。だから、食に関する記憶も、そのまま祖母とへとつながっていく。

竹の皮に包まれた梅干の味。求肥糖(ぎゅうひとう)や追分羊かんなどの和菓子。そして缶詰への憧れなどだ。

また、一人前の男に似合う店も登場する。酒は「白鷹」以外みとめない“おとうさん”がやっている店。鍋の底で煮詰まったコンニャクのフライを出してくれるのは、故郷の静岡にある屋台店。

「基本は人の味に在り」と村松さんはいう。読後、つい、また夜の町に出たくなった。

奇天烈食道楽
村松 友視
河出書房新社

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雨のお台場で、映像の未来に触れた午後

2008年09月20日 | 本・新聞・雑誌・活字

昨日、お台場の日本科学未来館へ、ある映像作品を見に行った。

立教大学と日本科学未来館が共同制作した『かぐやの夢~月と日本人・二つの「かぐや」の物語』である。

二つの「かぐや」とは、月周回衛星「かぐや」と、千年前に生まれた『竹取物語』の「かぐや」を指す。衛星「かぐや」が送ってきた月面の映像と、立教大学が所蔵する『竹取物語絵巻』、そして勅使河原宏さんの指導によるダンスなどが融合され、これまでにないテイストの映像作品となっていた。

しかし、一番の特徴は、これが「超高精細4K映像システム」によって制作されていることだ。4Kとは、画像の解像度、すなわち、きめ細かさが、ハイビジョンテレビの4倍に相当するということ。「4Kによるストーリーをもった映像作品」としては世界初だそうだ。

ハイビジョン自体が、高画質を標榜しているが、確かに4Kはそれを大きく凌ぐ映像だった。

まず、特大の4Kプロジェクターが投射する巨大なスクリーン。タテ6m、ヨコ10mはある。これが800インチだ。科学館の大きなホールの壁面いっぱいに映し出される様子は、それだけでもかなり感動的。

海辺の風景もクリア、かつリアルで、目の前に海があるようだ。そして、超望遠レンズで撮られた月が、スクリーンの中央に浮かぶ。肉眼や普通の望遠鏡で見る月とは全く違う。手が届きそうな、という表現があるが、まさにそんな感じだ。

衛星「かぐや」にはハイビジョンカメラが搭載されており、その映像はNHKで放送されて、何度か見ていたが、その映像を4K、800インチで見ると、これまた「体験」の質が変わってくる。

ゆっくりと月面を移動する映像を眺めていると、自分が「かぐや」に乗船しているような錯覚に陥るのだ。画面の中に自分が入り込んでしまうような<アイマックス>の巨大映像が好きで、国内・国外で見てきたが、それに近い感覚だった。

フィルムとも、もちろん普通のビデオとも違う、新たな「映像体験」だ。

構成・演出は、立教大学現代心理学部教授の佐藤一彦さん。佐藤さんは、私にとって、テレビの世界での先輩であり、修行時代には直接多くのことを教えてもらった方だ。以前から、演出はもちろんだが、技術的なことについても造詣が深い。

これまで、デジタルシネマというと、慶大などが先行していたが、佐藤さんを擁した立教が、いきなり最前線に躍り出てきた感じだ。

「2010年代になると、この4K映像システムが、映画館はもちろん、公共ホールや学校、病院などに整備され、劇映画の上映だけでなく、スポーツ中継や音楽ライブ、遠隔医療などに利用されると考えられている」と佐藤さん。これは大変なことなのだ。

上映会終了後は、館内にある、大好きなミュージアムショップへと向かった。

ここで、高校時代の同級生で、写真家の遠藤湖舟くんの作品が、ポストカードとして売られているのを発見。その天体写真はNASA関連サイトでも絶賛されている。いわば世界的なのだ。写真集『宇宙からの贈りもの』(講談社)にも収録されている、月や星の写真のポストカード6枚セットを購入した。

もう一点、どうしても欲しくなって、HONDAのロボット、アシモのフィギュアも買ってしまった。ちょいうれし。

雨のお台場で、映像の未来に触れた午後だった。

遠藤湖舟写真集 宇宙からの贈りもの
遠藤 湖舟
講談社

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月の科学―「かぐや」が拓く月探査
青木 満
ベレ出版

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今年度のベストミステリーに入ってきそうな予感

2008年09月19日 | 本・新聞・雑誌・活字

すごい小説が出てきたものだ。

柳 広司さんの『ジョーカー・ゲーム』(角川グループパブリッシング)。

太平洋戦争開戦前夜、陸軍スパイ養成学校「D機関」の”卒業生”たちが暗躍する物語である。

実在した陸軍中野学校がモデルかと思うが、このD機関を設立し、学生(といっても大人だ)を指導する結城中佐の存在感が強烈だ。戦闘能力はもちろん、スパイとしての優れた頭脳と判断力、冷徹な目の持ち主である。

結城の口癖は、「スパイとは、見えない存在なのだ」。「スパイは疑われた時点で終わりだ」。そして「決して死ぬな。殺すな」。

卒業生たちは、結城から、一見困難と思える命令を受ける。彼らが、敵に覚られることなく、痕跡も残さず、完璧に任務を達成していくプロセスは、実にクールでスリリングだ。

5本の短編が収められているが、いずれもスタイリッシュな仕上がりで、ひとつの長編スパイ小説を読んだような充実感がある。

今年度のベストミステリーに入ってきそうな予感さえする一冊だ。

ジョーカー・ゲーム
柳 広司
角川グループパブリッシング

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ギャラクシー受賞報道活動を見て、制作者と語る会

2008年09月18日 | テレビ・ラジオ・メディア
前々から、ぜひやりたいと思っていたイベントが実現することになった。

公開シンポジウム「ギャラクシー受賞報道活動を見て、制作者と語る会」だ。

2008年のギャラクシー賞「報道活動部門」受賞作を上映し、これを鑑賞すると共に、受賞作に携わった方々から、それぞれの報道活動に関する体験談をうかがう。

それによって、テレビにおける報道活動の現状と課題を明らかにしていこうというものだ。

「報道活動部門」受賞作は、それぞれ優れた取り組みであるにも関わらず、全国各地で放送されたものであるため、その地域でしか視聴できない。

こうして全作品が一挙に上映され、その関係者が一堂に集い、話し合うことは、大きな意義を持つと思う。


  公開シンポジウム
  「ギャラクシー受賞報道活動を見て、制作者と語る会」

 
  ◆日時 2008年11月29日(土)13時~17時(開場12時30分)

  ◆場所 東京工科大学八王子キャンパス・メディアホール 

  ◆主催 放送批評懇談会ギャラクシー賞報道活動委員会
       東京工科大学メディア学部

  ◆入場無料(定員450名) 

  ◆パネリスト
   山谷 博、寺内達郎、大池雅光、辻本昌平 
   (日本テレビとTBSは交渉中。以上、受賞放送局)

   麻生千晶、上滝徹也、坂本 衛、田原茂行、堀木卓也ほか
   (一部調整中。以上、放送批評懇談会)

  ◆コーディネーター 碓井広義
              (放送批評懇談会/東京工科大学教授)


  ◆上映作品:2008年ギャラクシー賞「報道活動部門」受賞作(6本)

    ●ギャラクシー大賞
     STVニュース「北海道・ニセコ町の果実酒問題」をめぐる
             一連の報道            (札幌テレビ)
    ●ギャラクシー優秀賞
     地域回復をめざす報道活動 人情物語 向こう三軒両どなり
                              (テレビ金沢)
     国の実態調査を実現させた「ネットカフェ難民」キャンペーン報道
                              (日本テレビ)
    ●ギャラクシー選奨
     製紙各社の”エコ偽装”における一連の報道(TBS)
     「どですか!」生き生き まいらいふ(名古屋テレビ)
     イチオシ!「徹底検証 政務調査費」(北海道テレビ)

時代の並走者としての「雑誌」が消えていく

2008年09月17日 | 本・新聞・雑誌・活字

雑誌「ラピタ」の最新号、購入。

マナー特集は、まあ、大人なら大体知っていることなので、そんなに興味はなかったが、特別付録の「ミニ万年筆ホワイト」がちょっと嬉しい。筆記具含め、文具には弱いのだ。

それにしても、雑誌の休刊(廃刊?)が多いなあ。

この「ラピタ」も、「月刊プレイボーイ」も、「広告批評」も、映画誌「ROADSHOW」も、「主婦の友」も、「週刊ヤングサンデー」も、そして「論座」や「現代」さえ消えてしまうのだ。

単なる活字好き、雑誌好きのボヤキかもしれないが、師事した先生、先輩、古くからの仲間、旧友が、一人また一人と去っていくような寂しさだ。

私自身は、この中の「月刊プレイボーイ」「広告批評」「論座」「現代」は購読していた。でも、部数としては、どれも相当落ち込んでいたことになる。

雑誌の生命線は部数と広告費だが、ネット広告費がラジオを抜き、さらに2年前には雑誌をも抜いてしまった。一旦部数が落ちてくると、広告費が下がったり、広告主が離れたりしていく。それは制作費に影響して、内容が薄くなる。また部数が落ちる・・・といった「負のスパイラル」にハマっていくのだ。

テレビプロデューサーとして仕事をしていた頃、スタッフによく言っていた。「いつまでもあると思うな、親とレギュラー」。

これは自戒の言葉でもある。レギュラー番組が続いていると、ついそのことが当たり前になり、調子が良ければ油断もする。しかし、4月と10月の改編期に、自分たちの番組が必ず生き残るという保障はない。たとえ、内容の評判がよくても、目標視聴率をキープしていなければ、どんな老舗・有名番組も一瞬で消えてしまうのだ。

雑誌の場合も、最後は売り上げ部数という数字で判断される。商品なのだから当然といえば当然だが、読者としては何もできない分、割り切れないまま「最後の一冊」を手に取るばかりだ。

これまでも休刊・廃刊雑誌は、それこそ山のようにあった。死屍累々ってところだ。覚えている懐かしい誌名では73~74年の「終末から」(筑摩書房)がある。77~78年に出ていた「クエスト」(小学館)も好きな雑誌だった。

雑誌は、いわば「生モノ」だ。その時代を生きる人たちの「並走者」みたいなものだ。

また、雑誌は社会の「鏡」でもある。豊富な雑誌は、多角的に時代を映し出してくれるはずだ。

だとすれば、雑誌が一挙に消えていく時代は、「鏡がない時代」「自画像がない時代」ということなのか。

もちろん、どんな雑誌も消滅するのは寂しいが、「論座」「現代」のようなタイプの雑誌がなくなるのは、<言論>とか<ジャーナリズム>という意味で、より複雑な感慨がある。こうした雑誌は、時代の「並走者」であると同時に、権力に対する「監視者」「批判者」でもあるからだ。

失くしていいのか? いや、いいはずはない。しかし、ビジネスとしては成立していないと言われてしまう。権力の「監視者」「批判者」を求めない、必要としない社会になっている、と考えると怖いのだが・・・。

Lapita (ラピタ) 2008年 10月号 [雑誌]

小学館

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PLAYBOY (プレイボーイ) 日本版 2008年 10月号 [雑誌]

集英社

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広告批評傑作大会 (広告批評の別冊 (9))

マドラ出版

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本の世界は海のように奥が深く、海の家より間口が広い

2008年09月16日 | 本・新聞・雑誌・活字

普通の書店さんの棚は、当然ながら、そのときどきの新刊を中心に並べてあるので、どうしても似通ってしまう。

しかし、古本屋さんは違う。どんな本を、どう並べようと、店主の自由なのだ。おかげで個性的な棚になる。いや、店構えも、店内の風景にも個性が出る。

古本好きのイラストレーター、池谷伊佐夫さんの新刊『古本蟲がゆく~神保町からチャリング・クロス街まで』(文藝春秋)の面白さ、楽しさは、写真ではなく手描きのイラストであることで、1軒1軒の店の「個性」が際立っている点だ。

九州屈指の古書店「葦書房」から、日本最北端・稚内の「はまなす書房」まで、国内はもちろんロンドンにも遠征している。そうやって描かれた店内の俯瞰の細密画には、古本そのものに通じる温もりがある。

池谷さんの「俯瞰細密画」は、全体を見て、部分を見て、また全体に戻るの繰り返しで、飽きることがない。店の中を浮遊している気分だ。

この、上から見る、俯瞰ってのがいいんだなあ。俯瞰とは「鳥の目線」であり、オーバーにいえば「神様の目線」だ。普通、人間が持ち得ない目線なのだ。

また、池谷さんが書く各店の魅力を伝える文章と、池谷さんが目にした古書・入手した古本を紹介する「今回の収穫」コーナーも熟読に値する。これまた、一冊ずつの表紙が写真で並んでいても、その本についてのコメントを、こんなに力を入れて読んだりしないだろう。

古本の総本山みたいな神保町についての文章の中で、こんな言葉を見つけた。

   本の世界は海のように奥が深く、海の家より間口が広い

これまでに出版された池谷流イラストレポ『東京古書店グラフィティ』『神保町の虫―新東京古書店グラフィティ』も、古本&古本屋さん愛好者には堪らない。

古本蟲がゆく―神保町からチャリング・クロス街まで
池谷 伊佐夫
文芸春秋

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神保町の虫―新東京古書店グラフィティ
池谷 伊佐夫
東京書籍

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東京古書店グラフィティ
池谷 伊佐夫
東京書籍

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