ジニーの、今日も気まぐれな感じで・・・

気負わず、気取らず、ありのまま。
ゆるりと思ったことを書いていってます。
お気に召したらうれしい限り。

イノセント・デイズ  感想(ネタばれあり) <ジニレビュ>

2017年12月31日 05時39分22秒 | レビュー(ジニレビュ)
その本は、「読んだ後3日寝込みました」という文句とともに
陳列されていました。

想像を絶する孤独。

どんなものなのか興味を持ち、購入したのを覚えています。



結果、読み終えるまでにかなりの時間を要しました。

半年くらいでしょうか?
正直、途中で読むのやめていたので・・・。


物語は、一人の女性「田中幸乃」をめぐり展開していきます。

彼女は、元恋人の家族を放火によって殺害した容疑がかかっており、
死刑を言い渡されます。
しかし彼女はまるであらがうそぶりを見せず、まるでその死刑を
望むかのように、微笑みを見せるのです。


彼女の出征の秘密を知る産科医、義理の姉、中学時代の親友
元恋人の友人、刑務官。

それぞれの視点で語られる内容が章となり構成されています。


とにかく、彼女は世間でいうところの「不幸」を背負って生きてきました。
いや、正しくは、ある時期を境に「不幸」が付きまとうようになったのです。


幼少期。
彼女は幸せの中にいました。

母親以外血がつながっていないとはいえ、温かく見守る家族。
特に義理の姉は、母親譲りの「興奮すると気を失う」という体質を持つ
妹を守る存在として大きかったと思います。

しかし母親の死から、事態は一変します。
母が事故で亡くなると、父親から母親譲りの顔を避けられ、攻められるようになります
本人は傷つく父親を慰めようとするのですが、それが引き金を引いてしまうので。

「お前じゃない、必要なのは母親なのだ」と。


すべての始まりはここだったと思います。

以来、拒絶を恐れるようになりました。

結局、母親を捨てた祖母に引き取られ、愛情も何もない環境に育ち、
中学時代の友人の罪をかぶり少年院で過ごし、
恋人の暴力に耐え続け、
静かにその人生の幕を、ひとり下ろそうとします。


すべて拒絶を恐れるあまり受け入れてきたこと、自分がそうすることによって
相手に見限られないのであればという想いがそうさせます。


ただ、彼女を何とか助けようと動く人たちもいます。

唯一幸せだった幼少期の友達や、元恋人の友人です。


彼らは、唯一といっていいほど、彼女の本音に触れることができた人物です。
その周囲の負を背負いこむ彼女を知り、何とか救い出そうとします。

特に、幼少期を共に過ごした友人は、死刑を宣告された放火事件も
誰かの罪を被ったという真相にたどり着きます。(元恋人の友人の助けもあってですが)
そのため、その真相を明るみに、死刑を免れるように動こうとします。




しかし、結局死刑は実行されます。


彼女は死ぬのです。




ここに向かう最後の章、刑務官の章は少し異質でした。
ほかの章で語られる、とにかく不幸を呼び込む(正しくは不幸を押し付けられる)彼女は
自己主張などほとんどしない人間でした。
求めれば拒絶されてしまうから、必要とされる存在であり続けようとするために
すべてを被ってしまうのです。

しかし、この刑務官の章では、これまでとは違う彼女の姿があります。
死への、確固たる意志。
それがありました。

幼少期の友人が死刑にならぬようあれこれ動く姿に、激しく動揺したり
心動かされたりします。
死を邪魔するものに、抵抗という、強い自己を表すのです。

最後、死刑執行の部屋へ向かう途中、刑務官は最後の希望にすがるように
彼女の中にある生きたいという希望に直接問いかけます。
激しく動揺させれば、「気を失う」。
走すれば死刑を遅らせることができる、その時間でなにか事態が好転するかもしれない。
刑務官は面会に来ていた幼少期の友人の存在を知っていたし、その友人から届いた
手紙を読んでしまっていたため、死刑を免れる期待があることを知っていたためです。

僕も、読みながらなんとか死刑執行を免れ、逆転の無罪、最後の最後で幸せな結末
を迎えることを強く望みながらページを進めました。
しかし、彼女は全身全霊で抗ったのです。
ほんのわずかな読者の期待をも交わし、気を失う一歩手前で、自らの歩みで
死の場所へ歩いてきました。

これまでに見せなかった、強い意志表示。
死ぬために、生きるという、最後の炎のような意思。

彼女の中に幸せだった幼少期のような時の訪れを期待する気持ちは、実は少しばかり
あったように思います。
しかし、その先にまた「見捨てられる」という可能性がある現世よりも
死に安らぎを見出したのです。

最後のその場面は、本当に、死ぬことに執着する情念が、生きていることを
強く浮かび上がらせていました。
まるで光の強さが影の濃さに比例するように。



作者は、ここを一番書きたかったのだろうと、解説にありました。
確かにそう感じます。
彼女にとっては、死ぬことが何よりも幸せだった。
「死ぬことはいけないこと」、そんな当たり前の大前提では語れない価値観が
彼女の中にあったのです。

読み終わって感じたことがあります。
各章で語られる登場人物がほとんどといっていいほど、彼女と向き合っていなかった
ということです。
常に彼女と向き合っていたのは「死」。
後半、ようやく向き合う存在が出てきますが、わずかなすれ違いや、刑務所の中に
いる彼女へ直接かかわることができず、結局彼女は「自分が消えること」としか
人生を通して向き合うことができなかったのだと思います。


期待すれば落胆するし、裏切られることだってある。
生きるとはそういうことで、それ以上に喜びや感動があるから「生きていたい」と
思う気持ちが芽生えていきます。

そのためには、やはり、これはと決めた事や人に対しては心から向き合う覚悟が
必要なのだと思います。
自分にはそれが必要だと感じさせる覚悟が。


ただ一方で、望む死を手に入れた彼女は、幸せだという想いもあります。
欲しいものを得ることができたのですから。

多分ですが、彼女は死を手に入れて本当に安らぎを得たのだと思います。
後悔はしていないと感じるのです。

だって、もう少し生きてみればよかったと感じるのは、僕たち読み手の思考であって
彼女の思考ではないのだから。

彼女が選んだ死を、良いものか悪いものか、何か感じることは良いですが、
批判することはできないのです。
それは、自分の想像の範疇でしか話していないから。
彼女のリアルが置いてけぼりになるから。




先日、読了後に書いたブログ記事で(イノセント・デイズ
僕はASKAの二度の逮捕に関する一連の報道を目にした時に感じたものとリンクした
と書きました。

それがこの部分なのです。
世の中は、犯した罪に目を向け、多くは非難しました。
二度目もそうです、結局またかという目を向けるのが大半でした。
(某ジャーナリストと情報番組は今思い出しても腹が立ちますね)

もちろん犯した罪は許されるものじゃありません。
非難されることも当然の出来事です。
しかし、その後音楽活動を活発化させると、こんな言葉も見受けられました。

「ちゃんと謝罪すべき」
「裏切られた人の歌は聴けない」
「どれも言い訳じみた曲になっている」

全部その人の価値観が前面に立った言葉です。
ASKAのリアルは置いてけぼりになっています。
いまASKAがどんな気持ちと覚悟をもって音楽活動に臨んでいるのか。
ことあるごとに「形式のように頭を下げるのではなく、真摯に音楽と向き合い
良い音楽を作ることが犯した罪への贖罪となるようにしていきたい」と口にしています。
これを読んでなお、上記のような言葉を口にするのは、ただの批判家だと僕は感じます。
自分の正しさを、大層に掲げて、正義であることを知らしめる。
滑稽で陳腐なドラマに出てくる形ばかりのヒーローのようです。

本人が、犯した過ちを償うために行っていることを、自分や「一般的」という
不透明な物差しで批判して、自分が正しくあることに安心しているのでしょう。

僕が根っからのファンであることも多分にありますが、本人がやろうとしていることを
最後まで見守るくらいの気概は見せましょうよ。

じゃあ、また罪を犯したら裏切られるじゃないかって?

でしょうね。
でも、そうなるかもしれない未来も織り込んで、今の僕の覚悟があります。




話が脱線しすぎましたね。

結局、真実や本心は本人の中にしかないということです。
それをすべてさらけ出すのは簡単なことじゃありません。
親愛なる父親から「お前じゃない」と言われた田中幸乃という少女にとっては、
特にそうだったのではないでしょうか。
北風と太陽。
本心は出させるのではなく、こぼれるくらいがちょど良いのだと思います。

時間はかかるでしょうが、信じて向き合うこと以外それは実現できるもの
ではないかと感じます。

田中幸乃という一人の人間を取り巻く人間が、もう少し強い人間で、
彼女の優しさにつけ込むのではなく、向き合えていたなら。
死を求めず、傷つきながらも生きることに幸せを見出せたかもしれませんね。

これはあくまでも、僕の感じる「幸せ」ですが。



そんなことを感じる小説でした。


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ASKA 『Too many people』について

2017年02月22日 23時06分05秒 | レビュー(ジニレビュ)
堰を切った感情が流れ出すような、ピアノの旋律はたった数小節。
それでも、郷愁と哀愁を呼び込むには充分な時間がある。
そして、声が聞こえる。

「つま先をコンとついて・・・」


優しく、温かく、力強く
優しく、優しく、優しく

一言一言を大切に、一言一言に思いを込めて

それはこの歌を耳にする者にも空気の振動になって、いつか胸の奥に
すっとしみ込んでくる。




まるで一つの映画のようなアルバム。

いや、個人的にはミュージカルをそのままひとつのアルバムに凝縮したような
密度と濃度を感じる。

13の物語には、それぞれの主人公がいて、それぞれの際立つ色を持っている。
そのあまりにも個性的すぎる物語を一つにした時、それぞれの物語が
ASKAという一人の人間を投影しているものだと改めて気づかされる。



「Too many people」は予測を立てられないアルバムだった。
聴く前からそうだった。
さまざまなことが起こり、一度は世に出ることもなく消えてしまうかもしれない
そんな時期もあった。
それゆえ、そこにある物語たちは、今までの自分が知っているASKAではないものに
変わり果ててしまっているのではないかと、どこか危惧していた。

ようやく手にした宝箱を、子供のしぐさで、大切に、思いのままに開き
物語のメロディーに耳を傾けたとき、全身に何かが走った気がした。

期待は、あっさりと裏切られた。
危惧は、不必要なものだった。


次々と耳に流れ込んでくるのは、新しさと懐かしさを共存させた「歌」だった。

だれがこんなアルバムになると思った?
だれもこんな予測たてられるはずがない。


すべて、言葉にはおよそ表しきれない輝きを放っていた。
そして、あっという間に心に溶け込んだ。
昔からそこにいたように。



一つのCDを聴くということに、こんなにワクワクしたのはいつぶりだろう。
次の瞬間を大切に聴き進めていった。

感嘆しかこぼれてこない。

どうにも形容しがたい感銘。

本当に「凄い」ものは、こんなにも、あきれるほど「凄い」という言葉にしかならない。
こんな感情初めて知った。



今の日本の音楽は・・・と引き合いに出すのはあまりしたくない。
でも、今の日本にはない歌がここにはあるんだよ。

聴くと、懐かしい。
初めて聴くのに、やけになじんでいる音楽。

忘れたわけじゃなかった、使わなくなっただけだった。
歌を、歌として聴き、喜ぶこと。


こんなにシンプルなこと、ずっと感じなかったな。
改めて気づかされた音楽の素晴らしさ。



この音楽が生まれた瞬間に、生きていることがうれしい。
この音楽を語り続けていけることが、またうれしい。



ファンであるひいき目は多分に入っています。

でも、これは多くの人の耳に届いてほしいと、切に願う。

きっと誰の胸にも懐かしいものが去来すると思う。
気づけばメロディーを口ずさんでいると思う。
聴く人それぞれに伝わるものがあるだろうが、それは広義で「至福の音楽」ではないだろうか。



これは、いまのASKAだからたどり着いた境地なんだろう。
自身の音楽と向き合ってきたという覚悟と、情熱を、はじめから終わりまで絶えず感じることができる。
きっと誰もいなかったら泣いていたと思う。
あまりにも強烈な音楽への想いに。
自分自身が求めていたものの大きさに。



つらつら書いているが、この深い感動の輪郭にすらうまく触れられていない気がする。


無理だ、やっぱりこれは直に聴いたものにしかわからない。
透明な感情のようなものだ。

もし、一連の事件で初めてASKAを知った、興味を持った方がいたら、聴いてほしい。
先入観を捨てて、とは言わない、偏見を持ってでもいい、聴いてほしい。
何か感じるものがきっとあるから。

ここまで魂を感じたアルバムは、僕には前例がない。

そこにあるのは、圧倒的な音楽と、圧倒的な音楽への情熱だった。

この音楽に触れない手はない。
この音楽を聞き逃すことは、宇宙レベルでの大きな損失になりかねない。
いや、本気でそう思う。



最後に、
ASKAのために集まってくれた顔なじみのメンバー。
澤近泰輔、古川昌義、江口信夫、荻原基文、鈴川真樹、恵美直也、今泉正義、狩野良昭、村田努、一木弘行
心からありがとう。
ASKAに力を貸してくれて、本当にありがとう。
あなたたちの名前を目にした時、やっぱり泣きそうでした。

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ジニレビュVol.8  『崖の上のポニョ』

2008年10月26日 22時05分17秒 | レビュー(ジニレビュ)
ぽーにょぽーにょぽにょさかなのこ~♪
一度耳にしたらこびりついてなかなか離れないこの歌。
久石さん、また名曲を作り出しましたね。


僕はジブリの作品が好きで、テレビで放送していると大体見ています。
「崖の上のポニョ」はそのジブリの最新作です。
先日この作品を見てきました。
ちなみにネタバレはないように書いているつもりですが、ひょっとしたら気づかずに書いちゃってるおそれもあるので、ご了承下さい。

この「崖の上のポニョ」はこれまでのジブリ作品の中では「となりのトトロ」に近しい立ち居地なのだろうなと様々なメディアで取り上げられている様子を見て感じていました。
いわゆる、子供に向けた作品。
「もののけ姫」のような壮大なスペクタクルと言うよりも、のほほんとした絵本のような感覚でしょうか。
そう感じさせるのは、今回の映画が全て手書きで製作されていると言うところにもよるのでしょう。
そう、今回の作品ではCGを一切使用していないそうなのです。
実はこれはハンパないことなんです!!

先日、今作品と宮崎監督を特集した番組を見ていた時にビックリする数字を知りました。
それは17万と言う数字。
つまり、今回の映画を製作するに当たり、使用した絵コンテの総数が17万枚ということなのです。
仮に一枚の絵コンテの厚さが1mmだとしても、全部重ねると170mになります。
これは世界遺産でもあるサグラダファミリアと同等の高さになるわけです。
特に本編冒頭部での12秒のアニメーション部分では約1500枚もの絵コンテを使用しているらしく、実際にそれを見たときはのっけから圧倒されました。


さて、では本編はどうだったかと言うと・・・大人だからでしょうか、不思議な映画だなぁ~という感想を持ちました。
何か詮索しながら見ていたというのではなかったのですが、本当に動く絵本を見ていたような気分でした。
でも、観終わった後はなんだかホワンとした気持ちになっていて、ポニョのまねをせずにはいられませんでした(^_^;
とにかくポニョがかわいい。
そして純粋。
わんぱくで、支離滅裂で、危なっかしくて、でも憎めない。
スーっと心の中にもぐりこんでくる魅力がありました。

先ほど動く絵本を見ているようだったという感想を持ったと書きました。
しかし、この作品を制作する上で宮崎監督は相当試行錯誤されたらしいです。
大人になってしまった僕たちにとっては当たり前なことでも、子供からすれば大きな進歩と言うものがありますよね。
劇中で、ポニョの成長を感じさせるエピソードがあります。
僕的には、その部分を映画の中のポニョの愛らしい行動のひとつと捉えていましたが、実はポニョの視点からすると劇的な変化、成長の瞬間だったのです。
後になってそれを知り、考えてみると、確かにそれは成長以外のなにものでもないと思いました。
たった2時間の映画の中でポニョは進化を続けていたのです。
そういったところに気が回らなかったのは「大人としての自分」という客観的な視点で鑑賞していたからなのでしょう。
もっとポニョのひとつひとつの行動を、ポニョの視点で、なにを考えてそうしたのかという見方をしていたらまたちょっと違った楽しみ方が出来るのかも知れないなと感じました。


出来ないことが出来るようになるのには、必ずそれなりの背景があります。
仕事とか恋愛とかそういったものも背景の一つではありますが、僕たちが生きていく中で「出来るようにならなければいけない」必要性を迫られる背景は「生きていくため」というところが一番大きいような気がします。
これはまさにポニョにも言えることで、いわば今作はポニョの成長期といっても語弊はないように感じました。
そして、それは僕たちが自分自身を鑑みるきっかけとなるものでもあるような気がします。


そこにあるのは「生きるエネルギー」だったと思います。
「生きていたい」という強い思いが僕らを成長させます。
変にクールになるよりも、熱く自分は生きていたいと体全体で表現できるような人になってもっと周りをプラスのエネルギーで包んでいきたいなと感じました。
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ジニレビュVol7.  『LIFE 天国で君に逢えたら』

2007年09月30日 23時00分44秒 | レビュー(ジニレビュ)
こんばんは、ジニーです。
今回は本当に久しぶりの『ジニレビュ』です!!
前回の『ジニレビュ』から気が付けば半年以上間が空いてしまいました・・・。
忘れた頃にやってきてみたのであります。
今回は、映画『LIFE 天国で君に逢えたら』についてレビュってみようと思います。





愛する人との永遠の別れが迫っている。
そんな時、愛する人を思うと涙が止まらない・・・。
でもそれはきっと、天国は笑顔で過ごす場所で涙なんか必要なくて、生きているうちに全部流してしまおうとするからなんだ。




この映画は事実を元に作られました。
プロウィンドサーファーとして活躍し、愛する家族に囲まれ幸せに過ごしていた飯島夏樹さんに突如訪れたガンという名の黒い影。
そんなガンと向かい合い、最後の最後まで自分らしくあり続けた飯島さんとその家族の軌跡を映画化したものです。

結果から言ってしまうと、夏樹さんはガンによって命を落とします。
しかし、不思議とそこには寂しさではなくさわやかさを感じたのです。
もしも自分の命があと3ヶ月とされた時、僕たちは何を思うでしょう。
なぜ、どうして自分が?と苦悩するかもしれません。
事実を受け入れられず生きる気力をなくしてしまうかもしれません。
もしかしたら絶望してすぐに命を絶ってしまうかもしれません・・・。
だけど夏樹さんは自分が侵された病魔を受け止め、その上でこんな風に病気に侵された自分だから何かができるのではないかと考え執筆活動を通して多くの人に勇気を与えていったのです。


もちろん、すぐに夏樹さんがそういう考えに至ったのではありませんでした。
パニック障害を起こし、うつになってしまった時期もありました。
では、なにが夏樹さんを再び立ち上がらせたのか?
それは、家族の存在でした。
特に、妻の寛子さんの存在は大きかったように思います。
夏樹さんがまだ世界大会で勝てずにお金も無く苦しい生活を送っている頃からいつもそばに寄り添い、夏樹さんを支えてきた寛子さん。
ガンにより夏樹さんの余命が3ヶ月と診断されたあとも、前向きに笑顔を忘れることなく夏樹さんと接して行くのです。
そんな寛子さんの笑顔が夏樹さんを、そして家族を前向きにさせていったのです。
心から強い女性だと感じました。

物語の最後に夏樹さんから寛子さんへの感謝の言葉があります。
あえてここではその内容に詳しく触れませんが、その言葉は寛子さんへの感謝で溢れていたのです。
僕はもう、涙を止めることはできませんでした。
なんて素敵な最期なんだろうと思ったのです。
自分の死と向かい合いながらも人のために家族のために何ができるのかを考える想い。
愛する人が納得のいく最期を迎えるために何ができるかと考える想い。
夏樹さんも寛子さんも形こそ違えど常に自分は何ができるんだろうと考えていました。
僕はここに『愛』を感じるのです。
相手から自分へ何かを望むのではなく、自分から相手に何かを与えていく。
この精神をきっと『愛』と呼ぶのだと思います。




そこにあるのは「ただ純粋に相手を想う気持ちの大切さと、そこに生まれる絆の強さ」でした。
『愛』とは何か?
『生きる』とは何か?
簡単なようで実に複雑なその問いのひとつの答えがこの映画にはあったように思います。
こんなに感動した映画は久しぶりでした!!
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ジニレビュVol6.  「働きマン」

2007年02月07日 23時22分14秒 | レビュー(ジニレビュ)
「僕らはみんな働くために生きている」
アニメの公式HPを覗くといきなりそんなコピーが目に入る。
これはちょっと言いすぎな気はするけど、あながちはずれているわけでもない。
だって人は仕事をして生きている時間が1番長いから。


安野モヨコ原作「働きマン」。
名前はずっと昔から知っていが、それでもちゃんと読んだことはなかった。
今回ようやく購入し、読んでみた。
最初僕はこの漫画は「OLのドタバタ劇」だと勝手に決め付けていた。
だがしかし、実際の内容はまったく違うものだった。


主人公はとある出版社に勤め、週刊誌の記事を担当しているる女性編集者「松方弘子」、元巨乳。
しかし彼女はそこら辺の男性をも凌駕する勢いで仕事をこなすのだ!!
こういう言い方をすると、やっぱり漫画だなと感じてしまうだろうが、この漫画はもっと奥が深い。
ここでは主人公をはじめ登場人物の思考がリアルであり、立ち位置が読み手に近いのだ。
仕事にまつわる悩み、苦悩、理想、体裁、会社という組織・・・それらのしがらみの中で一心不乱に仕事に打ち込む姿が描かれている。



読んでいく中で胸をグサっと刺されるような言葉はいくつも出てくるのだが、僕が個人的に一番印象に残ったのは次のセリフだった。

「伝えたいのは何だ?」

これは、高速道路で起こった事故をどういった切り口で記事にするか社員が討論している中で編集長が放った言葉なのだが、これは実に的を射ていると思う。
週刊誌は新聞とは違う。
新聞も週刊誌も事実を伝えることに変わりはないが、週刊誌ではその裏にひしめく人間というものに照準を当てている。
その上で「伝えたいのは何だ?」なのである。
これはドキッとする。

仕事をする上で僕たちはいろいろなことを考える。
作業効率、コスト、個性・・・などいろいろあるがそこに目が行き過ぎてしまいもっと本質的なものを見落としてしまっていることがある。
この漫画の舞台である週刊誌で言えばズバリ「伝えたいテーマ」がそうである。
どんな仕事にもやっぱりその仕事が存在している意味や意義がある。
しかし、それをしっかりと把握できている人はどれだけいるのだろう?
ニートが増えたり、場当たり的なバイトのシステムができていたりしている現代で仕事へのプライドというものが徐々に欠如してしまっているような気がする。
情けないことに、今の僕自身もそれに該当してしまう。
だからこそ、グサっとくることが多かったのだろう。

しかし、それは同時に僕にとって良い刺激にもなったのだ。
それらは、これからの自分の在り方について指標になったように思う。
どういった思いで仕事に取り組むかで出来上がるものはまったく違うものになる。
この漫画は改めてそれに気づかせてくれた。



そこにあるのは「仕事に対する自分の在り方とプライドの持ち方」だった。
今日、今からの考え方のシフトが明日以降の仕事への態度に影響を与えてくる。
生きるために仕事をするのではなく、生きているから仕事をすると思えるようになると、何か新しいものを見つけることができるかもしれない。
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「虹の女神~Rainbow Song」  ジニレビュVol.5

2006年10月29日 23時23分49秒 | レビュー(ジニレビュ)
空に架かる水平な虹。
大気中の氷の結晶に光が反射し生まれる現象で、雲が薄くても濃くても現れることのない珍しい現象。
そんな珍しい虹を見た二人の間にあったのは、虹のように儚いものだったのかもしれない・・・。


「虹の女神~Rainbow Song」・・・市原隼人、上野樹里主演の淡い青春ラブストリーです。
監督は「親指さがし」「ニライカナイからの手紙」の熊澤尚人。
原案は「イノセントワールド」で衝撃的なデビューをした桜井亜美。
そしてプロデューサーは「LOVE LETTER」「リリィ・シュシュのすべて」の岩井俊二です。
先日のブログにも書きましたが、僕は岩井俊二の作品がとても好きです。
どこにでもあるような日常を切り取ったような映像がいつの間にか心に染み込む感覚がすごくハマるのです。
そしてそれは今回の「虹の女神~Rainbow Song」も例外ではありませんでした。



「もう会えないから、もう一度会いたい・・・」
物語の序盤、主人公はヒロインの死を知ります。
それをきっかけに主人公はヒロインと過ごした日々を思い出していきます。
学生時代自主制作の映画をきっかけに近づいた二人の心。
主人公にとっては何でも話せる女友達。
ヒロインにとっては好きな人。
その微妙な関係は、淡く儚くどこか甘酸っぱい。
何かきっかけがあればきっと恋人になっていただろう二人は、お互いの気持ちに素直になれずその曖昧な距離を縮めることはありませんでした。

途中、観ているうちに上野樹里の演じるヒロインのいじらしさ、女らしさが僕の胸をくすぐりました。
「この気持ちに気付いてよ・・・」という女心。
気持ちとはうらはらな言葉たち。
自然体な彼女の演技にフィクションと知りつつもやきもきしてしまいました。



想い出は美化されるとよく言いますが、本当はそうではなくてただその瞬間にある輝きに気付いてないだけなのではないか。
そんなことを思いました。
僕がここにいる「当たり前」。
君がそこにいる「当たり前」。
それがなくなったとき、振り返ったときに初めて人はその輝きに気付くのでしょう。

・・・う~ん、他にもいろいろ書きたいけどネタバレになりそうなので控えておきます。
また日を改めて物語を深く掘り下げたところまで書こうと思います。
とにかく、僕にとって今年観た映画の中で1番の作品でした。
正直な話、もう一度観に行きたいくらいです。
期待を裏切らない岩井俊二作品はやっぱりいいなぁ。


そこにあるのは「失くして気付く大切なものと、恋のもどかしさ」でした。
この映画は僕に穏やかな感動を与えてくれました。
そして僕の大好きなものがまたひとつ増えました。
なんかいま、とても充実してます。



arlecchinoさん>ゲームが好きとうまいは必ずしも比例しないですもんね。
やっていて楽しければそれでいいんですよ☆
漢検準2級ってすごい(≧◇≦)
そういうスキルってなんか憧れます。
コメント
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映画「天使の卵」を観て

2006年10月22日 11時30分45秒 | レビュー(ジニレビュ)
きのうは、待ちに待った天使の卵の公開日でした。
映画を見るのにワクワクしたのは久しぶりだった気がします。
監督が原作をどのように解釈してどのように作ったのか、期待と不安を胸に秘めつつ鑑賞しました。

一番強く思ったのは、展開が早かったなということです。
期待が大きかった分少しがっかりしたのはありましたが、原作にあった色合いは保たれていたような気がします。

主人公の一本槍歩太を演じてりるのは市原隼人さんなのですが、僕は彼のデビュー作の「リリィ・シュシュのすべて」と言う作品を見ていました。
その「リリィ・シュシュのすべて」でもそうだったのですが、「天使の卵」の主人公を演じる彼からどこか儚さのようなものを感じるのです。
すごいポップな演技をしているときでも、ガラスのような繊細さを感じるのです。
これは彼の役作りがなし得たものなのかもしれませんが、それがとても作品とマッチしていて良かったです。

ヒロインを演じる小西真奈美さんも素敵でした。
笑顔の素敵な女優ですし、透明感があるのでハマリ役だと思いました。
しかし、彼女の演技は予想以上でときどきドキっとするくらい人間の心の闇を表現していたように思います。

ヒロインの妹を演じるのは沢尻エリカさんです。
今作では原作と違い、沢尻さん演じるヒロインの妹の目線で物語は進んでいきました。
原作の「天使の卵」には「天使の梯子」という続編があります。
その続編の主人公がこのヒロインの妹となるのですが、それに向けて今作は物語の主観が変わっていたように感じます。
彼女の役は姉である小西真奈美さんと対照的な性格の役だったのですが、それがすごくうまく演じられていました。
彼女の常に前向きな演技が小西さんの役のアンバランスさをうまく引き立てていたと思います。

一番印象に残ったのは、最後の市原隼人さんの表情です。
失意の中にいた主人公が、やっと何かを見つけることができた。
そんな表情がすごく理想的な形で表現されていました。
胸をすくような気持ちがしました。


今日はその続編の「天使の梯子」がテレビで放映されます。
こちらもどのように制作されているのか楽しみです。
こちらの感想もまた追って書いていこうと思ういます。



arlecchinoさん>炊飯器が壊れるっていうのはかなりの大問題だと僕は思うのです。
でも予約炊飯しかできなくても一応炊けるのですね(^ ^;
なら問題はないのかな?
コメント (1)
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天使の卵~エンジェルス・エッグ~ ジニレビュVol.4

2006年10月07日 02時25分27秒 | レビュー(ジニレビュ)
水彩絵の具の青をギリギリまで延ばした、どこまでも透明に近い青。

そんなイメージを僕はこの小説に持つのです。
きれいで、儚くて、暖かくて、脆い・・・。
読み終えたあと心に漂う満足感と喪失感。
甘いその麻痺のような感覚に浸りたくて、何度も何度も読みました。


出会いは偶然という必然でした。
当時学生だった僕は、登下校での電車の時間を有効に使いたいと思いあてもなく本を探していました。
読書なんて滅多にしなかった僕がその時そう思ったのは、まだ見ぬこの本の引力をどこかで感じていたからなのかもしれません。
本屋に入った僕はまるで吸い込まれるかのように「村山由佳」の棚の前にいました。
そして最初から決まっていたかのように「天使の卵」を手に取っていたのです。
この本をきっかけに僕は読書の素晴らしさに気付くことができました。
まさに僕の運命の一冊なのです。


遅くなりましたが、簡単な紹介をしたいと思います。
「天使の卵」、村山由佳原作の恋愛小説です。
この小説は1993年に第6回小説すばる新人賞受賞し、その後も10年以上変わらぬ支持を受け続けている作品です。
その支持に後押しされ、映画化が決定し今月いよいよ公開されます。




「天使の卵」・・・これ以外ありえないと思えるくらいぴったりなタイトルです。
触れれば割れてしまいそう、でも触れられなければ暖められない。
そんな危うさがどこか人の心にも似ているような気がします。
とても繊細なものなのです。
そして、この作品のいたるところに感じるのがその繊細さなのです。

物語の登場人物たちは皆心に痛みを抱えています。
そしてその痛みと向き合い心を引き裂かれながらも答えを見つけ出していきます。
その姿に僕の心も不思議と同じように引き裂かれるような感覚をリアルに感じるのです。
でもそれは当然のことなのだと思うのです。
だって、きっと誰の心にも痛みはあるのだから・・・。
その痛みが作品とシンクロしてしまうのです。

恋とは傷つくことなのだと思います。
もちろんそれがすべてではありません。
ただ、誰かとともに生きるということは口で言うほど簡単なことではなく、それぞれを取り巻く環境や、それぞれの持つ悩みがついてまわります。
価値観の違い、考え方の違い。
許せること、許せないこと。
自分の理想、相手の理想。
さまざまなズレを修正し、同じ未来を描いていくには痛みを避けることはできません。
その連続の中で心が折れてしまったとき、恋は終わります。

しかし、人は傷つくからこそ成長できるものなのです。
心を深く穿つ痛みでさえも乗り越えたとき新しい自分に出会うことができます。
そしてそんな自分を受け止めてくれる相手の笑顔があるのです。
何も失わずに得るものなんてきっとありません。
作品中でも、主人公とヒロインは痛みを受けながら、何かをなくしながらもひとつになります。
その場面でこの物語は一番の輝きを放ちます。
胸から溢れ出してしまいそうなくらいの幸福感に包まれます。
読み終えたあとの満足感と喪失感はきっとそこから来るのでしょう。
どこまでも繊細なこの作品に心の澱みはなくなり澄みきっていきます。


そこにあるのは「心震えるほどの切なさと感動」でした。
ちなみに、物語は終盤に向かうにつれて切なさが一気に加速していきます。
まだ読んだことがないという方は是非あなた自身でそれを確かめてみてください。

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ジニレビュ その3~甲子園~

2006年08月22日 00時11分10秒 | レビュー(ジニレビュ)
こんばんは。
今日もまた気ままなレビューにお付き合いいただきたいと思います。
テーマは「甲子園」です。


長い長い戦いが今日終わりを迎えました。
決勝戦は15回では決着がつかず、再試合が行われると言う歴史的な激闘となりました。
3連覇を狙う駒大苫小牧。
悲願の初優勝を狙う早稲田実業。
この夏の栄光を手にしたのは早稲田実業でした。

高校野球は毎年行われています。
そして、毎年いくつもの感動が生まれています。
甲子園と言う長い歴史の中に生まれたいくつもの感動にはひとつとして同じものはありません。
なぜならそのキラメキは、その一瞬の中でしか生まれないから。

勝者の影には常に敗者の姿があります。
そして笑顔の影には涙がありました。
ひとつの栄光に向けて努力を重ねてきた選手たちの情熱は涙となり零れ落ちます。
その何よりも澄み切った淀みのない雫に僕たちは感銘を受けるのだと思います。


テレビで決勝を終えた両チームの宿舎に戻った様子が流れていました。
勝ったチーム、負けたチーム、その選手のどの顔にも笑顔がありました。
僕はその笑顔を見た瞬間また感動しました。
確かに最後に栄光を手にするチームはひとつです。
しかし、その栄光へ向けて熱く過ごした時間と思いはどの選手にも平等に与えられます。
大会を終えて去っていく者にも、次の夏の栄光に向けてまた走り出す者にもその記憶はいつまでも鮮明に生き続けていくのでしょう。


そこにあるのは「笑顔への道のり」でした。
喜びも悔しさも苦しさもすべて笑顔に繋がる道のりのように思えました。
そして来年、また新しい感動が、笑顔が生まれます。
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ジニレビュ その2

2006年08月18日 10時28分33秒 | レビュー(ジニレビュ)
こんにちは、またまたやってまいりましたジニレビュのお時間です。
今日のテーマは「日本沈没」です。


「日本沈没」・・・主演草剛による2006年7月に公開された映画です。
この作品は実はリメイク作品であり、1973年に正月映画として公開されたのがオリジナルの作品です。
タイトルの通り近い未来に日本が沈没する危機に直面するという内容です。

正直な感想を言ってしまうと、ちょっと期待外れでした。
確かに映像には迫力があったし、役者の演技も引き込まれるものがありました。
ただ、僕が思っていた以上に恋愛映画でした。
もっとパニック要素の強い映画だと勝手に思っていました。
僕は1973年のオリジナル版は観ていないのですが、どうやらリメイク版はオリジナル版よりも主人公の恋愛の方がクローズアップして作られているみたいです。
この数年ヒットしている、いわゆる「純愛映画」の流れを受けて今回のような作りになったのかもしれません。
ただ僕の個人的な意見としては、パニックと恋愛のどちらがメインなのかが分かりづらかったです。
もっとパニック映画ならパニック映画にに徹するべきだし、恋愛映画なら恋愛映画に徹するべきだと思いました。
どこか中途半端なイメージを受けてしまったのでいまいち陶酔することができませんでした。


しかし、もし自分がこういう状況下に置かれたとき何を優先させて行動するのだろうと考えるきっかけにはなりました。
僕の住んでいる愛知県は東海大震災がいつ起こってもおかしくないと言われ続けています。
もしその東海大震災が起こったとき真っ先に浮かぶのはやっぱり「愛する人」の安否だと思うのです。
そしてそんな最悪な状況におかれた時生きる力になるのもやはり「愛する人」の存在だと思います。
おそらく今回の「日本沈没」にこめられたメッセージもそうなのだと思います。


そこにあるのは「愛する人との心の支えあい」でした。
愛する人がそばにいるから強くなれるときがあります。
もしあなたが危機的状況に直面したとき思い浮かべるのは誰のことでしょう。
コメント (1)
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