電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

室内楽はいかが?

2005年12月21日 21時32分28秒 | -室内楽
クリスマスも近いし、静かに室内楽でも聞いてみようかな、と考える方々も少なくない(*)と思われます。「室内楽にはもう弱くって」という皆様のために、当ブログ推薦の曲目をいくつかご紹介しましょう。・・・って、ちょっとエラそうですけどね(^_^;)>poripori

(*):この点については、大方の賛同が得られるかどうかは依然として不明です。(生協の白石さん風に)

まずトップバッター、室内楽はこんなふうだ、という代表的例として、ドヴォルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」、ピアノ三重奏曲「ドゥムキー」です。伸びやかな旋律、郷愁と哀感が魅力的です。
続いてボロディンの弦楽四重奏曲第2番。この中の「夜想曲」は、どこかで聞いたことがある旋律ではないでしょうか。二人で聞くにもいい雰囲気です。一人で聞くのならチャイコフスキーのピアノ三重奏曲「偉大なる芸術家の思い出」。おもわずしんみりしますが、とても美しい音楽です。ブラームスの「クラリネット五重奏曲」は、もっと寂しくなってしまいますが、年を取るとこういう哀感がしみじみとわかってきますね。
古典派なら、ベートーヴェンのチェロソナタ第3番。雄大で、いいですねぇ。ハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」。天気晴朗一点の曇りなし。でも、こういう晴れ晴れとした気分のありがたさは、若い人にはピンと来ないかもしれない。そんな人には、陰影に富んだモーツァルトの「クラリネット五重奏曲」、シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」。これならピンと来るどころの騒ぎじゃないよね。
少し違うほうに行くと、ラヴェルの弦楽四重奏曲。これ、近代の傑作だと思う。プロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ第1番。軽快で技巧的で、響きがとっても新鮮。

室内楽は、リズミカルな対話の楽しさや響きのやりとりなどを充分に楽しんでから、徐々に対象を広げていって、へぇ~、こんな曲もあるんだ~、という具合にレパートリーを増やしていけばいいのではないかと思います。

その意味では、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲だとか、モーツァルトの弦楽五重奏曲だとか、有名でも渋~い曲目は、かなり聞きこんでからのほうがいいのではないか。私はそんな風に思います。
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打ちたて、ゆでたてのそばを賞味する

2005年12月20日 20時26分52秒 | Weblog
今日は、知人が自慢の腕をふるい、新そば粉を用いてそばを打ち、その場でゆでて賞味した。知人はもともと蕎麦屋の息子だけあって、腕前はプロ級である。そば粉をこね、棒で伸ばし、たたんで切り、大鍋でゆでる。本人が言うには、そばのうまさは材料が九割・腕前は一割だそうだが、製粉所から直接仕入れてくる粉もよいのだろうか、たいへんに美味しかった。
本当は、臼で引き立ての粉を用い、打ち立てのそばをゆでたてて食べるのが「三立て」といって最も美味しいそばの食べ方なのだそうだ。今日は、控えめに「二立て」で味わったことになる。ちょっと嬉しい歳末の一日だった。
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ダイヤ混乱・渋滞への対処法

2005年12月19日 20時05分20秒 | Weblog
各地で12月には珍しい大雪が降り、通勤通学の列車ダイヤが混乱し、道路は大渋滞しているようです。雪国では慣れっこになっているとはいうものの、暖かい地方ではそもそも雪への対策がないだろうと思います。混乱に巻き込まれた通勤や出張中の諸氏諸兄には、心から同情申し上げます。ところで、不可抗力で巻き込まれるダイヤ混乱・渋滞への対処法、皆様さまざまな対策を講じておられることと思いますが、私の場合の対処法をご紹介します。

とはいえ、ふだんは「時間待ちのための退屈しのぎ」を工夫する程度ですみます。私の場合は、できるだけ大曲を用意すること。ふだんはなかなか聞けない長大な曲を、辛抱強く聞くのはまったく状況にぴったんこです。マーラーの「大地の歌」などは最適です。クレンペラー盤とバーンスタイン盤とエリアフ・インバル盤など。電車利用の場合は、携帯型CDプレーヤーのほか、文庫本をコートのポケットにしのばせることでしょうか。それも、照度の不足がちな状況でも読めるように、あまり難しくなく活字も大きいものがよろしいようです。

もっと厳しい条件の場合もあります。たとえば厳寒期の庄内地方。猛烈な地吹雪は、30分も停車していると車体の下に雪が流れ込み、どうにも動けなくなるほどです。そうすると、あとは車が埋もれてしまうのを待つばかり。最後は車を捨てて、徒歩で人家のあるところまで歩くことになります。街中の通勤ではそれほどではありませんが、地吹雪地方での出張や通勤には、防寒衣類と防寒靴、それに手袋が必須です。スーツ姿のビジネスマンも、車の中にはスコップとアノラック上下とウールの靴下、長靴と厚手の手袋などを念のため用意しておきます。最近は防風柵が普及し、生命に関わるほどの地吹雪は少なくなりました。しかし、過去に夜の渋滞の先頭部分にいたためにようやく脱出できた経験があります。あとでニュースを聞くと、ずっと後の車列は地吹雪に閉じ込められ、エンジンをかけて暖を取っているうちに雪に埋まり、ガス中毒で死者が出たとのこと。一度恐い思いをすると、さすがに用心深くなりますね。
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リヒテル夫妻のグリンカ「歌曲集」を聞く

2005年12月18日 16時21分11秒 | -オペラ・声楽
何年ぶりかでグリンカの「歌曲集」を聞いた。スヴャトスラフ・リヒテルの1940年代から50年代の演奏を集めたモノラル録音のシリーズ中の一枚(ビクター MK-1014)である。実際にはどこかホールでのリサイタルのようで、最後に盛大な拍手が録音されている。歌っているのはリヒテル夫人のニーナ・ドルリアク(Sp)、伴奏をリヒテルが受け持っている。内容は、以下の12曲。

A-1 応えてよ、わが問いに
A-2 おまえのそばにいると
A-3 ヴェネツィアの夜
A-4 おお、おまえ、うるわしき処女よ
A-5 旅のうた
A-6 天上の聖女と呼ぶなかれ

B-1 子もりうた
B-2 早く判っていたら・・・いたら・・・
B-3 かわいい女
B-4 フィンランドの入り江にて
B-5 アデーリよ
B-6 忘れがたき、かのひととき

初めてこのLPを聞いたとき、ストレートに胸にひびくものがあった。プーシキンほかの歌詞がわかればなおよいのだろうが、ロシア語は皆目わからないし、大塚明氏の解説から大要を知るしかない。第二次大戦後、スターリン時代の困難な時に音楽家や録音エンジニアらが残した貴重な記録が、現代の中年おじんの胸をうつ。そうして、この演奏を愛し、ステレオ全盛期にLPとして復活しようとした、1973年当時のビクターのプロデューサーの心意気も感じられるように思う。

残念ながら、この録音のCDはまだ見たことがないため、しばらくレコードプレーヤーは手放せない。写真右下のハンカチの上にのっているのは、愛用のカートリッジ。グレースのF-8CとデンオンのDL-103。本当はモノラル録音はモノラル・カートリッジで聞くべきなのでしょうが。
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集合と離散~人が集まるところが中心だ

2005年12月17日 22時15分23秒 | 散歩外出ドライブ
夕方、車で出かけた。山形市内は歳末の買いもの客が多いのか人出が多く、車の流れも渋滞がちである。それでもかつての中心街はシャッターが降りたままの店が多い。そこに住む知人は、野菜を売る店がついになくなったと嘆いていた。それまであったスーパーが郊外に移転し、いよいよデパートの地下食品売り場とコンビニしかないのだという。こうなると、県庁所在地に住んでいるのも楽ではない。追いたてられるように郊外に移って行く事情が理解できる。

郊外には住宅地が分譲され、大型のスーパーやらショッピングセンターが続々と出店している。広い駐車場を持ち、車で買いものに来れる。品揃えも豊富で値段もそこそこ手軽である。多くの客が集まってくる。これでは、市内中心部がさびれるのは当然だろうという気がする。市の中心部にあった地元資本の書店が、隣接する市に郊外型の店をオープンした。今日見てきた限りでは、ここはゲームやビデオ、CDや雑誌などが主体で、単行本などは本店ほどの充実度はない。本店では大学をすぐ近くに控えているため、専門書も相当に充実していたが、こちらはエンターテインメント系のコンセプトのようだ。ただし、近隣に工業団地や東北パイオニアなどの優良開発系企業が多数立地しているためか、IT・技術系の専門書はまずまず充実しているようだ。

こうして見ると、中心と言うのは人が集まるところであって、場所が先に決まっているわけではないことがわかる。そして、人が集まるところは時代によって移動する。
その要因は、今では車が快適に走れて買いものや外食に便利なところなのだろう。いくらかつての中心街に小規模な駐車場を点々と作っても、信号が多過ぎて快適なドライブはできないために、移動の快適性を求める人々には敬遠されてしまうに違いない。そして、大規模なショッピングセンターも、やがて駐車場から売り場まで歩く距離が遠過ぎると敬遠されるようになるのだ。暮らしやすい快適な街とは、集合と離散を繰り返す人々の収束するところなのだろう。
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雪が降らないうちに

2005年12月17日 12時00分28秒 | 週末農業・定年農業
晴天の週末、朝から農協に行き、ラフランスの出荷に使ったコンテナを回収。また、冷蔵庫からシルバーベルを取り出し、自宅の暖かいところに移動した。これで、果実の呼吸がそろい、一斉に追熟が始まる。甘くなったところをいただきましょう。
日中は、お天気が良かったので、少し離れた園地にふじリンゴを収穫に行く。雪に当たり、すっかり葉を落としたリンゴの木に、寒そうにリンゴがぶらさがっている。新雪を踏んで足場は悪いが、葉がないので収穫作業はしやすい。四駆の軽トラックが走れるうちに、家で一冬食べる分くらいの収穫はできそうだ。積雪量が増え、軽トラックが走れなくなったらおわり。収穫できなかった残りは、鳥のエサになるしかない。
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プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番を聞く

2005年12月16日 21時22分40秒 | -協奏曲
プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲は2曲あり、第1番は「古典交響曲」やピアノソナタ第3番とともに、1917年に完成している。1917年といえば、ロマノフ王朝が崩壊したロシア革命の、まさにその年である。ペテルブルグ音楽院では、リャードフらの教師をてこずらせる、才能ある問題児だったが、ペテルブルグ音楽院を卒業して三年後、26歳の青年音楽家だった。だが、翌年には革命を逃れ、シベリア経由で日本(横浜)に渡る。ここからは、雑誌「ステレオ芸術」1973年4月号に掲載された「日本洋楽外史」連載第7回、野村光一・中島健蔵・三善清達の三氏対談記事による。

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(大正七年六月廿五日の都新聞の記事:)
「露国青年作曲家 セルギー・プロコフヰエフ氏」
「作曲家として洋琴家としてルビンスタイン賞を得た露国のセルギー・プロコフヰエフ氏(廿七)が来た、昨今奈良観光中であるが両三日中東京に於て自作の演奏をなすと云ふ氏が最初に発表した自作の曲はヘ短調のソナタで氏が十八才の時である。其後続々発表したがいづれも斯界に認識され、将来に嘱望さるる様になったのは十曲から成立て居る洋琴用組曲であるが、其独創的な作品の世間を驚かしたのは管弦楽用の「アラとロリー」といふのであった。其楽風は奔放軽快で昨今批評界の中心となって居る未来ある音楽家で前途に多大の注意を以て観られて居るといふ。」
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乗客名簿から楽譜出版者の瀬尾幸陽が見つけ、太田黒元雄に電話して一緒に会いに行った。大森の山王ホテルに宿泊していたところへ会いに行くと、自分の名前が知られていることにびっくりし、太田黒が主宰する「音楽と文学」誌で特集を組んでいることを話すと、たいへんに喜んだ。中古のスタインウェイを持っていた太田黒の自宅に連れて行き、自作やらスクリャービンなどを弾かせ、話をした。プロコフィエフは、六尺有余というから2m近い大男。手も大きく厚く、野蛮な音がする。こんな達者な人はそのまま帰すわけにはいかない、ということになり、帝国劇場の支配人・山本九三郎に頼み込み、音楽会をやってもらった。ちょうど夏の盛りの暑い頃で、当時のエリートは避暑に行っているらしく客が来ない。自作とスクリャービンのプログラムだったが、帝国劇場がガラアキで200人か300人しかいない。結局ギャラは貰えないまま、アメリカに渡って行った。
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(以上、対談を本ブログの筆者が要約)

ここからは、「電網郊外散歩道」の記事です:
こんなわけで、プロコフィエフの若い頃の作品(特にピアノ協奏曲第3番など)には、日本のメロディが取り込まれたりしているらしい。それにしても、大正時代にロシアの若い才能に注目している人がいたことに驚かされる。

さて、このヴァイオリン協奏曲第1番の初演は、アメリカからドイツを経てパリに住むようになった1923年、作曲者32歳のときである。当初はその斬新さが理解されず、ヨーゼフ・シゲティが積極的に取り上げるようになり、ようやく認められるようになったという。若い不羈奔放な作曲家が、才能にまかせて創作した独創的で「奔放軽快」な作品、という評価は適切だろうと思う。

第1楽章、アンダンティーノ。独奏ヴァイオリンが静かに始まり、木管が透明な空間に浮かぶように響く。ソロの動きが激しくなり、オーケストラも活発に活動し始めるが、音色は透明で、決して分厚くならない。私は、特に後半フルートと共に奏されるヴァイオリンのデリケートで透明なメロディが好きだ。
第2楽章、スケルツォ、ヴィヴァーチッシモ。若いエネルギーが噴出するような激しいパッセージが続出し、管弦楽も奇声をあげるように奏される。好き好きがあろうが、私はこの若い力あふれるリズミックな音楽が好きだ。
第3楽章、モデラート、アレグロ・モデラート。ファゴットのとぼけた呼びかけに答えるヴァイオリンの旋律は、まるで昔見た映画「屋根の上のバイオリン弾き」の音楽みたいだ。この親しみやすいメロディが様々に変奏される。決して記憶に残りやすいメロディではないが、鮮烈な印象を残す楽章だと思う。

この曲に初めて親しんだのは、アイザック・スターン(Vn)、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏するLP(CBS-SONY、SONC-10400)だった。解説は井上頼豊氏。CDでは、ボリス・ベルキン(Vn)、マイケル・スターン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団の演奏で、1993年にチューリヒ・トーンハレでデジタル録音されたDENONのCOCO-70667。私はベルキンさんのことはあまりよく知らないが、とてもいい演奏だと思う。大好きな曲の演奏は、みんないい演奏に聞こえてしまうのかもしれないが。どうぞ、この新鮮さを、一度聞いてみてください。いずれも第2番とのカプリング。

■スターン盤
I=9'22" II=3'37" III=7'57" total=20'56"
■ボリス・ベルキン盤
I=9'45" II=3'27" III=7'57" total=21'09"
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小野リサのコンサートをあきらめて

2005年12月16日 19時13分21秒 | Weblog
今晩は、本当は小野リサのコンサートに行く予定だった。だいぶ前にチケットを用意し、楽しみにしていたところ、突然の老父の入院手術。老父と水入らずならばともかく、私たちが出かけると老母が家でひとりきりで記念日を迎えることになる。そんなことも考え、せっかく用意したチケットだったが行かないことにして、家族で夕食を囲んだ。このへんの価値判断は、年を取ったからわかるようになったことかもしれない。
外は雪。今晩のメニューは、昨晩から用意した我が家の定番の「白菜カレー」だ。カリフラワーがコロンと入っていて、よく味が出ている。老母もこれなら食べられる上、私たちも満足。さて、今晩はめいっぱい音楽CDやビデオを楽しみましょう。
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もうすぐ開設1周年~ブログは一覧性に課題

2005年12月15日 21時30分36秒 | コンピュータ
もうすぐ、このブログを開設してから1周年になる。最初の記事は「なかなか雪が降らない」だった。昨年は12月の後半になるまで雪が降らなかったのだ。「雪椿とawkスクリプト」の記事から、雪が降ったのが実に暮の30日だったことがわかる。
ほぼ1年近く継続してきて、Weblogの課題も明らかになってきた。特に、数年間継続した場合の一覧性の悪さに問題が残る。少なくとも、タイトルだけのインデックス・ページはほしいところだ。昨年の今頃、という具合に記事タイトル一覧を参照し、そこから該当するページにジャンプできる。そんなページが自動生成されてほしい。中には、手動で(自分で)インデックス・ページを作っている人も見受けられるが、そんな作業こそコンピュータで自動化すべきだと思うが、いかがなものだろうか。
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来年の干支は私たちでしょ?

2005年12月14日 20時29分15秒 | Weblog
えっ、ちがうの?どーしてぇ?そんなのいやだ~、フニャー!
と言ったかどうか知らないが、我が家の親子猫、一見仲むつまじく、しかし実際には親子の確執が激しく、こんなふうに並んでカメラに収まるのはたいへん珍しいことです。これは、連日の寒さに震え上がり、二匹とも小型テレビのスリープ熱を暖房にしているため。私たちが帰宅して、ストーブとコタツのスイッチを入れると、とたんにサンマ状態になって寝転がります。ヤレヤレ。

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平岩弓枝『御宿かわせみ29・初春弁才船』を読む

2005年12月13日 21時46分11秒 | -平岩弓技
青い海を行く和船の上をウミネコが飛び交う。文庫版の表紙は、明るく初春らしく見事です。カバー・デザインは蓬田やすひろ氏となっています。
第1話「宮戸川の夕景」、いや、すさまじいものですね、死体のオンパレード。
第2話「初春弁才船」、上方から物資を運ぶ弁才船が、遠州灘で遭難したという。祖父も父も船乗りだったという若者が、どうしてもと願って東吾に西洋式の操船技術を習う。和船は本質的な欠陥があり、舵をもがれてしまえば坊主船になってしまう。荒れる外海を航海するには向かない。しかし、遭難した父が生きていたことを知り、船で再び大坂に向かう。やがて、新酒を積んだ一番船が品川に着いた。生きのびた父は象限儀を、そして息子は磁石と海図を持っていた。「かわせみ」に届けられた一番酒の角樽、いい話です。
第3話「辰巳屋おしゅん」、子が親の敵を討つのは良いが、親が子の敵を討つのは御法度。そのへんが封建時代のけじめなんでしょう。しかし、それではワル餓鬼に子どもを殺された親はたまらない、というお話。
第4話「丑の刻参り」。丑の刻参りといえば、ザンバラ髪の婆さんが藁人形に五寸釘を打つ、あれですか。ははあ。他人に見られると、効き目がなくなるとか。呪いって意外に弱いのですね。化学実験に使うと言えば子どもに酢酸タリウムを売ってくれる時代の方がよっぽどこわいです。
第5話「桃の花咲く寺」、住職らを殺害しお寺に寄進された金を奪った盗人一味。生き残りの芝居を見抜く東吾の活躍。
第6話「メキシコ銀貨」、外国から洋銀を持ち込んで一分銀に変え、それを小判にして持ち出す。どこかできいた話だなあ。貨幣価値は三倍に上がったが、庶民の暮らしは二倍にも上がっていない。残りはアメリカ国債にでも化けたかな。
第7話「猫一匹」、トラ猫が孔雀小屋に忍び込み、逆に半死半生の目にあわされた事件が、えらく大事に発展しまして。笑っていいのか。

この巻では、東吾もるいも、源三郎もお千絵も、宗太郎も七重も、もちろん子どもたちも、目だって変化はありません。おてんば花世が仕舞を披露するくらいかな。表題作「初春弁才船」がなんといってもハイライトでしょう。写真は12月初旬、雪化粧の月山です。
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ようやく帰宅しました

2005年12月12日 22時34分55秒 | Weblog
会議やら同僚の流感ダウン対応などで遅くなり、ようやく帰宅。私も気をつけなければ。皆様、インフルエンザにはご注意ください。いただいたコメントにreplyは明日にいたします。
この雪で、いつもより通勤時間がかかります。今日は、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」を聞いています。ライナー指揮シカゴ響。
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息抜きにパズルゲームを

2005年12月11日 20時42分21秒 | コンピュータ
ちょっとした息抜きに、コンピュータでゲームを楽しむことがあります。MS-DOSの時代は、いわゆる「落ちもの」ゲームとして「○○リス」類が流行しました。私もフリーソフトで出ていた「ぽろりす」や「コラムス」をずいぶん長い間楽しみました。
また、Windows3.1以降は、今も続く「ソリティア」を。ちょっとした暇つぶしに絶好です。一枚めくりだと比較的並べやすいのですが、三枚めくりで並べきるのはなかなか大変です。しかし、これには実はヒミツの裏技がありまして、CTRL+ALT+Shiftキーを押しながらカードをめくると、一枚ずつめくることができるのです。
それから、Windows95(Win32s導入時?)で、フリーセルが登場。私はImpress社のTeX for Windows を導入する際に Win32s をインストールし、このゲームも使えるようになったと記憶しています。これが結構先を見通す力が必要でした。今のパソコンでも、スクリーンショットのとおり、もうすぐ百連勝を目指していますが、ちょっとした頭の切り替えにいいパズルゲームです。
Linuxの場合は、また次の機会に。
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筋金入りの@niftyユーザーがなぜgooブログを選んだか

2005年12月11日 14時45分07秒 | ブログ運営
私は平成の始め頃に、旧Nifty-Serve の会員になりました。パソコン通信の時代、データライブラリに登録された各種のフリーソフトやスタイルファイルなどをダウンロードして利用したり、疑問な点をフォーラム(電子会議室)で質問したり、たいへんお世話になりました。したがって、メインのメールアドレスは、いまだに @nifty のものを使っておりますし、ADSLも@niftyを経由して接続しております。そういう意味では、筋金入りの@niftyユーザと言ってよろしいかと思います。

ところが、自分で作成管理しているいくつかのウェブサイトやブログは、結果としてなぜか@nifty以外のところになってしまっています。このうち、ウェブサイトのほうは、ウェブサイト自動生成管理システムであるPopCorn/PushCornを用いている関係から、yamagata-netサーバを利用していますので、@niftyでないのはしょうがないとして、ブログはなぜgooなのか。正規ユーザーですから経費の点では@niftyと無料のgooとの差はありません。実は、ブログ開設を検討したとき、私の自宅のISDN回線では、ココログの代表的サイトは重すぎて常用にたえなかったのです。比較した範囲では、無料のgooブログがなんとか実用の範囲でした。

その後、gooに開設した「電脳郊外散歩道」も徐々に内容が蓄積され、試行のつもりが本命になってしまったのでした。今では、中断して別のブログサイトに移行するのは困難になりました。時間的にも内容的にも、もう一つブログを立ち上げ維持管理する勇気はありません。「最初に始めたブログが本命になりやすい」。その意味では、@niftyが無料のブログを始めるのは遅きに失した感があります。

無料のブログを立ち上げた利用者を、しだいに正規ユーザーに誘導していくような要因として、今考えられるのは次のような要素でしょう。
(1)ブログコンテンツのバックアップ機能
(2)歓迎せざるトラックバックやコメントを、キーワードやドメイン名で遮断する機能
(3)「読書」というカテゴリが肥大化したとき、書名で一覧できるようなインデックスページを生成する機能(サブカテゴリ化)
(4)過去に作成した自分のブログコンテンツのバックアップを引継ぎ、引越しできるツールの提供

今年最大の流行語になりそうな「ブログ」、各主宰者にはたいへんな一年であったことでしょう。舞台裏で維持管理するスタッフの皆様には、ご苦労が絶えないことと思います。しかし、それぞれのブログサイトが競争している今、機能面であるいはインフラ面で、進歩のスピードは驚異的です。老舗である@niftyにもがんばってもらいたい。さて来年は?目が離せません。
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小川洋子『博士の愛した数式』を読む

2005年12月10日 16時12分56秒 | 読書
少し前に、小川洋子さんの『博士の愛した数式』がベストセラーのトップにあった。なんでも、書店員の人たちの推薦するベストワンだとかで興味を持ち、ちょうど機会がありこの本を入手したしだい。

物語の幕あきは、家政婦として勤め始めた女性とその息子が、博士の家で平方根を考える場面から始まる。-1のルートは?分数をようやく習ったばかりの息子に、博士は優しく根気よく問いかける。この場面に、三人のその後の関係要素が全部つまっている。
複雑な生育歴を持つ女性が母と同じように私生児を産み、生活のために家政婦として勤めた始めた家に、博士はいた。数学を日常の言葉とする天才的な学者だが、記憶が80分しかもたず、家政婦が長続きしない。L.V.ベートーヴェン家みたいなものか。

博士は子どもが好きで、女性の息子にルートという愛称をつける。博士の人間性に触れ、三人が数学や野球を媒介とした友情に結ばれる頃、突然の博士の発熱と看護、そして解雇。雇い主の未亡人は義姉にあたる人だが、博士との関係はミステリアスだ。そして対立のあとの理解。再び勤め始めた家で、息子の11歳の誕生日を祝おうと計画した。人を喜ばせることを企画し楽しむ気持ちは、80分しか記憶が持たなくとも変わらないようだ。タイマーは徐々に短くなっているというのに。

22歳になったルートとともに病院の博士を訪ねるエピローグは悲しい。だが、老いて呆けた親しい人の手を握り、別れを経験した人ならば、弱々しい腕で若者を祝福する姿をいつまでも忘れないことだろう。なぜなら、無償の愛が次の世代の心にバトンタッチされているのだから。
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