電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

心に残るエピクロスの言葉~数十年ぶりの文庫本

2008年09月16日 05時38分52秒 | 読書
昔、高校で、化学と世界史を同学年の同学期に習い始めた頃、原子論を唱えた古代ギリシアの哲学者たちのことを知りました。万物は原子からなり、様々な物の性状は原子の組み合わせに由来する、という考えに、根っからの理系人間として親近感を持つとともに、その学派の実際の文章を読んでみたいと興味を持ちました。
受験勉強を経て入学した大学生活、★二つの岩波文庫で『エピクロス~教説と手紙』を手にしてパラパラとめくったときに目にした文章の断片。当時流行の難解な書物よりも、ずっと心に残りました。現在の某中古書店の最低価格よりも安価な小冊子ですが、本棚の奥から数十年ぶりに見つけ、現在の目で読み返すとき、年を取った分だけ、なお興味深く感じられるものが数多く見つかります。

「不正を犯しながら発覚されずにいることはむつかしい。そして、発覚されないことについての保証を得ることは不可能である。」 p.89、「断片」7

「なんぴとも、悪を見て、あえてこれを選ぶわけではない。むしろ、それをより大きな悪と比べて善であるかのように思い、これに惑わされて、悪を追い求めるのである。」 p.89、「断片」16

「われわれの生まれたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないものと定められている。ところが、君は、明日の<主人>でさえないのに、喜ばしいことをあとまわしにしている。人生は、延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆくのに。」 p.89、「断片」14

「われわれが必要とするのは、友人からの援助そのことではなくて、むしろ、援助についての信なのである。」 p.92、「断片」34

「質素にも限度がある。その限度を無視する人は、過度のぜいたくのために誤つ人と同じような目にあう。」 p.99、「断片」63

「自分で十分に用が足せるものごとを、神々に請い求めるのは、愚である。」 p.99、「断片」66

「"長い人生の終わりを見よ"と言うは、過去の善きことどもに対する忘恩の言葉である。」 p.101、「断片」75

いわゆるエピキュリアンという言葉とはずいぶん違うようですが、考えさせられる内容の本です。
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1週間遅かった~プルーンの収穫

2008年09月15日 05時59分05秒 | 週末農業・定年農業
老父が亡くなり、残念ながら消毒も手入れもできていない果樹園ですが、プルーンは収穫できそうだと思っておりました。先週は草刈りに時間を取られ、プルーンの収穫までは手が回らず、一週間おいて見たら、なんと、ほとんど野鳥に食われて落果し、残っている実はごくわずかです。くやし~い(ToT)
もっとも、たくさん収穫しても出荷できるわけでもないし、一年分のプルーンジャムを作る程度の収穫はありましたので、ちょうど都合が良いと言えばそうも言えるのですが。とりあえず、来年のためにメモしておきましょう。

プルーンは9月上旬に収穫のこと。中旬では遅くなってしまう。

単身赴任、片手間の農業後継者も、なかなか大変です。今日は老父の四十九日。忙しい一日になりそうです。
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北康利『蘭学者川本幸民』を読む

2008年09月14日 05時25分41秒 | -ノンフィクション
江戸時代の蘭学者といえば、まず『解体新書』を翻訳した杉田玄白や前野良沢らを思い浮かべます。特に、吉村昭の一連の著作、前野良沢を描いた『冬の鷹』、『ふぉん・しいほるとの娘』『長英逃亡』『日本医家伝』などを通じて、蘭学者たちの多彩な事績を知りました。

しかし、医学(蘭方医)の実用性や、土木・軍事技術の目に見えるわかりやすさに比べて、知識や概念、ものの見方・考え方に関する変革の解明は、ずいぶん不明なところが多いように思います。福沢諭吉が、アンモニアの実験をして周囲を辟易させたエピソードは、『福翁自伝』などに書かれていますが、近代的な物理学や化学の前史がどのように展開され、受容の基礎が築かれたのか。お雇い外国人や留学生たちの業績はだいぶ解明されていますが、江戸時代の蘭学者たちの努力は不明なところが多いようです。



幕末期の蘭学者、川本幸民の生涯を描く、北康利著『蘭学者川本幸民』(PHP研究所)は、そのような空隙を埋めてくれる好著です。摂津国三田藩(現在の兵庫県)の藩医の末子として生まれた川本幸民は、父の急死などにもかかわらず、兄の援助や藩主である九鬼隆国の理解ある計らいで、蘭学を学びます。坪井信道を師に仰ぎ、緒方洪庵らを友として、学問の道にいそしみますが、いつしか医学よりは理学に興味関心の中心が移ってしまいます。そのきっかけと言うのが、酒の上での刃傷沙汰で謹慎中に読んだ、岳父青地林宗の書『気海観瀾』でした。この本は、いわば日本初の物理学の体系的著作で、物理や化学はすべての学問の基礎であると主張するものです。

シーボルト事件、蛮社の獄、モリソン号事件、黒船来航などの大きな事件が続く幕末の世情の中で、才能ある若者を籠に閉じ込めるのではなく、大きく成長させたいとする藩主隆国の温情が、謹慎を解く力となっていました。しかし、藩主が交代し息子の時代となって、学者といえど特別扱いをしない「改革」により、幸民は冷遇されます。ところが世の中はよくしたもので、川本幸民の才能は薩摩藩の島津斉彬の目に留まります。

この頃の幸民の業績の代表が、シュテックハルトの「化学の学校」の翻訳である『化学新書』です。この記述をもとに、わが国初のビール醸造に成功したことなど、なんとも楽しいエピソードです。やがて、幕府が設置した蛮書調所のナンバー3に迎えられますが、この頃の彼の身分は三田藩士ではなく、なんと薩摩藩士になっていました。これは、やや現代風に言い直せば「物理学と化学は経済の根本なり。今日以後経済の基礎はこの二字より立つるべし。」という、島津斉彬の思想に基づき、ヘッドハンティングされていたのでした。ところが、やはり不運な人なのですね。その島津斉彬が急死してしまいます。でも、愛弟子である松木弘安が幕府の遣欧使節団の一員に選ばれ、オランダが実はヨーロッパ随一の強国ではなく、今後は英語を第一に学ぶべきであることなどを伝えて来たとき、幸民はずっと以前からそれを知っており、息子には早々と英語を学ばせていたのでした。

生麦事件、薩英戦争などを経て幕末の動乱が始まる頃、ひたすら西洋の物理化学の翻訳と普及につとめた川本幸民の代表的著作、『化学新書』の内容は、ちょっと興味深いものがあります。ドイツのノーベル賞化学者、バイヤー、フィッシャー、オストヴァルドなどが学んだという教科書『化学の学校』を翻訳したその内容は、

無機化学編ではリチウム、チタン、テルルなどを含む元素67種が解説され、酸素とオゾンのような同素体や異性体についての記述もあり、化学記号を用いて化学反応について詳述されているとのこと。万物は粒子からなり、原子が集まったものが分子で、という意味で「分子」という語を初めて使用したのも、どうやら川本幸民が最初らしい。そもそも「chemistry」を、もとは中国の言葉らしい「化学」と訳したのも、どうも川本幸民らしい。

というように、現在の観点から見ると、原子量やモル概念などの化学量論、ファラデーの法則などの電気化学的知識、当時勃興期であった多彩な有機化合物の世界などが欠けているとはいうものの、その時代としては最新かつ最も適切な書物を選択しているのだろうと思います。日本語で、こういう基礎的概念を身につけていたために、当時のお雇い外国人に学ぶ日本の若者も、海外に派遣された留学生たちも、学問の厳しさに挫折することなく、その成果をあげることができたのだろうと思います。

果実の収穫の前には、土を耕し、肥料を与え、果樹を育てた環境と人の努力がある。幕末の蘭学者の艱難辛苦を掘り起こし一般の私たちに知らしめる、価値ある著作であると思います。

写真の右側は、佐野之彦著『N響80年全記録』。こちらも興味深い本ですが、まだ手をつけるには至っておりません。読書の秋の楽しみの一つです。
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ノイマンとチェコフィルでマルティヌー「交響曲第3番」を聴く

2008年09月13日 04時10分24秒 | -オーケストラ
ここしばらく通勤の音楽で聴いているのは、ノイマン指揮チェコフィルの演奏で、マルティヌーの「交響曲第3番」です。ピアノ協奏曲第5番を記事にしてはきたものの、私にとってこれまで馴染深い作曲家とは言えなかったマルティヌー。第1番と第2番をじっくり聴いて、プロコフィエフやバルトークなどと同時代でありながら、独特の響きと息の長いクレッシェンドの魅力を、少しずつ理解できてきたように思います。その意味で乱暴に要約して言えば、第3番は、全体に悲劇的で重苦しい印象の音楽です。

第1楽章、アレグロ・ポコ・モデラート。しょっぱなの出だしから、悲劇的な始まりです。前作の牧歌的な雰囲気とは一転して、重苦しい印象を受ける音楽です。マルティヌーは、ピアノを、オーケストラ楽器として実にうまく使っています。
第2楽章、ラルゴ。前半、かなり長いフルート・ソロが、見事です。後半、執拗に連打される低音のリズムは、かなり重苦しい雰囲気に。最後は明るさが見えて終わります。
第3楽章、アレグロ。荒々しい劇的な始まり。トランペットが吹き鳴らされ、次第に緊張が高まってきます。アンダンテでは、長大なヴィオラ・ソロが続き、ファゴットが対旋律を奏でます。やがてオーボエに移り、高音のヴァイオリンに。このあたりは、どこかしら祈りの雰囲気。やがて、明るい堂々たる旋律がちらりと姿を見せ、最後はホルンとトロンボーンによる、ドヴォルザークの「レクイエム」冒頭主題で終わりますが、最後にピアノが「ガッ、…ガッ、…ガッ」と短く入るところの間合いが、実に印象的です。

1943年から44年にかけて、作曲されたとのことです。たぶん、ノルマンディー上陸作戦の前までは、ヨーロッパ戦線は膠着状態で、唯一ナチスに占領されていないロンドンはV2ロケットによる爆撃を受けている状態。米国はヨーロッパと太平洋と、二方面作戦の展開を余儀なくされている。そんな、先の見えない状態が、この悲劇的な曲を作らせたのかもしれません。そうでもなければ、クーセヴィツキーのボストン響での指揮活動25周年を記念する依頼作品がこの重苦しさでは、「なんぼなんでも(*)」説明が難しいところでしょう。
(*):当地の方言で「いくらなんでも」。「なんぼなんでも、そりゃないべ~」などと使います。

私の場合、なじみの薄い曲に親しみ、理解するには、とにかく繰り返して聴くのが一番良いようです。繰り返して聴いているうちに、次第にマルティヌーの語法のようなものが理解できたように思います。独特の響き、持続する大きな息の長いクレッシェンド、複雑なリズムが細かに背景をなす構造など、ああ、これがマルティヌーなんだ、と納得です。と同時に、マルティヌーの音楽を繰り返し聴いた後で、ベートーヴェンの「英雄」交響曲を聴いたりすると、その軽やかさ、新鮮さに思わずはっとします。たぶん相対的なものでしょうが、20世紀前半の音楽にある重苦しさというのは、やはり二度の世界大戦の悲劇の重さなのでしょう。

■ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコフィル盤
I=8'50" II=8'48" III=10'50" total=28'28"

明け方に、アホ猫が何やら獲物をくわえてご帰還あそばしまして、時ならぬ騒動。おかげですっかり寝そびれてしまいました。やれやれです。二階の窓が開いていたのが油断だった!
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いつぞやの若夫婦に双子の赤ちゃん誕生

2008年09月12日 06時18分30秒 | Weblog
結婚前に、妻と二人で相談に乗ったいつぞやの若夫婦(*)、結婚披露宴にもおよばれして楽しく過ごしましたが、つい先日、双子の赤ちゃんが誕生したとのこと。女の子だそうです。いきなり二児の母親になったお嬢さんと、ただおろおろするしかない若いパパはもちろん、ようやくジジババになった御両親の喜びはいかばかりかと、想像する次第です。さっそく参上してお祝いを言上したいところですが、残念ながら単身赴任生活では喜びをわかちあえる人がいない。せめて、週末に二人で出かけることにいたしましょう。

(*):お出かけ~CDを購入して嬉しい一日

通勤の音楽、ひたすらマルティヌーの交響曲第3番と第4番を聴いております。時折、気まぐれでベートーヴェンの「英雄」を聴いたりすると、「あの」エロイカが、なんとも軽やかな、優雅な音楽に聞こえてきます。面白いものです。20世紀の前半というのは、そういう時代だったのかもしれません。
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諸田玲子『蛍の行方~お鳥見女房(2)」を読む

2008年09月11日 05時56分28秒 | 読書
新潮文庫で、諸田玲子著『蛍の行方~お鳥見女房(2)」を読みました。前作からほぼ1ヶ月の間をおいて(*)の読了です。

ひたすら実直に、平穏無事に過ごして来た夫が、前作で、秘密の任務を帯びて沼津藩に潜入してから、ほぼ一年半が過ぎます。探索に出た次男と、居候の巨漢・源太夫の消息も途絶えがちです。前半はいたって日常的な風景が展開されますが、後半はぐっと大きな動きがあります。なんと、源太夫のことが心配で、多津さんまでが沼津へ。まあ、彼女はいざとなれば強いですので、心配はないのでしょうが、みなさんの現地主義は心強い限りです。父を守って切り結ぶ次男坊君、なかなかの勇姿です。それにしても、心に傷を負った夫君には、この先、どのような運命が待っているのか。続く第三作は心理的な展開と見ましたがいかに。

それにしても、夫君の筆跡の紙は、誰が投げ入れたのでしょう?いまだにわかりません。写真は、山全体を借景にした、某所・某家のお庭です。なかなか迫力です。



(*):諸田玲子『お鳥見女房』を読む
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夏の終わりに

2008年09月10日 05時32分34秒 | 散歩外出ドライブ
夏の終わりに、某ファームを訪ねたところ、「おみやげにいりませんか?」と聞かれたのが、これ。立派なカブトムシです。山の雑木林で捕まえて来るのだとか。かれこれ十数匹はいたでしょうか、毎日捕まえてくるのだそうです。すごいですね~!



あいにく息子も大きくなりましたし、単身赴任のアパートでカブトムシを育てる元気もないしで、どなたか別の方へと辞退してきましたが、いや、驚きました。

荒れ果てた田舎はごめんこうむりたいですが、美しい田舎は魅力的です。豊饒の秋を前にした夏の終わりに、万歩計の数値もただいま上昇中です。
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山崎美和恵『パリに生きた科学者 湯浅年子』を読む

2008年09月09日 06時29分13秒 | -ノンフィクション
岩波書店から発行されている、ジュニア新書シリーズは、やさしい語り口とは裏腹に、内容はかなり硬派で充実したものが多く、未知の分野の入門には手っ取り早く便利なものです。先日、山崎美和恵さんの『パリに生きた科学者 湯浅年子』という1冊を手に取り、面白く読みました。

帝大に女子が受験することを初めて許した東北帝大理学部に対し、文部省が詰問状を送付するような時代に物理学を志し、東京女高師の講師から渡仏、ジョリオ・キュリーのもとで原子核物理学の研究に取り組んだ女性、湯浅年子さん。ドイツ軍のパリ占領とレジスタンスの中で研究生活を送り、敗戦期の日本に帰国、母親の死を送った後に、1949年に再渡仏、以後、激しい研究生活を送ります。

著者の紹介する研究一筋の昔の学者の生活は、偉いなあと単純に尊敬しますが、睡眠時間を削って研究に打ち込み、医者に「いつ寝る(眠る)のですか」と聞かれて「車の運転をしているとき」と答えるエピソードは、笑ってしまうというよりも、やや異常な印象を受けてしまうのではないでしょうか(^o^)/
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コクヨが文庫本サイズのノートを発売予定

2008年09月08日 05時39分05秒 | 手帳文具書斎
ITmediaのBiz.IDに連載されている「仕事耕具」シリーズで、"コクヨがA6サイズの「文庫本ノート」、しおりで検索性向上"という記事が掲載(*)されていました。9月10日発売で、価格は283円だそうです。
表紙カバーの折り返し部分には、目次として使えるインデックス・スペースを配置し、ページごとにも左右両端に見出し罫を印刷してあるほか、文庫本と同様にしおりひもを付けて検索性を向上させたものだそうです。
無線綴じ、キャンパスノートと同様の用紙を採用、表紙にはカバーを付けてあり、カバーデザインは Basic, Casual, Natural の3タイプで、70枚という仕様だとか。文庫本カバーとの併用も面白いかも知れません。

(*):コクヨがA6サイズの「文庫本ノート」、しおりで検索性向上~「仕事耕具」シリーズ
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ノイマンとチェコフィルでマルティヌーの「交響曲第2番」を聴く

2008年09月07日 05時37分30秒 | -オーケストラ
このところ、朝晩はだいぶ涼しくなりました。残暑もあと少しで、急速に秋に向かっていくことでしょう。通勤の音楽に、散歩のお供に、このところ集中して聴いているマルティヌーの交響曲、週末を契機に、自宅のステレオ装置でたっぷり聴きました。

作曲家51歳、1943年の夏に、コネチカット州ダーリエンで完成した交響曲第2番は、クリーヴランド在住のチェコ人の依頼によるものでした。チェコスロヴァキア共和国独立25周年の記念に、エーリッヒ・ラインスドルフ指揮のクリーヴランド管弦楽団により初演されたとのことです。1943年というとセル時代のちょっと前ですね。

第1楽章、アレグロ・モデラート。始まりは、スタジオ・ジブリのアニメ映画の音楽にぴったり合いそうな、魅力的なものです。半音階的に下降する副主題などのように、同時代の音楽としては、非人間的でない、親しみやすさがあります。
第2楽章、アンダンテ・モデラート。弦楽合奏を主体とし、管楽器が美しい響きを聴かせる旋律が、どこまでも続くような印象を受ける、ゆっくりとした音楽です。ピアノが低音でリズムを刻み、オーケストラ楽器として効果的に使われています。
第3楽章、ポコ・アレグロ。スケルツォ風マーチ。出だしこそ、まるでプロコフィエフのような印象ですが、でも響きに独特の厚みがありますし、リズムもプロコフィエフほど天衣無縫ではありませんで、むしろ粘り強く持続的で、しだいに高揚していきます。素材に「ラ・マルセイエーズ」の断片が使われているのだそうですが、残念ながら素人音楽愛好家には判読不能です(^o^;)>poripori
第4楽章、スケルツォ風ロンド。アレグロ。全体に明るい響きで、副主題のオーボエとファゴットのユニゾンが、のどかな印象です。でも、だんだんせわしなくなり、なるほど、スケルツォ風ロンドです。この作曲家に特徴的な、大きく高まっていく感じが、よくあらわれています。

大編成の音楽ですが、小グループに分割された楽器群が交互に現れるという意味で、コンチェルト・グロッソ風の音楽という印象を受けます。牧歌的で、とても美しい音楽です。演奏は、ノイマン指揮チェコフィル、1977年~78年にかけて、プラハの「芸術家の家」でのアナログ録音、DENON の COCQ-84038-40 です。

1990年~クーベリックが「わが祖国」を振り、バーンスタインの「第九」で閉幕した、ビロード革命の翌年~の「プラハの春」は、マルティヌーの特集だったのだそうです。しかし、この第2番の交響曲の日本初演は6曲中もっとも遅く、1998年11月21日、ネーメ・ヤルヴィ指揮デトロイト交響楽団(豊田市)まで待たなければならなかったとか。日本におけるマルティヌーの受容の歴史は、意外に新しいのかもしれません。ノイマン指揮チェコフィルの全集に添付の解説書は、日本マルティヌー協会会長の関根日出男さんによる充実したもので、資料的にも充実しており、なかなか読み応えがあります。エトランゼの哀愁を背景とした望郷の音楽、などというレコード会社のキャッチコピーも、なんとなく頷いてしまう面があります。

■ノイマン指揮チェコフィル盤
I=6'31" II=7'17" III=4'41" IV=5'08" total=23'37"
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藤沢周平『漆黒の霧の中で~彫師伊之助捕物覚え2』を読む

2008年09月06日 06時40分05秒 | -藤沢周平
藤沢周平のハードボイルド・ミステリー時代小説(?)第2弾、彫師伊之助シリーズの続きで、『漆黒の霧の中で』を読みました。伊之助は、相変わらず彫藤で版木彫り職人を続けています。おまさとの関係は進展していますが、残念ながら一緒の所帯を持っているわけではなく、店の二階で公然の仲、というだけ。このへんは、前作の結末から見て、ちょいと腑に落ちないところもあります。一人暮らしに馴染んでしまうと、なかなか思い切れない、ということはあるかもしれませんが。

さて、今回は、伊之助が不審な水死人を見かけるところから始まります。仕事場を訪ねてきた南町奉行所の同心の石塚の依頼で、水死人の身元を調べ始めるのですが、伊之助の昔の稼業を知らない親方は、探索のため休んだり早退したりすることを、快く思いません。同心の石塚は、直下の岡っ引が年をとってしまい、探索も滞りがちなのを見て、伊之助に依頼したのでした。さらに第二、第三の殺人が起こりますが、探索の時間をひねり出すのが、なかなか難問です。このあたり、業界新聞に勤めていたサラリーマン時代の経験を生かしているようです。

せっかくのミステリーですので、結末は省きますが、しかし冒頭の表現、

藍を溶いたような空がひろがっている。その空にわずかな風が動いて、塀のうちの木の梢をゆするのがみえた。若葉の梢は、風が吹き過ぎるたびに、いたずらを仕かけられた小娘のように、大げさにさわいて日の光をはじく。

いや、実にうまいものです。若葉の頃の見事な描写、比喩の見事さ!
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パソコンの選び方~私の場合

2008年09月05日 06時07分48秒 | コンピュータ
自宅のメインパソコンをようやく更新し、Linux(Ubuntu) を中心として、快適に使えるようになりましたが、一週間のうち週末以外の大半を過ごす単身赴任のアパートでは、Windows2000 で動作する古いパソコンを使っています。ところが、フリーのアンチウィルスソフトが悪さをしているのか、やけに性能が悪いように感じられてしかたがありません。かといって、アンチウィルスソフトを入れないで Windows を使うなど、なんとも不安です。

そこで、今まで自宅でメインに使っていた、VineLinux で動作するパソコン FMV-6450CL3 を、単身赴任のアパートで使うことにしました。比較してみると、CPU のクロック周波数では劣っているのに、実際の動作は Linux機(FMV)のほうがずっとスムーズです。これなら、ウィルスの心配もまずありませんし、どちらかが壊れても、もう一台の方で対応することができます。







【追記】
2台のパソコンは、机がわりのテーブルの下に、並べて置きました。1組のキーボードとマウスとディスプレイで使えるように、パソコンの上に見える、Aten の CPU 切替器を使っています。これは、CTRLキーを連打すると、Windows パソコンと Linux パソコンを切り替えることができますので、なかなか便利なものです。ついでに、キーボードとマウスも、交換しました。

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ところで、今回購入したパソコンの選択にあたっては、国内メーカーのものは余計な付属ソフトを満載し、ほとんど使いもしない機能をうたって価格を維持しているものが多く、はじめから却下していました。
ノート型は、小型(B5)で長時間運用が可能な携帯用をすでに使っておりますので、ディスプレイの広々とした大きさとキーボードの置き方の自由さで、ふだん使うものとしては、デスクトップ型と決めております。
その他には、次のような基準で、選択をしました。

今なら、CPU性能よりもメモリの搭載量が重要。必要と言われている値の倍にしておけば、なんとか実用になる。WindowsVista なら 1GB が必要と言われているので、2GB を搭載するもので、価格がそこそここなれているデスクトップ。

周辺機器やソフトウェアの操作性の継承などを考え、WindowsVista に触れる機会を残しつつ、Linux 中心の選択としたものです。hp の s3540jp/CT は、実用的な選択でした。

ただし、使ってみてわかったことですが、Ubuntu は文字コードが UTF-8 (Unicode) で、TeX/LaTeX には適したディストリビューションではなかったようです。もしかすると、WindowsVista のほうに、vmware+VineLinux を仮想環境で試すという手段もあるかな。使い慣れた VineLinux のほうは、TeX/LaTeX 環境としては素晴しいものがあります。
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ハグロトンボを見つけた!

2008年09月04日 06時19分10秒 | 散歩外出ドライブ
単身赴任先で、散歩をしていたら、きれいな小川でなにやら黒っぽい羽のトンボを見つけました。おや?ハグロトンボじゃないか!



わが自宅の付近では見かけることが少ないのですが、ハグロトンボのヤゴは、流れの緩やかな、比較的きれいな水に生息するはず。たしかにこの小川は植物が豊富で、見るからに水がきれいです。しかも、すぐ間近に薄暗い林があり、成育条件としては理想的かもしれません。



そういえば、昔はオニヤンマがたくさんいたなぁ。ギンヤンマやシオカラトンボなどもいたはずだ。野の花を探す散歩もいいのですが、こうした昆虫に出会うのも、うれしいものです。

通勤の音楽は、マルティヌーの交響曲第3番と第4番を繰り返し聴いております。第3番はコンチェルト・グロッソふうに、第4番はこの作曲家にしては明るめの、いずれもなかなかいい音楽です。
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ハイドン「弦楽四重奏曲第75番」作品76-1を聴く

2008年09月03日 05時13分49秒 | -室内楽
朝晩は、だいぶ涼しくなりました。今朝は、やけに早く目がさめてしまい、携帯CDプレイヤーで音楽を聴きました。ハイドンの弦楽四重奏曲第75番、作品76-1、カルミナ四重奏団の演奏です。

第1楽章、アレグロ・コン・スピリト。いや、出だしの3つの音で、ぱっと目がさめました(^o^;)>poripori そして、続く音楽は、まぎれもなく充実したハイドンの作品です。薄明に紛れて、パジャマのまま戸外を散歩したくなります。
第2楽章、アダージョ・ソステヌート。静かに深く、集中力に富む緩徐楽章です。4つのパートのそれぞれに魅力的な旋律もあり、音楽の表情は刻一刻と変化します。
第3楽章、メヌエット:プレスト。メヌエットというよりはむしろスケルツォといいたいような、でも途中はたしかにメヌエットに違いない、短く速い音楽です。
第4楽章、フィナーレ:アレグロ・マ・ノン・トロッポ。フィナーレなのにト短調!で始まります。でも、深刻な楽想に終始するわけではなくて、多面的な音楽の、表情の多彩さを示すためのもののようです。最後の軽やかな終わり方は、やっぱり颯爽としたハイドンです。

1995年、スイスのラ・ショー・ド・フォン、ムジカ・テアトルにおけるデジタル録音です。「エルデーディ四重奏曲集 作品76」と題された価値ある2枚組、DENON の COCO-70790-1、これが1500円とは演奏家に申し訳ないような、でも素人音楽愛好家には嬉しい限りです(^_^)/
カルミナ四重奏団は、近々新録音が出るとか。楽しみです。

どれ、コーヒーでもいれて、クッキーでもつまみましょう。朝はまだゆっくりと明けています。

■カルミナ四重奏団
I=5'37" II=6'36" III=2'29" IV=6'02" total=20'44"
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藤沢周平『消えた女~彫師伊之助捕物覚え』を読む

2008年09月02日 06時02分53秒 | -藤沢周平
藤沢周平『消えた女~彫師伊之助捕物覚え』を読みました。ほぼ五年ぶりの再読です。いや~、やはり面白いです!

藤沢周平が生まれ育った土地柄は漢学や素読といった雰囲気でしょうから、時代小説作家と欧米のハードボイルドなミステリーとの接点がどのへんで生じたのか、たいへん興味深いところです。あるいは戦後の山形生活、師範学校時代に足繁く通った映画等を通して親しむようになったのかも。「彫師伊之助捕物覚え」シリーズの執筆のきっかけは、なんだったのでしょうか。おそらく、チャンドラーの「フィリップ・マーロウ」シリーズ等のハードボイルドなミステリーを愛読した作家が、こういうタイプの物語を、時代小説の分野で試みた、ということなのでしょう。

主人公の伊之助は、凄腕の岡っ引でしたが、稼業に入れ込むあまり、女房が男と駆け落ちした挙句、無理心中してしまった、という過去を背負っています。女房の手酷い裏切りに会い、痛手を受けた伊之助は、岡っ引をやめ、版木の彫師として暮らしています。そこに、昔の恩義ある先輩岡っ引だった弥八老人が訪ねてきて、娘おようの捜索を頼まれます。断りきれずに探し始めますが、娘の行方は知れず、行く手には大きな悪と、不正を怒り復讐を誓う怪盗が立ちはだかります。寝る前に一章ずつと思っていても、思わず続きを読んでしまう、ミステリーの醍醐味を味わうことができる作品です。

伊之助は、弥八老人の娘を、なぜそれほどまでに危険を冒して探したのでしょう。特に高麗屋の死後、手がかりがぷっつりと途切れた後も。たぶんそれは、女房の裏切りと死を自分の責任と思い、薄幸の娘を救うことで心の負債を弁済し、虚無の中から幼馴染であるおまさとの関係を手探りするための、無意識の、しかしそれだけに必死の探索だったのではないかと思います。



この後に『漆黒の霧の中で』『ささやく河』と続く連作シリーズの幕開けとなる、藤沢周平らしい重厚なハードボイルド・ミステリー時代小説です。
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