下の古写真を見てここがどこかすぐに分かる方はおそらくもうほとんどおられないだろう。
一駄橋から前方の、井芹川(左)と坪井川(右)の合流地点を望む(昭和初期の頃)
「おてもやん」の作者として知られる永田イネは、元治元年(1864)に米屋町の「糀屋」というみそ製造所の一人娘として出生した。四才の頃から踊りを習い始め、やがて琴・三味線・笛・太鼓等幅広く芸事に精通していった。幼い頃、井芹川で舟遊びしていて唄ったのが、細川邸(現北岡自然公園)まで聞こえ、細川護久公の所望によって舞や唄を披露し、脇差を戴いたこともあるという。おそらく上の写真左側の井芹川に舟を浮かべていたのだろう。
現在の一駄橋から坪井川上流を望む
宗禅寺の境内から坪井川と一駄橋を望む
一駄橋たもとの宗禅寺には僕の伯母の墓があり、前を通る時にはお参りすることにしている。
一駄橋から前方の、井芹川(左)と坪井川(右)の合流地点を望む(昭和初期の頃)
「おてもやん」の作者として知られる永田イネは、元治元年(1864)に米屋町の「糀屋」というみそ製造所の一人娘として出生した。四才の頃から踊りを習い始め、やがて琴・三味線・笛・太鼓等幅広く芸事に精通していった。幼い頃、井芹川で舟遊びしていて唄ったのが、細川邸(現北岡自然公園)まで聞こえ、細川護久公の所望によって舞や唄を披露し、脇差を戴いたこともあるという。おそらく上の写真左側の井芹川に舟を浮かべていたのだろう。
現在の一駄橋から坪井川上流を望む
宗禅寺の境内から坪井川と一駄橋を望む
一駄橋たもとの宗禅寺には僕の伯母の墓があり、前を通る時にはお参りすることにしている。
生まれながらの天才なんですかね。
脇差を戴いたなんて親の方が驚いたことでしょうね(笑)
私にはザ・わらべさんたちも天才に思えます。
有難うございました。
おそらく細川護久公が藩知事を務めていた明治4年前後のエピソードだろうと思います。イネが6・7才の頃だと推測します。
生家のみそ製造所は細川家の御用商だったそうですから、普段から覚えめでたい間柄だったのかもしれません。
英才教育を受けて育ったせいか、妓芸全般について弟子たちには厳しかったそうです。
洪水対策だと思います。昔から度々洪水を起こしていた坪井川と井芹川を、昭和に入ってから分離し、井芹川は戸坂町の方へ流すことにより、都市化が進んでいた城下町を水害から守ろうとしたんだと思います。
新町、古町が賑わっていた頃によく溢れていたんですかね?
坪井川は、80年代でも、雨が酷いと直ぐ坪井の辺りが床下浸水、床上浸水だのなっていたのを思い出します。