雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話-65

2007-06-28 05:37:46 | カワサキ単車の昔話
ジャンボリー。当時はそんな呼び方をしていた。

1973年8月4日、琵琶湖マキノ町で2000人のユーザーを集めて盛大に開催した。


その前の年もその年も、ジャンボリーは二輪のユーザーを集めて、いろんな遊びを楽しもうという目的で、全国各地で行われていたが、その規模は200名ほどの規模であった。

担当地区の近畿でこれを企画するに当たり、まず1000名以上の大きな規模でやろうということをまず決めた。

そのために大阪管内だけでなく、名古屋も含めて共同で行おうということになり、場所は大阪と名古屋の真ん中辺りを目標にして候補地を探した。

最初、候補地として挙がったのは、奈良の曽爾高原である
雄大なすり鉢状の地形は非常に面白いと思ったし、ツーリングで訪れるには格好のロケーションであった。

一端候補地として村の許可も貰って、雑誌広告まで打って進めていたが、1000人の人が来ると解って村は一転、許可を取り消したのである。
理由は環境問題であった。環境問題のハシリのような出来事であった。


それからが大変であった。候補地を琵琶湖のマキノ町に変更し,町の積極的な協力もあって、目標人数を2000人としその規模でのイベントを考えた。


当時では、はじめてのとも言える大掛かりな舞台を組んで、当時の有名バンドなどを呼んでのイベントとなった。
あまり名前まで覚えていないが、タレント料で260万円も払っているから、そこそこだったのだと思う。

大変ではあったが、大成功であった。
当時の特約店が会場で店を出したり、当時は初めて見る人が殆どだったジェットスキーのデモンストレーションや、ヨコの川での魚のつかみ取り大会、
夜のバンド演奏は本格的なものだった。

同じ夜にマキノ町が直ぐヨコで、花火大会をやってくれたのでそれを借景にした豪華な雰囲気であった。


一番の思い出は、その運営が非常に上手く何の問題もなく行われたことである。

企画の段階で、2000人も集めたら運営が大変と、いろんな所からいろいろ言われた。
意地でもきっちりと整然とした運営にしたかった。

そのために、デイズニーランド方式の金券やら、ユーザー各自がテントの回収をする仕組みとか、それこそ職位に拘らないやれそうな奴が長になる班編成などいろいろ考えて、殆どが上手く機能した。

2000人分のテントを張るスペースが砂浜に確保できるか。非常に難しかったのだが、その年未曾有の渇水で砂浜がどんどん増えたりした幸運にも恵まれた。
お陰で、隣の川で魚のつかみ取りが出来る環境にもなったりした。


このジャンボリーに携わってくれた人たち。今、思うとその後のいろんなイベントを支えてくれた人たちである。
思い出すままに列挙すると、

鍋島英雄,平井稔夫、藤田孝明、岡島、南昌吾、古石喜代司、竹内優、宮本進、谷沢高明君らがキーマンで若手の中にも想いでを共有する仲間葉大勢いるはずである。


マキノ町とはその後毎年10年近くのお付き合いが続いたと思う。
コメント (2)
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