雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話-75

2007-09-24 05:59:27 | カワサキ単車の昔話
カワサキはメイハツ工業に単車のエンジンを供給していたのだが、60年頃から明石工場での一貫生産を目指して単車準備室などが組織の中にあってその準備を進めてきた。

私が単車に移籍した61年末ごろには、ようやく明石に営業部門のようなものが設置されたのである。

125ccのニューエースが名前と違って全然駄目で、次のB7もフレームが折れる欠陥でどんどん工場に返却されていたそんな真っ最中に、営業部門に配属されたのである。

当時の国内営業部門はカワサキ自動車販売というメイハツの営業部門の人たちで組織された販売会社があって、明石は営業と言ってもそこへ出荷さえすればいいそんな機能であった。

配属されたら直ぐ小野助治さんと言う通称「おのすけさん」がいて、
(この方は佐賀出身のいい方だったが、面倒見がよくて当時単車の関係には小野助さんのコネで佐賀出身がいっぱい居た。後私の仲人もして頂いた)
「お前な、物品税をやってくれるか」が指示の第一声であった。



当時、贅沢税であった物品税は125cc以上のオートバイには掛けられていた。
納入は至って簡単なのだが、戻入は非常に手続きも難しく、税務署の立会い検査もあって、手間が掛かるのである。

B7の返品が出荷する以上にあったりする状況だったので、めちゃめちゃ忙しくどうやら私はそのために異動されたようである。

そんな時代であった。
カワサキのM50というモペットも造っていたし、井関農機が農協を通じて販売する、空水冷のモペット、タフ50なども扱っていた。

余り、経営状況など関心もなく、解かりもしなかったが、いい訳はなくて、単車はやるのかやめるのかそれもはっきりしない状況であった。
発動機部門に吸収されてその一部で単車が扱われていた時代である。

当時はまだ、高橋鉄郎さんや田崎雅元さんらはジェットで単車とは関係がなかったのである。
そんなことで、1年ほどだが単車は私のほうが先輩なのである。



B7の次に出たB8が何となく売れて、
単車をやるかということのなってジェットから第一陣の移動の中に、苧野豊秋さんや高橋哲郎、田崎さんらが居た。
苧野さんは営業の企画を担当された。
私の上は小野さんだった。

おのさんが、二人になって苧野さんはみんな「いものおのさん」と言って、区別し
ていた。

B8が調子よく売れ出した頃、「青野ヶ原のモトクロス」があったのである。
これが単車を本格的にやるきっかけとなったのである。

この話は次に。
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