雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昭和32年(1957年)  川崎航空機入社

2010-11-02 05:16:40 | 自分史
★昭和32年、神武景気と言われた。
前年までの就職難の時代から一転、技術屋さんは無試験、面接だけで入社が決まったのである。
年初には、既に就職は決まっていた。

大学時代、ロクに勉強もしないで、野球に打ち込んでいた。
3,4回生をキャプテン、5回生を監督という野球部生活であったが、練習はよくしたので、運動具店などへの借金は逆に大きく増えて、
このままでは、卒業できない状況にあったのである。

当時運動部主催のダンスパーティ―ィーが流行りだったが、これはどれも200人前後を集めた楽しいパ―ティーが普通であった。
そのパ―ティ―を『借金返済のため』と言う明確なコンセプトで、前年末から企画した。
神戸三宮に出来たばかりの『新神戸国際会館』を舞台に、普通のパーティーの10倍の規模のモノを狙ったのである。


日記をひっくり返していたら、そのパーティ-券がが出てきた。
入場料1枚100円である。

部員が一生懸命売りさばいて、先輩方の協力などもあって、
その収支を見たら、
収入204,096円   支出103、421円  利益100,675円 となっている。
支出は会場費27200円、バンド12000円、印刷費11000円ほどで、一番大きいのが税金32,700円である。

10万円の利益がでて、運動具店の支払いもしたのだが、それでも幾らか払い切れずに残ったと記憶している。
初任給12000円の時代だから、10万円の利益は結構大きいものだった。
今の金に直したら200万円ほど儲かったことになるだろう。




★学生生活、最後の想い出みたいなものである。
終戦の引き上げ時に1年、大学で5年まで行ったので、早生まれだが、就職は結局1年遅れて、この年24歳であった。

この年は何と言っても、川崎航空機入社が一番のニュースである、
学校の成績は無茶苦茶悪かったし、入社試験も社長のコネで、『入社した』と言うよりは『入れて貰った』みたいなものから、
事務屋の同期はみな企画や本社総務などまともなところの配属であったが、私は明石だが何故か名前は神戸製作所と称する部門の財産課配属となったのである。

周囲の人や、先輩たちからは、『地味なところで、面白くない、全然目立たぬ部門』と言うのが、定説だった。
財産課、文字通り会社の財産管理をする部門なのだが、
川崎航空機という会社は、戦後軍事産業と言うことで凍結されていて、少し前に再開された会社で、戦前の機械や、空襲で破壊された工場の鉄骨などを売りも営業収入と並んで収入源となっていた会社でもあったのである。

当時の財産物件とは、1万円以上が原則なのだが、何か工場新設などの場合は『300円以上は財産物件』に計上出来たようで、
机もイスも、自転車も、極端に言えばすだれやバケツも、財産物件に計上されていて、当然ながら決算期にはその償却計算をするのである。。
多分、経費に落としたら、たちまち赤字になってしまうので、財産物件に計上したに違いない。
戦前からある機械などは、台帳もあったが、工具器具備品などは、台帳もないし現物確認もできていない、
ただ決算期に、償却計算をする計算表だけがあると言う、とても会社とは思えぬ状況だったのである。

こんな財産課に配属されて、直ぐ車両運搬具の担当となった。車両運搬具と言えば格好いいが、ほとんどは場内用の自転車なのである。
戦前、10万人が勤めたという工場の敷地は23万坪もあると言われていて、自転車でもなければ工場間の移動は大変なのである。
さらに、秋からはそれに机や椅子など数の上では圧倒的に多い工具器具備品を担当することになった。
何千円の机でも、100万円の機械でも、人力で計算機を回して償却計算をする手間は変わらないので、
新入社員ではあったが、秋には女子1名が私の補助、カッコよく言えば部下ができたのである。




★オモシロくないと言われた財産課だが、私には結構面白かった。
まだ日本も貧しくて、机やいすや、自転車など、自らが使うものに、みんなひどく執着があり、関心があったのである。
その配分や修理などが日常業務だったのだが、当時各部門にいた財産管理担当者がその交渉相手だったのである。
これらの人たちは各部門でそこそこの人で、ちゃんと対応するとちゃんと跳ね返ってきた。
秋口には、『財産課は良くなった』という評価は、直接私の耳にも入るようになった。

そんなことで、工具器具部品の担当にもなったのだろうが、この科目は財産物件と言いながら、台帳もないし現物の照合もできていないのである。
先輩が担当している機械などは、曲りなりに台帳はあったのに、自分の担当の『工具器具備品にはない』と言うのがどうも気に入らなかった。

『よし、それを作って、現物照合もする』などと言ったら、他の課の先輩が『それは不可能だ』と言ったのである。
確かに、まともに言えばその通りである。
机や椅子にしても2種類あって、旧いものは財産に計上されているが、新しいものは経費で購入なので財産物件ではないのである。

その見分けは、確かに難しいのだが、小さなプレートを作って、財産番号を打ち込んで現物に貼りつけて、それを財産物件にしてしまうことにした。
いい加減な性格が幸いしたのである。
来る日も、来る日も釘と金づちを持って、現場の机や椅子を数え上げ、財産物件を作り上げたのである。
正確に言えば違うかもしれぬが、台帳がないよりはましなのである。




★しんどい仕事だが、そんなに難しくはない。こういう根気のいる仕事は得意な方である。
『おまえはいつ見ても金づちを持って現場を歩いている。』 と先輩たちにからかわれたが、『不可能』と言われた作業は出来上がったのである。
指示されたわけではないが、自分流に勝手に作ってしまったのである。

こんな性格は、今も続いていて、ツイッターのフォロワーを10万人にするというのも、よく似ている。
5月に思い立ってスタートしたこの計画も、今現在93000人、今月中に多分10万人達成できるだろう。

出来たからと言って、それがそんなに大したことではないのだが、『やれた』という達成感は、やったものでないと解らぬ気分の良さである。

学生時代のダンスパ―ティーも、
机や椅子の、台帳づくりや現物確認や、
今やっている、ツイッターのフォロワーも、みんな同じじことである。

こんなことをやるのは、
頭がいい悪いは、あまり関係がない。
大学出などと言う学歴も、関係ない。
結構アタマが良くて、高学歴の人が、むしろ出来ないのである。
こんなことができない人は、ホントは仕事もできないのだと、私はずっと思っている。

昭和32年、川崎航空機はまだ、こんな会社だった。
私自身は会社1年目から、勝手気ままに、結構楽しんでいたのである。


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