雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

服部謙治くんへのお礼状

2013-12-06 06:24:51 | カワサキワールド

 

★ 仙台から『笹かまぼこ』が送られてきた。

     服部謙治くんからである。

 

もう45年も前のことだが、私は初めての二輪の営業を仙台で東北6県を担当することになった。

当時の宮城カワサキメグロのなかに机を一つ置かせてもらってたった一人での赴任からスタートしたのである。

そこのサービス工場長をしていたのが服部謙治くんだった。

 

サービスの腕は確かだったが、それ以上にモトクロスに熱心で、私の前歴がファクトリーレーシングチーム担当だっただけに、大いに頼りにされたし、私も手伝って上げたりしたのである。

当時の東北6県は全国でも特にモトクロスは盛んで、各地で毎週のようにレースがあったそんな時代であった。

仙台にいた4年間、特に後半は宮城カワサキのサービス工場が仙台事務所の中にあったので、毎日一緒に過ごしていた。

当時全国でも初めての直販ショップを開設したりして、その担当を服部くんがやってくれたりもした。

そんな特別な関係もあるものだから、未だにいろいろと気を使ってくれるのである。

 

彼は今 目を悪くして、お礼状を書いても自分では読めない、そんな気の毒な状況なのである。

こんなブログで、幾らかでも服部カワサキショップのことに触れることでお礼の一端としたいと思って書いている。

 

 

★もう何年か前に開店30周年の記念パ―ティーがあってその時には私も仙台までお祝いに行ったりもした。

そんな服部カワサキのホームページの中に『ヒストリー』と言うサイトがあって

 

 

こんな若いころの服部くんの写真からスタートしている。

未だZのころだから宮城カワサキの工場長をしていたころだろう。

 

 

 

当時の東北には、山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、星野一義等のカワサキファクトリ―のライダーたちがしょっちゅう訪れていて、

クラスはジュニアだったが一緒に走ったり、特に山本隆や松尾勇さんとは親交があって、レースに明け暮れた日々だったのである。

服部くん当時は東北のジュニアチャンピオン、『東北の山本隆』と云われていたか、自分で云ったか、結構有名だったのである。

 

 

 

 

元々がメグロがスタートだから、4サイクルはお手のもので、当時の白バイは、今と違ってメグロが殆どだったから

白バイ隊員たちもしょっちゅう仙台事務所に出入りしていたのである。

そんな関係もあって、山本隆くんが東北6県の白バイ隊員のライディング技術講習会の講師を頼まれたりしていたのである。

 

 

 

今のヤマハの菅生の前身にもなったモトクロス場の創設などにも服部くんは大いに貢献をしたりいていたそんな時代を経て、

昭和52年(1977)3月に独立して自分の店を出すことになるのである。

 

 

 

この時期には、私は国内担当を離れ、川重に復帰していたのだが、

この記述にあるように、服部君から独立の相談を受けたのである。

 

当初は彼は岩手のふるさと遠野に帰って店を開くと言うのを、『それは仙台でやらねば』と無理矢理仙台での開店となった経緯がある。

それからは順調に店を大きくして、東北一の押しも押されもせぬ『カワサキ専門店』に成長したのだが、

目を悪くしたこともあって、30周年を機に第1線からは、引退をされているのである

 

 

★私が彼と付き合っていたころは、

今のような大成功の服部謙治くんではなくて、サラリーマンの月給の中からレースに結構お金も使うし、彼はお酒も好きだし、結婚したての頃で、大変だったのである。

仙台から関西に転勤の時に、旧い洗濯機をあげたら、何年もソノことでお礼を言われたようなそんな仲なのである。

そんな昔のことを未だに忘れずに、毎年サクランボや、お米やと送って頂く東北の方の義理堅さなので、恐縮ばかりなのである。

 

ただ、そんなお付き合いが出来る仲間がいることが、私の誇りでもある

 

『服部くん、笹かまぼこ、有難うございました。 奥様にもよろしくお伝えください。

そして、いいお年をお迎えください。』

 

多分、伝わると思うから、敢えてお礼状は出しません。  本当に有難うございました。

コメント
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