雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その62 平成3年(1991)

2017-07-12 06:32:30 | 自分史

★1991年は、東京都庁が新宿に移転し、新東京都庁舎開庁などあったようだが、あまりはっきりとは覚えていない。

会社での業績は、現役時代の最高の年であったと言っていい。

高橋鉄郎本部長とのお約束の国内市場7万台、400億円の売上 がこの年の6月に実現したのである。

円高対策が事業部の課題であった時期なので、国内市場の位置づけが従来とは全く異なっていて、国内市場を事業部の最重要市場に位置付ける対策であったのだが、現実にその通りの状況になったのである。

この年の記録を見るとこのようなことが残っている。

 

    

 

   

2月には事業本部の課長以上の集会で、この『新しいイメージ戦略』について発表しているのだが、それは決して単なる台数目標のための営業活動ではなくて、グループ全体、全員で動いた『総合的な新しい仕組みの構築』であり『新しいカワサキのイメージ創造』という非常に高度な目標だったのである。

イメージとは他人の評価なのだから、単に二輪ファンでだけではなく一般社会に対する働きかけがMUSTなのである。

これは当時のカワサキの基本コンセプトなのだが、このような発想は私自身に沁みついていて、20年経った今も全く同じ発想でいろんなことに対応しているのである。

 

    

 

 数値目標であった台数目標7万台は移動値で6月1日11時55分に達成されて、事務所から歓声が上がったのをよく覚えている。

なぜ時間まで出るのかというと当時の移動値は電算システム管理となっていて、刻々とその時間の実績が出ていたのだが、これらのシステムは若手が創ってくれたのである。

記念にグループ全員と川重の関係者にこんなマグカップを贈ったので、お持ちの方もおられるだろう。

 

    

 

 

このようなカワサキの新しい取り組みは、中大型車のシェアなどもトップになったりしたこともあって、日経ビジネスなどにも注目されて、こんな記事になったりしたのである。

業界からは『一強3弱』などと冗談で言われたりしたのだが、二輪業界の『ソフト分野での対応』は間違いなく業界の先頭を走っていたのである。

 

   

 

 記事には、この年の神田ショールームの写真が載っているが、神田をはじめ 岡山・札幌・福岡・明石などなど全国展開したのだが、20年近くも前の時代には、『綺麗な店舗』は非常に新鮮に人々の眼に映ったのだと思う。

当時日本の二輪車は間違いなく世界一の評価を得ていたので、『世界一の商品』はそれに相応しい場所と環境の中で売られるべきだと思っていたからなのである。

 

   

 

★こんなカワサキの政策は、進歩する世の中の環境の中でも『時代の先端』を走るものだったし、直接二輪に関係のない先生がたからも、興味・関心を持って頂けたのは、当時のカワサキの方策が単に業界だけでなく一般社会に向かっての情報発信であったからだと思っている。

これからの流通業』の著者、後 立命館大学の教授もされた服部吉伸さんは、『ご自身の本に書かれたことを実際にやっている企業がある』とカワサキと繋がって、そんなご縁で兵庫県の『中小企業大学』で私や株)ケイ・スポーツ・システムの南常務などが講師を務めたりすることになったのである。

 

また当時の『好感企業の時代』という著書を出された中央大学の中江教授からも面談の申し入れがあったりして、年が明けて高橋本部長ともどもお会いさせて頂いたりしたのである。

先生は、4輪の国際A級ライセンスも持たれていて、この年開発中であったX-11についても非常に興味を持たれていて、SPA直入もご覧になったりX-11にもT1サーキットでお乗りになったりしたのである。

 

   

 

サーキット専用走行車 X-11の開発がすすめられていて、それをいろんな形で支援したのも当時の『カワ販』なのである。

このマシンの開発担当者は、若き日の山田浩平くんで、最近では『Ninja750H2』を技術本部長として世に出しているのだが、このマシンのエンジンはカワサキ、車体については鈴鹿のウエストの神谷さんが担当して頂いた本格的なものだったのである。

このマシン走行は、SPA直入では短すぎてダメなので、当時4輪の会員制サーキットとして登場したTIサーキットの会員権をカワ販で購入してTIサーキットで走らせていたのである。

ちなみに、TIサーキットの初代社長ホンダの常務をされていた千々岩さんだったので、そんな関係もあって側面からの協力でもあったのである。

 

★二輪のレースの活性化対策にも尽力したが、この時期 JSの国内レース関連についても、二輪以上注力していたのである。

1987年に国内でのJS販売をスタートさせたのだが、その販売台数記録を辿ってみると以下のような数値で、年間1000台以下でも、成り立っていた販売会社がその9倍もの台数になったりすると、利益はどのようになるのか想像してみて欲しい。

   1987年  1117台

   1988年  3096台

   1989年  5145台

   1990年  8757台

   1991年  9270台 (ピーク)

 この間、カワサキJS販売会社も設立し、私はその社長も兼務してはいるのだが、このJSの国内市場をここまで持ってきたのは販社の常務担当だった藤田孝明くんと、JJSBAの会長も兼務しカワサキのJSの世界展開をリードした鶴谷将俊さんの功績であり、今現在もお付き合いのある渡部達也さんも、89年までの創世期は、JS担当だったし、90年ソフト会社株・ケイ・スポーツ・システムを起ちあげてからは、この新ソフト会社の中枢として関わってくれたのである。

この当時の、JSの販売会社も、その当時の販売店JS・ARKもこの1年を経験された方は、極端に言うなら人生が変わるほどの大きな経験をされたであろうと思うのである。

この年の7万台の達成の中には、このJSの台数も入っているのだが、利益的には台数比以上の大きなウエイトがあったのである。

 

★この1991年は、本当に最高の年だったのである。

40年務めたカワサキの二輪事業で、非常に難しい高度な目標に挑戦することが出来ただけでもよかったのだが、それが結果が伴ったものになったことは、ZEPHYR  や JS などの商品に恵まれたこともあるのだが、そこで展開した戦略は、それまでの二輪事業で身に付いた『マーケッテング』をベースにしたもので『私だけが出来る』というそんな『差別化意識』もあってホントに満足しているのである。

この年の2月に、当時のCP事業本部の課長以上の人たちに『7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ創造』というテーマでお話をしたものを、営業業務部の岩崎茂樹くんが冊子に纏めて頂いているのだが、

 

        

   

その冒頭、高橋鐵郎本部長がこのような導入挨拶をして頂いているのである。

こんな紹介をして頂いて、今でも嬉しく思うのである。

       

   

 

 カワサキの二輪事業がこのような『ソフト分野』を含めたグローバルな展開になればいいし、特にCI ブランドイメージについて特に留意してほしいなと思うものである。

 

  

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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