雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

なぜマスクを  日本人は?

2018-11-23 18:30:41 | 発想$感想

★最近はあまり都会に出ないから解らないのだが、日本人はこんなにマスクをしてるのだろうか?

 私はマスクをしたことがない。

 つけたことはあるが、2分と持たなかった。

 理由は特にない。 つけるとどうも気持ちが悪いし、そんなに効果があるとも思えない。

 

    

 

    

 

 海外でも、あまり例がないのではと思う。

 欧米の人が見たら、間違いなく異様だと思うだろう。

 この人たちは、多分会社勤めの方が殆どなのだが、会社でもマスクをしているのだろうか?

 

    

 

 Yahoo の意識調査で見る、やはり冬は30%以上の人がマスクをつけてるし、風邪の時だけというが予防も入れたら冬にはは大半の人がマスクをつけるから、こんな写真のようになるのだろう。

 

 

 九州場所の観覧席はマスク姿が少ないのはなぜだろう?

この写真では皆無だが、ずっとテレビの画面で探してみたが、マスクをしてる人は二人だけだった。

 

    

 

 相撲を見るような方たちはマスクなどしないのだろうか?

 

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カワサキジェットスキー 物語 1

2018-11-23 07:01:26 | ジェットスキー&KAZE

★アメリカから戻ってきて以来、毎日田崎雅元さん(元川崎重工業社長)と長文のメールのやり取りが続いている。

私は昭和32年(1957)、田崎さんは昭和33年(1958)当時の川崎航空機の入社で、カワサキの単車事業スタートの頃からの仲間なのである。

それも最初のカワサキのレースに関係したレース仲間だし、明石工場から一番最初にアメリカ市場に渡ったのが田崎さんだし、国内の当時の代理店営業の中に飛び込んだのが私だったのである。

その後もいろいろとご縁があって、私が退職する1999年までずっと仕事上で繋がっていたので、会社でも40年以上のお付き合いだし、今も尚いろいろと繋がっていて、60年以上になろうとしているのである。

お互い80歳代半ばにもなって、昔々のカワサキ単車の想い出を懐かしんでいるのだが、昔話はなかなか楽しいものなのである。

 

中でも、まさに田崎さんと二人のコンビで進めたハーレーのダンピング問題の国内販社構造対策や、二輪事業最大の危機だった80年代、明石の企画とKMCの現地のコンビとして頑張った想い出は特別なもので、大袈裟に言うと若し二人がいなかったら、カワサキの二輪事業も全然違った道を歩いたかも知れないのである。

その殆どは『二輪車』のことなのだが、そんな中での『ジェットスキー』もその一つなのだが、単車と違ってこのジェットスキーの生まれ方は独特で、当時の単車事業本部の中でも、私と田崎さんほか関係者は数人しかいなかったし、そんな事実を語ることができる人も限られているのである。

ジェットスキーの生まれ方』が特異で、それは川崎重工業の製品として生まれたのではなくアメリカ人の発明家ヤコブセンの特許を購入し、そのエンジンは発動機事業部のものを使い設計担当も発動機の人たちなのだが、生産したのはアメリカのKMCのリンカーン工場で、その販売もKMCがアメリカだけで売っていた『継子』のような製品だったのである。これはジェットスキーだけではなくて『スノーモービル』も同じような形でKMCから販売されていたのである。

それ故に当時の単車事業部の明石工場のメンバーは、誰一人ジェットスキーに関係していなかったし、ジェットスキーに乗れる人すらいなかったのである。そんな1982年頃、KMCの社長をしていたのが田崎さんで、当時の単車事業部でジェットスキーにに乗れたのは『田崎さん一人』だったかも知れないのである。

そんな昔話の数々を思い出しながら楽しくやり取りをしていて、これは40代半ばの田崎さんである。

 

    

 

★その頃、私は明石の企画、田崎さんはKMC社長で、別に相談したわけでもないのだが、何とか『ジェットスキーを川崎重工業の正規の製品にしよう』と目論んでいたのが当時の企画部門の武本一郎さん(故人)で、その長をしていたのは私なのである。そんなこともあって当時のことを一番具体的に知っているのは『田崎さんと私』でそのあたりの昔話は二人にしかできないオモシロい物語なのである。

ただ、当時は単車事業部の正規の製品ではないので、事業本部の中にも正規の書類などが残ってなくて『記憶』だけで追っかけてるのだが、当時発動機でエンジン開発担当であった私と同期の藤川哲三さんやその下にいた福井昇さんなどにも、いろいろ記録を教えて貰おうとしているのである。

 福井昇さんはジェットスキー関係者の中でも超有名人だからご存じの方も多いとは思うが、彼は私が『ジェットスキーをカワサキの正規製品にしよう』と企画で画策した時に、藤川哲三さんに頼んで発動機から単車企画に貰い受けて、それ以来私などと一緒に、ジェットスキーのヨーロッパや国内市場の立ち上げに尽力してくれたし、ジェットスキーの国内販売網を専門店で創ろうとした時には、川重を辞めて実質1号店として正規販売店になってくれたり、その後のJJSBAのレース関連でもいろいろ手伝ってくれたのである。

 福井昇さんとはFacebook で今も繋がっているので、幾つかの質問を投げかけているのだが、早速こんな返事が来たので、この際私や田崎さんや福井さんなどにしか解っていない『カワサキのジェットスキー物語』を纏めてみようかなと思っているのである。

御元気そうで何よりです。 JS ストーリーの件は了解を致しました。後日、PCから詳細を御報告させて頂きます。 古谷さんの、あの時代に対するhistoryが凄く懐かしく、又何処かに熱くなるもの目覚めさせてくれます。』

       

             

 

★ そんなジェットスキーの成り立ちなのだが、1982年に従来5000台ぐらいで推移していたジェットスキーが一躍2万台の大台に乗って、当時のKMCの再建計画でも大いにプラスになったり、その後単車事業部での正規製品にするためのきっかけになったのだが、2万台を一挙に売るためには2万台を造らないと売る製品がないのだが、これは当時のリンカーン工場の経営を支えるために、田﨑さんが打った大博打だったようで、なぜ一挙に2万台も売れたのか? これは私も今回初めて知ったのである。

 ごく最近、田崎さんが私に送ってくれたメールにそのことが書かれている。原文のままご紹介する。

 

もう不必用な工場とまで言われているリンカーン工場、 孤軍奮闘の佐伯さんの姿を想い浮かべながら、再建のシナリオには無かった、私の判断で実行した対策が ジェットスキー販売の一挙格上げだった。 2,000隻/年 規模の販売計画を、一挙に 20,000隻/年に引き上げた。

 山田さんから無謀であるとブレーキが、かけられたが、このプランを強行し、翌年に完売するという成果をあげ、以後ジェットスキーはリンカーン工場の製品でもあり操業度アップに大きく貢献し、KMCの主力商品となった。大博打のように見えるが、私のアンテナにはいろいろな情報がキャッチされていた。その一つが、地方紙を含む全米のマスコミ情報サービスである。 わずかでも KAWASAKI と表現された記事、ニュースは 毎日集計され、社長室に届けられる事になっていたが、ジェットスキーに関するものが日増しに増加していた。また内容は、イベントに使われたり レース活動も活発になり、 特に、市長 議員といった人達がイベントで自ら操縦して、自分の存在をアピールする姿がめについた。

さあ、この商品は 河川の暴走族ではなく、社会との共生が認知されつつある。 ママが主人や息子に、「危険だから買っては駄目よ!」 というネガティブなプレッシャーも減少傾向、 時は今 と一勝負に出て成功した事例である。

 但し、二人乗り安定型の投入が遅れた事には大きな責任があり、私の失敗事例である。 試作品のジェットメイトを試走して、遊園地型で全く面白くないとその後の開発にネガティブな対応をしてしまった。 購買動機に「お前も 犬も のせてやるよ!」が必要だったのかも?

 

 

★ここに出てくる山田さんとは、当時の川重山田副社長のことであり、佐伯さんとは後、田崎さんが川重社長の時、副社長として支えた佐伯武彦さんのことである。

スノーモービルはその後撤退することになるのだが、それにも田崎さんは絡んでいて、このような感想を寄せられた。

その一部をご紹介する。

 

北米では暖冬が続き、販売が伸びずに在庫がたまる一方のスノーモービルが問題になり、この事業から撤退するべきだという意見は、KHI本社部門を中心に単車事業部の中でも数年間繰り返されていて、私がKMC社長として渡米する時には、これは決定事項になっていた。

 この事業の生まれ方は明石の単車事業部としては「実の子」とは言えない異常な生まれ方をしていた。ヤマハのエンジンを搭載してスノーモービル事業を展開していたカナダのスノージェット社からKMCが事業を買い取り、ミネソタ州のシャコピーに開発センターを設け、リンカーン工場で生産し、KMCが販売する、という仕組みで、明石工場の立場は発動機事業部がエンジン のサプライヤーとしてのみ関与するという形であった。

 単車事業部としては、製品企画、設計開発、生産技術、品質保証、アフターサビス等の関与なしに生まれた製品であり、関心のない人がほとんどであった。図面はインチサイズ、明石には図面、部品表、取扱い説明書、etc 何もなかった。

後に、この反省から米国で生まれたジェットスキー、四輪バギィー車などは全て単車事業部の仕組みの中で「実の子」として育てていくことになる。「販売する製品には十分な係わりを持ち愛情を持って育てなければならない。」これも私の信念になった。ジェットスキーもバギー車もチャンスがあれば自分で試乗して愛情を育むよう心掛けた。

 

 ★昔の資料の整理をしながら、田﨑さんや福井さんの資料も入れながら、他の方には書けない『カワサキのジェットスキー物語』を書いてみたいなと思っているのである。

 

 

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 雑感日記のEnglish Version です。

 

 

 

 

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