雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 12

2020-06-14 06:21:42 | 私の生き方、考え方&意見

★  この7万台の目標の中には、二輪車だけではなくて、
 当時、日本では『新しい商品』であった『ジェットスキー』が1万台入っていた。

 『ジェットスキー』というのはカワサキの商品名なのだが、
 日本にアメリカから輸入されて、すぐに人身事故などあった時には、
 国会では『エンジン付き海洋浮遊物』などと言う不思議な名前で呼ばれたりした。

 そんな『ジェットスキー』に関連した当時の想い出話を幾つか。


 『ヤマハ・メイト』が続いて上市されたが、これも商品名だから、
 2社で『パーソナル・ウオーター・クラフト、PWC』と名付けて、
 そのPWCの安全協会を設立して『PWSA』としたのだが、
 一般の方は、どれくらいお解りになっているのだろう。
 ヤマハさんとは、競合関係ではなくて、
 新しい業界を発展させようと、ホントに仲良く活動をしたのである。
 PWSA会長を務めたりしたのだが、
 ヤマハの方から『社内会議のようだ』という評価を頂いたりした。
 それが1990年の頃のことなのである。


★ この『ジェットスキー』は、非常に不思議な生まれ方で、
 単車ではなく、エンジンを生産している『発動機事業部』が、
 アメリカ人の持っていた『特許』を購入して、

 発動機事業部がエンジンをアメリカのKMM(リンカーン工場)に送って生産し、
 アメリカの販売会社KMCだけで販売をしていたので、
 川崎重工業の製品ではなかったし、
 明石の単車事業部は全く関係がなくて、
 単車事業部には1人の担当者もいなかったのである。

 
 私の企画室長時代に、企画課長だった武本一郎さんが、
 『川重の正規の製品にすべし』と言い出して、
 新しいことは何でも好きな私が、『その話に乗り』動き出しことになるのだが、
 
 当時国内では、西武自動車が輸入してKATというカワ販の孫会社
 細々と年200台ほど販売はしていたのである。
 
 西武自動車関連の方々で、レースなどもやられていて、
 当時KATの社長を兼務されていた苧野豊秋さんに頼まれて、
 アメリカのKMCにレース協会JJSBAを立ち上げる承諾を取りに、
 アメリカ出張もしたのだが、KMC社長が田崎さんでその時の写真である。



  



 ★ そんなちょっと変わった展開からのスタートだったが、
 アメリカ以外のヨーロッパ、並びに日本市場などへの販売を試み、

 私・武本一郎・鶴谷将俊・福井昇さんなどでプロジェクトを立ち上げ、
 その時の国内市場を担当してくれたのが藤田孝昭さんなのである。
 
 あの時あのメンバーが動かなかったら、
 『ジェットスキー』のその後の展開は果たしてどうなっていたのだろう?

 ちょうどその頃、オーストラリアの社長から戻ってきたのが鶴谷将俊さんで、
 無理やり『ジェットスキー担当』を押し付けて、
 企画室の中でスタートを切ったのである      

 発動機事業部にジェットスキーに乗れて、
 レースもやってるという福井昇さんがいることが解って、
 発動機に貰いに行って、メンバーに加わって貰ったのである。

    特筆すべきはこんなカワサキのメンバーだけではなくて、
 ジェットスキーに関係していた外の人たちがホントに援けてくれたのである。

 今でもこの業界で活動されている大南勝也さん、
 マウンテンライダースの50周年記念の時にお会いした写真である。

  

 当時の日本の女子トップライダー、松口久美子さん。
 今でもFacebook で繋がっている。

 そして世界の頂点登りつめた金森稔さんは、今はアメリカKMCにいる。
 何年か前にアメリカでお会いした。
 
  

 
★このプロジェクトのメンバーは、一言でいえば『ちょっと変わっていて』 
 よく言えば『個性派』ばかりなのである。
 
 鶴谷将俊さんは、私も色濃く関係した開発途上国プロジェクトでは、
 岩崎茂樹さんと二人で、イランを担当していたのだが、
 その後係長の時代にオーストラリア社長担当などした実力派なのである。

 国内市場については、
 ジェットスキー販売を担当されていたのが元上司の苧野豊秋さんだったので、
 私自身が担当し、藤田孝昭さんたった一人を指名して、
 ジェットスキー独自の販売網設立を企画したのである。

 福井昇くんは、初期のヨーロッパ市場開拓などにも携わっていたのだが、
 その後国内でジェットスキー販売網を独自に展開する時には
 川重を辞めて国内のジェットスキー販売1号店となったのである。


 その後このプロジェクトは、企画から営業に移り、
 鶴谷将俊さんが担当をしての世界展開となるのだが、
 1988年にはソウルオリンピックに、オリンピック委員会からの正式な依頼で、
 開会式当日に漢江で『デモンストレーション』を行ったりしたのだが、

 このライダーはアメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・日本から
 Topライダーを選んで対応し。
 スタート以来のジェットスキー関係メンバーの
 苧野JJSBA会長・鶴谷・藤田・福井さんや、上述の3人の方は勿論、
 当時の日本のTOPライダーたちも集まって
 私はその団長を務めたのである。


    



★ この『ソウルオリンピック』から帰国したのが、
 1988年10月1日だったので、
 国内市場担当という新職務は、その翌日の10月2日からスタートしたのである。

 
    この表は、『7万台への挑戦、新しいカワサキのイメージ戦略』の講演会で
 私が喋った内容ですが、
 当時、かっては200台であったジェットスキーが3000台となり、
 さらにそれを1万台目標として対応したのだが、
 それがもう少しで実現する、そんな時期だったのである。

 この時期、国内のジェットスキー販売会社の社長は私が兼務していたし、
 常務として旗を振ってくれたのが藤田孝昭さんである。
 さらに言うと、その初期の実務を仕切っていたのが渡部達也さんだったのである。
 
     



 
 この時期に中心になって旗を振ってくれたのが鶴谷将俊さんで、
 企画から営業に移りジェットスキー販売部門を担当し、
 同時に、国内市場に関しても色濃く関与してくれたのである。

 ジェットスキーという商品は、単なる遊びだけではなくて、
 『レース関連』も非常に大きな分野を占めるのだが、
 当時はその中心であったJJSBAの会長は初代苧野豊秋会長以下
 2代目以降も、すべてカワサキ関係者が会長を務めたし、
 そのレース規模も『琵琶湖』でアメリカからライダーを招いて、
 『ワールドカップ』開催を図るなど、大規模に展開をしたのだが、

 その中心になってくれたのが鶴谷将俊さんだったし、
 福井昇くんなども、大いに手伝ってくれたのである。


 今回、特に言いたかったのは、
 『ものごとを実現する』一番のキーは、『何と言っても人』である。
 それも単にメーカーや販社というこちらサイドだけではなくて、
 業界・ライダー・ユーザーなどを巻き込んだ『大きなうねり』みたいなものが、
 一番大事なのかなと思っているのである。

 この当時のメンバーたちからも、このようなブログをアップすると、
 Facebook で『いいね』を頂けたりするのが、最高に嬉しいのである。


 
 

コメント
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