雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人は生きてる間にどれくらいの文章を書くのだろう?

2017-05-19 06:10:58 | 発想$感想

 ★ 最近は、何でも『検索』するとGoogle が教えてくれる便利な世の中である。

人は生きてる間にどれくらいの文章を書くのだろう?』と最近ふと思ったのである。

 私は一般の人よりは間違いなく、多くの文章を毎日書いているのは間違いない。

 文章を書くのは嫌いではないし、20歳の頃から日記は書いているし、現役時代もいろんな報告書や、計画書や方針などを文章で纏めることは嫌いではなかったので、そんな私が書いた文章の書類が手元にいっぱい残っている。

 

退職して、パソコンをやり出して、2006年からはブログもアップしだしたので、俄然文字数は大きくなったのは間違いないのである。

最近では、1日に5000文字以上は書くのではないかと思っている。

 

   

 

  文章を書くことが『商売』の記者や小説家は、一体『小説家は一生で何文字ぐらい書くのだろう』 と検索してみたら

こんなページが現れたのである。

  https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E5%AE%B6%E3%81%AF%E4%B8%80%E7%94%9F%E3%81%A7%E4%BD%95%E6%96%87%E5%AD%97%E3%81%90%E3%82%89%E3%81%84%E6%9B%B8%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%82%8D%E3%81%86&spf=1495083670242

 

そこに現れた文章を拾ってみると

話数と総文字数の壁。最低十万字無いと読む気がしない。という人たちがいます。十万字というのは、単行本一冊分です

 などの 記述があったりした。

単行本=10万字』としたら、私は20日で1冊の単行本分の文章を書いているということになる。

こんな記述もあった。


一生に書ける文章量・・・・・一日に書ける文章量というのは、自分の場合はどう頑張っても二万字ぐらいでした。三万時を越えたことは無い気がします。平均で一時間に二千字を書けるけれど、休憩が必要です。・・・・

私は1時間もあれば、1万字ぐらいの文章は書ける。なんでもすることは早いほうである。


一日の授業で、原稿用紙一枚分を書くとして、一年に二百日学校に通うとすると八万字です。
義務教育の九年を掛けると、七十二万字です。高校、大学なども考え、さらに試験なども考えると百万字では到底足りなさそうです。・・・・百万字では足りないのは明らかなように思いますし、一千万字でも少し危ない様に思います。一億字以上はある様に思います。
 
などの記述があったりした。
実際にはなかなか1億字は『ムツカシイ』と思ったりするが、私の場合は既に1億字は既に達成しているかもしれない。
単行本が10万字だとすると、1000冊を執筆したことになる。
最近はパソコンが出来たので、文字を自分で書くよりはちょっと早いのではと思うのだが・・・
 
『それがどうした?』と言われると、『どうということもない』のだが、ここまででざっと『4000字』なのである。
 
 
★こんなことを、考える人は珍しいとは思うのだが、『小説家は一生で何文字ぐらい書くのだろう』と検索したら、その答えが現れるということは、世の中には同じようなことを考える人もいるのである
然し、それはちょっと『変わった人』で普通の人はそんなことは考えないのかも知れない。
 
やはり、私はちょっと『変わっている』のかも知れないのである。
 
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薮本吉秀三木市長 雑感 

2017-05-18 06:19:58 | 私の生き方、考え方&意見

★三木市長の『薮本吉秀』さんが突如辞任するというニュースが流れた。

 読んでみると辞任してすぐまた市長選挙に立候補するのだという。

 

 

   

 

 

私は、薮本さんが当選された市長1年目に、いろいろと具体的に応援もした。

何度もお会いしたし、市長室にも何度もお邪魔した。 

当時の市長メールで100通を超す具体的な意見も申し上げた。

 

 

     

 

三木市は『日本一美しいまちをめざそう 』というスローガンを掲げている。

これは薮本市長初年度の7月末の市の会議で正式に決定されたものである。

そのスローガンの 提案者は私 なのである。

そんなスローガンを提案しただけではなく、佐賀県武雄市の樋渡市長と繋いだのも私 である

三木市と武雄市は提携を結び職員の相互乗り入れなども実施した。

ホントに一生懸命三木市の応援をしていたのである。

そんな私と薮本さんとの関係も1年は続かなかった

 

その理由は、薮本さんのいろんな市政に対する行動が、『美しくなかった』からである。

当時、熱烈な市長派であった大西秀樹市議が一転反対派に回ったのと同じような時期であった。

薮本さんのメッキは見る人が見たら『1年で剥げてしまった』のである。

 

これは最近ではないかと思うのだが、三木青年会議所の理事長との間で、こんなやり取りをしているのである。

 

  

 

日本一美しいまちをめざす』コンセプトを語っているのだが、ことほど左様に薮本さんは、アタマがよくて、口だけは上手いので、私の住んでいる緑が丘の高齢者たちは、老人会にしょっちゅう出てくる薮本さんに、騙されて投票してしまうのである

薮本さんの市政は『利権』とそのための『選挙の票集めの市政』だと言っていい。

薮本吉秀は日本一美しくない市長』であることは間違いないのである。

 

私自身が、なぜ『日本一美しいまち』というスローガンを提言したのかというと、兵庫県はずっと以前から『美しい兵庫』をスローガンに掲げてきたのである。

薮本さんは、市長になる前兵庫県庁の職員だったので、兵庫県が長年掲げてきた『美しい兵庫』の精神を受け継いで、『三木も美しいまち』をめざされたらいいと素直にそう思ったのだが、後、兵庫県庁の方にあって話を聞くと『薮本さんの評価』はめちゃくちゃ県庁内で悪いのである。これは『そこまで言わなくても』と思うほどひどいことを仰る方が、一人や二人ではないのである。

私はそんなことは一切知らなかったのである

 

 

★昨今の三木市政の一連の出来事を見ても、とても『美しい』とは思えないのだが、三木はいい環境だし、いい人も多いし、私自身は『三木市長』は『薮本吉秀さん以外なら誰でもいい』 『薮本さんだけにはなって欲しくない』と思っているのである。

田舎記者の手帖』を書かれている記者さんとは、面識もあるのだが、このように今回のことを書かれている。

      http://blog.livedoor.jp/inakakisya/archives/cat_50041370.html

 

   

 

 

   ほんとにいい加減にして欲しい。

 薮本さんが『やり残した仕事』など多分『利権に繋がること』ばかりだと思うので、頓挫するのが三木市民のためである

 

 それにしても、おやりになることが『めちゃくちゃ』である。

 薮本吉秀さんは、口も達者だし、アタマもいいのは認めるが、人間としては『全然ダメ』なのは間違いない。

 こんな人が『三木市長』とは、三木市民としてとても耐えられないのだが・・・・

 

 果たしてどんなことになるのだろう。

 

 

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田崎さん のこと

2017-05-17 06:03:33 | カワサキワールド

★ 今年になって、また突如 田崎雅元さんとのやり取りが、俄然増えている。

 田崎雅元さん、元川崎重工業の社長だし、社会的にはめちゃ立派な『エライさん』なのだが、現役時代若い頃から、いろんなことを一緒にやった仲間なので、今でも「そのままの関係」が続いている。

 幸いにして? 私が一期先輩、2歳年上なので、田崎さん、気を遣って頂いて今でもそのように接して頂いているのである。

 

Google で 『田崎雅元』と画像検索すると、こんな写真がいっぱい現れる。

その殆どは、私がネットに発信したものである。

 

  https://www.google.co.jp/search?q=%E7%94%B0%E5%B4%8E%E9%9B%85%E5%85%83&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwio1tOXg_PTAhVHXrwKHc3GDJkQ_AUICCgD&biw=1322&bih=717#imgrc=sjQ6rexy_pabfM:&spf=1494889986915

 

   

 

 カワサキのファクトリチームの25周年の時の写真だが、こんなレース仲間が田崎さんとの原点である。

 二人、並んで写っている。前におられるのが、山田熙明川重副社長、80年代の二輪事業再建の旗を振られた。高橋鐵郎さんも、苧野、中村さんも大槻さんの顔も見える。安良岡、山本、和田、歳森、星野、金谷、岡部、梅津、清原等々錚錚たるライダーたちだも当時のレースを支えた現役たちも一堂に会している。

 カワサキの二輪事業を引っ張ったのは、間違いなく『レース仲間』達なのである。

このOB会、高橋鐵郎さんに『7万台を売れ』と言われて、1988年10月から3度目の国内担当だったが、販売よりも真っ先に『レース活動を復活する』という宣言のために10月15日に、私が主宰したものなのである。

安藤佶郎、百合草三佐雄さんはアメリカにいたので出席されていないのだが・・・

 

         

 

これは、2011年3月、レース仲間の平井稔男さん主宰の『カワサキの想い出、そして未来』には高橋鐵郎さんと一緒に出席してくれて、幕開けの挨拶をしてくれた。女性は明石時代のお二人の秘書さんである。

 

 

     

 

毎年、神戸のカワサキワールド前で開催される『ミニ・トレインのイベント』は、私と田崎さんが川重会長時代に立ち上げたイベントだということ、ご存じだろうか? 

当時の神戸副市長のところに一緒に行ってくれて神戸市のメリケンパークをお借りすることができるようになったのである。  

ここに乗ってる3人と、福井昇くんがその仕掛人なのである。

 

 

   

 

 これは今年、ごく最近復活した田崎さんと 相信会で。

 現川重金花社長さんは、高校の後輩ということでご一緒に、もうお一人は川崎航空機同期の 藤川さんである。

 

★最近、『カワサキの二輪事業と私』に田崎さんがいろいろと写真や、文章を送ってくれる。

1980年代、一番大変な時期を一緒にいろいろやったのは、二人にとっていい想い出なのである。

裏話がいっぱいあるが、当時の二輪事業に従事されてた方も、殆どご存じないことが多いのである。

 

これなども私もよく知らなかった81年のKMCの出来事である。

髙橋さんと田崎さん、81年の8月にアメリカに渡られた、その直後からのことだろう。

私は、1年遅れて82年の10月から、またご一緒することになるのである。

 

KMCの再建については、やるべき事はおおむね決まっていた。ただ実行にあたってはいろいろと思はぬ障害が発生した。KMC問題はすでにKHI本体の大問題になっていたため、KHIとKMCの間の財務的な処理はきめられた事を実行すればよかった。

当時は、本社財務がいろいろと基本方針を決めて進めていたのである。

 

まず、KMCの増減資、ところがこれが簡単にはいかないことが判明した。KMCとKMW(カワサキミッドウエスト、中西部をカバーしていた販売会社)との間で株式交換が行われており、日商アメリカ、KMCのエグゼクティブも株式を若干保有していた。 それぞれ保有している株式が無価値になる事について株主の自己責任とわりきるには法的な問題を引き起こす可能性、特にKMWは利益を出しており、LIFO(後入れ先出し)リザーブと称する節税型含み益を持ち健全に経営されていた。とにかくこちらの思うように処理しようと思えば、将来のことも考えて、この際KMWを買い取ることにしよう、と交渉に入った。

1981年末の事である。 ハードなネゴを繰り返し、買収価格は3ミリオンドルという事になったと思う。KHIの経営会議にこの話を持ち出した時、二瓶副社長から「これは背任になるのでは」と言われ、昼休み中に本社企画の近藤さん(だったと思う)から「そんなことにはなりません」と説得して貰ったが、なかなかOKとならず、帰米してすぐサインをしなければと焦る私に、最後に長谷川社長が「皆さん、本件はKHIに更に金をだしてくれという話ではないからいいじゃないですか」とGOサインを出した。

田崎さんは、渡米する前から、技術屋さんなのに『ハーレーダンピング訴訟』を担当するなど何事も器用にこなしていたのだが、当時のKMCの対策は、財務主導でなかなかややこしかったのだが、それを無難にこなしていた。

 

この場面ではまだ古谷さんはいなかった。たぶん私の付添人は高橋宏さんだったと思う。「君は自分では書かずに人に書かせて上手く説明するなア」とよく言われていた。

この当時、私はまだ国内カワ販担当なのだが、高橋宏さんが言われてること、よく解る。

私が最初に田崎さんと出会ったのは、未だ彼がジェットにいて労働組合関係の会議だったのだが、その発言を聞いて『間違いなく事務屋だ』と思っていたのである。

 

KMMの分離、KHIへの譲渡はKMCとしては特に大きな問題はなかった。ただし「潰しても仕方がない」と言われたKMMの社長になった佐伯さんには大変な苦労をかけることになった。 仕事不足で週3日の操業、それでも何とかレイオフを避けようとリンカーン市の市庁舎のペインティング作業に協力、10月には時のレーガン大統領から感謝状を貰いCBSニュースで報道されるなど、彼は組合のない日本的な家族経営で全米一生産性の高い工場にして生き抜こうと懸命の努力をかさねていた。

 佐伯さん、未だ課長の頃だけど、このころよく頑張ってたなと思う。KMMのほうが実務的に仕事もなく大変だったのである。

 

1982年に入り、スノーモービル事業からの撤退、全米に5箇所あった部品センターを3箇所に集約、クレジット機能を販売組織から分離、KMC本社へ集約、人員の削減(550人から400人体制?)と一挙にかたずけ、一刻も早く通常の販売業務に専念しようとしていた。

1974年~1983年のH-Y戦争(清水一行の「首位戦争」を読むとよい)の余波を受けたアメリカのモーターサイクル市場環境は、ハーレーのダンピング提訴、に続き、1983年のITC(米国国際通商委員会)によるハーレーの救済処理勧告にもとずく大型車の輸入制限、1986年の夏には戦争終結に関する日本側のマスコミ情報、業界の日本的慣習から日本各社の駐米トップを含む主要メンバーは独禁法違反容疑でオハイオ州で行われた大陪審に喚問され、さらには利益の出ていない、税金を納めない日本企業に対する移転価格問題へと、永年雇用によるブレーキ故障の生産マシーンといわれる日本製造業に対するプレッシャーはとどまることがなく、やがては、自動車、半導体等で日米構造協議へと政治問題化することになるのである。

そういった意味ではモターサイクル事業は世界を席巻し貿易摩擦の最先端を走っていたのかも知れない。ただ各国とも、さほど保護すべき重要産業だと認識せず、お目こぼし産業だったのではと思う。(余談ながら私の手元には1982年と1983年の手帳が無い、アメリカ司法省に差し押さえられ返してもらえなかったのである。)

 

★当時、田崎さんも私も新米部長の40代、みんな若い頃から大変なことばかりやらされたので、あの頃のカワサキの二輪事業は独特な雰囲気だったのだと思う。

当初は、本社に全く信用されていなかったのだが、この81年から数年で、『カワサキ二輪事業』は信頼を得て、

大庭社長・高橋副社長・田崎社長・佐伯副社長など、川崎重工業全体を動かすことになっていくのである。

 

        

 

 これはもっと以前、 昭和41年(1966年)田崎さんレースのあと、アメリカに最初に渡った時である。

 一緒にいるのは、当時のKMCの浜脇洋二さん、川重で言えばまだ課長職の頃である。

 田崎さんも、確か未だ係長にもなっていなかった時期だと思う。

 

★田崎さん、ここ数年体調を崩して全然ダメだったのだが、今年から突如復活して、いろんなお付き合いがまた始まっているのである。

現役時代、一番長くいろんなこと一緒にやった人は、『田崎さんかも知れない』のである。

引退してからも・・・・・それがまだ続きそうである。

 

     

 

ちなみに、8年前からスタートしたNPO The Good Times の会員には、スタート時点から参加して頂いて、高橋鐵郎さんが昔で言う監督NOのNo.0030 番、田崎さんがNo.0031番なのあと30番台カワサキの二輪事業の仲間たちが続いているのである。

Kawasaki .Let the good times roll ! 

1975年にアメリカで創られたカワサキの二輪事業の基本コンセプトなのだが、その後眠っていたものを、1990年代初めに国内市場で復活して、当時カワ販の社長でもあり、CP事業本部長でもあった高橋鐵郎さんが全世界展開を決められ、長く川崎重工業の基本コンセプトとしても使われていたものである。

アメリカでスタートしているので、正規の日本訳はないのだが『カワサキに、出会う人たちがハッピーになるような活動をカワサキは展開し続けます!』というカワサキの姿勢を示したものである。

そんな姿勢を引き継いで、『NPO The Good Tomes 』に出会う人たちが、ハッピーになるような活動を行いたい と思っているのである。

 

   

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5月15日 我が家のバラ

2017-05-16 06:41:07 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 

★5月15日になったのに、我が家のバラはまだ蕾のままのものも多い。

今年は桜も遅かったが、薔薇も1週間ほど遅いような気がする。

 

今の薔薇、こんな状態です。

咲いているのもあるのだが、蕾のままのほうが多いような気がする。

 

https://www.youtube.com/watch?v=mluuLu_YRzk

 

せっかちの私は、こんな蕾が早く咲けばいいのにとちょっとイライラしている昨今でなのである。

 

 蕾だけはいっぱいついているので、余計にそう思うのかも知れない。

 

   

 

   

 

 

   

 

   

 

   

 

   

 

 

   

 

 今週末ぐらいには咲きそろうかも知れない。

 まあ、それでも写真が撮れるだけでも、いいとするか。

 楽しめる期間は、いつもと変わらないはずである。

 

 

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5月14日 日曜日に思ったこと

2017-05-15 06:46:16 | 私の生き方、考え方&意見

★今年は、ほんとに予定のなかった毎月が何となく、いろんなことが出てきて、自然に埋まっていくのがオモシロい。

今月も殆ど予定もすることもなかったのに、先月からふとしたことでカワサキ・ロボットとご縁が出来て、先週末西神戸のロボットのショールームを見せて頂いたら、想像以上にオモシロくて、ちょっとハマってしまっている。

そんなことで、昨日の日曜日の午前中は、普通はやったことのない『ブログのアップ』を『カワサキ・ロボットの情報発信』というテーマで  発信したりしたのである。   

  http://www.thegoodtimes.jp/2017/05/2363/

Google の反応が予想以上で、自分でも驚いたりしているのである。

 

★昨日の日曜日、午前中はブログをアップしたりして、午後は『そこまで言って委員会』を見ていたが、韓国の新大統領、北朝鮮問題、中國・ロシア・アメリカの対応等々を、韓国や中国問題専門家たちが出演していて、オモシロかった。

朝鮮問題は、小学校から中学1年生まで育った故郷みたいなところなので、ムツカシイ問題は解らぬまでも、興味・関心は人一倍あるので、兎に角丸く収まって欲しいと思っている。

 

★そのあと、4月から始めた Instagram  のデーターと今後の方向について、『自分のために』今から纏めることにする。

Instagram も結構な方がおやりのようだが、登録しただけとか、殆どやっていない方も多いい。『いいね』が50以下の方が普通かも知れない。

 

 Instagram  いまこんな状況なのである。 

 https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja

   

 

 実はこの Instagram は、動画や写真がメインのなのだが、カワサキ・ロボットの情報発信手段として、最高にいいのではないかと思って、スタートしたのである。

カワサキ・ロボットはいい動画を今までも沢山お持ちだし、その機能を素人に理解させるには『動画がいい』と私なりの仮説を立てているのである。

 

そのためには、Instagram とは、『どんな機能で、どんなものなのか』自分で試してみているのである。

ツイッターに似ていて、

●『自分をフォローしてくれているフォロワー』と、『自分でフォローしているフォロー』の二つで成り立っている。

● フォローを増やせば、フォロワーが増える のはツイッターと同じだが、

● フォローできる人数の限界が、7500人が上限だという。

そんなフォローとフォロワーの関係で、実際の『いいね』の数などがどのように変化するのかを確かめたかったのである。

 

 Instagram を始めたのは4月6日のことだから、未だ1ヶ月ちょっとだが、こんな経験を持っているのは多分間違いなく、『世界で私だけ』かも知れないのである。

 

その数値を 時系列に並べてみる。(毎日の記録があるのだが、ちょっとはしょって並べてみる)

          フォロワー    フォロー

 4月6日      122人      7人  (この7人は、娘や孫などの身内だけである)

 4月12日     137人    172人  (この日から、フォローする人を増やし始めたら、フォロワーも増えた)

 4月17日     829人    2138人  (どんどんフォローするとフォロワーもどんどん増えた)

 4月22日    2366人    5602人  (閑に任せてどんどんフォローした)

 4月27日    3460人    7500人  (Maxの7500人になったら、それ以上はフォローできなくなった)

 4月30日    3524人    7424人  (月末まで、そのままで様子を見たが、特にフォロワーに変化はない)

 

 4月の20日間でMAXの7500人を確かめてその半分ぐらいの3500人のフォロワーになった。

フォローするとフォロワーが増えることも解ったし、写真がいいと300人以上の『いいね』が集まって、Facebook よりは反応が早いことも解った。

基本的に『写真』がよくないとダメである。写真がいいとフォロー数に関係なく、フォロワーが増え、且つ『いいね』が多いことも確認したので、5月からは、フォローを減らしていったら、『フォロワーはどう変化するのか?』を確かめることにした。

 

 5月1日      3532人    7282人  

 5月3日      3507人    6980人 

 5月7日      3523人    6870人  (少しづつ減らしてもフォロワーは殆ど変化しないのである。)

 5月10日     3472人    5396人  (1500人も減らしても、殆ど減らないのである。)

 5月15日                      

 

 今朝の状況はこちらである。   https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja

この調子なら、4月の初めの 身内並びによく知っている人ばかりの100人前後まで減らしても、そんなに減らないと思うので、まずそこまで減らしてみようと思っている。

5月中に大丈夫実験できる。

その時若し3000人近いフォロワーが若しいたらそれは『私のファン』たちだと言えるのだろう。

5月というか、私のフォローする人数が、100人になった時、多分私のフォロワーは3000人以上は残っていると思っている。

 『フォロワー3200人 フォロー100人』という 私の仮説 は果たして当たるだろうか?

もしそうなったら、今度はまた新たに7500人までフォロを増やしたら、また3000人ほどのフォロワーが増えてフォロワーが6000人になるかも知れないのである。

 

★こんなフォローの人数の増減をこの1ヶ月の間にやったのだが、Instagram のルールではそれは簡単ではないのである。

フォローする場合は、一度に40人までで、さらにフォローするのは10分後でないとできないし、逆に減らすのは一度に15人で、10分間待たないと次は減らせないのである。1日に500人ぐらい減らそうと思ったら、10分ごとに15人を減らしていくぐらいでないとダメなのである。

そんな増減の作業をやれるのも、自由な時間がいっぱいあるし、Instagram を調べてやろうという好奇心がそうさせるのである。

 

こんなことを言っていても、Instagram をおやりになってない人、関心のない方には全然面白くもない話なのだが、私はこのブログを殿界寿子さんが読んでくれたらいい と思って書いている。

実は、彼女は4月までは私と同じで、Instagram に登録はしていたが、殆ど何もしていなかったのである。

それを私が無理やり勧めてやり出していまこんな状況で、私と同じくInstagram にちょっとハマっているのである。

  https://www.instagram.com/kotoking0205/?hl=ja

 

  

    写真に集まる『いいね』の数は、私より多くて『300』を超えたりするのである。

 

★こんな情報発信力のある Instagram だが、

『カワサキ・ロボットの情報発信手段』としてInstagram は機能するはずだという『最初に建てた私の仮説の整合性』を試したくてこんな面倒なことをやっているのである。

なかなか、世の中にこんなことをする変人は少ないのだが、やってる自分は結構満足して『楽しくオモシロい』のである。

 

 

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カワサキ・ロボット の 情報発信

2017-05-14 08:53:32 | カワサキワールド

★ 『カワサキ・ロボット の 情報発信』 についてちょっと関心を持っています。

 ごく最近、ひょんなことで カワサキ・ロボット の人たちとのお付き合いが始まったのですが、みなさん、みんな真面目だし、いい方ばかりです。

 

 ロボットそのものも、西神戸のショールームで見せて頂きました。

 

  

 

   営業総括部の皆さんに案内して頂きました。

 

  

 

  トヨタさんに納入している 大きな『塗装ロボット』から 小さな医療ロボットまで いろいろです。

 

   

  この5分の動画、素人の私が撮って編集したものですが、何となくその雰囲気は解ります。

  すでに、結構な方がご覧になってます。

       https://www.youtube.com/watch?v=mluuLu_YRzk

 

   

 

 

   

 

 

  お土産に、こんな私の似顔絵を カワサキ・ロボットが描いてくれました

  

    その様子も、動画の中にありますが、こんな順序で、描かれています。

 

  まず、写真を撮って

 

   

 

   それを ロボットが認識したら、スタートです。

   

 

 

   途中経過です。

   

 

   そして、完成しました。

    

 

 

★そんなオモシロい、『カワサキ・ロボット』なのですが、その情報発信が、まじめすぎて、業界のロボットを購入して頂ける方ばかりに向かってのものになっていますので、

もっと社会の末端の『カワサキのロボットは・・・・らしいよ』と言ってくれる一般の人たちに向かって情報発信することが、一番大事だと思います。

そんな社会の中で『カワサキのロボット・イメージ』が育っていくことが大事なのです。

それが『カワサキのロボットのブランド・イメージ』に繋がります。

 

 

 先日来、いろいろお世話になったので、私なりに勝手に『情報発信のお手伝い』をしています。

 このブログも、その一環ですが、

 

  ツイッターにも         https://twitter.com/rfuruya1

 

 

  

 

 

  Facebook にも        https://www.facebook.com/rfuruya1

 

  

 

 Instagram にもアップしましたから、  https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja

 

 Google  で 『カワサキロボット 雑感日記』と検索すると既にこんな写真が現れます。

   https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%82%B5%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E3%80%80%E9%9B%91%E6%84%9F%E6%97%A5%E8%A8%98&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwj08pPSg-7TAhXLEbwKHaWAD1AQ_AUIBygC&biw=1322&bih=717

 

 そのうちに、もっといっぱい現れるのだと思っています。

 

 

★こんな、柔らかい情報発信を 『カワサキ・ロボットの営業総括部』が 意識して、継続して、仕組みを創っておやりになったら

カワサキ・ロボットのブランドイメージ』は、世界の中で確立していくのだろうと思っています。

 

このブログをアップしてから3時間後、Google で『カワサキロボットの情報発信』と検索するとトップページに私の二つのブログが並んだりします。

 

   

カワサキ・ロボットの東京ショールームのニュースより Google が評価してくれるのは、それだけ日頃『情報発信』している評価なのです。

大企業の情報発信はそれなりに『評価』されるのですが、それ以上に日頃の情報発信が重要なのです。

 

 

 5月の日曜日の朝、そんなことを考えています。

 カワサキ・ロボットさん  似顔絵ありがとうございました。

 

 

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雨上がりの朝の薔薇

2017-05-14 06:42:34 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★雨上がりの朝、薔薇が咲き出した。

水を含んで、枝が重くなるので特に蔓バラは枝が支えきれなくなったりする。

 

  

 

  葉にいっぱいの水玉がある。

 

  

 

  花にも・・

 

  

 

  まだ蕾だけの薔薇もある。

 

  

 

  ピエール・ド・ロンサール はもう一息である。

  来週は咲くだろう。

 

  

 

 

  

 

  あちこちに枝を伸ばしているが、1本の蔓バラ、アンクルウオルター名前がムツカシクてなかなか覚えられない。

 

  

 

 こちらは ダブルデライト 。

 

 

      

 

    赤いほうは 銘花 パパメイアン その香りが届けられたらいいのだが・・・

 

       

 

       花が開くと、こんな感じになる。

 

 来週には、多分みんな咲き出すだろう。

 天気が続いて欲しい。

 

 

   

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カワサキ・ロボット 雑感

2017-05-13 06:13:50 | 発想$感想

★今年の3月中旬、川崎重工業のOB会相信会に、元気に復活された田崎雅元さんに誘われて出席したのだが、その時ロボットの橋本常務の『カワサキ・ロボット』についてのお話を伺ったのである。

なかなかオモシロい内容で、田崎さんの『昔の単車を見るようだ』という感想に同意したのだが、相信会の会場ではなぜか橋本さんとお話をする機会もなかったのだが、さらに翌日田崎さんから『ロボットの感想のメール』が届いたこともあって、それを添えてちょっとした私の広報などの感想を書いて、橋本さんにメールしたらこんなご返事を頂いたのである。

・・・・・・・
古谷様のメールで皆様の暖かなご反応を確認させて頂き、大変有難く思っております。
相信会では田崎様とも、藤川様とも講演後お話させて頂き、暖かなお言葉を頂戴しました。
古谷様が仰るように広報は大変大事であると認識して居ます。
ロボットもまだまだKawasakiのブランドで知名度を獲得出来るまで至って居らず、広報戦略は重要と思っています。
また是非直接お話を伺えればと思っております。・・・・・

 

人の繋がりは、ひょんなことで、ひょんなことになるものである。

私は一種独特の『人脈』を持っているのだが、その殆どはホントに『ひょんなこと』を見逃さないために『繋がっている』のである。

橋本さんにこんなご返事を頂いたのだが、このあと橋本さんの秘書だという佐藤大志さんから連絡を頂いて、4月19日に明石工場にお伺いすることになったのである。

広報の話』ということだったのだが、橋本さん以下10名以上の方が出席されて、結構面白い『雑談会』になったのである。

 

★ その前日だったと思う。 Facebook で川崎由美子さんから、『古谷さん、明日ロボットへ行かれるそうですね。主人は、ぜひお会いしたいと言ってたのですが、アメリカ出張で出席できないので・・・・』というメッセージを頂いたのである。

川崎由美子さんはドイツにおられたこともあり、ご主人がカワサキにお勤めだとは聞いていたのだが、それが『ロボット』だとは気が付いていなかったのである。そしてドイツにいたときは、橋本さんもよくお宅に来られたというのである。

それが、営業総括副総括部長の岩瀬さんだと聞いてビックリした。

 

    

 

川崎由美子さん、こんな方である。

バイクに乗るし、未だお若いと思っていたものだからご主人はまだぺいぺいだとばかり思っていたのに、それが営業副総括部長だと仰るのである。

当日は、そんな川崎由美子さんの話も出たし、カワ販にいた『柏原久』くんの話も出たのである。

柏原久は、カワ販の定期昭和42年度入社で、特約店制実施の時代から密接に関係があったのだが、それが川重のどこかにいて『重宝』されているという話は知っていたのだが、それが『ロボット』だったとはっきり気付いたのは当日の話の中のことである。そんなこともあって私は一気にロボットに『親近感』を覚えるようになったのである。

柏原の性格は、私はよく解っていて、『自分が気に入らない職場』でちゃんと働くようなことは決してしない男である。『柏原がちゃんと仕事をした職場』は間違いなく『いい雰囲気』の職場に違いないのである。

そんな『雰囲気』は、初対面の橋本さんや列席されたメンバーたちと2時間ちょっと雑談していて、私自身も直に感じ取れたのである。

 

★そんなこともあって、秘書の佐藤大志さんに西神戸にショールームがあるそうなので、『一度見せて貰えませんか?』とメールしたら、即刻ご返事を頂いて、当日は営業企画部長の真田知典さんも同席されるというものだから、それなら、お会いできなかった岩瀬営業総括副部長にもぜひお会いしたいと申し上げて、昨日西神戸のショールームをお訪ねしたのである。

 

    

 

   こんなショールームを

 

   

 

  こんなメンバーで、ご案内頂いて、9時半から1時間のショールーム見学。

  その間に、御大の橋本常務がお忙しい中、ご挨拶と顔を出して頂いて、ホントに恐縮したのである。

 

 そのあと1時まで、主として『ロボットの広報』について、いろいろ申し上げたのだが、『ロボットのブランド戦略』の方向としてもっと末端の社会などCUSTOMER (業界や取引先)ではなくて CONSUMER(社会の一般大衆、消費者)に向けられない限り、『真のブランドイメージの創造』など出来ないのである。

イメージ』とは本来『他人の評価』であって業界や身内の評価ではないのである。

そういう意味で、ロボットの広報戦略について、ズケズケと本音で申し上げたのだが、岩瀬さんとも真田さんとも結構いい雰囲気でお話が出来て、いろんなところで私と接点があることが解ったのである。

岩瀬さんについては、川崎由美子さんから『主人はマジメ一方で・・』とお聞きしていたのだが、バイクにもお乗りになるし、東京の販売店などもご存じで、話が通じるところいっぱいなのである。

また真田さんは、私が現役最後に務めた、北海道川重建機のことをよくご存じでびっくりしたのである。

私も、調子に乗ってエラそうなことをいっぱい言ったので、帰宅してから昨日『お世話になった、ロボット』について私なりの情報発信、広報はしてみたのである。

 

 まずはショールームの1時間の見学内容を『5分のYouTube』に纏めたのが『これ』である。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=mluuLu_YRzk

 

 

★この動画を、Facebookにも、ツイッターにもアップしたし、Instagram には写真だけだが、アップすると、やはりそれなりの効果は出て、昨日からの半日だけでも、結構な方の眼に『カワサキ・ロボット』は目に触れているのである。

 

 Facebook の動画は再生300回を超えている。

  https://www.facebook.com/rfuruya1

 

 松本さん、西神戸工場にお勤めとは知らなかった。

 

 ツイッターでも沢山の方が興味・関心を持たれたようで、さらに『リツイート』されている。

https://twitter.com/rfuruya1

 

 Instagram でも、単にこんな写真だが沢山の『いいね』を頂いた。

https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja

 

  

 

 

★そして、このような『情報発信』についてNPO The Good Times のトータルシステムとして、この8年間積み上げてきた実績をGoogle は、非常にフェアに『高く評価』してくれるのである。

 

カワサキロボット You Tube』 と検索したら、

カワサキロボット』という「私のYou Tube」がこのように『2番目』にアップされるのである。

 

https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%82%B5%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E3%80%80You+Tube&spf=1494585811902

 

 

 

これは、『トータルの仕組み』の問題なので、私と同じような仕組みを創られたら、毎日でも無料で『カワサキ・ロボットの情報発信』が出来るのである。

是非、カワサキ・ロボットが他メーカーと差別化された『本格的な広報戦略』で『高質なブランド創造』を目指されたらいいなと思っているのである。

そんな『ソフト面』なら、幾らかは、お手伝いは出来るのかなと思っているのである。

 

NPO The Good Times は、『異種・異質・異地域をみんな繋いで いい時を過ごそう』 そんな基本コンセプトなのである。

今までは私にとって、ロボットは間違いなく『異種・異質』な部門だったのだが、ひょんなご縁で、至極『親しみ』を感じているのである。

 

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カワサキの二輪事業と私 その53 昭和57年(1982)

2017-05-12 05:04:14 | 自分史

★昭和57年(1982年)は、7月1日 に トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の合併により、トヨタ自動車発足したり、8月1日には神戸市垂水区の北西部が西区へ分区され、神戸市は現行の9区体制になったりした年だという。

私にとっては40歳代の最後の49歳の年でもあった。

カワサキの82年モデルと言えば、GPz 400

        

  GPz 750 などが発売された年でそこそこの人気だったが、FX400のような圧倒的な売れ行きではなかったが、

 

        

     私が担当していた国内市場のカワ販は、この4年間その経営非常に安定していたのである。

 

 

★ 前年の8月から当時の主力市場アメリカのKMCの再建のために『高橋鐵郎・田崎雅元コンビ』がアメリカに渡ったのだが、前年の81年も赤字が続き、82年度も継続して大きな赤字が見込まれるという時期だったのである。

川崎重工業の本社部門、それもTOPレベルの人たちが、『カワサキの二輪事業』に対して非常に大きな関心を持たざるを得ない、そんな状況に追い込まれた時期なのである。

かって抜群の急成長でカワサキの二輪事業を引っ張ったのもアメリカであったが、この数年『スノーモービル』の赤字、それを生産していた『リンカーン工場』の赤字がKMCの経営に大きな影響を与えた上に、HY戦争がアメリカ市場にまで飛び火して、その値下げ競争や在庫過多、さらに当時のアメリカ市場の20%近い高金利などから、KMCの赤字の額は日本円にして100億円のレベルに迫り、川崎重工業との連結決算の結果、川重自体が無配に追い込まれるそんな状況だったのである。

海外販売会社の赤字』を改善することが最大のテーマだったのだが、当時『販売会社の経営』の経験があった人は殆ど皆無と言ってもいい状況だった。そんな環境の中で独り『国内のカワ販』だけが安定して4年間黒字経営を続けていたこともあって、川重本社部門や当時のTOP の人たちの国内カワ販に対する信頼度は異常なほどだったのである。

 

★KMCをはじめ、カワサキの海外子会社を『カワ販の傘下』とし、カワ販型の経営を展開するという当時の川重本社経理部の試案があって、この方向で進めることが当時の長谷川社長まで届いていたことなど、ご存じの人は殆どおられないと思うのだが、そんな書類が私の手元に残っている。

なぜ私の手元にあるのかというと、本社経理から具体的な相談があったからなのである。

単車事業部におられた方でも『こんな話』があったことなど、ご存じの方は少ないだろう。長谷川社長もご出席の会議の席上で、KMC問題を検討しているとき、『ところでカワ販の子会社にすると言う件はどうなった?』と社長が質問されたのである。本社スタッフは上手に答えたのだが・・

 

    

 

 この計画が実現しなかったのは、カワ販で検討した結果、資本金の増額などの対応で、現実に『ムツカシク』実現するには時間が掛り過ぎて不可能だったのである。

この一事を見ても解るように、海外子会社を黒字化するためには『カワ販のノウハウ』を必要としていて、当時の川重本社の『カワ販への信頼度』は抜群だったのである。この案と同時に、単車事業部全体の『別会社構想』もあったのだが、これは当時の山田専務が反対されていて実現しなかったのである。

 

★それはともかく、前年度からのKMC対策は次のような形で進められてきたのである。

 

● 昭和56年4月 常務会で、 スノーモービル事業からの撤退・リンカーン工場のKMCからの分離独立・KMCの増資

● 昭和56年7月 常務会で、 KMCへの増資25百万ドル と 90日ユーザンスの実施

● 昭和56年8月       高橋鐵郎会長・田崎雅元社長 のKMC 会長・社長人事

● 昭和56年11月      リンカーン新製造会社設立

                本社財務部門メンバーによる「KMCワーキンググループ」の発足

などで具体的に対応してきたのだが、なかなか成果に繋がらず、

 

● 昭和57年4月 単車事業対策委員会が発足し、 委員長に山田熙明専務 が担当されることになったのである

 

山田専務はかっての単車事業部の技術部長をされていて、創成期のカワサキのレース関係にも直接関与されていて、デグナーとの契約などは山田さんが直接担当され、私がその契約書原文を創ったなど、二輪事業の細部をよくお解りの唯一の川重トップと言ってもよかったのである。

そんな山田熙明専務が担当されてから、このプロジェクトは急速に動き出すことになるのだが、7月1日の早朝、山田専務から自宅に電話があって『9時に本社まで出頭せよ』との指示を頂いたのである。

私の10月1日からの事業本部の企画部長への異動は、この7月1日に事実上決まったのである。

 この時山田専務から私に質問のあったのは、『KMCの黒字化』についてどう思うかということだったので、『それは2年もあれば間違いなく実現可能です』とお答えしたので、『企画に戻ってやれ』ということになったのである。

販売会社の機能とは、仕入れたものを『販売する』という至極単純なもので、小売店から大販売会社までいろいろあるが、そこが『赤字になる』というのは、これは『人災』なのである。普通にさえやれば『黒字になる』のは普通のことなのである。

当時のカワサキの販売会社が赤字になってしまうのは、基本的な仕組みが完成していないことと、実力以上に『頑張り過ぎた人災の結果』だと思っていたので、その原因さえ除去すれば そんなにムツカシイことではないと思たのである。

そしてその時山田専務に条件としてお願いしたのは『高橋鐵郎さんを企画室長で戻してほしい』という一点だけだったのである。

単車事業の経営の安定化方策立案は『できる』と思ったが、その政策を全軍に指揮するには新米部長ではダメでどうしても高橋鐵郎さんに旗を振って貰わぬとダメだと思ったからである。

山田さんは、『KMCを田崎で出来ると思うか?』と言われるので、『田崎さんは私より一期若いだけで、KMCが田崎さんで出来ないと思われるなら、私の企画部長もできないと思います。』とお答えして、高橋企画室長が実現することになったのである。

 

★今回の『カワサキの二輪事業と私』はカワサキの二輪事業の核心に触れる部分なので、私なりに正確にきっちりと書いておきたいと思って、昔の資料を念入りに読み直して書いている。

 それはこんな1冊のファイルにぎっしりと資料が残っている。それも私しか持っていない資料が殆どなのである。

 

  

 

ここでいう『単車再建』のキーは『KMCの再建』でもあったので、これ以降数年間、KMCの社長であった田崎さんとのやり取りが密接に続くのである。

このKMCの再建は、極めて大変な問題ではあったのだが、田崎さんも私も、同じ朝鮮・満州という大陸育ちで『ネアカ』にしかモノを考えないタイプで、悲観的にならなかったから『ウマくいった』のだと思っている。

田崎さんをご存じの方は、よくお解りだと思うが、兎に角『よく喋る』のだが、私は何事もすべて自分の意見は文章にして残しておくタイプなのである。

この年の田崎さんとのやり取りも、殆ど全て書類として手元に残っているのでそれを見ながら書いているのである。

 

  

 

★この年10月1日付で、高橋鐵郎企画室長・古谷企画部長体制となるのだが、12月末までの3ヶ月で、今後の展開となるトータルシステムの構築は ほぼ完成したのである。

 

具体的には

● 従来の企画は各販売会社が創った事業計画をただ纏めるだけであったが、特に民需量産事業などでは、個別最適値の集計全体最適値とはならないことが多いのである。

これを根本的に改めて、企画部が『全世界に展開する販社を含めての全体最適値』を自ら創って、販社の事業計画の骨子は明石の企画で創り指示するという中央コントロール型に変えたことである

●そのために新しく販売会社を統括する『関連事業課』を創り、直販会社の管理は営業部から外し、関連事業課が担当することに変更し、その方針に基づき翌年度昭和53年度の各販社の事業計画は、各販社に明石まで来てもらって協働作業で骨子を創り上げた。 その計画は翌年度全販社黒字計画となり、翌年度からは月次損益を行い毎月その推移を関連事業課が把握出来るようにしたのである。

●事業本部の収益性の改善の第一歩としては部品価格の事業本部内限界利益が50%になるように全面的に改正し、企画で決定して即実行に移したのである。これで部品の利益額はほぼ倍増することになったのである。

●最重点のKMCに対しては、カワ販から富永・日野君という販社経営の専門家を逆出向させ、明石関連事業課と密接な連携を図るようにした。

●企画室内には、開発・生産など明石工場に関する業務が川重本社との実務やり取りが多く時間が掛るので、この業務は生産企画機能として大前太課長担当として一任し、企画部としては二輪事業全体の本社機能的役割を主たる業務として武本一郎課長の担当としこの分野の基本コンセプト立案を私が担当したのである。

 そしてこの年には、本社の財務部門の若手メンバー中心の調査チームが存在していて、主としてKMCへの財務対策が具体的に検討されていたのである。

上記の二輪事業のトータルシステムと、この本社グループの具体的な『財務対応処置』とがうまく嚙み合って『KMCの再建』ひいては『二輪事業の再建』は実現したと言ってもいいのである。

具体的にはKMCに対する60百万ドルという資金投入、180日ユーザンスの供与などと言うドラスチックな財政面での支援がなかったら、二輪事業再建などは間違いなく実現しなかったのである。

 

 このメンバーたちのうち、その中心メンバーであった小川優さんは、翌年から単車事業部に異動して私を援けてくれただけではなく、NPO The Good Times でも監事を務めてくれたし、今もFacebook で繋がっているので、ご存じの方も沢山おられると思うのである。

このグループの長をしていた横山昌行さんは川崎航空機の同期だったので非常にやり易かったのである。

松岡京平、富田健司さんという当時の若手は、田崎・百合草KMC社長時代にはKMCに出向して、具体的に手伝ってくれたし当時の経験がその後にも間違いなく生きたと思うのである。松岡さんは川重の前副社長だし、富田さんは現副社長でその前は二輪事業を自ら担当されていたのである。

内田道夫さんはUK社長などもおやりになりKR250/350 のGPレースをヨーロッパで展開された、メグロ出身のあの内田さんなのである。

 

   

 

●私自身は11月初めには約10日間KMCに出張し、田崎さんと密接に今後の展開の打ち合わせを行ったのである。田崎さんとは若い頃から何度もいろいろと一緒にやってるのだが、仕事の話をこれだけ密接に詰めたのはこの時が初めてで、間違いなくお互いの『信頼感』みたいなものが出来たと思っている。出張中は何度もお宅にお招きいただいて食事などご馳走になったのである。

その出張には、本社の田中吉正経理課長も同行してくれて、本社メンバーとも話す機会が出来たし、私自身KMC再建は『その営業外対策』がメインだと思っていたので、そのあたりのことも田崎さんに話せるホントにいい機会だったのである。

 

★ところで、カワサキがスノーモービルを持っていたのをご存じだろうか?

その性能は結構よかったということだが・・・KMC の経営悪化の引き金がこのスノーモービルで、暖冬で雪が少なかったのが、運が悪かったとも言えるのである。

 

   

 

  

田崎さんが『スノーモービル』に関して、こんなことをメールで送って頂いたのでご紹介する。  

 

北米では暖冬が続き、販売が伸びずに在庫がたまる一方のスノーモービル(雪上車)が問題になり、この事業から撤退するべきだという意見は、KHI本社部門を中心に単車事業部の中でも数年間繰り返されていた。

私がKMC社長として渡米する時には、これは決定事項になっていた。しかしながら、この事業の生い立ちから、多くのリスクを抱えながら、KMCが自ら、この撤退作戦の戦略、戦術、戦闘を遂行するという事になる。  この事業の生まれ方は明石の単車事業部としては「実の子」とは言えない異常な生まれ方をしていた。

ヤマハのエンジンを搭載してスノーモービル事業を展開していたカナダのスノージェット社からKMCが事業を買い取り、ミネソタ州のシャコピー(Shakopee)に開発センターを設け、リンカーン工場で生産し、KMCが販売する、という仕組みで、明石工場の立場は発動機事業部がエンジン のサプライヤーとしてのみ関与するという形であった。

単車事業部としては、製品企画、設計開発、生産技術、品質保証、アフターサビス等の関与なしに生まれた製品であり、関心のない人がほとんどであった。図面はインチサイズ、明石には図面、部品表、取扱い説明書、etc 何もなかった。後に、この反省から米国で生まれたジェットスキー、四輪バギィー車などは全て単車事業部の仕組みの中で実の子として育てていくことになる。

さて、事業の拡大に伴うセールスインセンティブを中心に展開されている販売会社の米人従業員達にとって、撤退には上から下までネガティブであり、撤退作戦に伴う、風評被害、モーターサイクル事業に影響するドミノ論、売掛金の不良債権化、在庫処分、継続的なアフターサービス責任、モーターサイクル/スノーーモービル併売店の維持などの問題で混乱することが考えられるので、「撤退は決定事項である、ユーザーには迷惑をかけない事を前提に、如何にロスをミニマムにするかに知恵を絞ろう」とトップダウン型で推進することに決めた。

撤退のシナリオとしては、社長の一時帰国、株主KHIの意向確認、帰米後臨時取締役会、事業撤退の決定、一般公表、開発センターの閉鎖、試乗テストチームの撤収解散、人員整理と一挙にすすめることとした。KMC取締役会では二人の米人役員が撤退反対を表明をさせて貰えないか、と申し出てきた。ディーラーからの訴訟リスクを回避したかったのだろう。議事録にはそのように明示されている。

開発センターの閉鎖は典型的なアメリカ方式であった。人事担当役員が出張し閉鎖を宣言、従業員は一時間以内に私物をもって退去、後は警備保障会社が管理する、というやり方である。センター長だった柳内さん(同期入社)には大変なご苦労をおかけした。市場では、製品の人身事故に係るキャタビラのリコールの最中であったが、これにも真剣に対処した。生産設備、型治工具、仕掛品の始末ではリンカーン工場には多大の損失を発生させる事になった。

 

確かに、当時のアメリカでの事業展開は、カワサキ自体が未経験な分野だっただけに、リンカーン工場も最初は販売会社であるKMCの傘下であったり、このスノーモビルも、ジェットスキーも、発動機事業部の製品だったことから、明石の単車事業部は関与しないままでの経営となっていて、やっとこの時期になってその撤退や、改善策が講じられていくことになるのである。

 

田崎さん、こんなことも書いてきておられる。その写真と共に、送って頂いた。いかにも田崎さんらしい。

 

販売する製品には十分な係わりを持ち愛情を持って育てなければならない。』 これも私の信念になった。

ジェットスキーもバギー車もチャンスがあれば家族を含め自分で試乗して愛情を育むよう心掛けた。

 

    

 

 

    

 

 

   

 

 

   

 

次回、昭和59年度からは、愈々再建屋、大庭浩本部長(後川崎重工業社長)の登場となるのである。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

★ https://www.facebook.com/1126074024157186

 

 

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私とカメラ

2017-05-11 06:04:21 | 発想$感想

★ 昨日、カメラをぶつけて壊れてしまって、新しいのを買ってきた

 同じ Nikon にしないと使い方がよく解らないので、同じようなものを買ってきた。

4年程前に買ったのだが、大体同じ値段だが、店の人に言わすと格段に『画素数』などが多くなり、『全然違いますよ』と仰るのである。

別に写真の質に凝っているわけではないので、そこそこの性能であればいいのだが、昨今はどんどん機能は進歩する。

 

   

 

★カメラを持ったのも、写真を撮り出したのも、ネットを始めてからだから、70歳代になってからである。

現役時代は、カメラも持っていなかったし、写真を自分で撮ることはなかった。

家内と海外旅行に行った時も、使い捨ての何枚かの写真が撮れる紙の写真器を買って持って行った。

普通のカメラは、面倒で写真になるまで時間が掛り大変だと思っていたのである。

カメラを買うーフィルムを買うー写真を撮るー撮った写真は写真やで現像するーそれを貰いに行ってー選んで写真にしてー持って帰ってアルバムに貼る。 

一緒に行った人に写真を上げたりするのも、手間が掛かって大変である。

そんなことで、世界中を飛び回っていたが、カメラなど持って行かなかったし、『自分の眼』で確り見てくればいいと勝手な理屈を持っていた。よくしたもので周囲の人たちが写真を撮ってくれて、それを頂くものだから、当時の写真もあることはあるのだが・・・

 

 ★ 自分でカメラを持ち、写真を撮りだしたのは、ネットを始めてからで、写真を撮った後の処理も各段に速くなり私の性格に合うようになったからである

どんどん撮って、ネットにどんどんアップしておけば、殆ど消してしまっても、Google が勝手に整理して、ネットの世界の中に残してくれる便利な世の中になった。

 

写真の質などは、解らないのだが、この4月からは 『写真のサイト=Instagram』をやりかけて結構ハマっている。

  https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja

これも自分のデジカメの写真からもアップできるようだが、やり方がまだ解らないので専ら『スマホの電話以外の機能が残っている』電話機能のない『スマホの残骸』で撮っている。

そのうちに孫にでも教えて貰ったら、デジカメからもアップできるようになるかも知れない。

 

 

★カメラ屋さんが言う、抜群に進歩した性能の『新しいデジカメ』で撮った写真である。

   

雨上がりの庭を何枚か撮ってみた。

 

   

 

 

 池に咲くカラー。 そんな季節である。

 

   

 

 

 これは小さな『真珠の木』 真珠のような実が長く付いているようだ。

 今年の冬、買った時は、いっぱい実がついていた。花の数だけ実が付くはずである。

 

 

   

 

 

   ばらのシーズンはそこまで来ている。今年はちょっと遅れ気味である。

 

   

 

 

  確かに、『綺麗に写る』ような気もする。

 

 

   

 

 

★ここからはスマートホン で撮った写真なのだが、

 

  これは、蔓バラの『シュート』がいっぱい出ている。来年の主枝になる。

 『シュート』がいっぱい出るということは『ウマく育っている』証である。

 

 

    

 

 

 ★同じ画面を、二つ並べてみた。

 

  こちらは『スマホ』で撮った写真である。

    

 こちらは新しい 『Nikon のデジカメ』で撮ったものである。同じが画面を並べてみると、ちょっと違うかも知れない。

    

 

 新しいカメラも壊したりしない限り、また長くお世話になることだろう。

 その性能については、十分満足しているのである。

 

  

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庭仕事 溝の掃除

2017-05-10 07:48:36 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

 ★庭仕事は、我が家で私の担当である。

家内は一切手を出さない。 ただ「家の中」のことは私は殆ど何もしない。そういう意味では、家内とはいい呼び名だと思っている。

 

我が家の庭の一番奥まったところは、溝になっているが、この5年間ほど全く何もせずに放っておいたので草が生えて、水など流れたりしないが、特に何の問題もなかったので、放置しておいたのである。

昨日は、ふと思い立って、5年振りに溝の掃除をすることにした。

私は、やりかけると何でも完成するまでやらないと『気が済まない』ので、2時間以上掛ったが何とか完成したのである。

やる前の状態が、相当にひどかったので記録に残しておこうと、動画を映しだして、完成するまでの途中経過を含めて纏めているので、ご覧ください。

 

   

 

  これが事前の状況である。

 

  

 

 

   これは途中経過で、奥の方だけは何とかなった時の状況である。

 

  

 

   こちらの方も何とかなった。

 

  

 

  

そしてこれがめでたく、完成した写真で、こちらが 奥のほう

 

  

 

 こちらがいっぱい草が生えていたところである。

 

  

 

 ホースで水を流したら、見違えるほど綺麗になって、大満足である。

 

 

★こんな奥まった、溝の中の掃除は、やはり道具がないと普通では、なかなかムツカシイのだが、その点三木の金物は、用途に応じていいものが『揃っている』。

 

  

 

 この一番『左側』が、このような狭い溝掃除専用の道具だが、これがないと下に溜まった土など取るのは大変だが、これは柄が長く、こんな角度についていて結構楽なのである。

 その次は草抜き専用、どれも三木金物であることは間違いないのだが、メーカーの名前は失念してしまった。

 

兎も角、物事『完成する』ことは気持ちがいい。

5年振りに我が家の溝は綺麗になった

 

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菅野 連続無失点 完封記録ならず

2017-05-09 19:16:49 | 発想$感想

★菅野の連続4試合完封の記録が掛った  巨人ー阪神戦を観ていたが、いま好調の阪神打線はあっさり1回に2点を取って菅野の完封記録試合の記録は実現しなかった。

 

 

  

 

3試合と言えば27インニングである。

それでも、プロ野球の世界では珍しい記録なのである。

 

★ 実は私自身は、『連続完封』には私がやったわけではないが、1年間神戸商大の大学野球の監督をやってた時代に、当時1回生だった小山修身くんが『64イニング連続無失点記録』を達成してくれたのである。

点を取られなければ、『野球は勝つ』と言っていい。 だから『野球はピッチャーだ』と思っている。

この小山投手のことを ずっと昔に、こんなブログで紹介している。

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/d21821198f26da39c70d83cfbe7c6d12

 

 ちょっとはしょって紹介すると、

 

旧い日記をめくっていた。昭和31年、1956年のこと。

大学の5回生の頃である。5年大学に通った。卒業できなかったわけではない。
卒業を1年延ばしたのである。・・・・・・・・

野球部のキャプテンをやっていたが、満足できていなかった。
もう1年延ばして監督をと野球部長に奨められたりした。ちょっと身体を壊したりしていて、それも理由の一つであった。
結局、野球部長のゼミだけ残して、卒論を書かずに残留して野球部の監督をしたのである。・・・・・・・・


秋のリーグ戦のことである。
1回生の投手小山修身君が凄い記録を作っている。これは、意識的に『造った記録』である。

11月2日市大戦。7-1で勝つ、小山完投、ここからスタートしている。

1週間空いて後半戦
11月7日市大戦。2-0と快勝した。
11月8日工大戦。1-0で勝利、小山の連投で順調にリーグ戦を立ち上がった。
11月9日工大戦。0-09回引き分け、3連投である。

ここまでは、惰性できた。3連投も凄いし無失点も凄い。前週の市大戦からだと29イニング連続無失点である。
7-1と1点を取られた1点もエラーからだから、36イニング連続無自責点である。ひょっとしたら『新記録ではないか』と思った。

ここからは正直記録を意識した。本人もひょっとしてチームメイトも記録については知らなかったと思う。
翌日の経大戦は『行けるところまで』と記録を意識して小山でスタートした。

11月10日経大戦。4-0 9回2,3塁の危機を見逃しの三振で完投完封。


そして翌週、ここまできたら小山しかない。
11月14日経大戦。4-0とまたも完封勝利。5試合無失点である。
11月15日薬大戦。13-3ここで記録は途切れた。

小山修身君の記録は53イニングス連続無失点64イニング連続無自責点である。
薬大戦の1点目も野手の悪投によるもので自責点記録は更に2イニング伸びて64イニングだったと思う。

これは、間違いなく学生野球の記録で、たぶん今も残っているのではないだろうか。
少々、無茶苦茶だが連日連投、記録の間一切他のピッチャーは投げていない


小山君とは今でも家も直ぐ隣町で、年に何回かゴルフもするし野球部のOB戦でもお会いする。
この話も昨年出た。彼は記録のことは途切れるまで知らなかったと言う。

昔はホントに記録など眼中になかったのである。
明石高校の頃、チームが夏の予選で灘校相手にパーフェクトゲームをやったが、試合終了後球場の『この試合は完全試合でした』というアナウンスで初めて知った。
同期の溝畑投手である。


そんな時代だった、当時は新聞などでも取り上げられなかったと思う。
もう50年以上も前である。
小山君の名誉のためにこのブログを贈りたい。

 
★私の野球人生は、いいピッチャーに恵まれたので、いい経験をさせて貰ったと思っている。
 
明石高校時代の甲子園出場も。同期の溝畑圭一郎というピッチャーがよかったからである。
 
彼は卒業後、神戸製鋼に入って、都市対抗野球に10年程連続で出場している。神戸製鋼も強かったし、三菱が勝っても川重が出場しても、補強選手で毎年後楽園に行っていた。
 
小山修身くんは、1年生の秋が最高によかったのではと思う、
 
 
  
 
 
 
  写真などないのだが、これは商大野球部のOB会、後ろ向きの帽子を被ってるのが小山くんである。
 
 
 菅野の記録は敗れて、いま4-1で阪神が勝っている。
 
 
 

 

 

 

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ゴールデンウイークの過ごし方

2017-05-09 05:56:46 | 発想$感想

★ 今年の5月のゴールデンウイークも『やっと終わった』という感じである。

常にゴールデンな毎日を過ごしている、『後期高齢者夫婦』としては、5月の連休が特別なものでもないのである。

新聞の夕刊は来ないし、プロ野球のテレビ放映は昼間だし、何となくいつもと違うパターンで、ゴールデンウイークが終わるとやっと平常に戻ったかなという感じになるのである。

 

  

 

 流石にその過ごし方はいろいろだが、『毎年家で過ごす』が一番多いのだが、『外出し外で過ごす』というか家を空ける人たちも半数近くはいるようである。

 

   

 

  自分の若い頃を、振り返ってみると

● 現役時代、30代後半、仙台に住んでいたころは、毎日が仕事・仕事の毎日だったので、5月の休みは家庭サービスで、子どもたちを連れての日帰りの遊びや、一泊どまりで旅行なども楽しんでいたりした。

● 40代、関西に戻ってきてからは、家内の実家に行って『家内の骨休み』が中心の過ごし方になり、

● 50代に入って、子どもたちもそれぞれの予定があるような時期には、夫婦でのオーストラリアやヨーロッパの海外旅行に行ったりした。

● そして60代になってからは、孫たちが遊びにやってくるパターンになり、

● それも70代前半までで、後期高年者夫婦のゴールデンウイークは間違いなく『家で静かに過ごす』ことになっている。

 

家では何をして過ごしますか?』は私の場合は、年寄りだが若い人と同じく『インターネット』それも『パソコンによるインターネット』なのだが、昨今 Instagram にはまっていて、

  

 

      昨日も、緑が丘のメイン通りの ひらどの写真を撮りにちょっと出かけた。

 

 

   

 

    

    

 

     『なにはいばら』 も 綺麗に咲いていた。

    

 

  いい季節である。

  4月から始めた、 Instagram  

   にちょっと ハマっていて、これは Instagram から切り取ったものだが、

 

     

 

  いまは、このようになっている。

         https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その52 昭和56年(1981)

2017-05-08 06:50:13 | 自分史

★この当時、日本の二輪生産台数はは1976ホンダロードパル77ヤマハパッソルをきっかけに特に50cc分野を中心に年々大幅に増大し80年代に入っても急激な伸びを示していた。特にヤマハは81年には『100万台計画』を掲げ、国内市場シェアでホンダに僅差に迫り、首位の座を狙っていたのである。

HY戦争』と画像検索したら、『スズキの方』が書かれたらしいこんな記事が現れたのである。

 

   

 

 

70年代はカワサキは国内では50ccモペットを持たないので一人影響を受けずに済んだのだが、80年代に入ると

この『HY戦争』がアメリカ市場にまで及んで、KMCは大きな損失を数年に亘って出し続け、その影響を受けて川崎重工業自体がKMCとの連結決算の結果『無配』に陥ってしまうという状況に追い込まれたので、『KMC対策』は単車事業部だけの問題ではなく川崎重工としての最大の課題となり、この年の初めごろから、その対策としての『人事問題』が大きな問題として検討され続けていたのである。

その結果は、6月になって『高橋鐵郎・田崎雅元コンビ』ということに決まるのだが、その間いろいろと『私自身の名前』も周囲から何度も聞かれたし、現実に山田・大西常務などからは、直接具体的な話としてもあったので、ひょっとしたらと覚悟もしていたのである。

当時・アメリカを担当していた田崎さんか、私かということだったのだろうが、は販社経営は経験があるがアメリカ市場は未経験だし、田崎さんはアメリカ市場は経験者だが販社経営は未経験だったのだが、私は現実に『国内販社を担当していた』ので、田崎さんということになったのだと思う。

 

★この『カワサキの二輪事業と私』もいよいよ80年代に入り、カワサキの二輪事業で尤も危機的状況であった81年からの数年間に入っていくのだが、私自身はその当時の書類などは、今でも手元にあるのだが写真などは一切持っていないので、田崎さんに『当時の写真持ってませんか?』とメールしたら、こんな写真をメッセージをつけて、送って頂いたのである。

 

   

 

 私は川崎航空機の昭和32年度入社なのだが、田崎さんは昭和33年入社で私のほうが1年先輩なのである。

 田崎さんとは彼のジェット時代から組合関係の常任幹事会で顔を合わせていたし、田崎さんが単車に来てからも、レース関係では私の最初のレース現場だった山梨モトクロスでは、髙橋鐵郎さんが『技術関係が頼りない』と思われたのか、田崎さんを助っ人に派遣して頂いて、二人でレース現場を仕切ったりした。またカワサキが初めて鈴鹿を走った時のレースマシンは、製造にいた田崎さんが山本隆くんのために都合してくれたのである。『源平芸能合戦』というテレビイベントに会社として出演した時には、応援団などいろいろと具体的に手伝ってくれたりしたのである。

会社の中で、『ただ知ってる』人は沢山いるのだが『一緒に何かをやった』と言う人は意外に少ないものだが、ご縁があって田崎さんとは、若い頃から現役最後まで、一緒に『いろんなこと』を『協働した仲間』なので、今でも気安くお付き合いができるのである。

今回も写真と一緒にこんなメッセージをつけて送って頂いたのである。

 

    

 

 ★この『KMC問題』は当時の単車事業部よりは、むしろ川崎重工本社財務部門を中心に対策がなされていて、このプロジェクトは単車出身の山田熙明常務(後川重副社長)中心で検討されていて、塚本本部長は、この年3月にはこの問題の責任を取って青野格本部長に交代されることになったのである。

8月からは事業部長だった高橋鐵郎さんが、自らKMC会長として出向されるのだが、高橋さんとはこの数年ずっと 開発途上国対策ヨーロッパ営業国内カワ販と同じ道を歩いて来た関係もあって、アメリカに行かれてからもいろんな情報を伝えてこられて、『予想以上にに大変』だから『カワ販からも手伝え』と言ってこられたのである。

当時の単車事業本部には『開発・生産』分野の専門家はいっぱいいたのだが、『販売会社関係の特に財務関連』の分かる人は皆無と言ってもいい状況だったのである。そんなこともあって、カワ販の定期採用一期生の富永邦彦・日野勉というカワ販最優秀コンビをKHI経由ーKMCに逆出向させることになるのである。

このコンビはKMCの田崎社長、その次の百合草社長の時代、KMCの累損消去までの長い期間 KMC再建を手伝ってくれたのである。

この辺りが『高橋鐵郎さんのカンの良さ』で、カワ販出向や東南アジア合弁事業などの現場での経験から、カワ販の若手の実力を買っておられて、東南アジアにも耕守・久後というカワ販の若手がすでに現地で手伝っていたので、その延長の方策だったのである。

 

翌年からは、私自身もこのKMC対策をKHI企画という立場からお手伝いすることになるのだが、この時、富永・日野くんという販社経験豊富なマーケッテングや財務の解るメンバーがいてくれたので、ホントに重宝したのである。

いろんな問題を検討するときに、専門家ばかりだと『説明抜き』での話が回るのだが、そこにアマチュア入ってくると『説明』をしないとなかなか解って貰えないのである。例えば開発や生産の話に私が入ると『説明』がないと話について行けないのだが、逆に『マーケッテングやバランスシート対策』などの話に『素人』が入ると説明が必要で回りくどくなってしまうのである。

 

★ ちょっと違った観点から、この当時の『カワサキの二輪事業』は、川崎航空機出身の人たち中心だったのだが、『エンジン専門家』以外は二輪事業に対して全く経験のない『素人集団』だったと言っていいのだが、そこに異種・異質な人たちのいろんなソフト・ノウハウが、おおらかに取り込まれた形の運営があって『カワサキ独特の二輪事業の体質』みたいなものが出来上がっていたように思う。

その柔軟さおおらかさは特筆もので、具体的にその幾つかを思いつくまま列挙すると

● まずは国内のメイハツ・メグロの人たちの営業分野での『ソフト・ノウハウ』 の取り込み

● 開発部門などにもメグロの技術屋さんが特に『車体関係』のノウハウを持ち込んだ

● たまたまBSやダイハツからカワサキに移った人たちも多く、そのノウハウが生きた

● 生産分野では、ジェットエンジン部門からの異動が多かったので、IBMや進んだアメリカ式生産管理ノウハウが持ち込まれた

● 主力市場の『アメリカ』では二輪に詳しいアメリカ人達が中枢にいて特に『開発分野』や『スタイリング』で機能した

● レース関係では、兵庫メグロの元オートレースライダー西海社長片山義美さんのプロの意見が大きなウエイトを占めたし、契約ライダーたちが、新車の開発試作車のテストを手伝ったり、意見具申などもしていた。

● 一番は、そんな末端の人たちの意見やソフト・ノウハウをおおらかに取り入れる『そんな雰囲気』がベースあった

 

当時から50年以上の月日が流れて、カワサキの二輪事業も独特の『ソフト・ノウハウの蓄積』もあり、プロも多いのだと思うが、この辺りの『柔軟性』がやや失われて『大企業の行儀の良さ』みたいなものばかりが目立つような気がしてならないのである。

 

★ 田崎さんのコメントの中にもあるように、

今思えば、当初の2年間は、もともと技術職として、品質管理、補給システムのプロとして活動してきた私にとって未経験な分野を学びながら常識を信じて走り続ける毎日だったが

『常識を信じて』というのが結構正しいのである。

 

昭和51年(1981)は、単車事業部長であった高橋鐵郎さん自らが『KMCに出向』というちょっと普通では考えられない人事が行われた年だったのである。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

★ https://www.facebook.com/1126074024157186

 

 

 

 

 
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我が家の薔薇たち

2017-05-07 06:25:31 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★5月7日、今朝の我が家の薔薇たち、明日ぐらいには花開きそうである

 いよいよ ばらのシーズンの始まりである。

 

   

 

 

   

 

 

   

 

 

 

  

 

  

 

  

 

 

薔薇のスタートは12月、今年は昔に戻って、ちょっとは『手入れの時間』を増やしたので何とかうまく咲くかも知れない。

 生き物は正直で、手を抜くとそれなりのものにしかならない。

 大した手間ではないが、12月から毎月の施肥、2月の剪定、その後の枝の整理などと結構時間は掛かる。

 

   

 

 根元から、元気なシュートが出てきている。

 これが来年の主枝になる。

 シュートがちゃんと出てきたら、『ウマく育っている』ということになるのだろう。

 

 

   

 

   

 

 これは新種の『赤い、四季咲きの ピエールドゥロンサール』いっぱい蕾をつけるのだが、そのままにしておくと、蕾のままで花が『開かない』のである。 蕾を取って数を少なくすると『開く』ようだが、折角の蕾を取るのは簡単なようでなかなかムツカシイ。

でも、生き物はちゃんと育てようとすると『育てる対象』を明確にしないとダメである。

間引きもそうだし、剪定もそうである。

ちょっと可哀想だが、今年は蕾を少なくして育ててみたい。

あと1週間もすれば、満開となるかも知れない。

来週は妹たちが『薔薇を見に来る』というのでこの1週間いろいろと頑張ってみたい。

結構、いろいろとやることがあるのである。

 

 

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