雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

Angeles スポンサー感謝イベント

2018-10-19 10:50:27 | 発想$感想

 

★ アナハイムにあるエンゼルス球場も、大谷翔平がそのメンバーにジョインしたこともあって、日本人にとっても馴染み深い球場になっている。

 

                  

 

  そんなエンジェルスの試合のテレビに、こんなスポンサー広告が写し出されるのをご覧になったこともあると思う。

 JAEの現地法人スポンサー契約をしていて、昨日はスポンサー感謝デーでいろんな催しがあったのだが、ご縁があってそんな現場に連れ行ってもらったのである。

 

 

                      

 

 

  グランドも解放されて、こんなバッテングゲージで大人も子供たちも、バッテングを楽しんでいたし、その様子が外野スタンドの大きな\二つ広告画面に映し出されているのである。

 

 

            

 

  その傍らでは、こんな現役選手との記念撮影やサイン会も行われていたが、この背番号39番のキーナン ミドルトン投手、まさにアメリカ人でそのサービスぶりは、ちょおと日本の選手には真似のできないレベルであった。

 私も、娘婿と一緒に何枚もの写真を撮っていただいたのである。

 

         

 

 

 

 

 

   正直、その名前は知らなかったが、調べてみたらこんな選手なのである。

         

 

 

  ★極めつけは,この方が案内してくれた場内ツアーである。

 2002年にワールドカップを制したエンゼルスの説明に始まって、普通では見ることのできない施設の数々が見学できたのである。

 

 

               

 

  エンゼルスは、こんな伝統のあるチームなのである。

 

          

 

  そんなエンゼルスのVIP しか通れない通路を通って、いろんな施設を見て回れたのである。

  こちらは大谷翔平が最初に記者会見をした記者会見室である。

 

           

    これはずらりと並んだ各放送局の実況放送をする席である。

                                    

 

 

   そして、選手たちのロッカールーム。 さすがにエンゼルスのロッカールームは記者の立ち入りも禁止されていて見ることはできなかったが、ビジターのロッカールームを見せて貰った。

  めちゃくちゃ広いなと思ったが、エンゼルスのそれは約倍の広さだという。

 

 

 

             

    

    選手一人当たりのスペースも結構広い。

 

 

                    

 

  この後、12席で年間2500万円のVIP席(日本テレビでベンチのすぐ横に写っている席)やベンチも見せてもらってツアー終了である。

   

  Facebook には動画を2本、アップしたのでそれをご覧になるとその雰囲気はよくお分かりになれると思う。

 

           https://www.facebook.com/rfuruya1

 

 

 

 

                 

 

   

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日本二輪車文化協会

2018-10-18 09:54:11 | 発想$感想

★アメリカはいま、朝の10時である。

 今朝、吉田純一さんから、Facebook で、一般社団法人 日本二輪車文化協会主催の第1回日本バイクオブザイヤー表彰式へのご招待が届いた。

 12月19日、東京で開催される予定のようだが、★興味あり とご返事している。

 

              

 

 

第1回 バイクオブザイヤーを獲得したバイクの表彰式が行われるというのである。

日本二輪車文化協会』は2016年7月に、次のような目的で設立された団体で、日本に『新しいオートバイ文化』を『ユーザーとマーケットの環境改善』を最優先に行動する基本方針なのである。

 

     

 

 

推進するメンバーが吉田純一さんを中心に、村島政彦さんや森田伊活さんなど現役時代からお付き合いのある懐かしい方たちや、川崎由美子さんなどホントに末端の第一線で二輪を愛する人たちが、具体的な活動を続けられているのがいい。

日本の業界にはいろんな団体も多いのだが、メーカーや業界団体主導の団体がほとんどで、末端の人たちが主導するこのような団体こそ、ほんとに日本に『新しい二輪文化が創れる』のではとスタート以来、強い関心をもって見ていたのである。

Facebook にも独自のページをお持ちなのだが、スタート以来数々のこのような活動を続けられているのである。  https://www.facebook.com/AllJapanMotorcycleAssociationOfCulture/

 

 

      

 

      

 

 

       

 

 

  二輪関連を取り巻くこんな方たちとの繋がりもあるのもいい。

 

 

        

 

   まだ日本に二輪雑誌が『オートバイ誌とモーターサイクリスト』の二誌しかなかった時代、サイクリストのロードインプレッション記事を担当されていたのが、大久保力さんである。

 そんな時代、大久保力さんや、オートバイ誌の横内一馬さんもずっとカワサキの明石まで足を運んでこられたのが懐かしい。 カワサキ125B1など1960年代の話なのである。

 

     

 

  そんな日本の二輪車とともに歩いた方たちとの繋がりがあるのもいいし、こんな日本の政治に関わる方たちが、親しく応援されているのもいいと思っている。

 

 

        

 

  これは長くこの業界で活動され続けた吉田純一さんあってのことだと思うのだが、このような関係が続くのも偏に彼の人柄なのだろう。

 たまたまカワサキにおられた関係で、われわれ仲間内では今でも『純ちゃん』で通っているし、カワサキのOBたちのZ1会のメンバーでもある。

 忙しいのに足の軽さは格別である。先週末の『カワサキモトクロスOB有志の会』にも顔を見せていた。

 

 

  この一般社団法人 日本二輪車文化協会 もスタートしたばかりだが、この会のスタート時の吉田純一さんのご挨拶である。 そのご挨拶通りの活動が推進されているのがいい。

 

         

 

    今後 ますます充実した活動を続けられることを期待しているのである。

              

  

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親子の会話、日本とアメリカ

2018-10-17 09:03:32 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★アメリカに来て、娘家族のところに1か月も滞在する生活がこの数年続いている。

 別に違和感もないし、遠慮もないし、普通に気分よく過ごせているのはなぜだろう?

 『普通に会話ができてる』のも、一つの原因だと思う。

 

 娘だから当たり前の話だが、20年も子供のころから成人するまで日本で一緒に生活したのだが、その間どれだけ『娘との会話』があったかな? 殆ど話している時間がなかったように思うのである。

この数年Irvine に来て娘と話している時間の方が、間違いなく長いように思うのである。

私自身を振り返ってみても、両親と話した時間はそんなに長くはなかったのでは、と思う。子供のころはともかく、中学、高校生になってからはそんなに会話はなかったのではなかろうか?

 

ところが、ここの孫たち3人と両親の間では、毎日普通にいろんな会話がなされているし、ネットのラインなどでも大学生の孫からしょっちゅう電話がかかって来るのである。その会話の内容は、別に用事があって話しているのではなくて、友達間の会話のように他愛無い内容のことがほとんどなのだが、普通に会話がしょっちゅうされているのは不思議なことである。

ネット社会になったから? そんなことはないように思う。

今の日本の高校生や大学生も、そんなに親たちと話をしているとは思えないのである。

 

     

 

★娘に直接、聞いてみた。

 『なぜ、そんなに息子たちと自然に話せるのか?』返ってきた答えは『アメリカは車社会はだから、車の中での会話の延長では......』というのである。

 アメリカでは、小学生の頃は一人では道も歩けないし公園でも遊べない。横には必ず親が同伴していなくてはならないので、常に会話はあるのだろう。

 中学生、高校生になっても、親が学校まで車で送迎することも多いのである。日本のように交通機関が完備されていないので、18歳になり免許を取って自分の車を持つまでは、親が車で送ってやらねば何もできないのである。

 現実に、孫の末弟は高校4年生だが、毎日のサッカーの練習には必ず練習場までの親の送迎がある毎日なのである。練習に行くときは娘が送り、帰りは娘婿が会社の帰りに寄って連れて帰って来るのである。

 車の中は二人きりだから、なんとなく『普通の会話』があって、その延長で家庭内でも普通に会話ができるのだろう。

 

★Googleで『親子の会話』と検索すると、『親子の会話がない』というのがいっぱい並ぶから、日本ではやはり親子の会話は少ないのだろう。

さらに『親子の会話 日本とアメリカ』と検索すると、いろんな項目が並んだ中に、娘が指摘したのと同じ、こんな『車社会』をその理由に挙げたのを見つけたのである。

曰く

  「古今東西、思春期は親に反抗するものではないか。そこで、アメリカ人の親子にあれこれ事情聴取するうち、ある事実に行き着いた。アメリカ人親子のベタベタぶりの秘密は、『車社会』にあるようなのだ。
 
 公共交通網が未発達のアメリカでは、運転免許を取得できる年まで、親に車で送迎してもらわない限り、どこにも行けない。友だちの家に遊びに出かけるにも、親の送迎は不可欠だ。小学生だけで電車に乗って出かけたり、子供同士で近所の店で買い食いする、なんてことは、今のアメリカの都会ではありえない。

 あるアメリカ人ママの証言。『週末が近づくと、中学生の息子がニコニコと愛想良くなり、家の手伝いをし始めるのよ。私の機嫌を損ねたら、カノジョとのデートもおじゃんだからね。うっしっし』。おまけに、車で送迎すれば、車の中では親子っきり。これが親子の貴重な会話の時間にもなってるんだって。『車で送迎』は、思春期の子をもつ親にとって最強の武器ってわけか」



         


 そんなアメリカの『車社会』という環境もあるのだろうが、同時に自分の意見を常に持ちそれを常に発信するアメリカの教育が身についているのだろう

 Berkeley で生活している次男からは、ホントに毎日のように娘のところにラインで電話がかかるし、自分の『サッカー情報』をどんどん送って来るのである。

 昨日は今日本の大学にいる長男から突然ラインで電話が掛かってきて、だいぶ長くしゃべっていた。

三人の孫たちの中では、一番日本的なあまり『自分の情報』を発信しない門野力也だが、それでも電話の内容を聞いていると、日本の親と子の会話にはないような「何か」があるような気がした。

 

 自分自身を振りかえってみると、『祖父母との会話』など全くと言っていいほどなかったのだが、私自身の『孫との会話』も結構あって、普通にいろいろ話せるのが不思議である。

直接、顔を合わすことができる環境がいいのかもしれない。

この月末には息子も日本からやってくるというし、娘の長男も11月初めにはアメリカにちょっと戻ってくるというのである。

 それを結んでいるのは、次男の大学最後の『サッカー試合観戦』なのである。

 

 

       

 

 『Shinya Kadono Soccer』と画像検索すると、こんな写真が並ぶ。 まだ小学生のころのサッカーのお師匠さんの息子は、わざわざアメリカまで『教え子の成長ぶり』を観に来るというのだから、その会話を支えているのは『車社会』以上に『サッカー』ではなかろうか、とも思っているのである。

 

 いずれにしても、息子や娘と、そして孫たちとも会話ができるのは、私にとって幸せだなと思っているのである。

 こんな環境があと何年続くのだろうか?

 

 

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明石大空襲

2018-10-16 07:44:33 | 発想$感想

★5年前にアップしている『明石大空襲』という私の旧いブログに、こんなコメントが寄せられた。

 

とても参考になりました   昨日 2018/10/15 日暮れにこの辺りを散策し 気になり、帰宅後このブログにたどり着いた者です

私は大阪に住む、40代で姫路の仕事終わりに、途中下車し明石城を散策。 私はお城や天守閣を見たく散歩してたのですが 天守閣は無いと解り、持て余し 途中で、SNS(テレビ電話のようなもの)で 九州に住む知人に、このお城の映像をみて気になる所は?と尋ねた所  天守閣から、『東へ』。との言葉に導かれ 薬研池ふきんのお地蔵さままでたどり着きました。 知人から お地蔵さまあたりで『あつい』と聞きお水をお供えさせてもらいました。

帰宅後、インターネットでいろいろ調べさせてもらい■■貴方さまのブログが私の知りたかった事を全て解決してくれました。

お礼あわせて、私に機会があれば口伝としてつないで行きたく筆を取らせてもらいました。 貴重なお話しを ありがとうございます。不躾、無礼ながら お礼まで コメントさせて頂きました。

 

 私自身、こんなに細かく書いていることすら忘れていたのだが、この明石大空襲がある意味、私のいまの人生に繋がっているのである。

 もし「明石大空襲」がなければ、私の人生は「変わったもの」になっていたかも知れないのである。

 もう70年以上も前の話なのだが、そんな爆弾を落とした相手国のアメリカに来て、いま楽しい時間を過ごしているのも『この空襲』のおかげ?かも知れない。

 

 人生とは不思議なものである。 空襲の話などは、殆どの方がご存じないと思うので、昔のブログをそのまま、再掲することにする。

 

 

 

 

 

明石大空襲  68年前の話を見つけた

2013-08-30 05:40:24 | 発想$感想

 

 ★私の本籍は明石上の丸である。

 

戦時中は今のソウル朝鮮京城にいたので、戦時中の経験はあるのだが、空襲の経験というか爆弾や焼夷弾を落とされた経験は皆無である。

ただ、明石の空襲で伯父の家の敷地内に3発の爆弾が落ちて叔母が亡くなったし焼夷弾で家は全焼してしまった

明石公園の外堀の直ぐヨコだったから、神戸などに比べて安全だと、知人の疎開の荷物なども沢山預かったりしていたようだが、みんな焼失してしまったようである。

これは戦後、引き揚げて来て伯父などから聞かされた話で、自分の経験談ではない。

 

 

★先日、ひょんことで『明石空襲』というサイトを見つけたのである

 

              空襲の記録

昭和20年1月19日

明石への最初の空襲は兵庫県下への最初の本格的空襲でもあり、川崎航空機明石工場が標的とされた。

B29爆撃機63機が川崎航空機明石工場に610発・154トンの爆弾を投下、当時の川崎航空機には全国から

学徒勤労報国隊や女子挺身隊が動員されており、この空襲で263人(内、学徒16名、女子挺身隊8名)の犠牲

者を出した。川崎航空機明石工場の被害は甚大で、発動機・組立工場の38%が損害を受けた。

 

    多分この時の空襲で叔父は、工場内で亡くなったのだと思う。

  それが、終戦の年の1月だったということは、このサイトで初めて知ったのである。

 

 

                   昭和20年6月9日

 午前9時54分、B29爆撃機25機が来襲、500~100キロ爆弾60個を川崎航空機工場及び明石東部付近に投下。

川崎航空機では殆ど損害がなかったが明石公園に避難した市民269名を含む死者644名、行方不明者12名、重傷者248名、軽傷者345名、家屋全滅1221戸、半壊634戸、罹災者9,426名に及んだ。

 

 

この時の爆撃で、上の丸の家には、3発の爆弾が落ち、叔母が亡くなったのだと思う。

明石市民は明石公園は安全だと思ってみんな公園に避難したところに爆弾が投下されたようである。

伯父の家は明石公園の外堀に面していて、公園側から見るとこんな位置にあった。

当時は敷地は2000坪以上もあって、全て伯父に家だったから、下の写真の全景が屋敷だったと思ったらいい

今でもここが本籍だし私はここで生まれたのである。

戦後もしばらくはそのままで残っていた。

母屋があったのは写真の一番左側あたりで、あとは全て庭で家は建っていなかった。

 

 

 

 

空襲の状況を非難した人に知らせるべくラジオの拡声器を庭に設置しておいたのだと言う。

それを聞くためにちょうど公園の対面はこんな形になっていて、そこに避難していた人が集まっていたのだと言う。

 

 

 家の方から見るとこんな形の池なのだが、この石垣の上にいた人など、爆撃の後この池は屍で埋まったというのが、伯父から聞いた話なのである。

伯母はこちら側にいたのだが、この爆撃で亡くなった。

防空壕にしていた築山の下のガレージの中に祖母と、伯母と叔母の3人がいたのだがその周囲に落ちた3発の爆弾で叔母だけが亡くなったのである。

これは6月の話だが、その年の暮れ 朝鮮から引き揚げてきたときは、爆弾のあとの一つは逆円錐形の池になっていて水が溜まっていたりしたのを覚えている。

 

 

 

 昭和20年7月7日

午前0時15分から約1時間にわたり、1,045トンの500ポンド油脂焼夷弾が投下された。市街地は火の海と

なり焦土と化し、367人の犠牲者を出した。

 

合計

死者・不明  1,560人、負傷者 1,159人

家屋の全焼 11,108棟、半壊  2,614棟

<colgroup> <col span="8" width="85" /></colgroup>
  1月19日 6月 9日 6月22日 6月26日 7月 7日 7月28日
攻撃機数 62 24 26 21 124 3 260
投下爆弾 154 144 155 184   2 639
〃焼夷弾         975   975
154 144 155 184 975 2 1,614
<colgroup> <col span="8" width="85" /></colgroup>
死  者 327 656 61 149 367   1,560
重軽傷者 141 600 21 207 190   1,159
全壊戸数 274 1,227 175 357 9,075   11,108
半壊戸数 410 634 373 1,093 104   2,614
684 1,861 548 1,450 9,179 0 13,722
罹災者数 3,355 9,458 1,364 6,384 36,410   56,971

 

 

 そして、さらに7月7日に焼夷弾攻撃があって、残っていた家も家財なども消滅してしまったのだと思う。

戦後、庭に突き刺さっていた焼夷弾の数など 2,3メートルの間隔で一面を覆っており、これではどう仕様もなかったのではないかと思った。

戦後、伯父から口頭で何度も説明は受けたのだが、こんな記録を見たのは初めてのことである

 

公園に逃げ込んだ人が沢山亡くなってしまったのは、この記録を見ても真実である。

もし、川崎航空機が明石に無かったら、明石など空襲をうけることはなかったのかも知れないし、明石公園と川崎航空機は同じ明石でも大分離れているのである。

川崎航空機は危ないが、明石公園は安全と思うのは常識である。

 

伯父の家など全焼してしまって、それは川航があったからだとも言えるのだが、そのカワサキに私はお世話になって生きてきた

これも、仕方のないことで、川崎航空機を恨みに思ったりしたことは、これっぽちもないのは、自分でも不思議に思う。

何となく不思議なご縁なのである

 

そんなご縁で、二輪の世界と出会えて、最高の人生が送れたと思っている。

 

 

 

 明石公園にはこんな碑が

 

 

 

 

 

 

 川崎重工業の明石工場の中には、こんなお地蔵さんがあると記録されているが、

実は私は、二つとも知らないのである。

 

明石公園の直ぐヨコの上の丸で生まれて、今でもそこが本籍で、空襲のあった昭和20年の12月に朝鮮から引き揚げてきて、中学1年生であった私

その生々しい現場を知っている私にも、初めて聞く知らない話がいっぱいなのである。

戦後もホントに遠くなってしまったものである

 

もう 68年も前の話 なのである。

 

 

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South Coast Plaza

2018-10-15 17:13:50 | 発想$感想

★隣町の Costa Mesa にある South Coast Plaza まで行ってきた。5番沿いだから隣町といっても10分も走ればついてしまう。

 

           

 

  まずは腹ごしらえ、サンフランシスコの名物料理だとかいう、名前はむつかしいので忘れてしまったが、パンをくりぬいた中はスープである。

  Google で検索したらいっぱい並んだ。サンフランシスコ湾でもイメージしてるのだろうか?

 

 

             

 

 

  綺麗な店ばかりだが、日本のユニクロも2年ほど前に出店したのだが、来春にはその対面に、丸亀製麺のうどんの店が出るようだ。

 

 

        

 

 

  1階のこの辺りは、こんなに明るくて、子供連れも多くみられる。

 

 

        

 

 

  さすがにアメリカで、通路の広さがゆったり感を出している。

  極端に言うと、10メートル間隔にこんなゴミ箱が設置されている。

  この辺りが、アメリカと日本の行政の感覚の違いで、公園に行っても、いたるところに犬の糞を捨てる場所と、同時にその袋までよういされているので、犬のふんなどどこにも落ちていないし、『ごみは各自でお持ち帰りください』などの表示はどこにも見られない。捨てる場所さえあれば、処理をせずに放置する人などいないはずである。

 やたらに『禁止の看板』ばかりが目立つ日本も、発想の転換を図るべきである。

 

 

         

 

 

    2階にはこんな Micro Soft の店もあったし、高級店も\いっぱいだった。

 

        

 

 娘は、孫の末弟が、週末に誕生日で18歳になるので、何かプレゼントを買ったようである。

 

 月曜日の午後だというのに、いろんな人が歩いていた。

 一見して『金持ちだ』とわかる雰囲気の白人や、Tシャツにサンダルの東洋系の若者など、いろいろである。

 

 不思議なほど、日本人と思える人には会わなかった。

 

 

 

       

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日本とアメリカのニュースいろいろ

2018-10-15 08:48:34 | 発想$感想

★アメリカの西海岸の Irvine に来ている。 日本との時差は16時間、今こちらは15日 月曜日の朝7時すぎだが、日本はもう夜の11時で、もうすぐ16日になる。

 こちらにいても、日本のニュースは、殆ど同じレベルで分かるのだが、なんとなく遠い海の向こうの出来事と思ったりするから不思議である。

 

 ネット、特にFacebook は一番身近に日本を感じることができるのだが、あと2時間もすれば日本は夜中になってしまうので、反応というかアクセスが極端に減ってしまう。当たり前の話だが、人間は夜は眠るものなので仕方がないことである。

 

 

★政治の話題もちょっと中休み気味である。内閣改造が終わったが、その評価がどうこうと言っているが仮にどんな顔触れにしてみても野党はボロカスにいうし、安部さんに反対\の人は高い評価などするはずがないので、こんな世論調査をすること自体にあまり意味を感じないのだが、飽きもせずに年中行事化しているのである。

 

同じような意味では、「ポスト安部」なども同じ部類で、投票権のない人たちに幾ら意見を聞いてみてもしょうがないような気もするのだが。。。。

 

        

 

 ただ、こちらにいるからと言ってこちらのニュースが解るわけではない。新聞はないしテレビのニュースも聞いても分からないし、アメリカの状況で分かるのは天気予報ぐらいである。

 この一両日、この地域では珍しく雨になった。いつもは水の流れていない川に水が流れて不思議な気持ちになった。

 

 

 

 阪神金本監督が辞任して、矢野新監督である。

 金本さんは確かに名選手ではあったが、監督としてはもう一つだなと思って見ていたが、最下位になってしまっては辞任も仕方がなかったのだろう。

 

         

 

  プロ野球のニュースとしてはCSシリーズの結果なども流れてくるが、もし巨人が日本一になっても高橋監督の辞任は動かないようだが、どう考えても日本の CSシリーズはもう一つである。

  広島ー西武で日本シリーズを戦うのが当然だと思うが、なぜこんなシリーズを余分に作っているのだろう?

 

 

   サッカーのウルグアイ戦が、そちらでは今日あるのだが、こちらでは時差の関係もあって生で見るのはむつかしい。

   もし、ウルグアイ戦に勝ったりすると、日本のサッカーも世界のトップレベルと言っていいのかも知れない。

 

 

      

 

 

★サッカーに関連して、こちらの新しいニュースを一つ。

 私はGooge Map をよく見るのだが、ごくごく最近この辺りのGoogle Map が新しくなったのである。

 ひょっとしたら、それに気づいているのは私だけかも知れないのだが。

 

 こちらでは何年かの計画で、元空軍の広大な¥飛行場跡をスポーツ公園に造成中で、半月前アメリカに来た時にはGoogle Map上では、この1年間にできた部分はまだ茶色の土地のママだったのに昨日見たらそれが緑化されているのである。

 ここが、孫の末弟のサッカー練習場だから毎週現地に行っているのでよくわかっているのである。

 

 

     

 

  下の方の気球がある部分は、2年前から完成していたのだが、昨年来たときは一部のサッカー場が完成していて、今年は野球場もいくつかは完成しているのである。

  孫のチーム Strikers の練習場はこちらで、私はいつも水色に見えているバスケットコートの方からその練習を見たりしているのである。

 

 

        

 

 

  Google Map は、そこに行かなくても世界中が覗けるので、私は毎日どこかを見ているのだが、今の練習場は昨年の今頃にはまだ完成していなかったので、結構早いレベルで新しくなっているのだと思う。

 

 

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San Diego に行ってきた

2018-10-13 11:58:38 | 発想$感想

★ アメリカでサッカーをしている孫の門野哲也は、来年San Diego 大学への推薦入学が決まって、その『新人たちの顔合わせ会』があるというので、San Diego まで行ってきた。

 

      

 

 

  こんな大学である。 日本と違って塀などには囲まれていないし、街の中に溶け込んでいる。 遠くにはSan Diego のDown Town の方向や海が眺められる高台に位置している。

 

 

        

 

 11時すぎに Irvine を出発して一路5番を南に走ると1時間半ほどでSan Diego である。

 延々6時間も走らねばならない次男のBerkeley に比べるとすぐそこのような気がするが、それでも140キロぐらいは走らねばならない。

 昼に『メキシカン料理を食おう』と孫がネットで検索、KENSINGTONにある PONCE's Mexcan Restaurant という店にする。

 

        

 

  1969にスタートしたこんなお店で,この写真はGoogle Map からのものである。 

  ネットで見つけてナビ通りに走れば、迷うことはない便利な世の中である。

 KENSINGTON という町は、Down Town からは離れていて、地元の人ばかりで、日本人など見かけることは一切ない。

 

        

 

  メキシカン料理なかなか美味しかった。

  食後、ちょっと町をぶらついてみた。

 

      

 

 

   こんな素敵な店が並んでいる。

  通りの店のウインドウにあったこんな筆で書かれた日本文字『米国 日本一体何屋さんなのだろ?

 

      

 

  こんなお店で買ったアイスクリーム、 めちゃ美味しかった。

 

 

                   

 

 

★その後、ナビを頼りに San Diego 州立大学まで、10分もかからぬ距離だった。

 

 こんな綺麗な広々とした大学の中を、いろいろ歩き回ったが、

 

     

 

 一番時間がかかったのは、構内のお店で娘が買った1枚のTシャツを選ぶ時間だったかも知れない。

 

 その間、私はすぐ前のこんな広場で、学生たちが通るのを飽きずに眺めていた。

 アメリカ合衆国、その名の通りいろんな人がいるものである。その中に私がいてもそんなに目立ったりはしないのである。

 やっと出てきたので、孫と家内とのスリーショットのシャッターを押してもらった。

 

 

      

 

  午後5時、大学のコーチが現れて初対面なのに、めちゃフランクな人で、私には水のボトルをくれたりした。

 孫はこれから2日3泊、新しいメンバーや上級生でたちと一緒に過ごすスケジュールが始まる。

 

 それからSan Diego を出発してIrvne に着くころには暗くなったが、ちょうど1時間半で家に着いたのである。

 

                

 

 

  なかなか、いい1日であった。 

  また一つ『忘れることのない1日』が増えたと言っていい。

 

 

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カワサキのレースのスタート

2018-10-13 06:46:05 | カワサキ単車の昔話

 

 ★日本時間の今日、『カワサキモトクロスOB有志の会』が盛大に開催されたようである。

 

            

 

  写真は、堀ひろ子さんと一緒に、女性で初めて鈴鹿を走った腰山峰子さんのFacebook から頂いた。

 この会は、7月7日に開催が予定されていたのだが、当日は台風のため延期されていたのである。

今はアメリカで出席できないのだが、特別寄稿の『カワサキモトクロスの始まりとその意義』については、出席者に配布されたと思うので、ブログでも公開することにする。

 ちょっと長いが、関心のある方はお読みください。

 

 

       https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/61baf4c13446ff83d63c5fdc4b5f6c0b

 

 

 

特別寄稿

「カワサキ・モトクロスの始まり と その意義」 

                                                        平成30年7月7日

                                                        KHI OB 古谷錬太郎

1.  昭和38年、当時のカワサキ単車事業部の状況 

カワサキの単車事業は、昭和35年(1960)4月に単車準備室が出来て、当時の川﨑航空機工業(株)の明石工場での一貫生産を計画し、10月からモペットの生産が始まったのである。 その翌年125ccB7が発売されたのだが、フレームに欠陥があって返却が相次ぎ、私はこの年の11月に発動機事業部の中に初めてできた単車営業課に異動したのだが、ものを売るはずの営業なのに、毎日毎日、明石工場に返却されるB7の物品税の戻入手続きが主たる業務で、昭和38年1月の生産台数は出荷より返却台数が上回ってマイナスを記録したりしたのである。

 そんな単車事業を今後も進めるべきかどうか? 当時の本社が日本能率協会に大掛かりな調査を依頼し、その調査が進められていたのが昭和38年度(1963)のことである。そんな状況の中で昭和38年5月19日、兵庫県青野ヶ原モトクロスが開催され、カワサキも出場することになったのだが、これは会社が進めた計画ではなくて、当時の生産部門の中村治道さん(当時課長か係長)を中心に有志が集まって、勝手に進められたものだったのである。この当時の状況を語れるはずの中村治道・髙橋鐵郎さんなどは既に他界されて、この時のことをご存じの方は本当に少なくなってしまったのである。

 非公式に生産部門が勝手に進めたプロジェクトなので、残業料も出なかったので、当時の営業の小野助治次長から『パンでも買う金を都合してやれ』という指示があって、私はちょっとしたお金を都合しただけの話なのである。ただ、私の係からは川合寿一さんが野球部のマネージャーであった経験をかわれて、チームのマネージャー役をしていたので『何かやってるな』ということぐらいは知っていたのである。そんな関係もあって川合寿一さんが、カワサキの最初の契約ライダーの歳森康師や山本隆の契約やカワサキコンバットとの契約を担当していたのである。

 

2.青野ヶ原モトクロスの経緯

当時の川崎航空機にはエンジンのプロはいっぱいいたのだが、二輪車については全くの素人ばかりで、ましてやレースのことなど解った人は皆無だったはずなのである。このレースの仕掛け人は、川崎航空機の人ではなくて、兵庫メグロの西海義治社長だったのだろう。西海さんはオートレースの元プロライダーだったし、カワサキがレースを正規に始めてからもいろいろと応援して頂いた方なのである。

 

                          

       

  青野ヶ原のレースのスタートは、昭和37年11月に鈴鹿サーキットで開催された日本初のロードレースに、明石工場の生産関係のメンバーたちがバスを仕立てて観戦したのだが、そのメンバーの中心が中村治道・高橋鐵郎・川崎芳夫さんたちで、このレースを観て生産部門の『レース熱』は一挙に燃え上がり 青野ヶ原のレースに繋がったのである。中村治道さんをご存知の方はもう少ないと思うが、熱っぽい人の多かった単車事業部でも最右翼と言って間違いない方なのである。『レーサーを作る』などと言っても、そんなノウハウを持っている人は、当時のカワサキの中には居なかったので、西海さんは兵庫メグロの子飼いの松尾勇さんを川崎航空機の製造部門に送り込んで、新たに生産が始まった125B8のモトクロッサーを松尾さん主導で作ったのである。青野ヶ原のレースはMFJの兵庫県大会として開催されたのだが、これを企画したのも多分当時のMFJの兵庫県支部長をされていた西海社長ではなかったのか?

 

                         

                               

  ちなみに、カワサキが正規にレースをやりかけてからも、レーサーのエンジンは技術部担当だが、マシンに創り上げるのは全て松尾勇さんがいた『製造部のモトクロス職場』で、それはずっと後のF21Mの時代まで続くのである。カワサキのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのは、KX称号で呼ばれるようになって以降からのことで、大槻・安藤・糠谷と3代続いたレース監督の後の、百合草三佐雄さんが監督になってからが、カワサキも本格的なファクトリー運営になって行ったのではなかろうか?

  

3.青野ヶ原のレース結果

 昭和38年5月19日に行われたモトクロスレースの結果は、カワサキが1位から6位までを独占した完璧な勝利だっ

たが、ライダーは当時の社員の人たちなのである。

 

 

 

 

                       

 

 

青野ヶ原モトクロスレースに関して、その勝利だけがあたかもマシンもライダーも完璧だったように書かれている記事もあるが、これは雨で出来た水溜りのために他車はみんなエンジンが止まってしまったのだが、カワサキだけは西海さんの指示の『防水対策』が完璧で、独り走り続けた結果だったのである。 このレースにヤマハで出ていて、ご自身もマシンが止まってしまった山本隆さんもそう言っているので間違いないのである。 私は、モトクロスの写真を始めて見た時、どれも水しぶきを上げて走っているので、『モトクロスとはそんな水溜りを走る競技だ』とホントにそう思ったのである。カワサキの長いレースの歴史の中でも、1位から6位まで独占というのは、この緒戦だけであとはそんな実績は皆無なのである。まさに『天祐』というべきなのだが、このレース結果に明石工場中が湧きかえって、意気盛んになったのは間違いない事実なのである。 

 

4.日本能率協会の調査結論

 たまたま日本能率協会の市場調査中の最中で、その結論は『この事業継続すべし』ということになるのだが、青野が原での結果が齎した現場末端の意気の高さと共に、その年新発売された125㏄Bが、堅調な販売を静かに続けていたということもあったのである。 その前の125ccB7が散々な状況で、当時の『技術部の真価が問われる製品』であっただけに、ホントに良かったと思っている。そんなこともあって、カワサキの二輪事業は継続という結論がなされるのだが、日本能率協会が事業継続の条件の中に『広告宣伝課を創ること』という項目があって、その広告宣伝課を私が担当することになって、その中でカワサキのレースは展開されることに成るのである。

 

 5.広告宣伝課とレース

ここから先の話は、カワサキの中で『当事者の私にしか語れない分野で、あまり知られてはいないことも多いので確りと書き残しておきたいのである。 当時のカワサキの販売分野は、『カワサキ自動車販売』(今のKMJの前身)が担当していて、昭和36年(1961)にメグロと業務提携して社長には川崎航空機工業の土崎英利専務が直接担当されることになり、翌昭和37年(1962)にはメイハツ・メグロを吸収合併して、販売を総括することになったのである。 私が営業に異動したのもこの年のことなのである。当時は未だ国内市場だけで、海外市場は未開拓の時代なのである。現在とは全く違って、販売会社が工場よりは圧倒的に強かった時代で、世の中もトヨタ自販・トヨタ自工の時代なのである。そのカワサキ自販で、『総務並びに広告宣伝』を担当されていたのが、あのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんで小野田滋郎さんなのである。 (当時の小野田さんの写真がないので・・見習士官(陸軍曹長)当時の小野田(右)、弟の滋朗(陸軍少尉)と昭和19年12月ごろ撮影)

 

                     

 

 現役時代、『この人にはとても敵わない』と思った人の一人が小野田滋郎さんで、陸士出身の『戦略・戦術・戦闘論』など確りとたたみこまれたのである。小野田さんが広告宣伝の後継者に私を選び、立ち上がりの何ヶ月だけを親身に手伝ってくださったのである。その広告宣伝の担当業務の中に『レース』もあったし『レース運営の経験』のある人など社内に皆無の状況だったので、自然に広告宣伝課担当という形になって行ったのである。カワサキのレースは、青野ヶ原のモトクロスが最初だと言われているのだが、実は125B7時代に既にカワサキ自販の方でMCFAJの全日本などにも、ライダー三吉一行で出場しているのだが、このレースを担当していたのが小野田滋郎さんで、青野ヶ原のあった昭和38年(1963には、ヤマハから強引に三橋実を引っこ抜いて厚木に『カワサキコンバット』なるチームを作らせているのである。 

                           

 

ヤマハの本橋明泰さんにお会いした時、こんな話が飛び出したのである。『カワサキB7のエンジンを何台か貰って、レースに出た』と仰るのである。そして『井手さんという方がおられましたね』とも。当時のライダーとしては三吉一行、それに三室や本橋さんなども関係したという話で、その中に三橋実もいたのだと思う。当時は、三橋実もヤマハにいて、青野ヶ原のスタートとなった鈴鹿の日本初のロードレースでは、250㏄の優勝者が三橋、350ccの優勝者が同じくヤマハの片山義美なのである。この二人のチャンピオンは、その後のカワサキのレースに色濃く関係しているので不思議なご縁なのである。

 

 左の写真、これがカワサキ創成期のカワサキライダーたちである。 『カワサキコンバット』の三橋実・安良岡健・梅津次郎・岡部能夫と『神戸木の実』の山本隆・歳森康師の二人の6人が契約ライダー。 左から4人は未契約の若手ライダーで、4人目が星野一義である。

 

そんな経緯から、『カワサキのレース』は広告宣伝課がそのままライダー契約などを直接担当することになったのだが、当時は本社から『事業開発費』として毎年1億2000万円の広告予算が3年間頂けたので、レース予算もライダー契約なども悠々と出来た3年間だったのである。私の年収が50万円に達しない、そんな時代の1億2000万円だったので、それは相当な額だったのである。ライダー育成費として三橋実のカワサキコンバットに月額20万円を渡していたので、厚木にライダーの宿舎を借りて全国から若手の有望ライダーがいっぱい集まっていて、その中に星野一義・金子豊などもいたし、ひょっとしたら増田耕司などもいたかも知れないのである。

 

レース場に行くのも、最初は会社の運輸課のトラックで運んでいたのだが、この費用の中から三橋が中古のトラックを買ってきて、それでレース運営をするようになったのである。星野一義が最初に出場した和歌山の紀の川モトクロスには、彼はライダーで来ていたのではなくて、トラックの運転手で来ていたのだが、朝の練習で岡部が小指を骨折したので、『岡部の代わりに』『岡部の名前で』出場したのが星野の初めてのレースなのである。ちょっと余談だが、なぜそんな勝手なことが出来たのか?

実はこのレースはカワサキが仕掛けて『スポーツニッポンが主催』した『カワサキ主催』のようなレースで、その第1回大会だった。

 

当時はモトクロスをやって優勝しても、どこにも報道されないし、モトクロスを知っている人も少なかったのである。広告宣伝課が担当しているレースだから「広報活動」も確りとやりたかったのである。このスポニチ主催のモトクロスはこのあと5回ほど続くのだが、毎回スポニチに大きく報道されたのである。多分最後の5回目は山本隆くんの当時の練習場だった加古川の河原で開催されたのである。豊かな広告宣伝費のお蔭で、いろんなことが可能で、レースの広報もできたし、有望ライダーも育っていったのである。

 

★    青野ヶ原の勝利からカワサキの二輪事業の継続は決まり、その中での『レースの位置づけ』は非常に大きなものだったの

である。50年以上も経った今は、競合メーカーに比して、カワサキも優れている分野が幾つもあるのだろうが、この1960年代には『レース』以外に競合他社に優位に立てるものは『何一つない』そんな時代だったのである。 

   

そんな時代のレースを支えていた技術屋さんたちの中に山田煕明・髙橋鐵郎の後川崎重工業の副社長になられたお二人もおられる。左から4人目が、B7時代からレースに関係された井出哲哉さんである。ちなみに、この写真を私に送ってくれたのは、当時のレース仲間、元川崎重工業社長の田崎雅元さんなのである。当時のレースは、いろいろあったが事業の中枢を担う人たちが担当していたことは間違いないのである。

                               

 

 

もし、『西海義治さんや松尾勇さん』がいなかったら、青野ヶ原は無かったかも知れない。

もし 『青野ヶ原のレース』がなかったら、カワサキの二輪事業の継続はひょっとしたらなかったかも知れない。

もし、『鈴鹿サーキット』で昭和37年11月にレースがなかったら、『カワサキの二輪事業』はなかったかも知れない。

もし、『膨大な広告宣伝費』がなかったらカワサキのレース運営も、こんなことにはなってはいない。

もし、『小野田滋郎』さんが厚木に『カワサキコンバット』を創っていなかったら、こんなライダーが集まっていなかったかも知れない。

 

その後のカワサキのブランドイメージ創造などを見ても、『レースが果たした役割』は非常に大きなものだった。

そんなレースの世界に色濃く関わりを持ったことが、『私の人生を豊かなもの』にしてくれたのは間違いないのである。 

 

 

 

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アメリカの大きさ

2018-10-12 07:23:00 | 発想$感想

★アメリカに来て、もう半月以上もすぎた。

 観光旅行ではなく滞在なのだが、結構いろいろ行っている。

 そんなアメリカの大きさを表す写真を幾つか、ご紹介したい。

 

 

まずはこんな光景、ちょっと日本では見られない。

 

 

        

 

 こんな広大な土地で栽培される、農作物や果物の安さは、格別である。

 

 

       

 

 

 サンノゼのアップル本社の大きさは、半端ではなかった。とてもカメラには入りきれない。  展示されているこの円形の建物なのである。

 

 

       

 

 

 サッカー場が幾つあるかわからないような広さの中で、子供たちはサッカーを楽しんでいる。

 

     

 

 

 大谷が人気のアナハイムのエンゼルス球場、写真は写していないが、球場の周りの駐車場の広さは、ちょっと考えられない広さである。

 

      

 

 

 COSTOCO のスケール、そこで売られてるものの、大きさ。

 

 

     

 

 

 創られた自然の広さも、美しさもまた格別である。

 

        

 

 

    そんなアメリカで、どこにでも見られる星条旗、 この国に住んでいることの『誇り』のようなものを感じる。

 

 

          

 

 

   遠く、異国で育つと、「祖国日本」を思うのか、孫の部屋に飾られている日の丸。

 

 

            

 

 

  アメリカもいいが、日本も世界に誇れる国だと思う。  胸を張って 生きるべきだと思う。

 

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孫への手紙 本田圭佑のインタビュー記事

2018-10-11 09:29:57 | 発想$感想

★アメリカに来ていても、日本にいるのと同じように日本の記事は読める。

昨日は 『本田圭佑のインタビュー記事』ちょっと長いが、何度も読み返してみた。

共感する部分が多かった。

 

  https://news.yahoo.co.jp/by…/kimmyungwook/20181011-00100025/


その内容はざっとこんな感じで、サッカーの話よりは『人の生き方の根源』のような話が主流なのである。

 

独占告白!本田圭佑から届いたメッセージ~朝鮮学校訪問の理由、愛国心とは、日本人であることとは~

 

 

 

記事の冒頭は、こんな文章で始まっている。

 

 絶対に無理だと思った。

 だが、どんな困難にも常に真っ直ぐに立ち向かい、時には猛烈な逆風からも逃げずに立ち向かってきた彼なら、しっかりと答えてくれるのではないか。   直感的にそう思った。本田圭佑だ。

 

 熱烈な歓迎を受けた本田は、生徒たちの前で講演し、別れ際には色紙に“仲間”という文字を書き残して行った。

 しかし、日朝間には拉致問題など様々な問題が横たわり、朝鮮学校もそれと関連してネガティブなイメージを持たれてしまっているのが実情だ。

 普通であれば、訪問を敬遠するのではないか。だが、なぜ本田はこのタイミングで訪問を決意したのか。兄貴と慕う安英学のお願いとはいえ、そう簡単に決断できることではなかったはずだ。

 その本心を知りたくて、取材を申し込んだ。もちろん、ダメ元で、だ。ただ、こちらの熱意も伝えたつもりだった。

 

 プロサッカー選手である本田に、失礼だとは思いながらも、サッカーとはほとんど関係のないぶしつけとも思える質問をたくさん送った。

 個人的なインタビューをするのは初めての選手、しかも日本を代表するトップアスリートである。少し遠慮して、「答えられる範囲で結構です」とも伝えてもらった。

 だが、彼はすべての質問に答えてくれた。正直、そのことに驚いた。その文面も本人が直接打ちこんだもの。今にも本田の声が聞こえてきそうだった。

 

 

 

 

★ 長い記事の中で、以下の部分は、私の印象に残った部分である。

私はこどものころ、朝鮮京城、今のソウルで育ったこともあって、韓国も北朝鮮も嫌いにはなれないのである。当時は二つには別れていなくて、一つだったし、そこは日本だったのである。

日本であったこと』その事実が尾を引いて今の日韓関係を悪くしているし、拉致問題が決定的に日朝関係を悪くしてしまっているのである。

そこで語られている本田圭佑の答えは、そんな日本との関係の悪さを、飛び越えての想像外の答えだったのだが、私は非常に共感を覚えたし、改めて『本田圭佑』を見直したのである。

 

    名古屋グランパスエイトで一緒にプレーした安英学から朝鮮学校訪問の要請を受けて実現した(写真提供・神奈川朝鮮中高級学校)

 

 

「自分の国しか愛せないのは悲しいこと」

 朝鮮学校の話から話題を変えた。本田に聞いてみたかったのが、「愛国心」についてだ。

 

――話が変わりますが、日本代表としてワールドカップにも出場した本田選手にとって、「愛国心」とは何でしょうか?「国籍、民族、人種」とはなんでしょうか。世界に出て様々な経験をされた本田選手が感じたものがあれば教えてください。

「家族を愛することと近いかなと。自分の国を家族と思えることが愛国心かなと。ただ問題なのは自分の国しか愛せないこと。それは悲しいことだし違うと思う」

――サッカーでは日韓戦になると両国とも熱くなりますが、実際に韓国と対戦した経験から、日本と韓国では気持ちの入り方は違うものなのでしょうか?

「いえ、僕は他の試合と変わりませんが、メディアが問題です。それを意識させるように必要以上に掻き立てることで、仲を悪くさせようとする。本当にこのメディアの問題というのは変えないといけません」


“何人であるか”よりも、“人としてどうあるべきか”

――一方で「何人である」ことを強調したり「愛国心」の強さは、一歩間違えると、対立したり紛争が起こったり、世界が間違った方向へ向いてしまうと感じます。本田選手は「日本人」であることをどのように表現していくべきだと思いますか?

「そうですね。確かに繊細な問題であり、少しの表現で争いになってはいます。でも僕は日本人である前に“人”です。何人であるかを前面に表現するよりも、人としてどうあるべきかを表現することが最も大事なことだと考えています」

朝鮮学校の生徒たちに「僕らが人である限り、“仲間”になれるんだ!ということを伝えたかった」という本田(写真提供・神奈川朝鮮中高級学校)


 

 


★孫、門野哲也はアメリカでサッカーをしていて、ご縁があって、本田圭佑とはこんなツーショットの写真も写している。

 

             

 

昨日改めて『本田圭佑どう思う?』と聞いてみたのだが、本田圭佑と会ったからたまたま写真を撮っただけで『別にどうとも思っていない』というのである。たまたま、新しいサッカー場の披露の試合があって、孫のチームが出場した場に本田圭佑も来ていたので出会って、写真を撮っただけだというのである。

 孫は今アメリカの高校4回生、全米公認のSoccer Development Academy のStrikers という5か国の人たちがいる国際チームでキャプテンを任されていて、来年はすでにサンデイエゴ大学への推薦入学が決まっている。全米3年連続チャンピオンのスタンフォード大学からのオファーもあったようだが、サンデイエゴ大学大学への進路を自分で決めたようである。

日本と違って個人が希望しても大学との推薦契約がない限りサッカー部には入れない。契約内容は授業料など大学生活が出来るだけの金銭契約だから、プロのような世界なのである。そんな孫が目指しているのはプロの世界なのだが、簡単な話はするのだが「ちょっとむつかしい話」になると現実にはなかなかしにくいものである。

この本田圭佑のインタビュー記事の内容については私は共感する部分が多いので、『孫への手紙』の形にブログの形にまとめて、私の想いを伝えておきたいなと思っているのである。

 

 

★この『本田圭佑へのインタビュー記事』の内容は、サッカー選手へのインタビュうーと言うよりも『人間の生き方の根源』のような部門が多かったのである。

 孫の次男 門野真也はすでにBerkeley の4回生で、テレビのインタビューにも、しょっちゅう登場するのだが、内容はサッカーの話ばかりなのでいいのだが、仮に同じ質問をされたら、果たしてどのように答えるのだろうか?

 

 特に『愛国心』について問われたら、どのように答えるのだろうか?

 

 孫門野真也の部屋には、Berkeley にもこのIrvine にもこんな日の丸が飾られている。

 

        

 

     

   https://news.yahoo.co.jp/by…/kimmyungwook/20181011-00100025/



  本田圭佑のインタビュー記事は、いかにも長い。

  特に、日本語よりも英語が得意な末弟については、それを読むのはなかなか『大変な作業』かもしれない。

  でも、こんな風にまとめてみたのは、ぜひ一度しっかりと読んでみてほしいと思ったからである。



  このように纏めて、Facebook にアップして、それぞれ孫たちのサイトにシェアすると、間違いなく伝わるのである。

  それを伝えたい『おじんの気持ち』もなんとなく解ってほしいのである。

 

 
 
 
 

 

 

 


 
 
      
 
 
  
 
 
 
 
 

 

 

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ある時代カワサキを支えた人 

2018-10-10 05:40:33 | カワサキワールド

 

★事業というものは、そのトップだけではなくて、周辺のいろいろな人たちの支えで成り立っているものである。

 

 

        

 

ずっと昔のことだが『ある時代カワサキを支えた人』というテーマで Facebook にアップしたら沢山の『いいね』を頂いた。

 https://www.facebook.com/rfuruya1/media_set?set=a.917533234923978.1073742839.100000019311141&type=1&pnref=story 

そのリンクは、こちらで、20人ぐらいのFacebook に登録されているカワサキの人たちを挙げている。それぞれの職場で、それぞれの時代にカワサキをささえた人たちだと思っている。

 

 

              

 

その中のお一人、百合草三佐雄さんは、今週末開催される『カワサキモトクロスOB有志の会』の中心人物でもある。

 

その事務局を担当されている大津信さんが、このように紹介されている。

 

昨年11月、「KX40周年を祝う有志の会」を開催しました。ワサキ初の本格的モトクロッサー「KX」の販売開始が1973年。「KX」のスタートは百合草さんが組織化した開発1班からです。

『ある時代カワサキを支えた人』を投稿している、古谷さんはこう説明している。「百合草三佐雄さん、A1のアメリカでの現地開発や、レース、勿論二輪もジェットスキーも、アメリカの販売会社の社長も、 最後はジェットエンジン本部長も これくらいいろいろやった人は少ないと言っていいと思います。 アメリカのKMCがホントに立ち直ったのは百合ちゃんが社長の時代でしたし、ジェットスキーの400/500を450/550に新しくやり直してくれたのも彼なのです。 それで一挙に倍ほど売れるようになったりしました。何となく関係の深かった百合草さんです。

 

長年二輪事業でいろいろ一緒に仕事をさせてもらった仲間は多いのだが、百合草三佐雄さんはその最右翼のお一人だと思っている。

私が百合草さんと一緒に仕事をしたのはほんの短期間だが、一緒にやった仕事の大きさとその質において群を抜いていて、その事実をご存知の方はカワサキの中でもそんなにおられないのである。

 

★今では事業本部の主力商品になっているジェットスキー事業だが、当時は明石の単車事業部は全く関係がなく、発動機事業部がエンジン生産し、アメリカのリンカーン工場に送りそこでジェットスキーに組み立て、KMCでアメリカ市場だけに売るいわば『子会社の製品』だったのである。これを何とか『川崎重工の正規の製品』にしようと言い出したのは、当時私と一緒に企画にいた百合草さんと同期の武本一郎君で、百合草さんと組んでいろいろ画策された結果が440,550となccとなり、それまで年間7000台ほどだったジェットスキーが一挙に15000台~20000台にまで拡大したのである。

さらにそんなジェットスキーをアメリカだけでなく、日本やヨーロッパにも販売すべく、企画室の中にジェットスキープロジェクトを立ち上げ、オーストラリアから戻った鶴谷将俊さんがそれこそ熱っぽく担当してくれて、世界展開が実現したのである。このジェットスキープロジェクトはカワサキの独占事業であったことからその利益性は抜群で、二輪事業の危機をその利益性で大いに補うことになったのである。

当時のアメリカ市場は、ハーレーのダンピング訴訟から、さらには国内のHY戦争がアメリカまで飛び火して、カワサキの二輪事業が生きるか死ぬかの大変な時代で、KMC社長には田崎雅元さん(後川重社長)が当たっていて、やっと年間黒字にはなったのだが、KMCには過去の38百万ドル当時の日本円に換算すると100億円近い累損があったので、『その累損消去をして文字通りKMCを健全な販売会社に再建する』と言うのが大きな目標だったのである。 

本社財務本部が財務対策を、国内販社カワ販からは、冨永・日野くんという販社経営の実戦的なノウハウを持っているメンバーを送り込んで具体的にKMCの支援に当たっていたので、KMCの社長として一番に求められるのは、『リーダーシップ』と言うか全体を纏められることが第1だったのである。

そんな時期田崎さんのKMCの後継者候補に上がったのが百合草三佐雄さんで、彼は既に当時のカワサキのレース部門を海外・国内を含め、技術問題からライダー管理まで広い範囲でその体制を確立していたその責任者だったので、レース活動をまとめ上げた『百合ちゃん』なら大丈夫と思ったのだが、その期待通り、『KMCの累損消去』という課題は、KMC百合草社長時代の1989年に見事に実現したのである。

KMCの累損消去を達成して、当時の川重大西副社長以下関係したメンバーたちで神戸でお祝いをしたのをよく覚えている。当の百合草さんはアメリカだったので参加されなかったが、本社財務関係者や、事業部からは田崎さんなど当時このプロジェクトに関係された皆さんが参加されたのである。

私にとっての現役時代、KMCの累損消去は一番の大仕事だったので、そのムツカシイ目標を実現してくれた『百合草三佐雄』さんには今でも大いに感謝なのである。

このKMCの財務対策の成功が、その後のカワサキの二輪事業の安定に大きく繋がっていて事実1990年代には、カワサキの二輪事業の本格的な安定期に入りZEPHYR などの好調もあって、それまで川崎重工業の中でお荷物であった二輪事業が様変わりして大庭浩社長、高橋鐵郎副社長さらには田崎雅元社長など単車関係者がその中枢に名前を連ねることになるのだが、それはひとえに主力市場アメリカのKMCの経営安定にあって、そういう意味で百合草三佐雄さんの果たされた役割は\大きかったのだが、この辺のことはカワサキの方でもほとんどご存知ないのである。

 

         

 

★この週末には百合草さんを中心に、『カワサキモトクロスOB 有志の会』が盛大に開催されることになっているのである。

歴代のカワサキファクトリーのライダーや関係者は勿論、Z1開発責任者でカワサキの初代のレース監督大槻幸雄さんも、かってKMCを支えた種子島、斎藤さん、当時の川重の労働組合委員長の井上さんも、国内Team Green の創始者平井稔男さんも、当時平井さんと一緒にレースに関係し,今は国内二輪業界の重鎮として諸活動を展開している吉田純一さんに加え、今回は『有志の会』とその幅を広げたのでホンダのファクトリーにおられた渡辺さんも、堀ひろ子さんと一緒に女性で初めて鈴鹿サーキットを走った腰山峰子さんなど、カワサキファンの方もいっぱいだし、産経新聞の記者さんや、それこそカワサキのB7の時代からカワサキ一筋に、今もなお現役の二輪新聞の衛藤誠さんもご出席のようである。

 文字通り『ある時代カワサキを支えた人たち』の集まりなのである。

 

  

 

私はたまたまアメリカのKMCのすぐ近くのIrvine に遊びに来ていて、残念ながら出席できないので、こんな百合草さんのカワサキの昔話を含めて、改めてアップしているのである。

 ご盛会を心から祈念したい。

 

 

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片道600キロを走っての日帰りサッカー観戦

2018-10-08 21:37:38 | 発想$感想

★昨日は、片道600キロ(神戸ー東京)の距離を走っての日帰りでの『孫のサッカー観戦』だった。

 朝5時半に Irvine を出てBerkeley までこんな道を走った。

 

   ロスアンゼルスからこんな標高1000メートルの山越えなのだが、その頂上にもこんな大きな道がある。

 

 

             

 

 

  こちらはサンフランシスコ湾手前の山越えの道である。ココを超えると目的地はすぐそこである。

    

 

         

 

 

 途中3回ほど休憩したが、12時すぎには バークレーに到着した。

 バークレー大学のある、Berkeley はこんな町である。

 

 

            

 

 

  さすがに、若い学生さんが目立って、こんなバイクも止まっている。

 

 

               

 

  

  ここは大学の構内だが、街と一体化していて一般の人も自由に入ることはできるのだが、さすがに学生さんで溢れている。

  国際色豊かだなというのが印象に残った。

 

       

 

 

  サッカーも試合はこんな立派な専用のサッカー場がある。

  Berkeley 大学は公立校では世界一といわれている名門校で、カリフォルニアの州立校としてはいちばん旧いので、Cal という称号で呼ばれているのである。

 

  そのサッカー部はアメリカ人だけでなくメキシコ、フランス、インドなど国際色豊かなチームだが、孫、門野真也は日本人として初めてのキャプテンを任されチームを纏めている。今シーズンは絶好調で、リーグの週間MVPに2週連続で選ばれたり、Calでもこんな賞を頂いている。

 

 

        

 

 

   今日の相手は、この3年間、全米大学サッカー、チャンピオンの座にいる強豪且つ名門の\スタンフォード大学だった。

 

             

 

 1-0,2-0,2-1,3-1,3-2と 健闘したのだが最後に1点を取られて4-2と残念とな結果となたったのである。

 

 

    

          

 

 

 

      

 

 

 5時半に バークレーを出発し、途中何回か休憩をし食事をとって、Irvine には夜中の12時半に到着、長い1日が終わったのである。

 

 

  1日、1200キロの強行軍ができるのも、アメリカのフリーウエイならでは、である。

 

  日本の高速道路代を払ったりしたら、とても毎週など行ってはおれないのだが、昨日は先週に続いてのBerkeleyまでの、サッカー観戦だったのである。

  今回の滞在期間中、多分もう一度 Berkeley まで行くことになるのだろう。

  現役時代から、長距離走行には慣れていて、別にそんなに疲れもしないし、苦にならないから不思議である。

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アメリカIrvineでの日常生活

2018-10-08 06:47:29 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★娘家族はアメリカのIrvine という綺麗な町に住んでいる。今はエンゼルスの大谷翔平もこの町に住むようになった。

 その町に最近は毎年1か月ほど遊びに来るようになった。

 その環境はこんなに綺麗で、道には一軒の商店もない。すべて緑で覆われている。

 

   

 

 

    

 

 

 そこでの日常生活は、日本に比べて高いと思われるのは住居費と医療費、教育費は高校までは無料だが大学の授業料は年300万円から500万円とべらぼうに高いが、本人が努力さえすればその費用はいろんな仕組みが賄ってくれる。

 日常の食生活などはめちゃくちゃ安いのではと思うが、どうなんだろう? ガソリン代は比較にならないし、高速はフリーウエイと言われてフリーとは無料を意味するのである。

 道路には店はないが、市内いたるところにモールがあって銀行、ガソリンスタンド、スーパーなどなどあらゆるものが揃っている。

 

   

 

   そんなモールでの買い物に付き合った。 こんな感じで、大きな駐車場の周りにはいろんな店がいっぱいである。

  スーパーも日本食が揃う高級スーパーから、いろんなランクのスーパーがあって、韓国スーパーでの野菜類などは日本とは比べものにならないくらい安いのである。

 

 

     

 

   肉類の安さは当然だが、野菜も果物も日本とは比較にならないくらい安い。

  酒類も安いし、日本のビールなども日本よりはよほど安いのである。

 

    

 

 

  これはもう一つと思うのは、魚介類である。高いし新鮮ではないように目に映る。

 

★この町というかカリフォルニアは東洋系の人たちの比率が40%もあり、メキシカンも多くて、いわゆるアメリカ人の比率は50%を割っている。

 日本人であることなど一切気にかけなくていい。町を歩いていても私が日本からの観光客だと思う人はいないはずである。

 街には、日本、韓国、中国、ベトナム、タイ、インド、メキシコなどなどの飲食店がいっぱいあって、食生活は豊かといっていいが、ただアメリカのチップ制度は慣れない人には大変だし、その分は間違いなく割高なのである。

 

 そんな人口構成から来ているのか、アメリカ全体がそうなのか?

 この地域では、車は圧倒的に日本製のトヨタ、日産や韓国製やヨーロッパの高級車が圧倒的で、アメ車の比率は低い。

 

 道に停められている車も、行き交う車も圧倒的に日本製である。 それにベンツの多さにもびっくりである。

 

 

      

 

 

★そんなアメリカ生活を楽しんでいるのだが、娘家族がアメリカに来てもう15年にもなるのだが、当時3歳だった孫の末弟も今月には18歳の成人になる。

 アメリカの場合は、決められた法律はほんとに具体的に機能していて、たとえば18歳の成人になると、今まで学校の欠席届に必要だった、親からの申告は必要なくなって本人が『休みます』といえばいいそうである。

 子供の間は、親が子供の面倒を見るのはきつく義務付けられているが、18歳の成人になれば独立が認められるし、逆に「子供の面倒を見なくなる親もいる」などと言っていた。

 

 娘家族は、日本の会社からのアメリカ転勤でアメリカに来たのだが、その帰国指示があった時に特に『3人の子供たちのの教育』を理由にアメリカ残留を決めたのだが、今は間違いなく『アメリカに残って良かった』と親も子供たちも思っているようである。

 それは、このIrvine という『アメリカで一番治安がいい』と言われる地域で、周囲には日本人も多くていろんな意味で住みやすかったのだと思う。

 

 

     

 

 休みにはこんないい環境で、日本人の人たちが集まって、サッカーをしている。年齢はいろいろだが、日本人で且つサッカー部にいた人たちだけで20人近くがすぐ集まるようである。18歳の孫がさすがに一番若いようだが、年齢などには一切関係しないアメリカ社会だから何の問題もなく、自然に溶け込めている感じなのである。

 

そんな人数が集まるくらい、日本の現地法人も多いということだろう。娘婿も今は日本の現地法人に勤めている。

カワサキの現地法人KMCも、この地にあるので、私は現役時代から馴染みがあるので、自然に溶けこめているのかも知れない。

最近は、毎年秋の此方での生活を楽しんでいるのである。

 

 

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カワサキのブランドは今もOBが創っている ??

2018-10-06 17:03:11 | M/Cレース

★来週の10月13日の土曜日に、『カワサキモトクロスOB有志の会』という会合があるのだが、私はアメリカに来てしまっているので出席することはできないのである。

この会合は、今年の7月7日に開かれることになっていてその時は私も出席予定だったのだが、当日は台風7号の大雨で中止になってしまったので、10月に改めて開催が決まったのである。

 

 カワサキが二輪事業をスタートさせたのは、昭和35年(1960)でもう60年も前のことなのだが、当初はヨタヨタ歩きでいつ事業をやめるのか?と思われていたりしたのだが、それを支えて何とかなった一因が『青野ヶ原のモトクロス』の1位から6位までを独占した勝利だったのである。その後もカワサキの二輪事業はモトクロスなどレースとは密接に関係があって、極端に言うと当時レースに関わった人たちが、その後の二輪事業も、もっと大きく言えば川崎重工業も支えたといってもいいのである。

当時のレースは、技術、生産、営業の3部門からなる『レース運営委員会』によって運営されていて、当時のメンバーは 山田、苧野、中村、高橋、大槻、安藤さんなどでその事務局が私、生産部門をまとめていたのが田崎雅元さんである。

このメンバーの中から川崎重工業の社長も、副社長は2人、常務も出ているし、世界の販社や製造会社の責任者を務めるなど、文字通りカワサキの二輪事業を支えたと言っていいのだが、今現在は大槻幸雄さんと田崎雅元さん私以外はすでにこの世を去られてしまって、当時のことを語れる方は本当に少なくなってしまったのである。

 そんな中だが、私たちのちょっと後の世代のレースを担当された百合草三佐雄さんを中心に、特にモトクロス部門を担当された大津信さんなどが中心になって今回『カワサキモトクロスOB有志の会』が開催され、大槻幸雄さんや種子島経さん、カワサキのレースカラーを『赤タンクのカワサキ』から『ライムグリーン』に思い切ってチェンジされた当時KMCの斎藤定一さんなどが出席されるようだし、カワサキの歴代ライダーたちも多数出席なのである。

 

★この会を熱心にここまでまとめあげられたのは、大津信さんで現役時代から私は存じ上げてはいたが、そんなに密接に繋がっていたわけでもないのだが、大津さんが書かれている『野々池周辺散策』というブログの中には、何度か私も登場していて、非常に関心を持って頂いているようである。

 そんな中の一つに、「ある時代カワサキを支えた人たち」というテーマで Facebook の中にこんな投稿をしたことがあるのだが、それを野々池周辺散策の中で取り上げて頂いているのである。

その書き出しはカワサキのブランドは今もOBが創っている』こんなことを言った人がいます。で始まっているのである。

 本来広報とは、PR  Public Relations 社会に於けるいい人間関係創り という双方向の情報発信というか、末端の方たちとの関係が日常的にあって初めて広報活動になるのだが、現代ではその最先端を行くFacebook などには、カワサキのOBたちの方が積極的に動かれているのである。

今回のこの会合を見ても出席者の顔触れは非常に重厚で、かつ広範囲であり現実に、二輪車新聞や業界紙のほかに産経新聞の記者さんも出席されるようだし、ホンダのファクトリーにおられた渡辺さんも顔を見せられるようなのである。

カワサキのかってのOB からは、大槻幸雄さんをはじめ、百合草三佐雄、種子島経、斎藤定一他技術部OBが多数顔を連ねているし、歴代ライダーたちもいっぱいなのだが、私がちょっと寂しく思うのは、『カワサキの現役諸君の動き』がもう一つなことである。ちょっと前になるが、『カワサキの想い出、そして未来』平井稔男さんなどと一緒に開催した時は、かっての高橋鐵郎本部長、田崎雅元川重元社長もかってのレース仲間として出席いただいたのである。さらに現役からは高田プレジデント山田技術総括部長もご出席頂いたのである。

もう1週間の後に迫っているのでむつかしいとは思うが、せめてTOPの祝辞ぐらいが頂けたら、産経新聞など業界紙も来ているので、いいのかなと思ったりするのである。

実は大津信さんから、アメリカに来ている私のところに『出席いただけないのは残念だが、祝辞でも』と連絡があったので今日、祝辞をお送りしたのだが、私などより『現役トップの方の祝辞』があればなと率直にそう思ったので、このように書いているのである。

 

『ある時代カワサキを支えた人たち』はこのようにFacebook にアップしているのである。

 https://www.facebook.com/rfuruya1/media_set?set=a.917533234923978.1073742839.100000019311141&type=1&pnref=story

       

ある時代カワサキを支えた人たち

カワサキのブランドは今もOBが創っている』こんなことを言った人がいます。

確かに、ネットの世界でのOBたちの発信量は多い。
FBに参加しているOBたちをチェックしてみました。結構いるものです。
ご存じの方も、ご存じでない方もおられるでしょうが、Facebook やってる人集めてみたら21人、ライダー諸君やのれん分けの人たち入れると数え切れなくなるのですが・・・・・御大の大槻幸雄さんが顔写真を新しく出されたのでそんな気になりました。
順不同に、平井稔男、藤川哲三、渡部達也、福井昇、藤原良弘、大津信、吉田純一、山田浩平、百合草三佐雄、石川薫、杉沼浩、山本隆、多田憲正、小川優、松澤暢夫、大槻幸雄、山田淳一、遠藤治一、野田浩志、稲村暁一、種子島経
みなさんどれくらいご存じですか?
この方たちそれぞれの分野で非常に大きな役割を果たされています。
そんな上に現在のカワサキがあり、カワサキのブランドイメージがあるのでしょう。


            


 今回の会合にも、ここにお名前を挙げた方は多数ご参加のようである。
 スタート以来カワサキのモトクロス関係を支えてきた大津さんや安井さんたちさらにはその周辺におられた関係者や、ライダーたちのほかに、今回は国内のTEEM GREEN の創始者、平井稔男さんが広く声をかけられたので『カワサキファン』も結構多く集まって総勢100名に近くなるので、中身の濃い素晴らしい会合になることは間違いないのである。
 
 
 
★私自身は、カワサキの二輪事業のスタートから、それも広告宣伝課担当からスタートしているので、一言でいえば私のカワサキ時代の活動は即広報活動であったと思っているし、今もなお情報発信についてはあるレベルを維持した上で続けているのである。
 
Kawasaki, Let the good times roll !  Kawasaki に出会う人たちがハッピーになるような、いい時を過ごせるような活動こそが、事業経営の中で最も優先されるべき事項だと、今も信じているのである。
 
 
 

 

 

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Irvine Wood Bridge

2018-10-06 07:38:20 | 発想$感想

★今、アメリカの娘婿宅に来ている。

Irvine の Wood Bridge という住宅街である。

もう40年以上も前になるのか、現役時代にSanta Ana の隣町の開拓中だった Irvine に新社屋の土地を求めて見に来た頃の Irvine は見渡す限りの荒野も多い町だったが、今でもちょっと町の外れに行くとそんな昔のような面影は残っている。

 

今日は、ちょっと山の手にある韓国スーパーまで買い物に行ったのだがその帰り道の左はすでに住宅街になっていたが、右手はまだ山のママで木も草も生えていないような山だった。

そこから、娘宅のある Woodbridge まで、写真で追っかけてみる。

 

 

 右の方は開拓された住宅街だが、左手はまだ山である。韓国スーパーはこの先にある。

 

     

  

  自然のままだと、こんな状態である。40年前はいたるところがこんな風景で、旧KMCも広大な土地だけが広がっていた。

 

     

 

 

   反対側は、こんな住宅街になっている。

 

     

 

 

   そこから車で2分も走ると、ハイウエイ405を跨ぐこんな大きな道になる。

 

 

     

 

    そしてこんな道になる。右手に見えるのは、市内いたるところにある銀行やスーパーや店。ガソリンスタンドなどがあるモール、

    店はすべてモールに集中していて、道路わきには一切店はない不思議な街である。

    少なくとも私は、道の横に1軒の店もない町は,このIrvine のほかには知らない。

 

     

 

   Woodbridge の住宅街に入るとこんな感じになる。信号などは一切ないが、四つ角はすべて車は『一旦停止』なのである。

   もし人が横断歩道内にいたら、その人が道を渡りきるまで、車は動くと交通違反になる。 その辺りは徹底して守られている。

 

      

 

   人工的に作られたこんな湖に掛かる橋が木製なので、Woodbridge と名付けられている。

 

   この住宅に住むと無料で使用できる ジャグジー付きのプールや、バスケットコートなどが幾つも用意されている。

 

      

 

  水がなければ、木も草も生えない土地がこんなに緑化されているが、家の前の芝生まで頻繁に手入れしてくれて、住民は何もしなくていい。

 

  ただ、家賃は結構高くて、家賃は30万円から50万円もするようだ。

  大谷翔平もこの Irvine の住民だが、彼の家の家賃は50万円だとか。

 

  町のいたるところに、サッカー場や野球場、テニスコートなどがあるし、会社関係はいくつかの場所に固まっていて、完全に住宅街とは分離されている。

  この町は、Irvine という開発会社がかっての砂漠を計画的に街にしたので、同じアメリカでも隣町のSanta Ana などとは全く違った形に仕上がっているのである。

 

 

 

             

 

 

   

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