雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 13

2020-06-15 07:37:22 | 私の生き方、考え方&意見

★ 昨日ジェットスキーのスタートの時期のことをアップしたら、
 吉田純一さんから、Facebookにこのようなコメントを頂いたのである。


古谷さんおはようございます。
懐かしいですね、藤田さんと日本橋に大南さんに会いに行った事、神戸の東灘区の店を借りて頂きジェットスキー🎿のショールーム、専売店を作って頂きオープニングに家主で招待して頂きました。
古谷さん藤田さんはじめ川重からも沢山の人が出席して賑やかなオープニングだったのを思い出しました。』



 当時、吉田さんには本当にお世話になったのである。
 国内のジェットスキーの販売網を立ち上げるのは、それなりにいろいろとあって、
 大変だったのだが、
 どのように進めていったのか?
 そのあたりのことについて、纏めてみたいと思う。


★この時期のことを時系列に並べてみると
 
84年度には明石の単車企画室内で武本一郎部長が、『ジェットスキーの単車事業本部の正規製品化構想』を打ち上げ、私もフォローしたので、単車技術部内では単車事業部としてのジェットスキー開発がスタートし、国内販売関係でもレース関連のJJSBA設立のため11月に苧野KAT社長と私が渡米し、IJSBAの了承を得るのだが、その仲介をしてくれたのが田崎雅元さんなのである。
 
85年度8月にはオーストラリアから帰任した鶴谷将俊さんが企画室内で独りジェットスキー・プロジェクトをスタ―トさせるのだが、その時期が単車事業本部の中に正規にジェットスキープロジェクトが立ち上がった時期だと言っていい。

86年度1月には、ヤマハの小宮常務が訪問されて、ヤマハもこの分野に進出するというご挨拶があった。カワサキとしてはプロジェクトチームが立ち上ったばかりだったのだが、ヤマハさんもアメリカの市場が一挙に24000台になったことが、この業界への進出を決心されたのだろう。

もしこの時期カワサキが正規事業にすると言うことを決めていなかったら、
川崎重工業として、どのような対応をとったのだろう?
ヤマハさんも、まさかカワサキの内部でこんな事情があったことなど多分ご存じなかったはずなのである。

こんな状況の中で、国内市場では、カワ販の孫会社のKATが西武自動車が輸入するJSを年間200台ほど販売していたのだが、川崎重工業は直接には何の関係もなかったのである。


★私自身は川崎重工業の単車事業部企画室長時代だったのだが、国内市場については直接担当をすることにしたのである。
企画室長という激務の中での余分の仕事みたいなものだったが、国内市場という結構ややこしい流通網が解っていないと、この対策は出来ないと思ったのである。

台数は少なかったが、事業展開の主流は西武自動車で、ボート屋さんをベースにした販売網が既にあって、その辺の調整は現実には、なかなかムツカシかったのである。

少なくともカワサキが直接販売するためには、『カワサキ独自の販売網』を創るべきで、レースが中心というJSのその商品性から、独自の専門店がMUSTとは思ったが、それをどのような形で具体的にスタートさせるかが課題だったのである。

現実には国内での販売規模が200台という市場で、
そんな専門店など最初からできるのか? と思うほうが普通なのである。


これは87年1月20日の日記である。
西武自動車など関係者を集めて、初めて国内販売網形成のスタートとしたのである。


 


人をどのように使って作り上げるか面白い仕事である。国内JSは第一歩を踏み出した。』 と書いている。

まさにいろんな方たちの協力で進行したのである。

それともう一つ、
半年で形が出来ないものは10年掛かってもその実現はムツカシイ』のである。
世の中の進歩は早く3年も経つと『世の中が変わっている』のが常である。
そんな時代の展開に対応できる『半年単位のやり方』が私自身の発想なのである。

 
2月にはボートショーもあり、これはそれなりの規模でやろうと考えていて、現実にのボートショーを見て、西武の方たちも『カワサキのやる気』を感じられたようである。
そしてJSの専門販売店の『プラザ』をまず東西に創ることにして、
東京には当時の二輪販売日本一を誇っていた『北多摩モータースの根本さん』に、『プラザ都』を設立して貰ったのである。

そして関西には、神戸の東灘区に吉田純一さんのお店を借りて、
プラザ神戸』を立ち上げたのが3月3日のことなのある。

これは、カワサキに色濃く関係のあった佐々木八太夫さんにお願いしたのである。
根本さんにしても、佐々木さんにしても、そんなちょっと『無理かも』と言えるお願いが出来るような、『平素のお付き合い』がそのベースで、
吉田純一さんもカワサキにおられた時以来の親しいお付き合いだったのである。

ショールームのような規模の大きい『JSプラザ神戸』が出来て業界の話題にもなり、
これがその後の進展を容易にしたと言っていい。

6月には福井昇くんが川崎重工業を退社して『プラザ明石』を立ち上げたのである。
これが実質『カワサキJSプラザ1号店』だと思う。
このお店については藤田孝昭さんがホントによく面倒を見たのである。
そして大阪の大南勝也さんも続いたし、その後は流れになって、スムースに全国販売網が出来上がっていくのである。


★この年の5月には単車と発動機の合併があり、私も鶴谷さんも企画から営業に異動して、ジェットスキーを正規に扱う組織が営業総括本部に出来て鶴谷将俊さんが担当し、
同時に国内に関してはカワ販の孫会社KAT の社長は苧野豊秋さんが従来通り兼務され、カワ販の内部から藤田孝昭・宇田川勇さんなど販売網や技術関連の実力者が担当することになったのである。
ヨーロッパについても6月にJS販売会社構想をまとめ9月には藤元社長でスタートを切ることになった。
 
翌88年9月には前回ご紹介した『ソウルオリンピック』への協力参加などもあり、
10月には私自身が国内市場担当となり、KATというカワ販の孫会社をKJS(カワサキジェットスキー販売)という子会社に昇格させ、私自身が社長を兼務し、自ら旗を振る体制としたのである。

鶴谷将俊さんはこののちもこくないJS市場には深く関わってくれて、JJSBAの育成強化などに当たってくれたのである。


★ この時期、『7万台への挑戦』がスタートした88年10月には、年間200台の販売がその10倍の3000台の規模となり、さらに1万台を目標にするところまで、急激に成長していくのだが、
このジェットスキーの国内販売網は、営業所などは一切作らずに本社だけで少人数で対応したので、『200台でもペイしていた販社』が、3000台になりさらに8000台になっていった時には、『凄まじい儲かり方』だったのである。
これは『ジェットスキー・プラザ』も同様で、この数年で国内の『水上バイク市場』は確固たるものになったのである。


★ そんなきっかけを作ってくれた吉田純一さんは、カワ販の昭和42年度定期入社で、この42年度入社の人たちが、その後のカワサキの国内販売網を創ったと言ってもいい。
この年次の人たちは、柏原久・関初太郎くんなど今でもFacebook で繋がっているし、いろいろと具体的なお付き合いがあるのだが、その核となってるのが吉田純一さんである。

 二輪業界で広く活動されていて、
 
 

 
 その活動が評価されて、こんな授賞も受けられたのである。


    
 
 
何となくいろんなご縁で繋がって、昔の想い出話も一緒に出来る間柄なのである。

カワサキの国内ジェットスキーについては、私自身密接に関係したのだが、
その嚆矢(こうし)となったのが、『プラザ神戸』であったことは間違いないのである。





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 12

2020-06-14 06:21:42 | 私の生き方、考え方&意見

★  この7万台の目標の中には、二輪車だけではなくて、
 当時、日本では『新しい商品』であった『ジェットスキー』が1万台入っていた。

 『ジェットスキー』というのはカワサキの商品名なのだが、
 日本にアメリカから輸入されて、すぐに人身事故などあった時には、
 国会では『エンジン付き海洋浮遊物』などと言う不思議な名前で呼ばれたりした。

 そんな『ジェットスキー』に関連した当時の想い出話を幾つか。


 『ヤマハ・メイト』が続いて上市されたが、これも商品名だから、
 2社で『パーソナル・ウオーター・クラフト、PWC』と名付けて、
 そのPWCの安全協会を設立して『PWSA』としたのだが、
 一般の方は、どれくらいお解りになっているのだろう。
 ヤマハさんとは、競合関係ではなくて、
 新しい業界を発展させようと、ホントに仲良く活動をしたのである。
 PWSA会長を務めたりしたのだが、
 ヤマハの方から『社内会議のようだ』という評価を頂いたりした。
 それが1990年の頃のことなのである。


★ この『ジェットスキー』は、非常に不思議な生まれ方で、
 単車ではなく、エンジンを生産している『発動機事業部』が、
 アメリカ人の持っていた『特許』を購入して、

 発動機事業部がエンジンをアメリカのKMM(リンカーン工場)に送って生産し、
 アメリカの販売会社KMCだけで販売をしていたので、
 川崎重工業の製品ではなかったし、
 明石の単車事業部は全く関係がなくて、
 単車事業部には1人の担当者もいなかったのである。

 
 私の企画室長時代に、企画課長だった武本一郎さんが、
 『川重の正規の製品にすべし』と言い出して、
 新しいことは何でも好きな私が、『その話に乗り』動き出しことになるのだが、
 
 当時国内では、西武自動車が輸入してKATというカワ販の孫会社
 細々と年200台ほど販売はしていたのである。
 
 西武自動車関連の方々で、レースなどもやられていて、
 当時KATの社長を兼務されていた苧野豊秋さんに頼まれて、
 アメリカのKMCにレース協会JJSBAを立ち上げる承諾を取りに、
 アメリカ出張もしたのだが、KMC社長が田崎さんでその時の写真である。



  



 ★ そんなちょっと変わった展開からのスタートだったが、
 アメリカ以外のヨーロッパ、並びに日本市場などへの販売を試み、

 私・武本一郎・鶴谷将俊・福井昇さんなどでプロジェクトを立ち上げ、
 その時の国内市場を担当してくれたのが藤田孝昭さんなのである。
 
 あの時あのメンバーが動かなかったら、
 『ジェットスキー』のその後の展開は果たしてどうなっていたのだろう?

 ちょうどその頃、オーストラリアの社長から戻ってきたのが鶴谷将俊さんで、
 無理やり『ジェットスキー担当』を押し付けて、
 企画室の中でスタートを切ったのである      

 発動機事業部にジェットスキーに乗れて、
 レースもやってるという福井昇さんがいることが解って、
 発動機に貰いに行って、メンバーに加わって貰ったのである。

    特筆すべきはこんなカワサキのメンバーだけではなくて、
 ジェットスキーに関係していた外の人たちがホントに援けてくれたのである。

 今でもこの業界で活動されている大南勝也さん、
 マウンテンライダースの50周年記念の時にお会いした写真である。

  

 当時の日本の女子トップライダー、松口久美子さん。
 今でもFacebook で繋がっている。

 そして世界の頂点登りつめた金森稔さんは、今はアメリカKMCにいる。
 何年か前にアメリカでお会いした。
 
  

 
★このプロジェクトのメンバーは、一言でいえば『ちょっと変わっていて』 
 よく言えば『個性派』ばかりなのである。
 
 鶴谷将俊さんは、私も色濃く関係した開発途上国プロジェクトでは、
 岩崎茂樹さんと二人で、イランを担当していたのだが、
 その後係長の時代にオーストラリア社長担当などした実力派なのである。

 国内市場については、
 ジェットスキー販売を担当されていたのが元上司の苧野豊秋さんだったので、
 私自身が担当し、藤田孝昭さんたった一人を指名して、
 ジェットスキー独自の販売網設立を企画したのである。

 福井昇くんは、初期のヨーロッパ市場開拓などにも携わっていたのだが、
 その後国内でジェットスキー販売網を独自に展開する時には
 川重を辞めて国内のジェットスキー販売1号店となったのである。


 その後このプロジェクトは、企画から営業に移り、
 鶴谷将俊さんが担当をしての世界展開となるのだが、
 1988年にはソウルオリンピックに、オリンピック委員会からの正式な依頼で、
 開会式当日に漢江で『デモンストレーション』を行ったりしたのだが、

 このライダーはアメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・日本から
 Topライダーを選んで対応し。
 スタート以来のジェットスキー関係メンバーの
 苧野JJSBA会長・鶴谷・藤田・福井さんや、上述の3人の方は勿論、
 当時の日本のTOPライダーたちも集まって
 私はその団長を務めたのである。


    



★ この『ソウルオリンピック』から帰国したのが、
 1988年10月1日だったので、
 国内市場担当という新職務は、その翌日の10月2日からスタートしたのである。

 
    この表は、『7万台への挑戦、新しいカワサキのイメージ戦略』の講演会で
 私が喋った内容ですが、
 当時、かっては200台であったジェットスキーが3000台となり、
 さらにそれを1万台目標として対応したのだが、
 それがもう少しで実現する、そんな時期だったのである。

 この時期、国内のジェットスキー販売会社の社長は私が兼務していたし、
 常務として旗を振ってくれたのが藤田孝昭さんである。
 さらに言うと、その初期の実務を仕切っていたのが渡部達也さんだったのである。
 
     



 
 この時期に中心になって旗を振ってくれたのが鶴谷将俊さんで、
 企画から営業に移りジェットスキー販売部門を担当し、
 同時に、国内市場に関しても色濃く関与してくれたのである。

 ジェットスキーという商品は、単なる遊びだけではなくて、
 『レース関連』も非常に大きな分野を占めるのだが、
 当時はその中心であったJJSBAの会長は初代苧野豊秋会長以下
 2代目以降も、すべてカワサキ関係者が会長を務めたし、
 そのレース規模も『琵琶湖』でアメリカからライダーを招いて、
 『ワールドカップ』開催を図るなど、大規模に展開をしたのだが、

 その中心になってくれたのが鶴谷将俊さんだったし、
 福井昇くんなども、大いに手伝ってくれたのである。


 今回、特に言いたかったのは、
 『ものごとを実現する』一番のキーは、『何と言っても人』である。
 それも単にメーカーや販社というこちらサイドだけではなくて、
 業界・ライダー・ユーザーなどを巻き込んだ『大きなうねり』みたいなものが、
 一番大事なのかなと思っているのである。

 この当時のメンバーたちからも、このようなブログをアップすると、
 Facebook で『いいね』を頂けたりするのが、最高に嬉しいのである。


 
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三木ホースランドパークの『アジサイ園』

2020-06-13 06:09:10 | 発想$感想

★ 神戸新聞の三木版に大橋凛太郎記者のこんな記事が載っていた。


  



 三木ホースランドパークはかってはよく行ってたので、
 どんな場所にどのように創るのか興味があって、
 ちょっと観に行ってみた。

 広大な公園だから、まずキャンプ場の方を覗いてみた。

   
  

 今はアメリカにいる孫の末弟・門野哲也が勾配が急で『コワイ』と言って、
 なかなか降りることが出来なかった階段もちゃんと残っていた。

 いつもよく使うこの写真は、

  



この階段を降りたこの辺りで撮ったものである。。

 
  


 この辺りが馬がいる中心部だが、
 夏休みに開催された写生大会で、
 次男の門野真也が描いた絵が表彰されたりもした。


  


 いろんな思い出もいっぱいの三木ホースランドパークだが、

 今回新しく開かれる『アジサイ園』は、もっと下の方というか、
 入口よりさらに下の小川が流れている谷間なのである。


 次の日曜日21日からが正規の開園で、まだ開園している訳ではないが、
 ちょっとだけ、覗いてきた。

 なかなかいい風情だと思った。

 三木の『新名所』になるだろうか?

  


  








 紫陽花もいいが 周囲の環境がそれ以上にいい。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体力年齢  と 基礎代謝    雑感

2020-06-12 06:13:00 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ この辺りも昨日から梅雨入りしたようだが、
 雨の合間を縫って、三木総合防災公園で2時間ほど動いてきた。

 どうも毎日やってることをやらないと気分が悪いのである。

 約1時間のスロー・ジョッギング、
 30分ほどの体幹トレーニングとストレッチ
 仕上げに50メートルダッシュを10本ほど  がいつものメニューである。

 87歳にしてはハードだとは思うが、『体力年齢=50歳ぐらい』と思っているので、
 慣れてしまうと、そうハードでもないのである。


★ これは2年前の85歳の時の『体力測定』だが、
 『体力年齢は53歳』と出た。
 
 柔軟性   20歳
 敏捷性   40歳
 全身持久力 60歳
 瞬発力   70歳   
 筋力    72歳
 
 と出ていて、今も同じぐらいの水準は維持できているだろう。
 ひょっとしたら、若返っているかも知れない。


 

 
 


★家にあるには、体重81キロ、体脂肪23
 そして基礎代謝量が1700kcal と出て、年齢は72歳ぐらい15年程若く出る。

 その『基礎代謝量』というのがムツカシクて、もう一つよく解らないのだが、

 こんな計算式があって


 
    年齢87歳、身長168cm、体重81kg,と入れて計算すると、
 1485kcal と低く出るので、


  

 
 
   基礎代謝量が1700kcal になるように、年齢を下げていくと、
 『年齢50歳ぐらいで1695kcal となるので、

 やはり『体力年齢』は50歳ぐらいかなと、気を良くしているのである。



   
 
 ★それにしても、人間は不思議な生き物だと思う。

 『筋力は何歳になっても付く』というが、これは間違いない。

 私は長距離走などは全く不得手で『息が上がる』のはダメなのである。
 そんなところに、『歩く速さでいい』というスロージョッギングに出会って、
 これは幾ら長く走っても『息が切れたり』はしないので、
 最近は1時間ほど走っているのである。

 ただ、筋力強化にはならないと思うので、『50メートル・ダッシュ』を10本ほど。
 これは休み・休みでやっている。
 決して『ドタバタではなくスムース』に走れている。
 速さは、小学生2年生ぐらいには充分走れるのである。


★ でも、これが果たして何歳まで続くのか?
 
 いま、コロナもあって、『やることが少なくなった』ので、
 それが『最大の関心事』なのである。

 この3ヶ月の実績を見ても、
 3月頃は30分程度で6本ほどだったダッシュも、
 今は1時間ぐらいは続けて走っているし、ダッシュも10本に増やしたのである。

 こんな実績を見ていると、
 もし、生きていたら、90歳ぐらいまでなら今のレベルが維持できるのでは?
 などと思っている。

 
 こんなブログをアップしてるのも、
 『87歳ごろ』あんなこと言ってたという証拠みたいなものである。
 これが出来るのは、定年後の時間いっぱいの生活だからで、
 現役時代ではとても無理である。

 さらにこの3月から『新型コロナウイルス』が、
 より『やり易い環境』を創ってくれたような気がしている。

 いつまで経っても『ネアカなおじん』なのである。
 
 
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊藤彰さん、斎藤昇さん&竹内優さん  のことなどいろいろ

2020-06-11 05:13:37 | カワサキワールド

★ いつも突然なのだが、堺の伊藤彰さんから

  こんな水茄子が送られてきた。

 
  




 こんな手紙が添えられていた。

  



カワサキの特約店制をやる前の昭和45年末(1970)からのお付き合いだから、
もう50年ものお付き合いである

当時の担当セールスが竹内優さんだった。

竹内さんと二人で泉州の南の販売店を廻っての帰り道、
堺にオモシロい店がありますが寄りますか?』というので
予定外だったが、訪ねてみたのである。

確か、まだその時はカワサキとは正規には繋がっていなかったのでは?
弟さんと二人で『中古車』を中心におやりだったように思う。

そのあと、『カワサキ共栄会』を作った時に、仲間に入って頂いたのである。


まだ、『伊藤モータース』と言ってたこんなお店の時代で、
はじめてカワサキの看板を上げた時の写真だと思う。
その頃のことを忘れずに、『株・忍者のホームページ』に載っている。


  

 
 

 竹内さんんと二人で初めてお会いした時のこと、よく覚えている。
 
 50年経った今と、全然変わらない。

 

★その後、『カワサキ共栄会』の時代を経て、
 カワサキ特約店制度を船場モータースの岡田博さんなどと共に、
 カワサキと一緒になって創ってくれたのは、
 伊藤彰さんなど有志の販売店の人たちなのである。 

 その後、いろいろと店の名前は変わったが、
まさに『カワサキ一筋』を貫いて、
いまは『株・忍者』というお店になり、息子さんがおやりになっている。

  

 



★お礼の電話をして、 久しぶりにいろいろ喋った。

 手紙にもある『中部ミスターバイクの斎藤昇』さんのことで延々と話をした。


 


 斎藤昇さん、今年の1月に突如亡くなってしまったのである。

 伊藤さんの親友というか兄弟のような間柄だったのである。
 
斎藤さんとは、私もご縁があって、
春日井スズキ』という小さなお店を出したばかりの時からのお付き合いだった。

昭和48年」(1973)にカワサキが特約店制度をスタートさせようとしたとき、
手を挙げたのだが、ちょうど目の前にあった大きなお店が
あんな店を入れるのなら自分は辞める』などとごねたことから、

私が直接お会いして『ちょっとの間待つように』説得した経緯があって、
特に私は親しくして頂いていたのである。

そんな経緯もあって、私が名古屋に行くときは、
駅まで送り迎えなどして頂くなど『律儀な方』だった。


その「春日井スズキ」を担当していたのも、
その時は大阪から名古屋に異動していた竹内優さんだったのである。

なぜ、伊藤さんが斎藤さんと繋がったのかよく解らなかったのだが、
お二人を引き合わしたのは竹内優さんだったようである。

その話は、昨日の電話で初めて知ったのである。
竹内さんは、そんなに目立たない大人しい方だが、
大阪時代からずっと今でもいろいろと関係がある。

伊藤さんに『いい』と言ってもらうのはなかなかムツカシイのだが、
そんな中でも竹内さんは別格で『いい』を通り越して『恩人のレベル』なのである。

この水茄子も私と竹内さんと、もう一人『荒木くん』に送ったとか言っていた。
荒木くん』とは、彼が東京担当時代によく知っているのだが、
大阪で伊藤さんを担当したのは知らなかった。


★ 私自身も、二輪の世界には長いのだが、
不思議なほどいろんな人と繋がっていて、
斎藤昇さんなども、昨年12月中頃に突然電話をしてきて、
いろいろ言ってたのだが、その半月後に突然亡くなってしまったのである。


     

 

これは何年か前、近畿のモトクロス会場での写真だが、
当時のMFJモトクロス委員長の田中隆造さんも一緒だったが、
斎藤昇さんとはこれが最後になってしまった。



★Facebook に私がずっと使っている写真だが、
右から二人目が田中隆造さんである。 
その左の『吉村太一』さんと伊藤彰さんはなぜか親密なのである。

金谷秀夫とも親しくて、金谷の店で飲んでる席から電話を頂いたこともある。


 

 

 
 私がずっと、この写真を変えずに使っているのは、
 ここに写っている方たちは、カワサキに関係があった方も勿論居るのだが、
 ホンダ・スズキ・ヤマハとBSという、二輪業界の方が揃っているからなのである。

 川崎重工業で二輪関係を担当して約40年、
 社内の方とも勿論関係はあるのだが、
 今でも、むしろ販売店などの方たちや、業界やレース界の方たちと
 親しくさせて頂いているのである。


★昨日の電話で、伊藤さんはごく最近田中隆造さんにお会いした際、
 田中さんが『私のこと』を仰ったようで、どんな関係かと仰るのである。
 私は存じ上げてはいるが、たまたまこの2枚の写真に田中さんがいる。

 田中隆造さんは、吉村太一さんとは昔のレース仲間で親しいし、
 トーハツからBSに移籍して、BSのライダーだったのである。

 上の写真にも太一ちゃんと一緒に写っていて、
 『太一ちゃん』は星野と同期生なのである。
 
そして『カワサキの想い出、そして未来』のあの会場に田中隆造さんがいるのは、
かってBSの監督をされていた『シルバーストーンのケン鈴木ご夫妻』が、
出席されたので、『お会いしたくて』参加されたようである。
ケン鈴木さ』はトーハツBSカワサキとレース一筋の道を歩かれたのである。

 いろんな方たちとの繋がりはいいものである。
 でもお互い、そこそこの歳で『いついつまでも』とは言いにくい年代である。

 いろいろと想い出も多かった斎藤昇さんだが、
 改めて 生前のご厚誼に感謝し、 ご冥福を祈りたい。
 
 
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増やす楽しみ いろいろ

2020-06-10 06:13:47 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 『増やす』ということには結構興味があるのだが、
 それは『お金』ではない。

 今のところ植物生き物なのである。

 いま、一番『ハマっている』のがメダカである。
 別に高級なものではなく、単なる『メダカ』だが、
 卵を産んで、それが孵って泳ぎ出す姿を見るのは楽しい。

 最近は2時間ぐらいは、メダカを眺めて過ごしている。


  


 こんなバケツの中で何匹いるのかは、よく解らない。
 この写真の中に3匹は写っている。

 これはバケツの中だが、いい加減な増やし方で、卵が付いているであろう藻をバケツに入れておくだけである。
 昨年からだから、そんなに経験もないのだが、メダカは毎日卵を産むとか。
 ホントに毎日産むようである。


 こんな中に入れているが、この中には50匹以上入っている。
 今年生まれたのも10匹ぐらいいるはずである。

 


  昨年の経験から言うと今から秋までが本番だから、
 今年は、何匹ぐらい増えるのか楽しみなのである。
 幾ら増えても小さな池があるので、
 そこにいれたらいいので、入れる場所には困らない。

 その池では、金魚がこの3年間毎年コドモを産んだのだが、
 今年ももう1ヶ月もしたら、確かめることが出来る。
 エビは何匹産むのか解らぬほど増える。

 
★ バラも挿し木をすれば何本も増える。
 狭い庭だから、もう植えるところがないくらいだが、
 今年も懲りずに、挿し木をしている。

 ずぼらなやり方で、こんな風にしておけば、1ヶ月ほどで根が出てくる。

  

 
 根が出たら、土に植えても大丈夫で我が家の薔薇も挿し木から育ったのが多い。
 これは『木ばら』だが、『蔓バラ』の方がやり易いように思う。


 京鹿の子 はいっぱいあるが、これは『株分け』からである。

 1っ本だったのだが、今は5株ほどになっている。

 


 こんな調子で『増やす楽しみ』で、楽しんでいるのだが、

 この中で、やはり『メダカ』が最高である。
  毎日、何匹か増えるのがいい。
 今は小さなバケツ2個でだが、
 そのうちに4個ぐらいにすると、どんどん増えるのだが、
 多分、7月にはそうなっているだろう。

 殆ど『お金が掛からない』のがいい。



 


   
今年の冬は殆ど枯れかかってはいたが、何とか『ホテイ草』が冬を越した。
やはり暖冬だったのだろうか?

これは、それこそ幾らでも『増える
メダカはこれに卵を産むようだ。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 11

2020-06-09 06:19:55 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦』11回目を迎えたが、
今回も『私の生き方、考え方&意見』を中心に纏めてみたい。

この時代のカワサキがやってたことは、『二輪業界の常識』からは、ちょっと逸脱した
変わったこと』ばかりをやっていたと言っていい。

国内の二輪業界が伸長している時なら兎も角、
むしろ『縮小の時代』に、
7万台を売れ』などと言う指示自体が『普通ではない』のだから、
それを実現するためには、
全く新しい発想』で臨まない限り、『実現』などしないのである。



       




★そんな『新しい発想』を従業員をはじめ販売店の人たちに理解してもらうのは、
7万台の販売達成と同様に、そんなに簡単ではないのである。

従業員は兎も角、販売店の理解を得るために、
全国販売店の新年会では、
当時の総合営業活動をこのように図示して1時間以上に亘って説明し、
その考え方の徹底を図ったのである。


 その目標は『新しいカワサキイメージの創造』であり、
 その対象とするところはカワサキマニアや販売店だけでなく、
 むしろそれ以外の広く社会の人たちまでを対象としたのである。

 『企業イメージ』とは、仲間内の発想ではなく『他人がどう思うか』なのである。
 
 商品開発・販売網・ユーザークラブKAZE対策などにより、
   『総合的な新しい仕組み』、
 遊んでいても自然に売れる『新しい営業活動』を目指したのである。
 



 


★ ちょっと『堅苦しい説明』になっているが、
 『営業活動』なのにそのTOPに『商品開発』が来ているのは、
 当時の販社と技術部とは密接に繋がっていて、
 営業第1線と開発部門との意見交換会を2ヶ月に一度定期的に開催していて、
 『フレッシュマンレポート』と称し、それを担当していたのは若手諸君だったのである。

 このことはすっかり忘れていたのだが、
 前回のこのシリーズに、当時の植村武さんからこんなコメントを頂いたのである。

ゼファーといえば古谷さんが立ち上げたフレッシュマンレポートを思い出します。
ふた月に1回位のペースで川重の開発メンバーとカワ販のメンバーが新商品の意見交換をするシステムで、第1回目の時に、ZZRシリーズ、KDX、ゼファーのモックがあってその前で細かく話し合ったのを思い出します。』

そう言えば ZEPHYRのネーミングの提案者は確か営業の若手だったし、
当時のグループメンバーたちは全員がよく頑張っていたのだと思うのである。


 
★話しはちょっと旧くなるが、ずっとずっと前の入社3年目の頃、
 『いろいろ言う私の理屈』を聞いて、
 『図示して見ろ』と言った人がいる。

 ちゃんと解っていたら『図示できる』はず。
 『図示できない』のは、『まだ、ちゃんと自分のモノになっていないからだ
 と厳しく私に言われたのは、小野田滋郎さんである。

 人生で出会った人の中で『この人にはとても敵わない』と思ったのは、
 小野田滋郎さんが最初だった。

    

     
   

 陸軍士官学校出で、あの小野田寛郎さんの弟さんである。
 自衛隊におられたのだが、
 その後カワサキ自動車販売の総務課長・広告宣伝課長をされていて、
 その広告宣伝業務を私が引き継ぐことになったのである。

 陸士仕込みの本格的な『戦略・戦術・戦闘論』などいろいろ教えて貰ったのだが、
 『めちゃめちゃ上手に図示』されるのである。

 そんなこともあって、私はいろんな私のやり方・方針などは、
 小野田さんの教え通り、『図示する』ことにしていたのである。



★1990年代に『7万台を目指した』その発想や仕組みは、
 それまでの『二輪業界のやり方』とは全く異なった『新しい発想』だったので。
 
 それを一緒にやる仲間たちに、説明し納得してもらうには、
 その仕組みを『図示説明する』必要があったので、
 当時はいろいろなものが残っているのである。


 これは国内市場を担当して4年目に漸く創り上げた
 『カワサキグループの組織活動図』である。


 



● 一般に言う『販売会社』なのだが、販売はこの会社がやるのではなく、ARK と称した販売店が『やってくれる』ので、ARK が大きく描かれている。
(ARKに関してはまたの機会に・・)
  バイクを本当に売りたいのは、販社のセールスよりは、むしろ販売店なのである。
売れない』のは『売らない』のではなくて、何か原因があるはずだから、
それを除去するか、販売店では『出来ないレベル』のことを販社がやるべきだと思ったのである。

● 販売店はお客ではなく『我々の仲間』だという位置づけとした。
 他メーカーさんは、販売店を様付けなどして『お客様』の位置づけだったが、
これは日本の業界など取引先満足優先Customer Satisfaction の発想で、Consumer Satisfaction(消費者)となっていないのである。

カワサキは販売店に対しては、仲間として結構厳しく接したのだが、
厳しく接しないとなかなかホントは『育たない』と思ったからである。


★ただ、こんなややこしい堅苦しい説明が、何とか販売店にも理解して貰えたのは、
当時のカワサキの販売網は独特で、まさにお客様ではなく『かっての仲間たち』がその中心となっていたからだと思う。

その販売網を最初に一緒になって創ったのは私以下当時の藤田孝昭・南昌吾・岩崎茂樹・谷沢高明くんなどホントに販売店の仲間だった人たちだったから、それなりに『信用して貰えた』のだと思う。

カワサキの特約店制度の中心になったのが、のれん分け制度で独立した元カワサキの仲間だったし、10年以上も経ってホントに業界でも一流店に成長していたのである。


★そいう言う意味では、『カワサキの販売網』は独特のもので、当時それぞれの会社や重要セクションで旗を振ってくれた人たちとの『信頼関係』がもしなかったら、こんなシステムは完成していないと思っている。

 そのベースにあるのは、
 川崎航空機工業の社是・執務態度なのである。
 
 それはそんなに特別なモノではないのだが

    社是        正直・誠実・勤勉
       執務態度      信頼・互譲・協力

 私は現役当時から、ずっと守り抜いてきて、
 今も、同じように動いている。

 そういう意味では『Good Times Concept 』も
 川崎航空機工業の『社是・執務態度』も、ずっと私を支えてくれているのである。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 






   


 





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分の仮説の正当性は?

2020-06-08 05:59:19 | 私の生き方、考え方&意見
 
★現役時代からずっと『二輪事業の流通業』の分野に長く携わってきた。

流通業とは、自らの仮説の正当性を問うビジネスである

と言われていて、いろんな事柄に対して、
ずっと『自分の仮説』を持って対応しながら生きてきた。

特に『新しいことへの対応』は、『仮説』がない限りその『対策』は打てないのである。


今回の『新型コロナウイルス』も間違いなく、世の中の『新しい出来事』なのである。
その専門家の方々や評論家や、国や地方の方たちなど、
それぞれいろんなことを想定しての対策がなされてきた。

そんな中で一番『自らの仮説』を持っていたのは
大阪』であったような気がする。



★私自身は別に対策などする必要はないのだが、
果たしてどうなるのか?』は非常に関心があって、
2月以降このブログでも何回か取り上げてきたりした。

日本での対策のスタートは、武漢からの帰国者が始まった2月初めからだと思うが、
兵庫県で感染者が出たのは3月初めからで、
4月からは「緊急事態宣言」が出されたりした。









いろんな統計やグラフなどが毎日発信されたのだが、
一番顕著に言われたのは、
感染累計者数』で現在は17876人になっている。
 
いろんな数値がどうも解りにくいので、
私独自で4月からはこんな数値を毎日ノートに記録してきた。
それはいま現在解っている『実質コロナ感染者数』で、
その増減を把握するのが、一番解りやすいと思ったからである。

 
 『感染者累計ー死者数累計ー退院者数累計=実質コロナ感染者数』 となる。

 
 昨日現在の日本の解っている『実質感染者数』は1321人で、
 6月10日に1000人になるだろうというのが『私の仮説』なのである。

 そしてその人たちは入院しているか、把握されている。
 因みに、日本で一番実感染者が多かったのは10545人で、
 それは4月30日でそれ以降、減少が続いているのである。



  

 


各県毎にこのような『実質感染者数』を発表すれば、
もっと解りやすいし、対策も立てやすいと思うのだが、
なぜそういう統計を出さないのだろうと思っている。
 
兵庫県は5月18日以降、新感染者は出ていないので、
2週間で退院するとしたら、
今既に『実質感染者=0』になっているのではないかと思っている。


私自身の『コロナ対策』は、
このこの3ヶ月『人には会わない、話をしない』で通してきたのだが、
金曜日にゴルフにも行ったのは、
もう兵庫県には感染者はいないはず』という自らの仮説を信じたからである。

 

★来週あたりからは全国で『実感染者数』は1000人を割り、
多分500人ぐらいにまで下がっていくのだろうが、
さてそれから先はどうなるのだろう。


今までのところ日本の対策は大成功である。
国や地方が採った政策もよかったのだろうし、
何よりもちゃんと『自らの行動を律した国民の努力』なのだと思う。

 今頃になって世界も日本を見直しているようだが、
麻生太郎さん』が言うように『それは民力度』なのかも知れない。




 
 



★ただ、これから先の仮説の立て方がムツカシイ。
日本だけの対策なら、
新型コロナ対策』はほぼ『抑え切った』と言っていいのだろう。

第2波』が来たとしても、その対策はより明確に出せるだろう。

ただこれは『世界と繋がっている』ので、
世界がどうなるか?
『ワクチンの開発』がいつになるのだろうか?
ブラジルや開発途上国が大丈夫なのかな?
と思っている。


★なんでも『仮説を立てる習性』が身に付いてしまっている
 『戦前派の「日本大好きな」おじんの発想』なのである。
 どんな事態に直面しても 
 『前向きに、ネアカに行動すべき』だと思っている。

 自らが立てた『実感染者論』は結構解り易かった
 ということに自ら納得なのである。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「毎日てっちゃん」 の Facebook の『いいね』  雑感

2020-06-07 05:58:07 | 発想$感想

★Instagram に孫の門野真也が『毎日てっちゃん』と題して、
毎日1枚こんな絵を画いているようだ。

私のInstagram はなぜかそれを見ることが出来ないので、
FBのメッセンジャーで、何日分かを纏めて送ってくる。

6月2日にはこんな絵が送られてきた。
確かに、ちょっと自信家で、『なんでもできる』と自慢するところは、
ちょっと、私に似てるのかも?
 

サッカーはキーパーをしてて、
まずまず『上手い』のだと思う。
 
キック』もなかなか感じが出ている。

  



 写真はないのだが、
 『キーパーのスローイング
 これが抜群にいい。 
 私は野球をやってたので、『スローイング』については解るのだが、
 あの大きいボールを一直線に遠くへ投げる『肩の強さ』は半端ではない。

 野球でもしピッチャーやってたら『剛速球投手』間違いなしだと思う。
 背も190㎝近くあるし、野球をやってた方がよかったかも知れない。


★ そんな末弟・門野哲也だが、
  幼稚園の頃にアメリカに渡ったこともあって、
  日本語に関しては『喋る』のは全く問題がないのだが、
  『読み書き』は、得意とは言い難い。


         『毎日てっちゃん』でもこんな風に描かれていた。


             

★私のブログは適当に長いのだが、
 それを毎回Facebook に転記するのだが、

 たまに、孫・門野哲也から『いいね』が届くのである。
 『ホントに最後まで、読めたのかな?』
 『読めない漢字がいっぱいあったのでは?』と思ったりするのだが、

 昨日のブログ『いい金曜日だった』に 『いいね』が届いたのである。

 その中にはこんな文章もあって、

・・・ざるそばに天婦羅も鰻どんぶりも付いて『600円』とは安い気もするが、8500円のゴルフ代が高いのか安いのかがよく解らない、料金制度なのである。それでも現役時代のゴルフ代と比べたら安くなったものである。』

 
こんな写真が付いてたので、
ひょっとしたら
ブログ』ではなく、この昼飯に『いいね』なのかも知れない。

 
 


結構よく食うが、
そんなに贅沢なものでもなく、
こんな日本の『うどん定食』みたいなのがお気に入りなのである。




 
アメリカでも 「食パン一斤しか」 などと言ってるようだが、
仮に2斤食っても、値段は知れている。



       




ただ、あまり食い過ぎると、
昔のてっちゃん』に逆戻りするのが心配である。


   


 間違いなく、体質的にはポッチャリ系「デブのはず」なのである。
 これは次男 門野真也も一緒だと思う。

     
  

 油断大敵!




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いい金曜日だった

2020-06-06 05:43:04 | 発想$感想

★ 昨日は318回も続いているという『川朗会』のゴルフコンペに入れて頂いて,

 今年初めてのゴルフを楽しんできた。
 
会長の大槻幸雄さんのご紹介で入会させて頂いたのだが、
川崎重工業のOB達で構成されていて、大槻さんは今年90歳になられたし、
昨日優勝された『岸田正昭』さんが昭和4年生まれの90歳なのである。

 優勝スピーチの岸田さんだが、とても90歳とは見えないお元気ぶりである。
   
   


この会員の中で、87歳の私は3番目の年長者なのである。

考えてみると『コロナの緊急事態宣』は解除されたし、兵庫県はこの1週間ほど新感染者は出ていないが、
高齢者は危ないというなら、『危ない人たち』のゴルフコンペなのである。

ただ、広々としたゴルフ場でのプレイだし『大丈夫だった』とは思うが、
ゴルフ場側はいろんなところに気を遣って、
ゴルフバックはお客が自分で移動だったし、風呂場もシャワーだけだった。

昼食や会食の場所も、充分間隔を取ったものになっていた。
そんな広々としたテーブルで、こんな昼食をとってきたのだが。
追加料金』が600円である。

  

 
ざるそばに天婦羅も鰻どんぶりも付いて『600円』とは安い気もするが、
8500円のゴルフ代が高いのか安いのかがよく解らない、料金制度なのである。

 それでも現役時代のゴルフ代と比べたら安くなったものである。

 それは兎も角、
 岸田さんも、大槻さんも川崎航空機工業入社で、
 単車事業の初期には、一番最初にヨーロッパや東南アジアを担当されたのが、
 岸田さんなのである。

 そんな私が入社当時からお世話になったお二人がおられたので、
 この『川朗会』には私は初参加だったのだが、
 非常に気楽に参加できてよかったなと思っている。



★この写真の向うの二つの山、雄岡山・雌岡山(おっこさん・めっこさん)は
神戸なのだが、その二つの山の手前にある『名門廣野ゴルフ倶楽部』も、
その前の団地が私の住んでる三木市緑が丘なのである。







そんなことで、私の家からは10分ほどの三木セブンハンドレッドCCだから、
昨日も、3時過ぎには家に戻っていた。

家に戻って、このところ習慣になっている『Fitbitの記録』を見ると、

歩数は15000歩、歩いた距離は10キロ、消費カロリーは2000kcalを突破、
これは『なかなかの記録』なのである。



   


一番、びっくりしたのは、『アクテイブ・タイム』が1時間を超えたことである。

Fitbitの記録は、 普通に歩いただけでは『アクテイブ・タイムは0』のはずだが、
ゴルフのどんな状態の時に『アクテイブ・タイム』に加算されたのだろう。

ただこの記録を見る限り、よく運動したといえるし、
如何に『ウロウロ』歩き回ったゴルフだったことの証明でもある。

これはINの17番のショートホールだが、
この辺りまでくると結構疲れていたが、
何とか大丈夫だったのは、毎朝のトレーニングが効いている。
 
   



★ 家に戻ってからも、更にちょっとだけだが『庭仕事』もした。

 『京鹿の子』の赤い花が咲きだした。
 
 一風変わった花で、いつも咲くのを楽しみにしている。
 この花を見ると、元気が出るから不思議である。


   
 

 
薔薇もいいが京鹿の子もあじさいもいい。
 



 こんな花を見て『ほっとしている


  

そしてこのブログを書き終わって、ちょうど夕方の今6時なのである。

コロナのことなど全く忘れてしまっていた、
いい金曜日だった』というのが感想なのである。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 10

2020-06-05 05:18:11 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『7万台への挑戦』の時代、
それは1988年10月からのスタートなのだが、
その実質的な1年目の1989年は、どんな年だったのか?

 『私の生き方、考え方&意見』として纏める10回目は、
 この時代の始まりである1989年の活動をご紹介してみよう。

これまで何回かの人事異動があって新しい仕事をやった経験があるのだが、
振り返って考えてみると
1年目が一番成果を上げている』と言えるのではないかと思う。

こ時代のスタートの1年目は、幸運もあったのだろうが素晴らしい成果だし、
何よりもスピード感を持って次々にどんどんやっているのである。


★ この時代までカワサキの二輪事業が経営的に危機的状況を迎えていたこともあって、
世界の各販売会社も『黒字経営』を第一目標にしていて、
国内販社も非常に地味な活動を続けてきたのだが、
漸くその危機的な経営状態から脱出して、
国内市場も『7万台を目標』にする積極経営を目指したのである。

 88年10月1日に就任してからの1年3ヶ月の活動が、
 このように纏められているのだが

   


より具体的に細部のご紹介をすると、
 
● 88年10月1日に就任して、
まず最初にやったのが国内市場での『レースの積極的な復活』を
かってのレースOBや現役レース関係者を集めて、
10月15日に宣言しているのである。

● 1月からの新規職制で、
『スポーツ推進部』を立ち上げ、
ユーザークラブKAZEが実質的にスタートを切ったのである。

●検討を続けてきた『ソフト会社ケイ・スポーツ・システム』は
2月22日に川崎重工業の経営会議で承認され、動き出すことになるのである。

● 非常にラッキーだったのは
3月4日にあった『鈴鹿2&4』のTTF1、750ccクラスで宗和が3位入賞を果たし、
チームグリーンも250・400のクラスに出場したのである。 

私や岩崎茂樹が来ているということで、
4輪の星野一義金子豊がカワサキのパドックに挨拶に来たりして、
周囲がびっくりしたりするのだが、なかなかいいスタートが切れたのである。
 
当時のMFJの常務理事は杉沼浩さんで特別に親しい間柄だったので、
鈴鹿の三原さんにも紹介してくれて、
三原さんとはそれ以降いろんな形で接触も出来たのである。


● 4月1日にはKSSが正式スタートを切り、
14日にはSPA直入の起工式、
4月24日には『ルマン24時間』で『宗和・多田・塚本』が見事3位入賞を果たすのである。

● 5月にはZEPHYRの発表があり、全頁のイメージ広告も掲載し、これ以降ZEPYYR が文字通りの『バックオーダー』が延々と続いて、グループ全体の経緯に大きな効果をもたらすのである。

不思議なご縁で今も密接に繋がっているRPMの村島ご兄弟とは5月11日に初めてお会いしたりしているのである。


● さらに7月23日の鈴鹿6時間耐久では、
北川・鶴田組が優勝、藤坂・林組が2位とワンツーフィニッシュで、
漸くチームグリーンの重本・野村体制が機能し始めるのである。
 
7月29日の4時間耐久ではビートの髙橋・和泉チーム優勝
8時間耐久では、宗和・多田、ロブ・マーロン組はダメだったが、
塚本・前田組が4位に入って、
この年の鈴鹿耐久シリーズは、カワサキが大活躍だったのである。

      
     
     


● こんな様変わりな、国内販売会社の状況であったので、
当時の川崎重工業の大庭浩社長は,
この年の初めの経営会議で認可した『ケイ・スポーツ・システム』や『ユーザークラブKAZE』・『SPA直入』などは、
古谷がやるならいいか』ぐらいでの許可だったのだと思うが、

この国内市場の状況を見て、
8月1日に川崎重工業の全役員、並びに関係会社社長会の70名を集めた席で、
国内状況の説明』をするように依頼があり、
遊び会社』『レース』『ユーザークラブKAZE』などなどおおよそ川崎重工業とは全く無縁のような話を1時間以上したのだが、
それが非常に好評だったのである。

       

 
当時通産省から天下りで来られた常務からは『川重に来て初めて感激した』などと言われたし、
ちょうどその頃、本社に異動してたた田崎雅元さんからは
何を喋ったのか?どこに行ってもカワ販の話で持ち切り』と
私に言ったりされていたのである。

話も兎も角、
内容・実績が伴っていたから、ホントにこの年は充実していたのである。


         



★この年の話題としてはジェットスキー新会社の話も、
12月末に発足した販売店の『新ARK契約』いずれもが、
日本では初めての出来事なのだが、またの機会に詳しくご紹介したいと思うが、

簡単に言うと、
ジェットスキーという遊びとレースをやる商品を販売するために、
従来の『ボート屋』さんではなく全く新しい販売網をゼロから立ち上げた話だし、

ARK とは Authorized & Reliable shop of Kawasaki なのだが、
 
その取引形態を日本の二輪業界の常識であった『委託制度』から
すべて『買い取り制度』とした、
これも日本で初めての制度だったのである。

そういう意味では、日本の流通業界で、カワサキは先頭を走っていたのである。

この1989年から1990年後半まで、
まさに日本の先頭を走り続けたカワサキだったのである。

30代の若い頃から、『世の中ではじめて』 ということばかりを
やり続けてきたので、この最後の期間も、
ずっと『新しい仕組み構築』が続いていくのである。

これが出来たのは、私もその旗は振ったが、
自由に動いてくれる、実力いっぱいの『好い仲間がいた』から
それが、実現していったのだと思う。





 
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いま思っていること  

2020-06-03 14:53:19 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★6月になった。
 
コロナの緊急事態宣言は解除になって、兵庫県ではもう何日も新感染者は出ていないのだが、
私自身の生活はこの3か月間全く変わっていない。

毎朝、三木総合防災公園に行って、
約1時間のスロー・ジョッギング、20分ほどの体幹トレーニングとその後50メートルダッシュをやって、ほぼ2時間公園で過ごしている。
午後は原則家にいて、人とも会わないようにしているし、
専ら庭仕事とパソコンの前にいると1日が過ぎる、そんな生活が続いている。




★ 今一番気になっているのは、『今年の梅雨はいつからか?』ということである。

 少なくとも6月10日までは晴れの日が続くようである。

  

 なぜ? と言われたら、
 雨が降ると、ずっと続いている『三木防災公園での運動』が出来なくなるので・・

 そんなの『休めばいいだけのこと』と思われるかも知れぬが、
 続いているものが途切れるのは嫌なのである。
 普通の方なら、あまり気にならぬことが無茶苦茶気になるのである。


 今のところこんな調子で、殆ど毎日『1万歩』をクリアできているので、
 是非、ずっと続けたいと思っているだけのことである。

  


 
 コロナが始まる2月末までは、
 三木市総合体育館のジムに3年間、殆ど毎日通っていたのだが、
 3月からジムは閉鎖されてしまって、
 三木総合防災公園に『場所替え』をしたのである。

 今週から、プールは再開したらしいが、ジムは未だだそうである。
 雨が降れば、体育館のジムに行けばいいのだが、いつジムは再開するのだろう。

 そんなことで、天気が気になっているのである。

    



★ 何でもやりかけると『ハマってしまって熱中する』のだが、
 ところが何かの拍子にコローっ『熱中する』ことが変わってしまうのである。
 
 3年間、続けていたジムも、『三木総合防災公園』に慣れてしまうと
 『こちらの方がいい』と思ってしまうようになるのである。
 
 
実は今週金曜日は、大槻幸雄さんに誘われての『今年初めてのゴルフ』だが、
今は全く練習もしない『お付き合いゴルフ』なのである。
そのゴルフも42歳から始めたころは無茶苦茶ハマってしまって、
オフィシャル10になるまでは一生懸命だったのである。
 
1989年の旧い日記を、今アップしている『7万台への挑戦』のブログのために調べていたら、
その年の10月17日にアメリカで百合草さんたちと回って、『35:40の75』で上がっているが、多分これがベストグロスである。
その月の播磨CCでは 『38:41:39』とワンハーフで2度30台が出てるから、結構頑張ってたのである。

今の方がスイングの理屈などはよく解っているのだが、
なかなか『90が切れない』のは、一生懸命になれないというよりは
『ゴルフに関心がない』からだと思う。


★話しは、三木総合防災公園に戻って、
コロナの対策で使えなかったこんな器具が昨日からまた使えるようになって、
体幹トレーニングやストレッチも大丈夫なので、
天気なら『ジムへ行く必要』がなくなっているのである。

     


然し梅雨になって、公園が使えなくなると、毎日やってることが『途切れる』ことは、
どうしてもいやだな』と思ってしまう性分なのである。

それまでには、多分ジムも再開するだろうから、そうなれば心配ないので、
6月10日ごろまでには再開しないかなと思っているのである。


それにしても、こんな結構ハードな運動の毎日、いつまで続くのだろう?

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 9

2020-06-03 05:28:25 | 私の生き方、考え方&意見

★ 7万台への挑戦に関する『私の生き方、考え方&意見』も 第9話になった。
 
  今回はユーザークラブKAZEについて。


    


1989年当時、ホンダさんのHARTをはじめユーザークラブが盛んであった。
 
私がカワサキオートバイ販売に異動した88年10月には,
カワサキにもKAZEというネーミングもユーザークラブも既にあって、
KGRC(カワサキ・グッド・ライダース・クラブ)を中心に
熱烈なカワサキファン約1000人ほどの規模だったのである。

11月には『KAZE ジムカーナ全国大会』などが開催されたりしていて、
全国のカワサキ親派の販売店が中心になって運営されていたのである。


★そんな状況の中で、
7万台という販売目標』を背負っての国内市場担当となったのだが、
7万台を実現するためには放っておいてもカワサキを買う『熱烈なファン』ではなく、
一般のより多くの人たちに働きかけることがMUSTで、

 KAZEのネーミング
 Kawasaki Amuzing Zone for Evrybody の頭文字をとったもので、
 
 この『Everybody』は私はなかなかいいと思って、
 ホントにそのようなファンクラブにすべきだと思ったのである。



★就任と同時に、『ソフト会社の設立』は私のアタマの中にあって、
このような『ユーザークラブ』はその核になるものだとは思っていたが、
その規模は1000人などと言うようなちっぽけなものではなくて、
少なくとも万単位のモノを狙うべしと思っていた。

そんなこともあったものだから、
まず最初にやったのは、
熱烈なカワサキ販売店の組織『KGRCを潰す』ことからスタートしたのである。

私自身は全国の理事を務める販売店各位とは従来から面識はあったのだが、
組織を潰す』のは意外に難しいので、いろいろ考えて、
その会議を有馬温泉の最高旅館と言われた『中の坊瑞苑』で開催したのである。
 
当時で一泊10万円近い値段だったが、それはめちゃくちゃ豪華だったのである。
そんな豪華なところに理事さんたちをご招待したのが効いたのか、
実質『解散会』ではあったのだが、
特に大きな問題もなく、『私に一任』を取り付けたのである。


★ 当時の各メーカーのユーザークラブは、
すべて年3000円の年会費を徴収していて、
最大と言われていたホンダのHART は『10万人の会員』と豪語していたのだが、
HART の10万人の会員は実存してはいない』というのが『私の仮』であった。

若し『10万人いたら』、 毎月1万人の満期退会があって、
毎月1万人を補充しない限り、『10万人を維持』することは出来ないので、
これは無理だと思ったのである。

そんなことから、ホンダを抜いて『トップのクラブ』にする可能性はあると思って、

カワサキとしては、
● 単なる担当者ではなくて、本格的に事業として対応する『ソフト会社の担当』とし
● 会員カードは単なる『カード』ではなく、JCBと組んだ本格的なものとする
こととして対応することとし

89年2月には『ソフト会社設立』が川重経営会議で承認され、
3月にはJCBの常務が来られて、正式に契約し、
4月1日にケイ・スポーツ・システムが正規にスタートして、
新しいコンセプト』の下に『ユーザークラブKAZE』がスタートしたのである。



特に『JCBと組んだ本格的なカード』としたのは、
JCBカード』にしておけば、1年の期限が来ても『止めにくいはず』だから
ホンダさんと太刀打ちできるという想いがあったのだが、
このコンセプトが想定以上に当たったのである。

初めてのカード』という人が殆どで、
JCBにとっては『まさに貴重』だったようなのである。
さらに本格的な『JCBカード』にしておけば『止めにくい』という仮説は、
実に『自動更新率95%』を誇ったので、
最初1000人からのスタートだったのだが、
最高55000人の実質会員を形成して、KSS経営を財務的にも支えたのである。

後日談だが、
鈴鹿のレース場などではカワサキのユーザーが圧倒的に多いものだから、
ホンダさんから『KAZE会員は何人いるのですか?』と聞かれて
55000人です』とお答えしたのだが
『ホンダさんは10万人』と言われてますが、とお聞きしたら、
あれはHARTに入会した『延べ人数』で現実にはそんなにおられなかったのである。

そういう意味では、私の『最初の仮説』は正しかったのである。


  



★その当時から約30年が経って、
いま二輪業界で現存するユーザークラブはKAZEだけである。
 
Kawasaki Amuzing Zone for Evrybody 

 for Everybody  だから、別にカワサキを持っていなくても大丈夫で、
 私は未だに『KAZEの現役会員』なのである。


いい仕組み』を創れば、いつまでも機能する。
30周年を迎えたKAZEなのだが、そのシステムは殆どが昔のままである。

コロナ新時代』を迎えて、世の中のシステムは、大きく変わろうといている。


 当時は、JJSBAのレースが最高に機能したのだが。
 そんな話もまたの機会に・・
 
 
 



★ もう一度、本当の意味での末端ユーザーや社会を見つめた
 新しい時代の新しい仕組みで対応したら、今の二輪業界の倍増など
 そんなにムツカシクはないのでは、などと思ったりする。

 世の中は『販売網』などではなくて、末端の社会と直結した『ネット社会』では?
 といつもそう思っている。

 KAZEの末端ユーザーこそ、本当に大事にすればいいと思っている。
 少なくとも、今そんな組織があるのは、カワサキだけなのだから・・・・・

 

  昨日だったか、こんなニュースが、
  無観客だがネットで繋いだ『競馬が人気』だそうである。


 


  新しい時代に、二輪の新しい売り方など出来ないものかな?
  私の周りには、店も、従業員もいなくても、
  オモシロい商売をされている方もいる。

  4輪と違って、二輪はなかなかいいユーザーがいっぱいだから、
  直接、繋ぐ発想が出来れば・・・ それは充分可能のように思うのだが。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月2日 あやめが咲いた

2020-06-02 10:56:23 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 『いずれ菖蒲か杜若 』 ムツカシイ字だが
  『いずれあやめかきつばた』と読むらしい。

 5月は『菖蒲の節句』というが、
 5月に咲いてるのは『杜若(かきつばた)』のように思う。

 
 これは5月12日に我が家の池に咲いた『杜若(かきつばた)』の花である・


  



 これは5月17日の写真だが、
 左の方が『杜若(かきつばた)』で、
 まだ右側の『菖蒲』は蕾だけである。

 



 6月2日、
 初めて一輪の 『あやめ』が咲いた。







  からーはまだ咲いてるが、
杜若(かきつばた)』の花はなくなった。
三つ揃って咲くことはないのかな?


 


 今からが 『菖蒲(あやめ)』 の季節なのである。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月初旬の三木総合防災公園

2020-06-02 05:41:43 | 発想$感想

★ もう6月になった。
 今年は3月から毎朝、三木総合防災公園を走っていたからか、
 今年ほど毎日の季節の移り変わりに気が付いた年はない。
 広い公園には、いろんな樹が植えられてるし、芝生に咲く草花もいろいろである。

 昨日は、ぐるーっと花が咲いてる辺りをスロー・ジョッギングしながら、
 写真を撮ってきた。

 その殆どの名前は定かではないが、こんな花が咲いていた。

 これはもう終わりに近いが、何故かコレ1本だけ、
 もう少し前は、もう少し綺麗だった。  桜に似た花弁である。
  
  


 
 この花は公園の至る所に植えてある。
 ちょうど今からの開花かな。
 
  
    



  こんな花壇もあちこちにあって、綺麗に咲いている。
 5月の初めには満開だった後ろのひらどの花はみんな落ちてしまった。

 


  芝生なのだが、一面にこれは背の高いたんぽぽ、
 5月の初めは背の低いたんぽぽだったのだが、
 これくらい揃うと、結構綺麗である。
  


 


 この両側の斜面は、こんな黄色いたんぽぽで、
 ついこの間まで覆われていたのに、
 公園の整備で、すべて綺麗に刈られてしまった。
 写真を撮っておけばよかった。

 


 ひらどに変わって、さつきが咲き出した。

 


 これもあちこちに植えられている。





 これも、もう終わりに近い。
 もう少し、見事だったのに・・・・


 


 これもあちこちに、植えられてる。
 こうしてみると、殆どの樹の名前が解らない。
 覚える気がないから、ダメなのだろう。





 こんな樹もあったが、花が咲くのだということ初めて気が付いた。






 これは雑草だと思うが、広い公園のここだけに観られたようである。


  



★ 6月中旬になったら、7月になったら、また様子が変わるのだろうか?

 少なくとも、3月からは季節と共にどんどん変わった。

 今頃になって、写真を撮っておけばよかったなどと思っている。
 梅に始まって、桜も、ひらども綺麗だった。
 三木総合防災公園の四季ということで記録でも残せばいいと思ったりいて、
 『来年からやろうか』と思ったが、どうなるか解らぬが、
 『6月からやってみよう』と思い立って、

 6月初旬の三木総合防災公園なのである。


 ぐるーっとひと廻り。
 約1時間掛った。
 スロー・ジョッギングした距離、約6キロ。
 いい運動になった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする