昨日の400km運転の翌日、早朝からの清掃ボランティア、
疲れが残っていますが、私の老人会からの参加は無いので、
役目がら参加。勝山地区老人会連合会の主催、
それでも、男女43名の参加にはびっくり、13日続きの雨無し、猛暑続きの最中、
参加者の人数を案じていましたが、
心ある人達のいる事感じました、
それでも各老人会の役員さんたちが大半。
この寺院、妙心寺派の「開善寺」。
「旧勝山藩主小笠原侯」が、美濃高須藩からの移封、1691年(江戸元禄4年7月入封)。
その時、家来として連れてきた僧侶と寺院建設。
以来8代小笠原侯までの菩提寺。
明治維新で様子が激変、
お守りする家来も居ない寺院となり、今日にいたっています。
160数家の家来(1僧と士族)が、家族ともども、入つてきた記録があります、
地方小藩の勝山藩、城もなく、大きな財産も無かったようです、
藩主の菩提寺さえ放置となっていいました。
ここへきて、あまりの荒廃さに、有志がお世話するようになりましたが
、個人では無理、「行政は、宗教法人に補助金は出せない」由、
今は、恐竜で知られる街になりましたが、観光施設も限られ、
ここまで続いた、殿様の菩提寺も、行政や観光協会の手入れが必要でしょう。
寺院建物は、屋内外共に「ほぼ荒寺」、建立後330年たった今では、
倒壊さえありそう。
立派に残る「山門と8代藩主の墓所は健在」。
今の内にの思いです。
(小笠原藩主家系はとざえ、元江戸家老300石子孫のY氏が檀家総代、
一般の武士の墓所は此処では持て無く、僅か3名の檀家、)。
この寺院清掃のお手伝いとの目的でのボランティア。
美しく?雑草等取り除き、境内は比較的きれいになりました
このお寺を知らない参加者もいて、いろいろな意味で、いい機会でありました。
花街の女郎衆もがお参りした
(美濃高須藩からの、160数家の家来として、私の妻家もその一家、藩主家はとざえ、
家臣たちも小藩では、「武士は食わねどつまようじ」の時代、
殿亡き後の寺院を持ちこ耐える有志も財政的に無く、
そうした甲斐しょも無かったのが、原因ではないのか)。
突然、申し訳ありません。
埼玉県本庄市開善寺 副住職の大野と申します。
旧勝山藩 藩主菩提寺「開善寺」清掃ボランティアの参加されたブログを拝見し、とても嬉しく感じました。本庄の地は戦国時代の終わりに小笠原信嶺公が徳川家康から領することを命じられ、菩提寺として創建されたのが開善寺です。勝山藩藩主の小笠原氏は信嶺公の子孫であり、深いご縁を感じております。お寺を地元の皆さまで守ろうと、また町おこしに活用されようとされている活動はとても勉強になります。
機会があれば、一度勝山への旅行とともに、勝山の改善時にお伺いしたいと思っております。その際はご連絡を差し上げて宜しいでしょうか?
皆さまの活動が実を結び、勝山藩菩提寺「開善寺」がよりよいかたちに発展していくことを、遠くからではありますが願い応援しております。
失礼致しました。
tarpin翁 様
突然、申し訳ありません。
埼玉県本庄市開善寺 副住職の大野と申します。
旧勝山藩 藩主菩提寺「開善寺」清掃ボランティアの参加されたブログを拝見し、とても嬉しく感じました。本庄の地は戦国時代の終わりに小笠原信嶺公が徳川家康から領することを命じられ、菩提寺として創建されたのが開善寺です。勝山藩藩主の小笠原氏は信嶺公の子孫であり、深いご縁を感じております。お寺を地元の皆さまで守ろうと、また町おこしに活用されようとされている活動はとても勉強になります。
機会があれば、一度勝山への旅行とともに、勝山の開善寺にお伺いしたいと思っております。その際はご連絡を差し上げて宜しいでしょうか?
皆さまの活動が実を結び、勝山藩菩提寺「開善寺」がよりよいかたちに発展していくことを、遠くからではありますが願い応援しております。
失礼致しました。
コメントありがとうございます、そして初めまして。
我が家も、小藩、士族の仲間として関心がありますが、現状はブログでご覧の通りです。藩主墓所と山門は立派なものがあります。
ご来勝の由、今、当地は新幹線が直接つながりましたことと、県立恐竜博物館は世界に冠たる施設としてにぎわっています。
私は力のない年よりですが、ご案内、関係者と受け入れ案内など可能です。またご連絡お待ちしています。連絡電話など後日tel申し上げます。