ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

四条畷市立歴史民俗資料館

2012-10-17 05:00:00 | 大阪にて

8時半ごろに四条畷駅に到着し、9時半の開館には1時間もあるので先に四条畷神社に行ったのですが、あれこれ見たり迷ったりしているうちに、歴史民俗資料館に着いたのは開館時間を5分ほどオーバーしてしまいました。なんと入場は無料、賃労働の収入が無い私にとっては嬉しい限りですが、電車賃の往復で1120円支払っています。目的の資料館の見学にお金が要らないのに、手段になる交通費にお金がかかるなんて本末転倒している気分になります。まぁ、他にも見物しているので1120円は安いと思っておくことにしましょう。

             

入場すると先客が二人、館長らしき人が二人を案内し、いろんな説明をしていました。もう少し待ってくれれば私も説明に加えてもらえたのに、独りで見て回るのは得策ではありません。おまけにそう広くも無いので館長や二人の見学者の質問などが耳に障り、気が散るのです。

             

讃良郡条里遺跡と呼んではいるものの、今回はこの辺りでは見られなかった弥生前期の水田跡が発掘されたことがメイン、条里制が敷かれた奈良時代とは1000年くらいの差があるので、条里遺跡と名付けるのは如何なものかと思ったりもするのです。前にも述べたように上町台地と生駒山系に挟まれた北河内一帯は太古から海であり、縄文早期~中期にかけては河内湾、縄文晩期~弥生中期は河内潟、弥生後期~古墳中期は河内湖と変化してきたことが明らかになっています。

当に弥生初期の稲作は目の前に河内潟があった時代であり、海へと幾筋もの川が流れ込んでいたのでしょう。当時の稲作は海抜1m以内の水準で行われ、人々は少しだけ高い所に住んでいたようです。

古墳時代に入ってからですが、海で繋がっていたのですからこの地に中国大陸から馬が輸入されたのも頷けますし、その馬を運搬した船の廃材を使って、井戸を作ったりもしていた跡がありました。馬を飼育するには多量の塩が要るらしく、製塩に使った土器が見つかっていることも海辺であった証です。

                       

資料館に入ってすぐに渡されたパンフレット、写真をふんだんに使った上質の紙で30ページもあり、資料代としても何らかの金額を請求されそうですが、市立の資料館ですからその公共性を如何なく発揮していると思いますね。発掘順とすれば逆なのでしょうが、弥生前期から室町時代の発掘物を紹介してあり、なかなか貴重な一冊です。

             

おまけに海獣葡萄鏡のレプリカまでくれました。オリンピックの銅メダルではありませんよ、発掘時に出た粘土で作ってありますから、鏡としては使用できるものではありません。

私は四条畷市民ではありませんが、明治22年の町村制のより、南野・中野・岡山・砂・清瀧・逢坂・蔀屋の7ヶ村を甲可郷の名から甲可村に、明治29年には北河内郡甲可村に、昭和7年に高名になった四条畷神社の名を取って四条畷村に改称、36年に現在長男が住んでいる田原村を合併し、45年に市制が敷かれたことに興味が惹かれます。明治の話とは言え、甲可村などという村があったことなど知りませんし、今はその名跡すらありません。

             

イオンが出店するのを契機としてこの遺跡を再調査したようなのですが、金の亡者如きに土地を提供することなく、貴重な遺跡を是非保存しておいてほしいものです。独占資本主義型再開発と歴史の保存は相容れないものなのかも知れません。

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歴史民俗資料館への道

2012-10-16 05:00:00 | 大阪にて

昨日四条畷神社の記事を書いたので順序が逆なのかも知れませんが、道の途中で少々気になったものがあったので、綴っておくことにします。7時半ごろに地下鉄に乗り、西梅田で降りて、北新地からJR東西線に乗りました。ここまでのコースは時間こそ違え尼崎へ通勤していた頃と同じですが、電車の行き先が反対方向、通常返ってくるのに使っていた松井山手行きとか木津行きとかの電車に乗ります。四条畷から通勤していた私の隣席だったK山君は帰宅時いつも最後尾の車両に乗っていたので、私も後ろの方に乗りました。

                       

K山君が最後尾に乗っていたので出口はそちらに近いと思いきや、出口への階段は真ん中付近にあり、勝手な思い込みですがまんまと騙されてしまった結果となってしまいました。着いたのが8時半ごろ、歴史民俗資料館への道はホームページに載ってあったので印刷をして持って行きましたが、先に四条畷神社へ行ったので案内された地図とは違った道を辿ることになったのです。駅を降りて進行方向に沿って歩き、次の曲がり角で商店街のある道を右折します。狭い道なのにバスがひっきりなしに通ります。歩いていてびっくりしたのが町名、楠公となっています。楠木正成が大楠公、正行が小楠公と呼ばれていますが、正成を祀ったのが神戸の湊川神社です。でも湊川神社界隈には楠公と関わりのある地名はありません、きっと神戸は楠木一族より平家一族の方が好きなのかも知れません。

             

四条畷神社の二の鳥居付近から西の方の眺め、要するに駅から歩いてきた道です。少しづつですが登ってきているのです。

             

お地蔵さんが三体並んでいますが、顔があるのは左側のものだけ。前述のK山君の家はどの辺りかと思うのですが、探し回ってみるほどのことでも無く、表札があったらここかな?と思うけど、そのような名前の家はこの往来にはありませんでした。9時を回ったらK山君に電話したろかと思ったけど、何とこの日、スマホを忘れてきてしまったのでした。

             

陽に当たると暑いので、影のある方を歩いていたのですが、対面に金の鯱がある大きな家があり、その仰々しさに唖然とします。所謂、成金主義とも思える一軒です。隣の西洋風の家も同じ方のもののようでした。

             

怪しい広告、居酒屋兆治って何処かで聞いたような名前ですが、居酒屋なのに駐車場があるとは・・・法律からすると言語道断、居酒屋はお酒を飲む処ですから駐車場を設けること自体が飲酒運転の奨励です。警察がこの駐車場で見張っていたら、毎晩飲酒運転を検挙できますよ。でも居酒屋兆治なるお店、何処にあるのか判りませんでした。

             

これが一の鳥居、明治23年12月と刻まれていますから四条畷神社と同時の建立です。この鳥居の前の国道163号線に通じる道(東高野街道)で右折すると歴史民俗資料館に行けると思っていました。

             

そして道に沿ってどんどん北へと歩いていくと、歴史民俗資料館の案内板がありましたが、これでは引き返さなければなりません。こんな案内板を出すくらいなら、曲がり角の信号のところに出しておかなアカンと思いませんか。私の見落としかと思ってその信号周辺を探しましたが、そのような案内板はありません。しかもこの案内板では“手前の信号を左折”とありますが、ここから振り向いて引き返すと右折しなければならないのですよ。100mほど手前の信号の前からこの小さな案内板の存在、しかも文字など読めるわけはありません、だから左折とあるのは間違いでしょう。

             

案内板を見て引き返さなければなりませんが、前方左に何か祠らしきものが見えていたのでチョット寄り道、でも鳥居に『道祖神』と書いてあるだけの祠でした。

             

信号を右折して100mほど歩くと、今度は歴史民俗資料館を矢印で表示しています。これなら判り易い、案内板はこうあるべきでしょう。

最初のJR四条畷駅、四条畷となっていますが、地図を見ると実は大東市にあるのでした。

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四条畷神社

2012-10-15 05:00:00 | 大阪にて

串本から大阪へ帰り、書くような記事も無くなってきたので、新聞を読んでいたら四条畷市と寝屋川市に亘る地域で、弥生時代初期の水田跡が見つかったという讃良郡条里遺跡の発掘調査の概要を展示するという催しが四条畷市立歴史民俗資料館で公開されるのを知り、初日の10月10日に行ってみることにしました。

先ずはJR四条畷駅から歩き始め、途中の四条畷神社へ行ってみることに、この神社は太融寺で観た『なにわ七幸めぐり』の中の一つで、別に御利益など期待するわけではありませんが、一度は訪れようと思っていたのでした。仕事中に行ければ申し分なかったのですが、この方面に仕事などある筈も無く、長男が四条畷市内に住んでいますが、山を一つ越えなければならず、しかも四条畷神社へ訪れようとすると国道163号線から南へ入る駅方面への道が滅法狭いので、長男の家を訪れても四条畷神社を訪れることは一度もありませんでした。

             

その道が狭いと知ってるのは、一度はその道を通ったことがあるということなのですが、四条畷神社へ行くにも駐車場などの心配もあり、素通りだったのです。駅から1kmほど歩いて神社に到着、9時前だったので社務所も開いてなく、平日でもあったので閑散としています。

             

未だ半袖Tシャツにハーフパンツで過ごす毎日ですが、この頃は朝夕がめっきり涼しく、出かけるにあたっては綿の長ズボンに淡いTシャツの上から半袖シャツを羽織って出かけました(足許は靴は未だ早いと思い、素足にサンダルのまま)。山裾なので朝日も当たらず、凛とした空気が漂い、坂道を登ってきて汗をかいているのに快い面持です。

この鳥居は『神明鳥居』と言い、鎮座百年に当たり平成二年に伊勢神宮より拝受したものだそうです。

             

平成2年が鎮座して100年目ですから、歴史は浅く明治23年の創建です。楠木正成が明治になって神格化されたのを契機に、嫡男・正行も追って追認されたような形で、戦死したと言われる四条畷にこの神社を建てたのですね。明治政府もまことに小賢しいことをするものです。

             

しかし、正行一行が高師直の大軍と戦ったのは、この飯盛山の西の麓・四条畷市と大東市の付近だという説と、東大阪市の瓢箪山駅近くにある四条地域だという二つの説があり、知人は多くいるものの、北河内(門真・守口・寝屋川・大東・四条畷・旧枚岡等)の地理には疎い私にはよく理解できません。

             

因みにここが古戦場であったという碑はありませんでした。

拝殿の横にあるこの御妣神社は正行の母・久子を祀ったもの。沢山の酒樽が並べられていますが、楠木正成の奥さんは酒飲みだったのでしょうか。酒樽の銘柄は長龍、下段の白い樽は長龍の太平記という銘柄のようです。

             

桜井の別れと言われる故事、父親・正成の「父の教えを守って、正統の天皇に仕えるよう」と諭されている場面、正行は11歳だったと言いますが、年齢が合わないので作り話だという説もあるのです。忠孝両全とは忠も孝も両方とも完全であれという意味。日本国の南北朝時代と言うのは大覚寺統と持明院統がそれぞれ正統であることを主張、正成の言う正統と言うのは後醍醐の派閥である大覚寺統であり、両統迭立に反した考え方です。だいたいこんな曖昧なことをしでかしていた天皇家は本当に万世一系の皇統などと言えるのか、神話の世界から始まるという曖昧な皇統、おそらくは5~6世紀に渡来系の人が多くの豪族を統率したのが始まりなのでしょうが、渡来系の人が以前から居た豪族を従えて天皇になったとしたら、万世一系の天皇は日本人じゃないということになります(日本も天皇も天武以降の言葉ですが)。

                       

この神社では百度石にまで菊水の家紋が描かれていました。何処の寺社へ行っても家紋の描かれた百度石なんか見たことがありません。

             

大橋房太郎なんて人は知りませんが、何故かこの神社の境内に名を付した碑がありました。調べてみると東成郡榎本村出身ですから、現在の鶴見区放出の庄屋の出です。淀川の大洪水によって惨憺たる故郷を見たこの人は、淀川治水に一生を捧げたとありますが、この神社にはあまり関係無さそうです。

             

境内からの西側の眺め、門真市や守口市、その西の旭区、大きな煙突が見えているので大阪北港辺りまでも見通せているのでしょうか。大昔は見渡している地域は湖だったとか。

                       

この神社は飯盛山の北端に位置し、駅から徐々に山を登っているのが分かるのですが、二の鳥居からは急な階段になっています。紀三井寺神倉神社などとは比べ物にはなりませんが、登ると結構汗をかく階段です。

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非業の生者たち

2012-10-12 05:00:00 | 読書

タイトルは『非業の生者たち』、“非業の生”などとはあまり用いられない言葉です。普通使われる“非業の死”という言葉とは全く逆な用い方なのです。しかし、非業の意味“前世の業因によらないこと”或いは“前世の善因を受けないこと”或いは“運に恵まれないでみじめなこと”から察すると、そういう境遇を経て生きている人も存在することは可能です。

著者は37年前から沖縄において集団自決についての取材を始め、沖縄以前に集団自決が行われたサイパン、グアム、テニアン、フィリピンそして戦争が終結したはずの満州まで足を運びます。取材したサイパンから沖縄までは日本陸海軍が連合国に連敗して敗退していく過程であり、集団自決を決行のは軍人ではなく、民間人だったのでした。そして敗戦のどさくさに相互不可侵条約を破って侵攻したソ連軍から逃げる“軍から置き去りにされた”民間人、満州には葛根廟というところがあったんですね。聞いたことが無かったけど、残された民間人は軍や官僚が乗った汽車には乗れず、歩いて(紆余曲折はあったものの)4km進むのに要した時間で、列車に乗った特定の貴人たちは120kmも彼方に逃げてしまっていたのです。

             

この本のテーマ“集団自決”については詳しい著述がそこいら中に散見されますが、かいつまんで書きますと、明治以来、天皇を押し戴いて教育された『修身教育』『教育勅語』『軍人勅諭』『戦陣訓』等の賜物であり、例えば1878年に陸軍卿山縣有朋が達示した『軍人訓戒』“・・・不忠ト卑怯トノ汚名ヲ以テ祖先ノ遺物ニ傷クルコトナカラン・・・”、翌79年天皇が公教育に対する介入の初めとなった『教学聖旨』、日清戦争時に同じ山縣が訓示した「万一、如何なる非常の難戦に係るも、決して敵の生擒(いけどり)する所となる可からず、寧ろ潔く一死を遂げ、以って日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うすべし」、つまり「死は鴻毛より軽しと覚悟せよ」なのです。山縣が目指した日本人の死生観作り(つまり国民作り)を基とした政策が、65年間親子三代に亘って押し付けられていたのです。他方、これは軍によるプロパガンダ『鬼畜米英』に顕れているのですが、生きて捕虜になれば女は強姦された上で殺され、男は2台の戦車に足を縛られそれぞれ逆方向に走り股裂きにされる(自軍が朝鮮半島や中国で行った蛮行そのもの)などというデマ宣伝と結びついて、アジア太平洋戦争での集団自決に繋がっていったのです。日本帝国の軍隊が犯した他国での蛮行をあたかも連合国の軍隊もそうであるかの宣伝をするのは、敵もまた我等と同じと見ていたのか、それとも単に集団自決の為のデマを飛ばしただけなのか、その辺りのことは著述されていません。

集団自決とは自ら命を絶っているようにも見えますが、実は国家からの強要だったのです。戦争に至るにあたっては治安維持法が施行され、様々な思想が弾圧されました。しかしここでもあまりにも自由な教育を奪われて無教養だったとは言え『だまされることの責任』があったことには違いないと思うのです。

             

本書の裏表紙の返りにあった褒賞状の写し、この受賞者の知花幸子の名はチビチリガマで亡くなった家族の表の中にしか出てきませんが、当時25歳というこれからの人生を終わらせた(終わらせられた)故人への褒賞など何になるというのでしょう。これでは戦前教育への逆戻りであり、天皇への忠誠こそが立派だと未だに示していることになってしまいます。佐藤栄作はこういう璽を押させるという行為でノーベル平和賞を受賞出来たんではないでしょうね。

                       

並行して読んでいたのがこの本、タイトルは『良心と義務』となっていて、主に教育現場における“日の丸”“君が代”問題を追っています。“日の丸・君が代”と言えば大阪府知事時代の橋下君を思い出しますが、教育委員会に難問を押し付け、気に入らない教育委員は首を挿げ替えたことを思い出し、先ほどの政治権力が公教育に介入する明治時代の暗澹たる惨状を思い起こさせるのです。

全くの偶然ですが、先の『非業の生者たち』の中に登場する知花昌一という人も登場します。名前は忘れていてもこの人に係る事件は忘れていない人も多くいると思います。それは87年の沖縄国体の読谷村のソフトボール会場での出来事、センターポールに掲げられた日章旗を引き摺り下ろして焼いたのがこの知花さんでした。沖縄の人々にとっては、日本国の琉球王国侵略の象徴としての日の丸、そして本土の防波堤とされ、多くの沖縄の人々を死に追いやった天皇や軍部を許すことが出来なかったのでしょう。知花さんはその後、三期にわたって村議を務められていたのでした。

                       

国民主権が宣言されて久しい現在、「“君”が天皇を指し、その世が永遠に続くよう」にと願う歌を国歌と定めることとは矛盾すると、真摯になって考える人は多数いると思います。法律で国歌と規定されていますから国民としては認めざるを得ないのですが、認めることと歌うことは別問題、当に良心と表現の自由に関する問題であって、決して誰かの命令で強要などしてはならないものなのでしょう。起立・斉唱しない者には処分するなど、自由・人権を踏み躙った治安維持法を彷彿させると私は思うのです。全国維新の会が政権を取り、代表が総理大臣になれば(その頃には私は生きてはいないでしょうが)、先の山縣有朋の再来と言っていいのではないかと危惧するのです。現の大阪市長は言います、「従軍慰安婦を強制連行したという証拠は無いのだから、謝罪など必要ない」と。きっと集団自決に関しても「自決を強要した証拠など無いから、そんなものは国の責任ではない」んだと。経験してきた人々の切実な声は信用ならないらしい。

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10/3の釣果

2012-10-11 05:00:00 | 田舎

雲一つなく晴れ上がった水曜日、前日と同じ9時ごろに大島港に行ってみると、4人の先客がいました。前日の人たち二人に加えて、カゴを付けて放り込んでいる人が絶好のポイントにいて辺り構わず大きな声で喋っています。アジ釣りなら先端に行けよなと思っていたら、そうではなくグレ釣りのようでした。カゴを付けているのに投げ入れるポイントはウキ釣りの人と同じ辺り、カゴを付けたならもっと遠投できるやろ?カゴを付けてる意味が私には解りません。

             

この日は空もでしたが、海も濁りが無く透明感いっぱい、釣りにくいだろうなとは思っていました。案の定、先客に釣果は無さそうでした。ただ先の方で釣っているアジ釣りの人にはポツポツとアタリがあり、時折シマアジの塩焼きサイズが釣れていました。

先客が3人居たので私の釣り座は波止場の中央付近、ここでは芳しくないだろうと思っていたら、波止の一番内側で釣っていた人が帰ったので、私の隣にいた人(前日私と最後まで釣っていた人)がそちらへ移動、私はその人の釣り座へ移動することが出来ました。ここは前日に釣りをしていた場所でした。釣りを始めて1時間ぐらいでグレのアタリ、よく引きましたが、姿を確認して抜き上げました。25cmあるか無しかのサイズ、今日は大物は期待出来そうにも無いので、スカリには入れず、隣のよく喋るオッチャンが「エエサイズや」と言うので、要らんかったら海へ戻そうと思いながら「要るならあげよか」と聞いたら、ホンマかいなと喜んで受け取っていました。

             

波止の内側、根元の辺りで戯れるアオリイカの赤ちゃん、エギングの人も時々現れましたが、こんなサイズがエギを追いかける筈も無く、ましてや釣り人もこんな小さな赤ちゃんイカを欲しいとは思わないことでしょうから、すぐに帰って行きます。

             

いやはや、この日はグレが来たと思ったら、こんなサイズばかりです。後はピョコンとウキが入ったと思ったらすぐに浮き上がってくるようなアタリばかり、このアタリは合わせられないのですぐに糸を張って次のアタリに備えますが、なかなか針には乗りません。この日の潮流は左から右(大島から串本方面)にばかり流れ、いつもは一定の時間で反対にも流れるのですが、どうもこの日は一定の方向にしか流れません。しかもゆっくりですが徐々に手前に押してくるので、ずっと糸を張っておくことが困難でした。

             

こんなサイズになるとサギのお腹にでもと思うのですが、このグレは幸運にもサギの口に入ることはなく、海に戻っていけました。この時サギは波止場に飛んできてなかったのです。

             

昼食後、木っ端グレを釣って遊んでいたのですが、久々に違う魚に出逢いました。マダイですが、掌サイズです。放流サイズですが、この時はサギが近くにいたのでこのタイをどうするだろうと思って投げてやると、素早く嘴に咥えましたが飲み込もうとしません。タイの背ビレや骨が硬いので、飲み込むのを躊躇したのかも知れません。暫らく考えていたように見えたサギはタイを咥えたまま停泊している船に飛んで行ってしまい、見えなくなりました。なのでタイを飲み込んだのかどうか確認していません。食べないなら海に帰してあげたのに・・・

             

このタイを釣っていたころ、なんと波止場にはスカート姿の女性がジギングを始めていました。そしてアジ釣りの老夫婦もやってきました。

             

それまでは2号の竿で釣っていましたが、大物も姿を見せないし、リールに巻いた道糸に付けたウキ止めにトラブルが頻発するので、ウキ止めを外そうと切っていたら道糸を切ってしまったので、竿もリールも交換することにしました。5月の時に使用した1号の竿とリールです。

3時ごろになってグレ釣りの人はみんな帰ったので、釣り易いポイントへと移動、その数分後に大きく沈むアタリが出て、合わせるとこのシマアジでした。グレのような強い引き・重量感はありませんが、強い力であっちこっちへと泳ぎ回り、抵抗します。1号の竿では結構竿が曲がるのです。今日は魚は持って帰らんと思っていたので、これはアジ釣りの老夫婦に貰っていただきました。

             

撒き餌も無くなったのでこれで釣りは終了、シマアジを掛けた時に車で通りかかり見ていた人が釣りを始められたので、場所を譲って交代です。大裕丸の兄ちゃんが船から戻ってきたので、次回の釣行用に撒き餌を二袋購入、常時居るわけではないので先に買っておかないと、次来た時に釣りが出来ない恐れがあるのです。串本のAコープの近くのエサ屋・三平でも売ってるけど、500円では1日の撒き餌には不足です。大裕丸の撒き餌なら500円分もあれば一日使っても余りそうな位の量があるのです。

             

さて、木曜日は朝から使った釣り道具を洗い、ついでに使ってなかった釣り道具も少々カビていたので洗って、半日以上は干しておきました。この時はたぶんメダカも居たと思うのですが、翌金曜日は朝から洗濯をして乾いてから大阪に帰ろうと思っていたのです。洗濯の度にこの睡蓮鉢の横を通るのですが、日曜の台風で満杯になった水がたったの四日間で随分減ったような感じ、横を通る度に泳ぐ姿を見せるメダカがこの日は現れてきません。洗濯を始めたのが7時前ですから、未だ朝が早いからかと思いつつ、9時ごろにエサをやったのですが、一向に浮いて来ないのです。帰る間際になってもエサは減ってない様子、急に気温が下がったわけでもないのに不思議に思っているのですが、コンコンと足で鉢を蹴ってもビックリして姿を現す様子もありません。とうとうメダカを確認しないまま帰ってきましたが、どうなったのか心配をしています。

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10/2の釣果

2012-10-10 05:00:00 | 田舎

台風17号が猛威を奮ったのが30日の日曜日、幸いにも昨年の12号台風のように雨は多く降らなかったので、去年のような被害は出ませんでした。翌日は波が高いので釣りは遠慮しておいたのですが、火曜日はそろそろエエかと思い大島港へ9時ごろに着くように行ってきました。

             

波止場には先客が3人、釣りがし易い少し高くなった所に2人でグレ釣りをしていました。先端部ではアジ釣りの人がいましたが、今年は去年ほどアジは釣れてないらしく、去年のような賑わいはありません。

暫く釣りをしている人の様子を見ていましたが、スカリは入っているものの、見ている限りあまり釣れてはいません。まぁ来たからには釣りをしようと10時ごろから釣りを始めました。

             

チョコチョコと釣れはしますが、キープサイズではありません。スカリについている黒いウキが16cm、釣り用の赤・黄・青の棒ウキが26cmです。釣れたものがこのウキと比べてどれ位か見当をつけてください。

             

エサ取りのアジが居ないせいか、去年のようなヒョコヒョコとしたアタリはありませんが、大きくヒョコっと沈んですぐに浮いてくるようなアタリが多い、これでは合わすことが出来ません。

             

釣れるものがみんな小さいのでちょっと休憩、11時半に車へ戻って弁当を食べました。

サギでも足を折りたたんで休憩するんですね。私はサギはずっと立っているものだと思っていました。

                       

このサギは去年のサギとは違う奴のようです。観察力が凄く、竿を煽っても飛んできませんが、魚をかけてやり取りしていると(魚を)貰えるものと思ってか、飛んできます。

             

12時半を少し回った頃、やっとタモが必要なサイズが・・・28cmぐらいでしたか。

             

そしてすぐ後、アタリが無いのでウキを上げようとしたその時、何かがかかっていてかなりの引きでした。海面下では白っぽくやけに引っ張りまわすので、何かと思ったらシマアジの青年期のもの、25cmぐらいでしょうか。2号の竿を使っていたのでやり取りはさほどしんどくはありませんでした。

             

そして1時を回って、またサイズが小さくなってしまいました。

             

2時を回った時に30mぐらい沖で小さいアタリを捉えると強引な引き、こいつはデカイと思い竿を立てて耐えますが、ゴンゴンと頭を振ったような感じが伝わって、これはグレと違うと思ったのですが、それっきり動かなくなってしまいました。どうやら根に入られたようで、ゴンゴンとした手応えは岩の間へ入った時のものだったのかも知れません。

竿1本分、5mぐらい先でウキが沈んだまま、この写真の中央部に沈んでボォっと見える赤いものがウキ、1時間ぐらいは出てくるのを待ち続けました。

             

3時を回って隣で釣っていた人も片づけ始めたので、私もそろそろ終了にしましょうと、竿を煽ったら魚が抵抗したとなれば良かったのですが、ウントモスントモ動きません。仕方なく仕掛けを切りましたが、オモリの下のハリスが切れたので、仕掛けは明日も使えると胸を撫で下ろしたのでした。

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潮岬の戦争遺跡

2012-10-09 05:00:00 | 田舎

台風一過の月曜日、天気予報では曇りでしたが、朝からいい天気、釣りは未だ早いかと思い昼食を済ませた後、再度潮岬の戦跡を見に出かけました。B29の墜落現場の場所も凡そ分かっていたので、そこを訪れてみたわけです。

車を道路に停めるのもイヤなので、200mほど手前の潮岬青少年の家の入口付近に停めて、少し歩きました。

             

見えているのは黒潮大橋という小さな橋、15年ほど前に自転車でやってきた時、この橋の上を通って展望の素晴らしさに感動したものですが、今は潮岬の高台へ上がってゆく坂は、とてもじゃないけど自転車では登れない歳になってしまいました。

                       

その橋の袂に案内柱は立っていました。草で覆われていて下の方の文字は読めません。鎌でもあれば草を刈ってあげるのですが、あいにくそのようなものは持っていません。せっかくですから、これを立てた串本町教育委員会は責任を持って草刈りをして欲しいものです。

             

B29が墜落したのは、日本軍の砲撃によるものではなく、味方同士の接触事故のようですが、昭和20年6月とあり終戦の2ヶ月前のこと、軍はもう負けるのが目に見えているのに、本土決戦、一人残らず玉砕するまで戦うと息巻いていたのはこの頃だったのですね。

しかしこの場所は気が付き難い。出雲から来る車は殆ど気が付かないでしょうし、岬から来る車は潮騒の森の看板に気を取られるでしょう。電柱の左に見える白い案内柱がそれです。

             

橋には飛び降りられないよう(?)にフェンスがし張ってあります。その隙間からの光景、前日に台風が通過したところなので、未だ波は高いようです。少し右手の大きな磯には昔上がったことがあるような気がします。

             

車を停めた青少年の家、和歌山県立とあります。

             

『青少年の家』なのに、中でゲートボールを楽しんでいるのは昔青少年だった人々ばかり、今は完全に青少年ではありません。土地の有効利用だとか、心が青少年でありば良いのだと言えば聞こえがいいのですが、こんなことで良いのですかね。ズバリ『老壮年の家』に変えてはどうですか。

             

これがCさんに貰った串本の戦跡のコピー、バッグに入れて持ち歩いているのでクシャクシャになってきてしまいました。

                       

見つけたいのはこの海軍望楼跡、望楼の芝にあると書いていますが、見たことがあるような気はするのですが、どうにも見つけられません。

             

先日の海軍特設見張所跡の案内柱より陸側と書いてあったのですが、あるのは行幸記念碑。

             

そして山口誓子の句碑があるばかり。

             

芝の中央には、燈臺局・・と書かれた碑。

             

これは何でしょう?この丸いものを台座にして、8本の鉄柱に何かを嵌め込んで、上部は横に回転できるようになっていた・・・などと考えると機銃を備えていた台座だとも考えられます。

             

西の端から見ているのですが、海軍望楼跡のようなものは見当たりません。

             

この日の夜の月、台風当日が仲秋の名月だったようですが、一日後になります。夕方の月は大きくて何やら模様も見えていましたが、電車に乗っていたので写真は撮れませんでした。8時半ごろにはもう小さくなってしまっていました。

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地蔵屋のパン

2012-10-05 05:00:00 | 田舎

最近、ハマってしまっている食パンがあります。地蔵屋という無名(今ではチョット有名)の街の小さなパン屋さん、店はJRの六甲道駅の近くにあるので、神戸で働いていた頃なら定期券を持っているのでいつでも行けたし、尼崎のセンターでも灘区の方面に行くことがあれば帰りに買ってこれたのですが、このパンを知ったのが最近のこと、三男が何処で知ったのか買ってきたので私も知ったのです。

駅からおそらく5分ぐらいのところにあると思うので、六甲道周辺の街には随分と通ったので、きっとこの店の前を通ったことがあると思います。でも当時はこんなパンがあるとは知りませんでした。

             

家から地下鉄で梅田まで270円、大阪駅から六甲道まで390円、往復で1320円も出して買いに行くわけにはいきません。しかも往復で乗り換えなど含めたら2時間近くかかってしまいます。時間もお金も勿体ない、車で行くなどとんでもありません、高速代だけでも往復1800円かかってしまいます。

なかなか神戸方面へ行くような用事も出来ませんし、なかなか買えんなぁと思っていて、地蔵屋のホームページを検索していたら、楽天でネット通販が出来るようになっていました。これなら送料が640円で済みますし、余計な時間も要りません。ただ到着の時間に家におらねばならないのが唯一の欠点でしょうか。

             

一つが一斤半ぐらい、一つ570円と高価ですが、この食パンを食べたら、PASCOやヤマサキやフジパンなどスーパーで売っているパンは買う気になりません。生地がしっとりとしていて、砂糖の甘味ではない甘味が感じられ、バターやマーガリンを塗るだけで美味しく食べられます。

グーテのチーズを練り込んだ食パンも美味しいと思っていますが、最近は難波に行くのも面倒臭いグータラになり下がっていて、通販なら待ってるだけでいいので楽なのです。

             

このパン屋、結構人気があるようで、最初に注文した時は注文した日より数日後にならないと発送出来ませんでした。今回串本に来るにあたっても注文したのですが、ラッキーなことに9月26日に注文、発送出来たのが私が大阪を発った翌27日、到着が28日の午前中ですから、これなら釣りに来るY下君にも食べさせてあげれると思っていたのですが、台風の影響でY下君は来ることが出来なかったのでした。

             

地蔵屋の焼印も美味しそうですが、時々パンの耳は切ってしまって食べない人を見かけますが、このパンは耳までも柔らかく、違和感無く食べることが出来ます。

私は食べる前に切ってから食べるのが水分が抜けないので良いと思っているのですが、先に全部切ってしまって、一つづつ丁寧にラップして冷凍すると長持ちするようです。でも私はそれが面倒臭いのです。ずっと置いておいてもカビが来ないパンなど何が入っているか分かりませんが、5日間ぐらいで食べきってしまえば、何ともないようでした。

             

焼き上がった様子、焦げてしまっているのはおそらく家のトースターが悪いのでしょう。

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萩尾港

2012-10-04 05:00:00 | 田舎

潮岬の望楼の芝の戦争遺跡を探しに行った日、その手前の浪の浦にある萩尾港の工事が終わっているのに気が付きました。春に潮岬を訪れた時は港の入口に高く積まれた土を見て、何か工事をやっているなと思ったのでしたが、別段興味も無く、わざわざ入って行くことはありませんでした。

             

元々、この萩尾の浜中渡船を利用したことはなく、一度は『潮岬の漁港巡り』というタイトルで紹介はしていますが、港内には入っていませんでした。この港に立ち入ったことは一度ぐらいはあると思うのですが、どんな形だったのか思い出せません。ここは新しく出来た波止場なのでしょう、ゴミ一つ落ちていません。

             

釣りをしている人は数人いますが、台風が来ると言うので船は一艘も係留されていません。こちらは奥側にあたり、古い波止場のようです。ただ新しく付け足したような箇所も見受けられます。

奥に見えている一段高くなった波止、テトラが外側にも内側にも入っていますが、外は見れないので分かりませんが、内側は深そうで大物が居そうな感じです。今回は上がってないので確かめていませんが、足場が高いのでタモが届くかどうか。

             

古い方の波止をぐるっと回って、低い波止場の先端部分です。元あった岩場の上に作られているのが分かります。

赤灯と白灯の間が狭く、これでは少し大きな漁船なら通るのに窮屈です。なので新しい波止場を建設したのでしょう。でもこの辺りには民家が殆ど見られません。
             
             

外側の岩場部分、ここに来る手前に大阪ナンバーのプリウスが停まっていて、片づけをしていたので「釣れました?」と聞くとたいがいが一応「アカンかった」と答えるのですが、その人は確かに一応はそう言ったものの、嬉しそうに釣果を見せてくれましたが、1番大きいので20cmぐらいのグレでした。この場所で釣ったそうです。

             

戻ってきて波止の付け根から外洋を見てみますが、外側も岩場でずっと浅いようです。

             

この日は行った頃が満潮だったと思うので、干潮になればもっと奥まで歩いていけるのかも知れません。

             

潮岬の外周道路・県道41号線からの眺めです。私のデジカメでは港の全貌を一望することはできません。

             

Googleの航空写真で見ると右側手前の波止場は無く、浅くてだだっ広い湾になっていました。

             

かなり広範囲に埋め立て、海も浚渫して深くしたのでしょう。ただこんなに広くするほど漁民が居るのか、その辺りに疑問が残ります。写真右手が潮岬・望楼の芝方面です。

             

昨日も載せた望楼の芝から見た浪の浦方面の写真ですが、同じ写真ではありません。

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望楼の芝の戦跡

2012-10-03 05:00:00 | 田舎

前回串本に来た時、今は無き(亡きではありません、凹んでしまったのです)串本のCさんから“あなたの町にも戦跡が 串本町”というわかやま市民生協発行の小冊子(だと思う)『Septette No.98』のコピーを頂きました。串本町の戦争遺跡を探してこの春潮騒の森を探索しましたが、防空壕一つを見つけただけだったので、B29の墜落場所は何処にあるんだろうと思っていました。貰ったコピーには結構な量の戦跡が載っており、一つ一つに小冊子(だと思う)にしては詳しい説明が付いているので大助かり、今回28日の金曜は2時ごろまで用事があったので釣りには出かけず、以降時間的に釣りなどしておれないので、潮岬へ戦跡を探しに行ってみることにしました。

             

観光タワーの前、10万平方Kmもある望楼の芝の東端から歩き始めました。見えているのは浪の浦方面。雲一つない快晴です。とても台風が近づいてきているようには思えません。

明治時代には海軍の望楼(物見やぐら)があったとか、その名を受け継いでいる広場なのですね。

             

木と木の間に聳える観光タワー、左の木は松でしょうが、右の木は何か判りません。

             

本州最南端の碑、こんなものを撮りに来たのではありませんが、ついでです。

             

旭の森へと入ります。この辺りで釣りのできる地磯は無いかと探したことのあるところ、この風景を観るのも久しぶりです。

             

戦跡ではありませんが、海軍大将有馬云々が書いたとされる“紀の国の志保のみさきにたちよりて 沖をたなひく雲をみるかな”の碑、昭和天皇の作なのか句の前に御製と彫られています。

                       

ここに来てやっと『戦跡 海軍特設見張所跡』という案内柱が立っていました。以前ここに来た時は無かったと思います。望楼の芝一帯には海軍のレーダー基地や機銃陣地が置かれていたそうです。

昔、母親が古座に住んでいた頃、アメリカ軍の機銃掃射があったと聞いたけど、こんな田舎でも攻撃対象になるのかと思っていたのは間違いで、今見れば平和で美しい広場に日本軍の基地があったのですね。

             

ところが海軍望楼跡という建物跡があるそうなのですが、見つけられません。肝心なものが見当たらないのです。特設見張り所跡の柱より陸側にあるようなのですが・・・案外見ているのに見えてないのかも知れません。

私が見ているのは浜へと降りる道ばかりか、この休憩所からも降りれるような道があり、ロープが張ってありましたが、履いているのがサンダルなのでこの日は降りては行きませんでした。

             

旭の森入口と書かれた案内柱、ここから入ると向こうには出口があると思うでしょ?でも反対側も入口なのです。どちらも入口なので出口は無い・・・なんかオドロオドロしい怪奇小説の世界のようです。

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