① ""AIですべての医師に「匠の技」を、インフル検査も深層学習で──東大卒元救命医の挑戦""
Forbes JAPAN 編集部 、2019/01/22 11:30
(© atomixmedia,inc 提供)
ユニークな医師がいる。
彼が学生時代の教授回診で感じた「モヤモヤ」と向き合えたのは、東大医学部卒業後、人口500人の沖縄の離島でドクターヘリに乗り、船医として活動した1年間だった。
気づいた「残酷な」医療格差と戦うべく、帰京後に「アイリス」を創業。目指すは深層学習を利用し、医師全員で「匠の技」を共有するパラダイムの構築だ。
中でも起業後第一弾のインフルエンザ診断支援システムでは、「隠れインフル」が静かに引き起こしているパンデミック解消を狙う──。
大学卒業後5年間は、東京と離島、両方の救急医として勤務していました。その後はメドレーという医療ベンチャー企業で、医療分野における正しい情報提供の仕組みづくりに取り組みました。今の会社を立ち上げる前、1年間は、フリーランスの医師として活動していました。今でも週末だけ、救急の現場に立っています。
救急医を選んだのは、自分にも身近な家族にも重い医療体験がなかったからなのかもしれません。子供のころ接していたお医者さんは町のクリニックの先生でした。どんな病気でもすぐに診断して対応してくれる、そんなお医者さんは当時の自分から万能感をもって見え、憧れていました。
救急医も一言で言えば、「広くなんでも見る」ドクター。浅くても広く、様々な病状に対応することで患者さんと向き合い、そのような形で医療に関われることに幸せを感じていました。
卒業後4年目の1年間は、沖縄の石垣島と、日本最南端の有人島である波照間島で、ドクターヘリに乗って急病人の救助に行ったり、島の診療所で診療をしたりしていました。離島の方が、東京の救急よリも広い知識を求められます。まさに、毎日が勉強という環境。プレッシャーも学びも、どちらもが充実した日々を過ごしました。
★ 教授回診で覚えた違和感
医学部の学生だった頃、私は漠然とした違和感を抱えていました。回診の際、教授が入院患者の所に来て、「おはようございます、どうですか」と一声をかけたきり、後は患者さんにお尻を向けて、ぐるりと囲んだドクターたちに、「この患者さんの病状を説明しなさい。プレゼンを」とミーティングを始める姿です。担当ドクターは、報告内容によっては、患者さんの前で教授に叱られることもあります。
それを見ると患者さんは、「自分の主治医が、自分のせいで教授に叱られている。自分はいけない患者だ」と思ってしまうんですよね。医療は本来、患者さんのためにあるはずなのに、矛盾を感じずにはいられませんでした。当時まだ学生の立場だったからこそ、その違和感がより強く印象に残ったのかもしれません。医療に対して漠然と抱いていた違和感を、明確に意識しはじめたのはそのときでした。
研修医時代にも解消できなかったそのモヤモヤを客観視して、それに取り組もうと思えるようになったのは、離島医の1年間があったからです。
沖縄の病院では、9時から5時までの外来シフトが終わると、5時からはフリー。当直も少ない。「自分はどのような医療が理想だと思っているのか」「どうすればその理想に向かえるのか」、こういった問いかけに対して、腰を据えて自分の考えを深められた1年だったんです。
いまの医療に必要なのは「納得感」だと思った
考え抜いて、そうか、「自分の病状や治療に対して、患者さんが『納得感』を持って医療を受けられること」、それが自分の目指したい医療なんだという結論に達しました。だから、私が医療と関わる時のスタイルは、「なんでこの病気は治らないんだ?」ではないんです。目の前の患者さんは私が主治医であることに心から納得がいっているか、とか、自分の病気とちゃんと向き合えているだろうか、なんですよね。
実は「治療」は手段にすぎなくて、医療の本当のゴールは別のところにある。治療だけが医療の目的だとしたら、現代医学で治療できない病気には、医療は何もできないということになってしまいますよね。でも、そうじゃない。治らない病気でもそれと向き合って、自分の人生について深く考えられるようになることには、意味があります。
また、病院で「あなたの症状は病気じゃないから治療は必要ない」と言われてショックを受けたときも、そういうものだと腹落ちして納得できるような説明を受けられれば、不安が解消されるかもしれません。なにも治療をしていなくても、です。こういったことも、医療の大きな価値なはずです。
どんなに医学的に正しい治療が行われていても、医学の全体像が見えにくい患者さんからは、その「正しさ」はなかなか理解できません。「私が施す治療は正しいからこれを受け入れなさい」というのは医者のエゴですし、何より、納得できないまま治療を受けて、それが上手く行かなかったときには深い後悔が残ります。
医者から見たら「ベストな選択だったから失敗も仕方ない」と思うのかも知れませんが、納得できていなかった患者さんにその論理は通用しません。自身が受ける医療に納得感をもてて初めて、人は自分の病気と向き合えると思うんです。
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② ゴッドハンドによって産まれる不幸
世界にいまなお存在している医療水準の格差には、治療の不平等以上の問題があります。それは、格差は人を不幸にするということです。たとえば、「世界トップの外科医にしかできない手術」は、その手術を受けられない人にとって、不幸の種でしかない。あると知っているのに自分は受けられない治療なんて、いっそないほうがいいと感じてしまうのが人情でしょう。
私は、幸福感はその人の置かれた環境や病状よりも、その人の解釈や、他人との比較によって影響を受けると思っています。健康でも自分を不幸に感じてしまう人は大勢いるし、病気の患者さんでも生き生きと幸せに暮らしている人は沢山います。医療の目的が人を幸福にすることだとしたら、この「幸福感」がもつ性質を、どうして無視することができるでしょうか。
病気を治すことは、議論の余地なく大切なことです。そこに向かって多くの医療者が何百年も努力してきているなか、また別の切り口で、幸福感や納得感に直接アプローチしようとする医療者が、少しくらいいてもいいのかなと思っています。
そのための鍵の一つが、医療水準の格差をなくし、どこでも同じ医療を受けられる安心感をつくること、なんだと思うんです。
🌸 名医の技術を「ストック」していく
そのためには、ゴッドハンドと呼ばれるような医師の技術を、ほかの医師にも共有できる仕組みが必要になります。それが、今取り組んでいる、医師の暗黙知をオンライン・ライブラリ化する試みです。
医師同士の技術の格差と言ってもその大半は、技量の高低ではなく、単にスペシャリティの差異の問題です。たとえば医師全体の10分の1いない心臓の専門家の診断技術を、残り10分の9の医師にも共有できないか、ということなんです。
これを考えるために、少しだけ、別の切り口からも、お話をさせてください。
この世界には、「ストック性」のあるものと「サイクル性」のあるものとがあります。たとえば文字や情報にはストック性があり、時代とともに累積・進化していきます。200年前の名医よりも、いまの研修医の方が多くの医学知識をもてるのはそういうことです。
逆に「暗黙知」と言われる、個人が修行や経験で体得した技術は、前の世代から引き継げないため、どの世代も一から修行を積まなければならず、グルグルと輪廻しています。ストック性がない、「サイクル」です。
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ストックすることのメリットは、「前の人がやり尽くした、その続きから続けられる」という点です。「巨人の肩に立てる」ということです。
たとえばあるサルが、「うろこ雲の次の日は雨」という現象に気づいたとします。こういうファクトにたまたま気がついても、言葉を持たないサルは、その知見を別のサル、あるいは後世に伝えられない。つまり、サルにとって情報は「サイクル」なんです。
一方ヒトは、言語を通じて、そういう知見をストックして行けます。ヒトにとっての情報は「ストック」です。
医療情報も、ある専門分野でずっと研究していた人が「やり尽くした場所」から続きを始められる。ゼロから始めないで、「ストック化」していけます。ここ20年で、論文がインターネットで共有されるようになったことで、このストック性は加速的に広がり、先進国と途上国の間でも、医療情報の格差はなくなりました。
🌸「人類3.0」は、匠の技をネットワークとして表現・保存
ところが、困ったことに、ストック化できないものごとがありました。それが、医療現場の「匠の技」、たとえばかすかな心音の違いを聴き分けたり、レントゲン画像を目視して腫瘍を見つけたりする技術です。そうした技は身につけるのに年月がかかり、その技術を継承、すなわち「ストック」することはできないわけです。
しかし、ニューラルネットワークの発明によって、このパラダイムは変わります。囲碁AIが名人の打ち筋を再現できるのと同じように、抽象的な「技」を、ストックして全人類で進化させていくことができる。医療分野で言えば、全世界の医師で「匠の技」をストックして、進化させて行くことができるんです。
「抽象的なものをネットワークとして表現・保存できる」ことが、ニューラルネットワークの持っている力です。つまり、AIを活用して暗黙知である熟練の「技」にストック性を持たせることができれば、1年目の研修医でも、ゴッドハンドの技の恩恵にあずかることができるんです。
聴診器にAIが搭載されていれば、一部の病気の心音だけは専門医並みにAIが拾い上げてくれるかもしれない。全てを見抜く「万能」AI聴診器ができるのは遠い未来のことでしょうが、決まった音だけを狭く深く、高い再現性でピックアップするのは、むしろAIの得意な分野です。
言葉を持たなかった古代のヒトを「人類1.0」、言語を通じて情報をストックできるようになったヒトを「人類2.0」とするならば、それまではストック化できなかった「技術」を、深層学習、すなわちニューラルネットワークを通じてストック化できるようになったヒトは、いわば「人類3.0」のような位置づけになるのだと感じています。
これまでのパラダイムでは他者へ引き継ぐことができなかったそういう「抽象的な力」をニューラルネットワークとして表現することができたのが、AI、ディープラーニングのもたらしたブレイクスルーだと思っています。
「年間3000万人」のインフル、GDP損失7000億円の現実
2017年に「アイリス」を創業しました。今は「匠の技」ストック化の第一弾である、インフルエンザ診断支援機器の開発に取り組んでいます。
インフルエンザを発症する患者さんは昨年の報告だと2200万人ですが、病院を受診しなかった方や、受診してもそのタイミングで診断されなかった患者さんを含めると、3000万人を超えると推定されています。そして例年、インフルエンザ発症による推計GDP損失は数千億円から1兆円といった規模です。
よく知られている「鼻に綿棒」の検査ですが、発症して12〜24時間以上が経ってからでないと十分な精度が出ず、検査だけでは見逃しが少なくありません。またその精度も6割程度というのが現状で、結果、自分がインフルエンザだと気づかないまま、多くの方が体調不良のまま休めずに出勤している現状があります。公共交通機関でのパンデミックも大きな問題です。
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研修医時代に、ある論文を読みました。それは、喉の中を目視して、濾胞(ろほう)の膨らみ方やその色からインフルエンザを診断するというものでした。インフルエンザ濾胞とふつうの風邪の濾胞には違いがある。そのわずかな違いが「匠の目」にかかると明らかになり、95%以上の精度で診断できるというのです。
その論文を読んでから10年近く、自分でもこのインフルエンザ濾胞の勉強をしてきましたが、いまだに自分で出せる診断精度は、7割5分くらいじゃないかと感じています。これを10割に近づけるには、残りの人生を喉の診察だけに賭けなければならないなと。
一つの技を極めるということは、ほかの技術の追求を諦めるということです。しかしAI技術によって、一部の技術は医療機器として再現できるはずです。「浅く広く」多くの技を習得しなければならない救急医だったからこそ、私は、一つひとつの技術を深める時間がないことに葛藤していました。
この問題に立ち向かいたいと考えてアイリスを創業したのですが、はじめに取り組んでいるのがこのインフルエンザ濾胞です。内視鏡型のカメラを開発し、「匠の医師の目」を画像解析アルゴリズムで再現しています。アルゴリズムを内蔵したカメラで喉を撮影すれば、インフルエンザらしさがAIに判定できます。医師はその判定結果をもとに、自身の診察と組み合わせて診断するという形です。
喉の濾胞診断の大きな利点は、発症時点からの早期診断と、それによる感染拡大予防です。症状が出た瞬間に診断できるから、検査が効くようになる24時間後まで待っていなくても良い。「検査を受けるために明日もう一度受診してください」ということもなくなります。
🌸 医療へのAI活用は国も支援
インフルエンザ診断支援のデバイスは、2020年の製品化を目指して進めています。AI医療機器を評価、承認するプロセスは、これまで国内でも確立されたものがなかったため、国と議論しながらの開発を行っています。
アイリス社内のデバイス開発部門には、オリンパスで内視鏡開発をしていた者などハードウェアのエンジニアリングチームと、AI技術のスペシャリストらを含むソフトウェアのエンジニアリングチームがいます。医師免許を持ったスタッフは私を含めて3名です。
医療機器は「ものづくり」と「医療制度」が交わるところで、優れた性能をもったものが作れても、国の承認を受けるためにはルールに沿った開発や治験が行わなれなければいけません。保険適用になるためには、膨れる医療費に対して合理的な医療効果をもつことも求められます。医師視点、メーカー視点に加え、第三の視点として国の視点も必要なんですね。
規制が多くスタートアップとしてはチャレンジングな領域なんですが、社内では厚生労働省出身の医師、加藤(浩晃氏、アイリス取締役CSO)のほか、経済産業省ヘルスケア産業課から入社した野村(将揮氏、アイリス執行役員)のようなメンバーが、制度周りや国との折衝を担当し、総合的な開発を進めています。
2018年には、ディープラーニングの世界的プラットフォームを提供するNVIDIAの、グローバルAIプログラム「NVIDIA Inception Program」のパートナー企業に認定されたほか、NEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)の助成事業として、国から7000万円の資金支援を受けています。
医療のAI化というと小説やSFのように聞こえるかもしれませんが、厚労省の懇談会から出されている報告書では医療AI開発のタイムラインが示されていて、「頻度の高い疾患についてAIを活用した診断・治療支援を実用化」の目標年は2020年〜と設定されています。
医療分野へのAI活用が進むと、医師にとって外注できる単純作業が増え、それによって人間にしかできない作業に時間を割くことができるようになります。そもそも、AIがすべての病気を診断してくれるようになるわけではありませんし、医療におけるAI化の利点は、むしろそこだと思います。
医療の現場で提供されるものは、診断や治療だけでなく、ちゃんとした説明を受けて漠然とした不安が解消することや、患者さんが納得できることといった部分にも価値があります。たとえばプリンターが吐き出したAI診断結果をただ見せるのでなく、同じ診断であっても、人間である医師が表現することによって、患者さんはなるほどと腑に落ちる。
このような患者さんの「納得感」につながるアナログなやりとりの時間も、AIが間接的にもたらしてくれる大きな恩恵ではないでしょうか。私が子供心に尊敬したような町のクリニックで、デジタル化できないコミュニケーションの技がもっと発揮される時間。それを、AIが生み出してくれると思います。
沖山 翔◎東京大学医学部卒業。日本赤十字社医療センター(救命救急)での勤務を経て、ドクターヘリ添乗医、災害派遣医療チームDMAT隊員として救急医療に従事。2015年 医療ベンチャー株式会社メドレー、執行役員として勤務。2017年 アイリス株式会社を創業、AI医療機器の研究開発を行う。産業技術総合研究所AI技術コンソーシアム委員・医用画像ワーキンググループ発起人、同AI研究センター研究員、救急科専門医。