いや、草木や漆には滅法強くちょっとやそっとではかぶれ無い私ですが、映像・音楽・文字などには簡単に気触れるのであります。
で、今は戦中戦後の歌と映像にかぶれていましてYouTubeでその関連を見ていたわけであります。
で、見つけて涙したのが・・・↓
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いや、福島三羽ガラスの野村俊夫作曲で船村徹作曲、歌ったのは島倉千代子でありました。
この歌が発売されたのは昭和32年とのことで、戦後12年であります。
私ゃ生まれてはいましたがオシメは取れていても寝小便を垂れていた頃なので定かな記憶ではなく、その後ずーっとラジオやテレビで歌われたのを聞いて覚えたものと思います。
さて、お千代さんのこの歌を聞くまでに沢山の軍歌や古関裕而の作品などを聞いてきたんですが、戦前、戦中の歌から戦後になる時の流れが歌に反映されているのは鈍い私でも感じたわけであります。
で、解説も読みましたので軍歌を作曲した人も作詞家も、また歌った人も不本意であったということを知ったわけであります。
そして行き当たったのが島倉千代子が歌う「東京だよおっかさん」でありました。
なるほどねぇ・・・NHKの紅白で歌えなかった理由は戦後のすぐから靖国はそーいうことだったんですか、なんてこともナニなんですが、私ゃもっと私的な感情にとらわれまして母ちゃんを思い涙したのでありました。
自分はわけあって高校生の時から家を出まして・・・いや、学校が遠くてとか真っ当な理由では無く、言ってみれば「家で」か親の側から見れば「勘当」でして、それ以後家や親とは疎遠のままこの歳まで来たのでありました。
で、東京だよおっかさんは何度も聞いているはずなのに今までに無い感じ方をしたわけであります。
早い話が母ちゃんに会いたい、と思ったのでありました。
そして、よもや自分がこんな感傷的な気持ちを持つとは信じ難いのですが、母ちゃんの手を引いて歩きたいと。
いや、これが老いの仕掛けたいっ時の感情であろうことは十分承知なんですけれども、死んだ人に会いたいと思ったのはこれが初めてであります。
ついでに言うと父は45年前に逝ったんですが母に会いたいと思った今も父は出て来なかったのが何故か・・・父ちゃんごめんね、なんちゃって。
さて、東京だよおっかさんの歌詞を噛み締めた時、入り口から自分との違いを思い知ったのでありました。
ひさしぶりに手を引いて・・・と、言うことは何度か歩いているのだな、と思いつつ自分の記憶をたどって見ると、その姿が無いのであります。
唯一あったのは、小学校の入学式に一緒に学校まで歩いたけれども手など繋いだ記憶は無く、たぶんそんな事は無かったのかも知れないと言う少し寂しいものでありました。
まっ、母親と息子なんてのはそんなものだろうし、東京だよおっかさんで手を繋ぐのは娘ですからそう言う事なんでありましょう。
いや、たぶん・・・手を繋ごうとした母に「やんだぁ、おしょすいべ」と振り払っていたのだろうと思うのであります。
そっかぁ・・・彼岸は混むからと墓参りは行ってなかったな。
そーだな、あんな石の下に父ちゃんと母ちゃんが居るとは思わないけれども、他に手も無いので線香の一本も上げて来ようっと。