じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ピサンベースキャンプ No.11

2013-12-17 15:19:08 | ネパール旅日記 2013
 
 11月15日 金曜日 快晴 風強し

 本日は4400mのベースキャンプへ行く。
エベレストやアンナプルナなどの8000m峰のベースキャンプとなると、そこに暫く滞在して高度順化などをするのだが、自分が登るピサンピークはそれ程の山ではないので長く留まる事も無い。
何故ベースキャンプなどと言うのか良く分からないが、強いて言えば、トレッキングポーターのナーランが登れるのはここまでで、この先はクライミングポーターのナラバードルは次のハイキャンプまで行く。
そして、ナラバードルはハイキャンプに荷揚げが終わったらベースキャンプに下りて来る。
その行動からすればベースキャンプと呼べるのだが、いずれにしても、8000m峰を狙う登山隊の大きなベースキャンプとは趣は全然異なるものだ。
 
 3200mで人が飛ばされそうな風が吹いている。
自分の経験と知識ではこの風の中でテントは張れないのだが、ドルジは意に介していないようで平気で出発準備をしていた。

 AM7:00 宿の皆に送られて出発。
ドルジのザックがパンパンに膨れ上がり、それでも入り切らないものがあちこちに括り付けられたりぶら下げられたりしている。

 ナーランが自分の荷物を背負ってくれ、ナラバードルは籠に野菜や昨日荷揚げし切れなかった物を入れ背負っていた。
二人とも今日の荷物は20キロ程度と何時もよりは随分軽かった。
本当は自分のザックはまだ少し重いと感じていたのでナーランに助けて欲しかったのだが、このくらい背負って登らなかったら大名登山になってしまうなと思い覚悟を決めた。
単体で目方のかかる物は持っていないから、必需品があれこれ集まってこの重さなのだと思うと、軽量化が甘かったかと反省させられる。
しかし、着替えもほとんど無く、洗面用具も無く、重い物順に数えると、厳冬期用の分厚いダウンシュラフが一番で、次がハードシェルのジャケットだ。
その他の重い物と言えばすべてクライミングに欠かせない金属の道具類で無くては成ら無い物ばかりで無駄は無いと思うのだが。

 そうか、荷物が重いのではなく、気が重いのかも知れない。
昨日まで敗退した話しばかり聞かされ、登頂成功の吉報はどこからも入って来なかったのが気持ちを重くし、序でに荷物も重く感じさせるのだ。

 昨日参拝したアッパーピサンの寺の下まで登り、昨日は右に折れたが、今日は左だった。
左は牛の放牧場になっていて入り口に棒が掛けてあり、牛が通らないようになっていた。
ドルジがそれを勝手に除けて入っていったので自分も後に従った。
暫く歩いて行くと村の方向から何やら大声で我々に向かって呼びかける声がした。
ドルジがそれに応えて何か言ったが、分かったのはピサンピークの一言だけだった。
多分かけ声の主は、そこはトレッキングルートじゃ無いと教えていて、ドルジはそれに応えて、自分らはピサンピークに登るのだと言ったのだろうと思う。
ここから上に続く道は登山道ではなく、夏場に牛を放牧地に上げる為の道らしいが、今は季節外れなので牛は歩いていない。
牛の道は時にとんでもない急斜面を直登していて見極めて歩かないと酷い目に遭う。
岩屑と言うのか、小石とも違う砂利ともまた違うザレ場が多く滑り易かった。
ナーランが登りは良いけれど下りは怖いなと言うので、ロープを出してやろうかと冗談を言ったが、実際に足を滑らせたらどこまで転がるか分からない斜面が随所にあった。

 手持ちの高度計が3800mを指す頃には高い気は完全に無くなり刺だらけの枯れた灌木が見られるだけになった。
この山の植物には全部刺が生えているような気がした。
歩いていてもズボンの上から刺さる事も有り植物によっては相当鋭い刺を持つ物もあった。
想像だが、牛や山羊に食べられないように刺を生やすように進化したんじゃないかと思うのだが。

 歩き始めて3時間で標高差800mを稼ぎ4000mに達した。
歩き始めは左程でもなかったがアッパーピサンの村を過ぎてすぐから呼吸が苦しく感じられるようになっていたが4000mを超えるといよいよ苦しさは増し、スピードが極端に落ちた。
テルモスに熱い紅茶を入れて持っていたのだが、ここまでに飲み干してしまっていた。
ザックのもう片側に1リットルのポカリスエットが入っていたのも半分飲んでしまっていた。
喘ぎながら登ると喉は乾くものだが、この時は特別で通常の三倍の量を飲んでいた。

 ナラバードルは強かった。
標高が上がろうと傾斜が増そうと苦にしない様子でぐいぐいと先に行く。
その後を高地には余り馴れていないと自ら言っていたナーランがやや苦しそうに追っていく。
自分は付いていく事は諦め、明日の体力の温存に努めるべくペースダウンをした。
計算してそうしたと言うよりも、もう小さな歩幅でしか歩けなくなっていると言うのが現実だった。

 取り敢えず100歩は休まずに進もうと、1.2.3.4・・・と100数えたら10呼吸分休んでまた100数えて歩き続けた。
ピサンピークの頭のドームは見上げる程の高さでもなく、厳しくそびえ立つと言う雰囲気でもなくすぐそこに有るのに、歩いても歩いても中々大きくはならなかった。

 自分は日本の山に登っている時には地図を読まなくても、距離も標高も目測で測って殆ど誤差が無かったが、この山の距離感は掴み切れなかった。
近くに見えるし、高くも見えないのだが、それは山が大きいが故の錯覚なのだ。
周囲の山が大きく高いので距離感も高さも目測の縮尺が狂ってしまうのだろう。

ちょこんと山頂と思われるドームが見えているピサンピークだったが、それは歩いても歩いても中々近づいていかなかった。
山が大き過ぎて今までの経験で養った目測が効かなかった。
ヒマラヤの山は地図で読む以上に高く、記されている等高線の傾斜よりも急で、そして、距離はとんでもなく遠く思えた。

 12:00、急なザレ場を登り切ったら開けた台地に出た。
そこが地図で示すピサンベースキャンプだった。
ガイドブックやネットの情報では標高4200mとなっていたが自分の高度計では4300mを指していた。
高度計の補整をピサンの村の標高でやっても良かったのだが、しかし、地図で3200mとなっているローピサンの標高が当っているとも限らないのだ。
自分の手持ちの地図は「アンナプルナ・アラウンド」1:155000で等高線の間隔が80mとかなり大雑把なもので、しかも印刷があまり精彩でもなく、読んでも良く分からないのだった。

 とにかく、10時の時点で4000mに居たとして、残の300mに2時間も掛かったと言う事で、高度による速度の低下が著しかった事は間違いない。
明日はハイキャンプの5400mまで、1100mを登るのだが、これより上の高度だとどれほど歩けるのか自分でも予想がつかなかった。

 標高4300mは昨年ロッキーの山で登った標高とほぼ同じで、これより上は未知の高さだった。

 ベースキャンプには既にテントが一張り張られていた。
それは昨日荷揚げに来た二人が張っていったもので、当座の水も汲み置きされていた。
それはキッチンテントで、自分の居住用にはノースフェイスの3人用程度のドーム型テントが張られた。

 自分はさっさとザックを放り込みマットを敷い寝袋を広げ横になる準備をした。
そして、熱い紅茶でも貰おうとキッチンテントに行くと、テントの中には石の竃が拵えてあり、食料も積んであり、どうしても三人が寝られるスペースは無いと思えた。

 悪い予感がしたので、ドルジにお前はどこで寝るんだと問うと、ナラバードルとドルジは自分と一緒のテントだと言う。
なんだとぉ~、お前のボスとの約束は、俺は一人用のテントに寝る約束でレンタル料を支払っているんだぞ、と言うと、テントの中を見てくれ、ここには寝られないだろう、何を言っているんだと平気な顔で答えるのだった。

 昨日見送ったフランス人の荷物が大きい訳ではなく、自分の荷物が小さかったのが良く分かった。
自分がクライミング道具やキャンプ道具のレンタルを依頼したトレッキング斡旋業者のボスに話した条件はドルジにも伝わっているはずだった。
何故なら、業者と自分の間にはかなり細かい条件を記載した契約書が交わされているのだから。
しかし、たぶんこの行き違いは故意だと思う。
トンとが一つ減れば荷物が軽くなりポーターが楽になり、レンタル料は会社側から自分が要求した条件を満たすべく支払われているはずだから、金を預かって手配をしたドルジは差額が儲かる。

 しかし、このキッチンテントにお前ら全員で寝ろ、と、契約書を広げて言っても無意味な事は分かり切っていた。
ドルジとナラバードルは英語が読めないし、ナーランは気が弱いので自分が言う事をドルジに通訳はしないだろうし。

 ここは気持ちを切り替えて乗り気るしか無いと思い、熱い紅茶をくれとドルジに言った。
ドルジ曰く、ジュースとコーヒーは持って来たが紅茶をかって来るのは忘れた、と。
ここで怒っても仕方が無いので無いものは仕方が無いと気持ちを切り替え、ミルクコーヒーを頼んだ。

 キャンプ用のガスコンロが二台、勢い良く燃えてお湯を沸かしていた。
一台には圧力鍋が掛かっていて米を炊いているようだった。
外は陽射しが強く風さえ避ければ寒く無いのだが今日は冷たい風か強く吹いていた。
自分もミルクコーヒーを啜りながら飯の炊けるのをキッチンテントで待つ事にした。
ナーランの寝床用に敷いたマットの上に無理矢理割り込み寝転がった。
弾き出されたナーランは外から石を拾って来て椅子にして座り込み飯炊きをした。
ドルジが手も洗わずにニンニクやタマネギを刻み始め、ナラバードルは空のポリタンクを持って水汲みに出かけた。

 ベスキャンプ一帯は夏場は牛の放牧場でその時期に使う小屋が有ると書かれたのを読んだ記憶が有るが、その小屋の跡かと思える石積みの崩れたものがあった。
しかし、ヤクの糞は沢山落ちているので牛やヤクの放牧はまだ続いているのだろうと思う。

 ドルジがニンニクとタマネギを炒め始めたのでキッチンテントの中が凄い匂いになった。
自分は居たたまれなくなり自分のテントに避難した。
そして、地面の傾きを測り、風向きを予想して東の入り口側にマットを敷き枕にザックを置いて肩幅を確保した。

 ナラバードルが水汲みから戻って来た。
すると、ブルーシープの群れがすぐ近くに居るから見に行けと、ナーランの通訳で教えてくれた。
慌ててカメラを持って行ってみると、とんでもない崖に切られた細い道を辿って行くではないか。
テントシューズにサンダル履きで来たのにこんな危ない道は歩けないと行くのを止めたが、彼らはこの道を10キロの水タンクを両手に持って上り下りしていたのだと思うと、底知れない体力と歩行技術に参りましたと言わざるを得なくなった。

 自分はこの山の登山計画を本当の単独で、出来ればキャンプ道具も何もかも自分一人で担ぎ上げたいと思っていた。
何も知らずにネットで情報を集め、序でに世界7大トレッキングルートの一つと言われるアンナプルナサーキットも廻れるしと、軽く考えていた。
6000mの山がどれほど高く厳しいものかなど想像もできていなかったので、自分一人で担げると思っていたのだ。
それがガイドとポーターを付ける事になったのは、ネパールのルールではピサンピークなどの山はガイドを必ず伴わなくては成ら無い決まりになっていたからだ。
だからガイドを捜してもらい、登山に必要なパーミットを揃えてもらうなどの事務的な事を頼める業者を捜し、ネットで依頼したのだ。
その時のアドバイスで、ポーターの事やレンタルの事などを教えてもらい、今回の登山の形になったのだった。

 実際にトレッキングで数日彼らと歩き、今日はいよいよ高所登山を開始してみると、これは大名旅行であり、登山も、ガイドに登らせてもらっている状態で、決して自分で登っているとは言い難いものであるなと思った。

 それはそうだ、ここには山の様子さえ知らずに来ているのだから、そんな登山なんてあり得ない事なのに、と、思いつつ、これ以外の方法では支分は登れないしなと、少し情けない思いに駆られた。
ヒマラヤ登山にポーターとクライミングアシスタントのガイドが居なかったら殆どのクライマーは登頂できていないんじゃないんだろうか、と思う。
エドモンド・ヒラリーとテンジン・シェルパが組んでエベレストの初登頂を成し遂げた時にも、成功の鍵を握っていたのはテンジンだったと言われている。
自分にはラクパ・ドルジ・シェルパが付いているから登れているけれども、彼が居なかったらピサンピークの登山道入り口さえ分からないのだ。
そう思うと、多少の事には目をつむって、取り敢えず登頂を果たし、自力でなんとかできる場所まで行かないと、こんな所で臍など曲げられたら堪らない。
我慢も必要だなと言う気にもなったのでテントのスペースを少し譲ってマットを寄せた。

 飯が出来たと言う声でキッチンテントに行くとまだガスは炊かれ続けていた。
ドルジにガスカートリッジは何個持っていると問うと10個だと言う。
この勢いで燃やし続けたら一日と言わず、夕食までに4~5個は使い切るだろうと思ったが黙っていた。

 ドルジが「ダルバートを食べるか?」と訊いたが、喰わないと言うとイワシの缶詰を開けてくれた。
なんだ、工業製品の味のするものが有るんじゃないか、と嬉しくなった。
それは醤油味でとても美味かった。
4000mを超える高地で炊いた米にしてはご飯も美味しくて、イワシの缶詰で大盛りの飯を食べた。
晩飯用に残しておくから、と、半分食べてドルジに確保しておくように頼んだ。

 昼飯を食べてからする事も無いのでテントに寝転んで日記を書いていた。
相変わらず風が強いが陽射しがテントの中を温め快適だった。
あまりの快適さと疲れから眠ってしまって、目が覚めると日はだいぶ傾いていた。

 キッチンテントではドルジが夕食の支度をしていた。
覗き込むとガスカートリッジの空缶が二本転がっていた。
このペースでは二日しか持たないと思うのだが、他にもっと持っているのか、それとも、何も考えていないのか?たぶん後者だろうが。

 ナーランが外に居て焚き火の支度をしていた。
序でに、ガスカートリッジの数を尋ねると知らないと言った。
この調子で使うと明日の夜で使い切ってしまうぞ、と言うと、ヤクの糞を集めて焚き火をするから大丈夫だと言い、準備していた焚き火の小枝にマッチで火を着けた。

 日本のハイ松のような背の低い灌木の枝はマッチ一本で容易に火が着き、そして一気に燃え上がり、少しするとヤクの糞にも炎が上がった。
ヤクの糞はまるでガスの炎のように青白く燃えた。

 河口慧海のチベット旅行記にはヤクの糞の焚き火で暖をとり湯を沸かす場面が何度も書かれていて、それを読む度にチベットの極寒の原野では頼り無さそうな火だと思っていたが、中々どうして、まるでガスか亜炭のように力強い炎ではないかと感心した。
ナーラン曰く、大きなヤクの糞2個で飯が炊け、1個の糞は1時間以上も燃え続けるのだそうだが、完全に乾燥したヤクの糞でなければないのだと勿体を付けて言った。
しかし、乾燥し切った円盤形の上等のヤクの糞は手を伸ばせば拾える所にいくらでも転がっていた。
拾い上げてみるとそれは意外に軽く、堅くて、何の匂いもしなかった。
なんぼでも有るじゃないかとナーランに言うと、ここは人が簡単に来ない高地だから放置されているけれども、牧草地などのヤクの糞は持ち主が決まっているので、勝手に拾える糞はそんなに落ちては居ないのだとか。

 ナーランが都市ガスの話しをしてくれた。
ナーランが住むカトマンズからバスで2時間程度の郊外の町では、牛の生糞を集めてガスを発生させ、調理に使っているのだそうだ。
仕掛けは至って簡単で塩ビの瓶に道で拾った牛の糞を入れてガスを発生させ、それをホースでガスコンロに引いて使うのだと。
そんなもので煮炊きが出来るのかと言うと、ヤクの糞とは反対に湯気が立つ程新鮮な糞を10キロも入れて置けばプロパンと遜色無く安定した火力が得られるのだとか。
但し、糞は意外に早く乾いてしまうので結構な頻度で入れ替える必要が有るらしい。
しかも、乾いた牛の糞はヤクの糞と同じように燃えるのでそれも燃料にするそうだ。
ヒンドゥー教で牛が神聖なものとされるのは有益だから興った話しだとも言われるが、それが良く頷ける話しだった。

 ナラバードルが晩飯ができたと呼びに来た。
ダルバートが出されたが、昼間の缶詰が有るだろうと言うと、無いと言う。
誰が喰ったかは大体想像がつくのだが、これはドルジでもナーランでもなく、ナラバードルだと思う。
彼は出来立てや新しい物には手を付けないが、残り物は全部自分らが食べて良いと思っているのだ。
もう缶詰は無いのかと言うとツナ缶が有ると出してくれたが、それは日本のシーチキンなどのレベルでは無く、血合いがたっぷり入ったあまり美味く無いものだった。
醤油が有れば食べられるのだが、オイル漬けで塩気も無く、喉を通らなかった。
仕方が無いのでダルバートの付け合わせの青菜を炒めたものでライスを無理矢理呑込んだ。

 晩飯を食べミルクコーヒーを飲んで寝袋に入ったが、まだ6時少し前だった。

 深夜に起きて星空とアンナプルナを撮ろうと大きい方のカメラを準備して寝の体制の入った。
しかし、テント内には何となくニンニクの匂いが漂い、隣の二人はあっという間に鼾をかき出し、とても寝られる状態ではなかった。

 自分の吐く息が寝袋に当ると水蒸気になってやがてそれは霜のように凍った。
高い金を払って無理してやって来てみたものの、心の底から楽しんでいるかと言うとそうでもなく、ヒマラヤって辛い所だな、と思い始めていた。


 
 

 



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アッパーピサン へ No.10

2013-12-16 15:19:06 | ネパール旅日記 2013

 11月14日 木曜日 快晴

 今日は休養日でローピサン(3200m)の村からアッパーピサン(3400m)へ遊びに行くなどして体力の回復に努める。
そう言う事になっているのだが、実際は休養日と言うよりも荷揚げ日で、ナラバードルとナーランはキャンプ道具一式とクライミング装備を担いでベースキャンプへ荷揚げに行くのだった。
そうと知っていれば休養日などにあてず、高度順化を少しでも進める為に自分も上に登ってみたのだが。
荷揚げに行くと知ったのは二人が歩き出した姿を見た時で既に遅かった。

 昨晩は酷い目に遇った。
隣の部屋のフランス人がいつまでも話していて、フランス語は一言も理解できないが、低い声がかえって耳の底に響き寝付かれなかった。
しかも、明け方トイレに行った時にフランス人の片割れの眼鏡が、自分がトイレの戸を閉めようとしている瞬間に何やらもごもご言いながら、人を押し退けて入って行く暴挙を仕出かした。
いくら緊急事態だとしても先客を追い出してと言うのはやり過ぎだろうと思うが、トイレットペーパーを握り締めた顔が必死の形相だったので譲ってしまった。
自分らが居るのは三階で、トイレは二階にも一階にも有るのだからそちらへ行けば済む事なのでそちらへ廻った。

 朝飯を食べた後もダイニングでのんびりとお茶を飲み出発して行くトレッカーを見送った。
彼らの行動パターンは結構忙しい事が分かった。
まず、朝起きると先にパッキングやトイレを済ませ、荷物を持ってダイニングにやって来る。
そして、朝食を食べ終えるとのんびりせずにさっさと出発して行く。
自分は山小屋を使った縦走でも自炊が前提なのでパッキングは一番最後だ。
ましてやテント泊では何もかも終わった後でないとテントは仕舞えないのでパッキングは最後にしか出来ない。
その癖がついているのでどうしても食事が先でパッキングはすべてが終わってからになってしまう。
しかし、朝のネパール時間の洗礼を何度か受け、場合に因ってはパッキングを先に済ませる事も覚えたが。
ああ、彼らもそれが故の行動パターンなのかも知れない。
もう一つ深読みすると、陽が昇る前には起きない事にしているので朝は忙しいのかも知れない。

 フランス組はベシサハールへ向かって下りて行ったが、ガイドによるとチャメからジープに乗るらしいので明後日にはカトマンズに着けるだろう。
ポーターが三人、それぞれに荷物を山のように背負っていた。
ドルジにチュルーイーストはキャンプが長いのかと訊くと、大した事は無いと言う。
二人のクライミング道具にしては多過ぎないかと言うと、キッチンテントとパーソナルテントとガイドやポーターのテントを分けて持つとあの量になるんじゃないかと言った。
我が隊はクライマーが一人だが、あれに比べたら相当コンパクトに収められた装備に見えるが、その理由は翌日ベースキャンプに登って判明した。

 ピサンの村は東側が開けていて、予想に反して朝の日当りは悪く無かった。
9時前にはすっかり陽が登り、風も収まって温かく感じるようになっていた。

 ドルジがアッパーピサンの寺を見に行こうと言うので出かけた。
チベット仏教の事は良く知らないが、チベット仏教と日本仏教は大乗で、特に日本の真言と似ているのだと、河口慧海の本で読んだ記憶が有った。

 昨夜泊まったアメリカ人トレッカーのガイドが寺の説明をしていたのを聞いていたら、1996年にダライラマがやって来たとの事だった。
その後いくつかの寺を廻ったのだが、どこの村の寺でも一度や二度はダライラマの訪問を受けているようで、来てもらうと寺の格が上がるのでお布施を準備して招くようだった。

 アッパーピサンまでは標高差で200mある。
200メールを一気に登る石段が続いていて、人も牛もロバも犬もそれを上り下りしている。
ローピサンは川沿いで、橋を渡ってアッパーピサンの学校へ通う子供が歩いて行く。
標高が3000mを超している事もあって息は直ぐに上がり、自分は7~8歳の子供とすら同じ早さでは登れなかった。

 ドルジが、高度順化だからゆっくり行こうと声を掛ける。
200mの標高差でも高度純化に効き目があるのかと問うと、やらないよりはやった方が良いし、どうせ暇だから、と、癪に触ることを言う。

 自分の少ない知識では、3400m程度で上り下りしていても、明日の4200mへの順化の役には立たないと思うのだったが、確かに、他にする事く暇だった。

 アッパーピサンはローピサンよりも旧い村で石積みの家々の軒下を回廊のように道が巡り、これが本当のアンナプルナ街道だったのだろうと思わせる味わい深い道だった。
実際にアッパーピサンからは山廻りの道が暫く伸びていてGhyaru(3670m)の村などを経てManangで合流する。
ピサンピークアタックの後この道を行かないかと提案したのだが、ナーランがこのルートはキツいと大反対をして話しは流れた。
それもそうだ、自分はいざとなったら荷物を全部ナーランとドルジに押し付けて空身で逃げ切れるが、それの煽りを食うのはナーランだから敢えてキツい道を選ぶなんてとんでもない事だ。
 
 村からはピサンピークは見えなくなっていた。
アッパーピサンはすでにピサンピークの山懷の中なのだ。
ピサンピークと言うと何やら小さなピークを乗り越すような感じも受けるが、3400mの裾野に村を抱いて、村まで登ってもその先が見えない大きな山なのだ。
ピサンの村を通り過ぎHumudeに向かう時に振り返るとピサンピークの全容が見えるが、その姿は正しくヒマラヤの6000m峰と言える威容を保っている。

 ドルジの案内で寺の境内に入った。
自分は山門をくぐる時に手を合わせて入ったのだが、その時、住職と目が会ったら住職も手を合わせて応えてくれたのが嬉しかった。

 正面へ進むと賽銭箱が置かれていた。
日本の寺のように賽銭箱で行き止まりにはなっていなくて、本堂に上がる石段の脇にそれとなく置いてあり、英語で寄付を募る訳が書かれてあった。
自分が100ルピーを入れるとドルジもまた100ルピーを入れた。
彼は本当に熱心な仏教徒なのだ。
しかし、どう言う訳か行く先々で宿での勘定を水増しするなどして小銭をくすねるのだ。
チベット仏教と日本仏教は大乗であり、色々な面で緩いとは思うのだが、自分の都合で喜捨を取って良いとは教えていないと思うのだが。

 賽銭箱に寄付を入れると紅茶を一杯ごちそうしてくれる事になっているようで、住職が大きなポットから注いでくれたのを有り難く頂いた。
たった200mの登りだったが、それでも喉が渇いていたのか、甘い紅茶はとても美味かった。

 寺の中にはネパール語の念仏を静かなメロディーに乗せて唱えている音楽が流れていた。
音楽に乗せて唱えられる念仏をドルジに訊くと「オーマニーペネホン」と言っていると教えてくれた。
だが、他の人が言っているのを訊くと違うようでも有り、所詮他国の言葉で良く分からないのだが住職に尋ねると、オム・マニ・ペメ・フム、「Om・Mani・ Pedme・Hum」で、チベット仏教で一番多く 唱えられる最強のマントラ(真言)だと教えてくれた。
これを聞いて以後は自分も「マニ」を回す時に「オーマニーペネホン」と唱える事にした。

 「マニ」とは、マニの石盤ならマントラ(経文)を石に掘ったり書き付けたもので、マニ車なら、円筒形の銅板にマントラを掘ったり描いたり、または経文が筒の中に納められている。
マニ石は梵字のマントラを彫り込んだ石を何百枚、何千枚、時には何万枚と重ねたり、大岩全部に彫り込んだりしてある。
マニ車は寺のある村なら大抵はあるが、長い塀のようになって並んでいるのが元々の形のような気がした。
旧いマニ車の数を数えてみたら108だった。
マニ車を一回廻すとお経を一度読んだのと同じ功徳があるとされ、ドルジはマニを見つけるとオーマニーペネホンを早口で唱えながら必ず廻して行く。
自分も真似してやるのだが、素手でマニを回した後は手が真っ黒になるのだった。
村により手入れや回し具合に差があるのだろうか、仏教に対する思い入れの違いを感じた。
マニ車には独特の雰囲気と威厳が有るので異教徒の欧米人が触れられる雰囲気ではないのか、戯れに回す姿もほとんど見なかった。

 寺の中は他のアジアの寺院のそれとあまり違わず、矢鱈と金ぴかが目立ち荘厳な雰囲気とは言い難く、自分にはとても軽く感じられた。
ダライラマの相当若い頃の写真が印象的であった。

 寺以外に見る物も無いアッパーピサンの村から、迷路のような石の回廊を抜け急な石段を下って行った。
殆ど下り切ろうと言う所に学校があったので立ち寄ってみた。
先生が居たので挨拶をして教室に顔を突っ込み授業を覗き見ると、そこには6~7才から10才位までと思しき子供が7名座っていた。
黒板には何も書かれていず、学年の違う子供らのようで、それぞれに自分の勉強をしているようだった。
子供らは自分に気付くとナマステーと挨拶してくれたので、ナマステーと返した。
先生に招き入れられたがどうせ間が持たなくなる事が分かっているので日本語で「ありがとう、さようなら」と言って立ち去った。

 プライマリースクールの斜向かいにホテルがあって大きなザックが置かれていた。
ザックには傷だらけのスノーバーが括り付けてあり、一目見てピサンピークへアタックして来た人のものだろうと思った。
ドルジも同じ事を思ったらしく話しを聞いて来ると言って宿の中へ入って行った。
暫くして戻って来たドルジが、アメリカ人の男がガイドとアタックしたが登り切れなかったようだといつに無く神妙な顔で話した。
たぶん山の状況を聞いたのだが、それが相当良く無い話しだったのだろう。
登頂成功の話しが一つも無い中で、根拠の無かった自信が一気に萎えていった。

 昼頃になると風が強くなった。
これは山風で冷たくは無いのたが、何か、妙な匂いとともに細かい藁屑を含んでいるのだった。
それは、この風が道端で乾燥した馬糞や驢馬の糞を土埃と一緒に巻き上げるからなのだ。

 アンナプルナ街道は、馬糞が風に舞うどことなく藁の匂いがする道だった。

 昼飯を食べ、三階の日当りの良い物干し場の椅子に腰掛け、ジンジャーティーを飲みながら道で遊ぶ子供らを見ていた。
すると、スノーバーをザックに刺して歩いて来る白人の男性が見えた。
大柄で屈強そうな若い男だった。
彼奴が登れなかったのか? あの身体で登れなかったのかと驚くとともに、殆ど消え掛かっていた登頂の自信は完全に消え失せた。

 あの若さで、あの身体で登れなかったのかと思うと、どう考えても自分の歳と体力で登れる気はしなくなった。
心無しかしょんぼりとベシサハールへ向かう男の後ろ姿を見送って「余計なものを見ちまった」と呟いてしまった。

 この日の宿は静かだった。
来週が投票日でいよいよ国中の交通機関が止まったらしく、トレッカーの数も減っているのだろう。
自分の他にはカナダのカップルが一組だけだった。

 荷揚げに行った二人が帰って来たのは2時半を過ぎていた。
地図の読みでは標高差1000m、距離にして2.5キロ程度とそんなに時間が掛かるとは思えないのだが、意外と遅かった。
それだけ厳しいと言う事かと、消えかかった自信にとどめを刺された。

 夕食の時にドルジに昼間見たスノーバーを持った男の話しをした。
相変わらず能天気な返事をするドルジで、自分にもスノーバーを一本記念に持って帰れと言い出した。
自分が、そう言う話しじゃ無くて、あんな若い強そうな奴が登れないなんて、俺たちに勝ち目は無いんじゃないかと言うと、大声で得意の「ノープロブレム」を発して、ガイドが違うから大丈夫だと言い切った。
その時、英語が苦手で何時もは何も言わないナラバードルが、「チーム、チーム」と言って笑った。
この時、こんな良い奴らと登れる事に真底感謝をした。

 しかし、登頂の後は最大の揉め事が待っていて、ドルジと言うかネパール人の強かさを思い知るのだが。

 この宿のスープヌードルは普通のインスタントラーメンで安心して食べられた。
明日の為に燃料を補給しなければと、フライドエッグにスープヌードルとガーリックライスを頼んだ。
そして、取って置きの「にこにこのり」も半分だけ食べた。
残りは明日の朝、マルコメのアサリの味噌汁とともに食べるのだ。

 7時半、昨日よりも随分気温が上がっているようで余り寒さを感じる事無く寝袋に入った。

 



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ローピサン へ No.9

2013-12-15 10:56:39 | ネパール旅日記 2013

 11月13日 水曜日 快晴

 今日はいよいよピサンピークが見える「Lower Pisang」の村へ行く。
写真でしか見た事が無いピサンピークの実物と対面する。
まだ見ぬ山に対する気持ちは、登る事の現実を思うと、見た瞬間に、ああ、これか、と思える程度の山であって欲しいと願いつつも、どこに登ったのかと聞かれた時に胸を張って言えるように、他の峻険で凛々しいヒマラヤの山と遜色無い峻嶺であって欲しいと矛盾していた。

 ピサンピークを紹介するガイドブックやツアー会社の説明文では、この山はアンナプルナサーキットのトレッキングの序でに登れる山として比較的容易に登れそうに書かれている。
標高も6091mで、確かに6000m峰では有るがギリギリで越えたもので同じ6000m級でもお買い得感の強い山だと自分は思っていた。
そして、この山に登って厄介な事が有るとすれば、それは急斜面の氷壁が少し心配かも知れない、と書かれていた。
実はその説明を読んだ時に、そうか、氷壁か、自分の一番得意とする分野だな、とほっとしたのだった。
勝手な思い込みに過ぎなかったのだが、東北の雪山を登っているので、雪や氷には強いと自負していたのだ。
しかし、実際にヒマラヤの氷の山に取り付いて知ったのだが、アイゼンの爪が刺さらない氷が有るのだ、と。
そして、本では読んで知っていたが、氷の山へ行く時にはアイゼンの爪はヤスリで研いで行けと言うのを如実に実感した。
自分が知っていた氷と堅さが違っていたのだ。
アタックしてみて自分の安易さに気が付いた。
名前しか知らない山は経験した事も無い高山で、登山ルートの地図も手に入らず、雪や岩場の状況も分からないのに、何の根拠で登れると踏んだのか? 
根拠など何も無く、ただ、なんとなく登れるんじゃないかと、漠然と思ったのだった。

 ピサンピークは、ピサンの村を出てから一気に標高差を稼ぐ急登の連続だった。
自分がアタックした数日前にかなりの積雪が有った後で、5000mから岩と雪のミックスになり、5600mから上で傾斜が急になると雪は氷になり、技術的にも体力的にもそんなに簡単な山では無かった。
少なくても、エキスパートでは無い普通の登山経験者が登る山としては、難度が高い山だと思った。
そして、一般的に案内されている標準的な予定の日数では高度純化が出来ないうちに5400mのアタックキャンプまで行ってしまい、かなりの確率で高度障害に見舞われるだろうと思う。
ピサンピークに登るなら、アンナプルナサーキットと組み合わせるにしても、ベースキャンプ4200mでの高度純化を慎重にしてからアタックキャンプに進むのが良いと確信する。

 自分は東北の冬山は馴れているが、国内の高峰、3000m級の厳冬期は登った事が無い。
たった一度12月の八ヶ岳に登った事が有るだけで、そもそも経験不足なのだ。
厳冬期の富士山やらを平気でこなせる実力が有って相対するべき山なのだろう。

 
 今日も4時30分に目が覚めた。
昨夜は変な夢を見て寝苦しく熟睡した気がしなかった。
心のどこかに仕事を辞めてまで山登りに来た事の引っ掛かりが有るのだろうか?
夢には色々な仕事で関わった人が脈絡無く出て来て、自分は無理難題を振られ困っているものだった。
熟睡できないのはたぶん、高度障害の軽い初期症状なのだと思う。

 6時に朝食を予約していたが外はまだ静かで人が動いている気配がしない。
しかしネパール人の活動時間は日の出から日の入りまでを知っているので寝袋に潜って日記を書いて日の出を待った。
 
 部屋は大抵ツインベットになっていて、どちらに寝るかは陽の当り具合で決めるのだが、チェックインしたときの陽の当り具合で決めると見誤る事が有る。
昨夜のベッドの選択は失敗だった。
窓際で西日の当って温かい方を選んだのだが、そこは日没後は窓からの隙間風が冷たく夜は寒いのだった。
だからベッドが微妙に傾いていた。
いやベッドが傾いているのではなく、マットレスのへこみ具合がズレて居て傾いて感じるのだが、その理由は直ぐに推測できた。
窓からの隙間風が冷たいので寝ている人は無意識に身体の位置を窓から遠ざけるように動かすのだ。
そして、ギリギリまで逃げて来て来れ以上は落ちるぞと言う所で寝る事になるのだ。
それが毎晩続いてマットレスはへこみ、目で見ては分からない微妙な傾斜を作っていたのだと思う。
昨夜の夢見が悪く寝苦しかったのは高度障害の初期症状かとも思うが、ベッドの傾きも安眠できなかった一因かも知れない。

 結局朝食を食べられたのは今日も7時近くになってからだった。
だから朝食前にパッキングを済ませ、食べ終わったらトイレに行って直ぐ出発と言う体制に変えた。
自分としては朝のトイレタイムを削るのは不本意なのだがネパール人の活動が日の出から日没までとなればこちらがそれに合わせるしか無いのだ。

 7時30分 チャメを出発。
9時10分頃、軽い休憩をBhratangでとった。
ここにはリンゴ畑が有り茶店でも売っていたので4個買って皆で食べた。
2個買って半分ずつなどにするとまたドルジが手で割ってくれるのかと思うと、4個買っても100円と少し、迷わず4個買う事にした。
リンゴは日本のフジなどの大きさと比べるととても小さく、皮がやや硬くてパリパリしている。
硬い皮に用心しながらリンゴを噛むと、とてもみずみずしく、甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。
リンゴの味が濃いと言うのか、甘みも酸味もどちらも濃く、野性的な感じがした。
これから先、マナン辺りまでがリンゴの産地なのだが、マナンで見かけたリンゴ農園の看板には日本の技術援助があった事が記されていた。

 10時50分Dhikuru Pokhariに着く。
ここで昼食をとるか一気にピサンの村まで行ってしまうかドルジが聴いて来た。
一時間と少しでピサンまで行けるのでそこで昼食でも構わないのだが、ピサンは地図の記す高度では3200mになっており、時間があるのだからゆっくり行こうと言って昼食にした。

 ドゥクポカリのホテルは新築で綺麗でWiFiまで備えていた。
こう言う宿に泊まりたいよなぁ~と思いながら、恐らく連泊で腰を落ち着けているらしい欧米人が寝袋を干すのを眺めていた。
ガイドを付けていないバックパッカーの宿選びは優れていると思う。
まず、ロンリープラネットなどのガイドブックでお勧めの宿の目星をつけ、現地に近づくとその方向からの旅行者の情報をもとに評判の良い宿へと向かう。
その上で実地検分して気に入ったら泊まると言う、自分に言わせると神経質すぎないかとも思うが、彼らは1年や年の旅は普通なので一泊の宿の善し悪しはとても大切なようだ。
しかし、それだけ時間に余裕も有るし、ガイドブックが推薦する景勝地を巡る他には宿を探すなりの事しか、他に重要な事も無いのかとも思うが。
ここでも英語の壁ってハンディーだよな、と、つくづく思い知らされる。
自分も色々聴いてみたい事が有るのだが、どうしても腰が引けて話しかけられないし、例えば泊まった宿のダイニングで欧米人らが情報交換しているのを知っても、中々その輪には入れないのだ。
自分は生活用語の英語では困らない程度の会話は出来るのだが、彼らの中に米語が母国語の人が混じっていると単語の中に今流行の若者言葉などが頻繁に出て来るようになりお手上げになってしまうのだ。
いつか米国に長期滞在して米語耳を養ってみたいと思っているが、予算の関係と、何よりも気後れしてついつい退いてしまう。

 ドゥクポクリで今まで当たりだったスープヌードルを頼んでみた。
ネパールと言う国には基準と言うものがないのかと問いただしたくなるのだが、ナーランに「このスープヌードルは今までのと随分違うね、こう言うのも有るの?」と尋ねると「トマト味やオニオン味、ガーリック味にカレー味と、たくさん有るよ」と答えた。
「いやそうじゃ無くて、これはスパゲッティーだから、スープスパゲッティーだろう?」と言うと「でも、それもヌードルじゃないか、問題無い」と言った。
食べてみると不味くは無いし、トマト味のスープにスパゲッティーが少し浮いているのはとても自然なのだが、今までのスープヌードルに対する認識から脱せない自分は納得がいかなかった。
スープヌードルは量も少なく腹が膨れなかったので茹で卵を追加で貰い食べた。
茹で卵とフライドエッグは日本の物と同じなので安心して食べられる。
しかし、同じ卵料理でもスクランブルエッグは少し様子が違う。
大体が日本で言う炒り卵で出て来ると思って間違いない。
しかも、それには緑の葉っぱが入っていたりするが、塩さえ振っていないようで味は何もついていない。
辛めのケチャップが美味いのでそれで食べれば悪く無い。
ちなみに、プレーンオムレツはただの卵焼きで、ベジタブルオムレツは野菜が入った卵焼きだ。
これも塩気も何も無いのでネパールケチャップで食べたら普通に食べられる。

 昼飯を食べ長椅子に寝そべっていると黒人系のアメリカ人女性が唐突に「この荷物をどけてくれ」と言って来た。
突然の呼びかけに吃驚して起き上がると「これは貴方のザックか?私はここに寝転がるから邪魔だ」とにこりともせずに言った。
とにかくザックをどかせと言っている事は分かったので無言でザックを椅子から下ろすと、サンキューと言って自分の小さなザックを枕に寝ころんだ。
自分はサングラスが嫌いなので南国でも雪山でもあまり掛けずに居て平気なので普通に寝転んで目を閉じていた。
しかし快晴の空の陽射しは強く彼女はサングラス無しでは寝ても居られない様子で起き上がってザックの中を掻き回し始めた。
結局サングラスはそこには無かったようで起き上がってこちらを見てお決まりの質問から会話が始まった。
日本人か?から始まって何日の予定だと続き、一ヶ月だと言う答えに随分長いじゃないか?となって、自分がピサンピークに昇ると言うと、ワァーォ エキサィティング!!などと驚いてみせるのだが、こちらからは話しかけないので会話は直ぐに途切れる。

 何時も思うのだ、どうして米語を話す人には怖じ気ずくのか、と。

 ナーランがチェックポイントから貰って来た紙を見せて、これが無いとこの先ごはんが食べられない大事な紙だと言った。
それはツーリストを伴ってトレッキングをしていると言う証明書のような物だと思う。
何故にそれが必要なのかと言うと、ガイドやポーターがツーリストと宿に泊まった場合、宿代も食事代もロキシーも無料なので、宿に対して旅は継続中だと言う証明を貰うようだった。
自分のように一人で3人も連れていた場合でも全員無料なのだが、しかし、自分一人が一泊して宿に落とす金は最高でも1500円程度にしかならない。
これで三人に宿と食事を無料で提供して儲けは有るのだろうか、と不思議に思ってしまう。
ドルジが常に自分の知っている宿に行こうとするのは行き易い事も含め、常日頃の義理と言うのがあるのかも知れない。

 12時00 ドゥクポカリを出発、1時00にピサンの村に着いた。
今日は楽な一日だった。
距離はそこそこなのだが傾斜が緩く標高が上がっているのに歩くのが苦にならなかった。
昨日、標高2800mを超えたときから少し感じていた頭の違和感と軽い吐き気が今日は消えていた。

 日本でも3000m峰を登ると、その度に2500mで軽い吐き気を感じ、3000mを超してしまえば後は治るのが常だった。
北や南アルプスの縦走をすると3000mで3泊程度は寝泊まりをするのだが、2500mでの吐き気を越えた後は食欲が落ちる事も無く寝苦しさを感じる事も無く過ごして来た。
しかし今回は3000mで食欲不振を感じていた。
たぶん馴れないネパールの食事も関係しているのだろうが、自分が思っているよりも疲労しているのかも知れなかった。

 今日も一番乗りで宿に入ったので日当りの良い角部屋が取れた。
ピサンは夜冷えるからとドルジが毛布を持って来てくれた。
ドルジと言う奴は基本的には良い奴なのだが、日本人の感覚を今一掴み切れていないようで、つまらない事で神経を逆撫でしてくれる。
それと、大した額でもない小銭を誤摩化すのを止めたら何も文句の無い良いガイドだと思うのだが、残念な奴だった。

 部屋の窓からピサンピークの頭、通称ドームが見えていた。

 ピサンの村へ向かう道で見えたドームには正直に言ってガッカリだった。
茫洋とした感じは東北の2000mにも満たない山の斜面に似ていると思った。
どこにも鋭さや厳しさを感じる物が無く、やはり誰でも登れる6000m峰なのだと舐め切って、既に頂上はもらったと確信した。

 ピサンの村は風が強く噂通りに寒かった。
自分はダウンパンツに厚手のダウンジャケットを着込み、毛糸の帽子に手袋までして部屋に居た。
手袋無しではノートの紙が冷たく、手がかじかんで鉛筆も持てなくなり字も書けなかった。
陽射しが有っても風が強くて外には居られず、昨日までの宿はピサンの村に比べればとても温かかったと言える。

 ミルクティーを貰いにキッチンに行くとドルジがこっちへ来いと言うので行ってみると、本当は宿の人達の寝室らしい、透明の波板を屋根に張ってサンルームのようした温かい部屋だった。
自分はそこでミルクティーを飲みながら破れた股引を縫っていたのだが、温かさに誘われて寝てしまった。
谷間の村のピサンは日没も早く、陽が陰ると急速に寒くり目が覚めた。

 薄暗くなった宿に続々とトレッカーがチェックインして来た。
昨日のポーランド君の一行と、他にも欧米人のグループが来ているようだった。

 ダイニングには大きなストーブが有り他所のグループのポーター達がそれを取り囲んでいた。
その中のトレッキングガイドと思しきネパール人が日本人かと問うて来た。
そうだと答えると自分が履いているダウンパンツを見て、ピサンピークに登るのかと聞いたので明日は休養日で明後日から登り始めると言うと、数日前にアタックした5人のパーティーは寒さと雪の深さで登り切れなかった、と教えてくれた。
それは聞かない方が良かった話しだなと思ったが、そんなに寒いのか?と聞くと、その時は特別冷え込んだ時で今はもう大丈夫だろう、と言ったが、それでも夜明け前の6000mは氷点下20度以下は間違いないと言った。
またまたまたぁ~そう言う情報をここで聞いても脅かされてるとしか思えないから要らないのに、と思いつつも、ついついアレコレ訊いてしまうのだった。

 5時30分頃、疲れ切った様子の二人が入って来た。
後から来たガイドの話しでチュルーイーストにアタックしていたフランス人達だと言う事が分かった。
残念な事に敗退だったそうだ。
原因は深雪と寒さだそうで、鼻の頭を少し凍傷でやられているガイド曰く、氷点下35度にまで下がったのだと。
チュルーイースとはアプローチが長いらしいから自分が二日続けて午後から雨に遇ったあの頃、既に高所に登っていたのだ。
  
 チュルーイーストを狙う位だし、ローヨッパアルプスを抱えるアルピニストの本場フランスから遠征して来たのだから腕に覚えはある人達なのだろう。
敵に回したら一番厄介な天気が臍を曲げたと言う事で、運が無かったとしか言いようが無い。
二人は食事をする気力も無いかのように無言で座っていた。

 ああ、明日は我が身かも知れない、と、弱気の虫が起きる。

 本日のディナーはポテトカレーライスだった。
この手の夕食をディナーと言うのは憚りたいし、ネパールに来てディナーを食べたと思った事は無いのだが、この地では腹一杯に食べればそれはディナーなのだ。

 さっきの暗いフランス人が隣の部屋に入った。
筒抜けに聞こえる話し声なのだがフランス語は一単語も知らないので雑音にしか聞こえない。
話し声は良いとして、フランス人もコンビニの袋に物を入れて来るのか、パリパリガサガサと音を立てるのは堪らない。
日本人には山小屋で守らなくては成ら無いお約束の筆頭として浸透しているが、フランス人は無神経なのか?

 7時半、まだ反省会をしているのかフランス人が煩いが、他にする事も無いので寝た。





 



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チャメ へ No.8

2013-12-14 14:48:18 | ネパール旅日記 2013

 11月12日 火曜日 快晴

 ダナキュー(2300m)からチャメ(2670m)へ。

 AM4:30起床。
起床と言っても上半身を起こし寝袋に入った上に毛布を被ってノートに向かっているのだが。
寒くて起きる気がしない。
試しに腕時計を外し気温を測ってみると、8度だった。
体温で暖まっている腕時計は正確な温度を測るまでに時間が掛かるので30分程放置してみたが、8度で動かなくなったのでたぶん正しいのだと思う。
しかし、8度も有るのにこれほど寒く感じるのか?
自分の仙台の家でも真冬ならもっと下がるがこれほど寒いと思う事は無い。
身体が馴れていないからなのか?
しかし、ここでこの寒さに困っているようでは6000mの山の寒さに耐えられるのかと心配になる。
そして、気持ちのどこかで、洒落や冗談で登れる程ヒマラヤの山は甘く無いのかと弱気にもなる。

 この後、本当に寒くなり、部屋の中で氷が張る気温になって知ったのだが、ノートの紙に触っていられる間は大した寒さではなく、本当に寒いと鉛筆を持って文字が書けなくなるのだった。

 ナーラン曰く、マルシャンナディー川の谷間に沿った街は陽射しが無いのと川風で特に寒いのだそうだ。
そして、一番寒いのはピサンピークアタックのベースの宿になる、ピサンの村だと言う。
おいおい、脅かすなよ、ただでさえ山の迫力に圧倒され、寒さに打ち拉がれてピークアタックに弱気になっているのに、と、思いつつ、ガイドやポーターと一緒でなければトレッキングはともかく、ピークアタックは断念していたなと思った。

 6時に朝食を予約してあったのでダイニングに行ってみたが誰もいなかった。
キッチンにも人がいる様子は無く、結局朝食が食べられたのは7時だった。
段々とヒマラヤトレッキングのコツが分かって来た。
日の出より前の起床は原則として無いのだ。
電気の灯りや暖房に乏しいネパールでは日の出から日没までが活動の時間なのだろう。

 パンケーキに蜂蜜たっぷりの朝食を食べ、8時ダナキューを出発。
昨日ナーランとドルジが、明日は結構キツいぞと言ったのは本当だった。
ダナキューの村の外れから一度緩く下ってからは一気に登りになり、それは1キロで450m登る急登だった。
1キロで450mと言うとどんなスキー場の傾斜よりも凄くて、平均でこれだから厳しい所では本当にクライミングになっていた。
自分が喘ぎながら登る斜面を重い荷を担いだポーター達は殆ど表情を変えずに登って行く。
そして、登山靴を履いていても滑りそうな細かな砂利の道を何事も無いように歩く。

 登るだけならまだ良いのだが、精神的に参るのは折角登ったのにまた下る事だ。
この道は大きなアップダウンを越してその後も、細かく上り下りしていて心身ともに辛かった。

 大変だった理由に朝からの下痢が有ったかも知れない。
昨夜は夜中に三度もトイレに行った。
下痢の理由は、思い当たる節が多過ぎてとても特定できないが、一番危ないと思っているのは、ドルジ達の親切だ。

 シェルパ族は熱心なチベッと仏教の信者で、日本人と同じように物を分け合って食べるなど、労りの気持ちを持っている。
例えば、小さなリンゴを一つ貰ったとすると、均等には割れなくても人数分に割って分けようとする。
昨日、峠の茶で自分がリンゴを二つ買い、一つをナーランとナラバードルが分け、自分はドルジと分けた。
その時、ドルジがリンゴを割るのに皮に爪で傷を付けて割り、汁の滴るリンゴの大きい方を自分にくれた。

 問題はドルジの左手なのだ。
彼らは用便をすると手桶に汲んだ水を使い左で洗い流す。
その事自体はその国の習慣だから何とも思わないのだが、彼らは手を洗っても石けんなどは使わないし、それ程熱心にも洗わない。
その事を知っているので彼の左手で触った食べ物は現実的にどうこうと言うよりも精神的な圧力となって自分のお腹を刺激して来るのだ。

 今日、ネパールに来て始めての野糞をした。
集落を出ればどこでも自由にどうぞと言う環境が整っていて下痢をしても気は楽だった。
しかし、これも森林地帯までの話しで、4000mより上は隠れる所の少ない岩場の道になりそうも行かなくなる。
だが、その辺まで登ると行き交う人も少なく、前後を見極めれば問題無いとも言えるが、良い感じの岩の影は大抵先客の跡が残っていて快適な環境とは言い難かった。

 今日の歩きが辛かったのは下痢で力が抜けたせいも有ったかも知れなかった。
こんな事で6000mの山に登れるのかと、また弱気になってしまう。
そして、誤算が発生した。
ホケットティッシュを一日1個の計算で持って来たのだが、色々な事にティッシュを使い、一日1個では足りないのだ。
しかし、この事はどこの村でも買えるトイレットペーパーを発見して解決した。

 急登を登って振り返るとマナスルが聳えており、道の先にはアンナプルナ2がそそり立っていて息を呑んだ。
どちらも静かに聳えているが、自分如きに手が出せる山では無い事を無言の圧力として感じる。
これに挑んだアルピニストの肝の太さや、登り切った技術、体力、精神力に思いを馳せ溜息をつく。

 昨年、アメリカのコロラドロッキーの4000m級の山を6座登った。
日本には無い4000mの山が連なる様は迫力が有ったが、どの山を見ても自分に登れないとは思わなかった。
しかし、ヒマラヤの山は違っていた。
8000m峰や7000m峰の著名な山は言うに及ばず、地図に名前も乗っていない5000~6000mのピークでも自分に登れる気がしないのだ。
実際に標高差を考えても、ロッキーの4000m峰は登り始めが2500mから上がほとんどで、1500から1800も登れば頂上に立てる。
しかもアプローチが車で行けるように整備されている事が多く、気負わずに登れた。
しかし、自分が登ろうとしているピサンピークでも標高差は3000m有り、想像しただけでも大変な事は分かる。

 自分はヒマラヤの山の迫力にビビっていた。

 

 陽が上り道を照らすようになると気温はぐんぐん上がり、今日も半袖で歩けるようになった。
朝はフリースとダウンジャケットを着て歩き出し、昼近くなる頃にはすべてを脱いだ上に半袖になる。
この温度差がこのルートの難しさなのか、それとも、熱帯から氷の世界までを一度に体験できる醍醐味なのか、感じ方は人それぞれだと思うが、厄介な事であると自分は思った。

 1時20分 チャメの宿に入る。
今日も宿には一番乗りだった。
これはドルジの案内による所が大きい。
大抵のガイドはジープロードをなぞって来るのだが、ドルジはほとんど分からない旧道の入り口を巧みに見つけて入って行くのだ。
ジープロードは車が走れるように傾斜は緩いがその分距離が長い。
ドルジは殆ど崖じゃないかと思える急坂を、ショートカットと言って登って行く。
そして、登り切って暫く歩いていると、随分前に自分らを追い越して行った欧米人のグループがやって来てまた追い越して行く。
その時、何度か追い越して自分らを覚えている人はとても不思議がるのが面白い。
最初は、ドルジの馬鹿野郎めが、ジープロードをのんびり歩けば良いじゃないかと思っていたのだが、外人グループに一泡吹かせるのが楽しくてクライミングかと思うような急登を息せき切って登るのが嫌ではなくなった。
その甲斐あって首尾よく、出発は8時と遅かったのに宿には一番乗りで日当りの良い角部屋を確保できたのだ。

 昼飯に食べたカレーが割と美味かった。
それはその昔学食で食べた「うどん粉カレー」の味に良く似ていて、塩気が薄い事を除けばほとんど同じような物だった。
なので夕食にも野菜カレーを食べてみたのだが、これがまた当たりで、大盛りライスも苦にならずに食べ切れた。
ここでまたネパールトレッキングの法則の一つを掴んだのだが、大きくて流行っている宿の食事はうまい。
いや,万国共通で当たり前か?

 今日は水分補給を結構した。
ジンジャーティーを4杯にレモンティーを1杯にミルクコーヒーを2杯呑んだ。
カップは大きめのマグカップなので250ccは入っているとして、1750ccは飲んだ計算になる。
しかし、これではまだ足りない。
もうすぐ3000mになるので高山病の予防にも水分の補給は欠かせない。
明日からは2リットル以上を飲むようにしようと日記にも書いたのだが、そんなに飲んだ記憶は無いのでいい加減な物である。

 夕方、日が落ちてから、窓の向うに見えるマナスルが色づき始めた。
そして10分後にマナスルは真っ赤に燃えた。
子供の頃に岳人か山渓か、そんな雑誌で見た白幡史郎の赤く燃えるエベレストを見て、多少写真を齧っていた自分は絶対にフィルターの悪戯だろうと思っていたが、目の前でマナスルが赤く染まるのを見て唸ってしまった。

 あの写真を思い出し、ああ、来年はエベレストを見て写真に撮りたいと思った。

 6時の夕食時には停電していた。
皆がヘッドランプを頭に付けて唯一暖房のあるダイニングに集まっていた。
午後二時頃、大きなグループが到着して宿は一気に賑やかになっていた。
しかしこのグループもいくつかの小グループの集まりで、カトマンズのトレッキングツアーデスクでブックキングして歩いているだけのようだった。
だから、12人いて、ドイツ人、カナダ人、ポーランド人、フランス人と、それぞれバラバラだった。
良く聞いていると共通語は英語の用で、皆それなりに喋れているようだった。
自分はそんな輪には入れなくて何時ものように一人で離れて座っていた。
そこそこ美味いカレーに感激して食べていると、向かい側に相席を尋ね座った若い二人の男性が居た。
一人はドイツ人でもう一人がポーランド人だった。
ポーランドの若者がとても失礼な奴で突然自分に向かって「お前は中国人か?」と問うて来た。
無視していると隣のドイツ人が「彼は日本人だろう」と、幾分かポーランド野郎を嗜めるように言った。
自分は日本人だとは言わずにポーランド野郎にお前は何人だと聞き返した。
奴がポーランド人だと言ったので日本人だと言うと、ポーランド野郎は名前を名乗り中国人が嫌いでさ、と言う風なことを言った。
その後は結構悪く無い奴だと分かり色々話しをした。
その後彼らとは行く先々で何度も合って話しをする事になった。

 ポーランド君との話しも長くは続かず、やはり長居できる雰囲気ではないので熱いミルクコーヒーを持って部屋に戻った。

 午後七時就寝。
 

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ダナキューへ No.7

2013-12-13 14:07:17 | ネパール旅日記 2013
 チャムチェの朝は寒くは無いのだが、アンナプルナ下しの風が冷たかった。

 村の道路は早朝から、もっと上のチャメやマナンと言う、選挙の投票所のある大きな街へ向かう人達でごった返していた。
ある人は徒歩で、またある人はバイクに二人乗りで、そして、ジープも人と荷物を詰め込めるだけ詰め込んで出発していた。

 トレッカーはそんなに早立ちはしない。
一日に歩く距離は多くても20キロも行かないし、まだ高度に身体を慣らして行く段階なので標高差もそれ程上げないようにわざと刻んで行く。

 チャムチェの村の北側には見事な岩山が有って、自分の見立てでは一枚岩のスラブに見えた。
これほど見事な岩でも誰も登っていないと思うのだが、ヒマラヤまで来てこんな無名の訳の分からない岩に登ろうと言う人は居ないだろう。
自分はクライミングはヘボの初心者なのでチャムチェの岩は見ただけでギブアップなのだが、美しかったり迫力のある岩を見ると攻略法を考えてみたりはする訳で、マルチピッチで一日掛りで丁度良い感じか、などと勝手に想像して見た。
しかし、後で知った事なのだが、自分が歩いた範囲では標高が上がる程に岩は脆くなり、ピサンピークでは5000mより上では板状に割れている岩を手で剥がす事が出来た。
山群や山塊によって違うのかも知れないが、あの脆さでは危なくて登れない。
また、標高が低い所では直射日光を浴びた岩は暑くて触れない事も有った。
たぶん、色々な要素が絡み合ってヒマラヤの岩場は遊びには向かないのかも知れない、などと思って見たが。

 7時20分チャムチェ(1430m)出発 目的地はダラパ二(1860m)

 朝食はパンケーキにミルクティーだった。
昨夜から腹が緩くなり出発前、念入りに何度もトイレに行った。

 今日の午前中はジープロードの歩き通しで埃を随分吸った。
ジープロードは埃っぽい上に隠れる日陰が無いので亜熱帯の陽射しを浴びて歩く。
だから喉が渇くのだが、こう言う道には程良い所に「峠の茶店」があって、30RP程で紅茶が飲める。(ネパールの1ルピーはほぼ1円で換算して良い)
自分は元々水を飲まない方なのだが、口の中の砂気を流す為に紅茶を良く飲んだ。
しかし、低い所で30RPの紅茶も標高が上がるに連れて高くなり、アンナプルナサーキットの最高点、5416mのトロン・ラ・パスの茶店では普通のカップが100RPで、自分が飲んだ大カップは300RPだった。

 ダラパニには11時10分に着いてしまった。
距離的にも標高差的にもダラパニで停まるのが普通なのだが、スープヌードルの昼飯を食べ、12時20分にダナキューへ向けて出発。
スープヌードルとはインスタントラーメンのことで、ネパール人の味覚と違って馴染みの味に近く、ネパールに来て一番美味いと思った物だった。
日頃はインスタント食品を嫌っている自分であったが、この時からインスタントラーメンを偉大な食べ物であると認める事にした。

 道は時にアンナプルナの山塊を見上げるようにして歩く。
ラムジュンでもアンナプルナでも山が見える度に圧倒され、その迫力に唸りながら、俺には無理だは、と溜息を漏らす。
山を眺めつつ、もしも登るとすればルートはどうなるのかと考えてみるのだが、どこにも隙が無いのだ。
ドルジに「この山はどこから登るんだ?」と問うと、こちらからは登れない、ノーマルルートは裏側で、ベースキャンプに着いてから一ヶ月程掛けてアタックすると言った。
そうか、やはりこちら側からは無理かと納得し、何故かほっとする。

 ドルジもナーランも明日はキツいからダナキューに行ってしまうと後が楽で良いと言いつつ歩くのだが、ダラパニからダナキューまでの標高差は440mあり、しかも、登り返しがあって辛かった。

 ダナキューには1時40分に着いた。
ドルジが勝って知ったる馴染みの宿と言う感じて入ったのは、例によって由緒有りそうな旧い宿だった。
客は自分らの一行だけだった。

 谷間の集落で日の出が遅く日の入りが早い、寒い村だった。
しかし、シャワールームにはガスで使える給湯器があって、100RPで熱い湯を浴びる事が出来た。
ここでも二日間着た衣類と、7日間はき続けているズボンを洗った。

 谷間の村は一日に二度風が吹く。
日が昇り岩山が温められると上昇気流が沸き山風が吹き、冷えるとそこへ吹き込む谷風が吹く。
谷風は雪山から吹き下ろし河に沿って走るのでことの外冷たい。
だからダナキューは2300mとさして高くも無い標高なのに寒い。
午後3時頃に干した洗濯物は薄手のシャツ以外は乾かずに、朝には凍り付いていた。

 日が陰ってからはフリースを着込み厚手のダウンジャケットにダウンパンツを履いてもまだ寒くて、宿で唯一火の気のあるキッチンに籠り切っていた。
ここで山間部のネパール人の暮らしぶりを始めて見たのだが、何故か昔から知っていたような気がした。
囲炉裏と竃の違いは有っても、遠い昔の日本の田舎と大して違わない雰囲気に気持ちが和んだ。

 宿の主人はすぐ隣りの学校の校長先生だと紹介された。
学校と聞いて、エレメンタリーかと尋ねると、プライマリーだと笑って言った。
そうか、英国式の英語かと感心して、やはり英語はインド流で古いイギリス英語の影響を受けているのかと尋ねると、そんな事は無いが役所言葉や昔からの言葉にはその影響が色濃く残っていると教えてくれた。
観光客が接するネパール人の英語は耳から覚えた英語なのでミックスで、ネパール英語だと言い、貴方の英語は日本式英語かと言われた。
いや,私の英語はクイーンズイングリッシュであり正統派だと言うと一同頷いて黙ってしまった。
笑いが欲しい所だったのだが、ネパール人はあまり笑わない人が多いようだった。

 晩飯にはベジタブルピザを頼んでみたのだが、予想に違わぬ物でミルクティーで流し込まないと喉を通らなかった。
海外で食べ物に困った事は一度も無く、何でも食べられると自負していただけにネパールの山間地の食べ物に対するショックは大きかった。
その昔は、少し長く海外に出かける時にはフリカケや梅干し、ごはんですよなどを持って歩いた物だったが何度も手付かずで持ち帰った経験から今は何も持たなくなった。
キャンプ用のフリーズドライを15食分持っているのだが、ホテル泊の道中でそれを食べてしまう事は出来ないし、困った。
その後、フライドエッグにライスの組み合わせに気が付き、またオニオンスープが大抵の宿でそこそこ行ける事を発見し、オニオンスープにライスを入れておじやにして食べる事を考案し、なんとか凌いだ。

 余談だが、欧米人は常日頃から大して美味い物を食べていないのか、マカロニ系のとんでも無いパスタと言う名の食べ物を、ケチャップだらけにして食べていた。
知り合ったポーランド人に「それ美味いのか?」と尋ねると、不味くは無いと言ったので試してみたが、元来マカロニがあまり好きでもない自分には食べられなかった。

 他の人のアンナプルナトレッキング紀行を読んでもそれ程酷い食事とは書いてい無いのだが、自分が繊細過ぎるのだろうか?

 夜、竃の前で暖をとりながら話し込んでいるとドルジがコップに注がれた殆ど透明な液体を差し出した。
見た瞬間に酒だろうと見当はついたが、なんだそれ?と恍けて聞くと、ロキシーと答えた。
俺の見える所で酒は飲まない約束では有ったが、しかし、勤務時間外であり、しかも、本来は自分がいるはずではない場所なので咎めずに受け取った。
飲んでみろと言うので酒は飲まないと言うと、酒と言う程の物では無く、どちらかと言うと薬のような物だと言った。
ほら始まった、飲兵衛の言い訳は万国共通だった。
序でに自分が、疲労回復にも効くんだろうと言うと、明日はパワフルになるぞと調子に乗って行った。
恐る恐る一口飲んでみたら、割と美味かった。
微かな甘みとアルコールを感じ、まるで麦焼酎をかなり薄く水で割ったような風味だった。
元来嫌いな方ではないのだが、ここで飲んでしまってはドルジの思うツボに嵌る。
しかし、手にしてしまった一杯は飲み干すのが礼儀だろうと言う事で仕方なく飲んだ。
すると、ナラバードルがすかさずお替わりを注いでしまった。
だがそれは呑まずにナーランに手渡した。
ナーランはヒンドゥー教徒なので酒は呑まないはずなのだが、やはりネパール人だった。
家に帰ったら絶対に呑まないんだが、山は寒いし疲れるから薬として呑むのだと言って美味そうに呑んだ。

 PM7時30分 消灯 窓の外は風が強く干した洗濯物が気がかりだった。


 
 

 


コメント
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