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草野心平文学館没後40年吉野せい展

2017-12-18 08:26:49 | エッセイ
2017.10/7~12/24いわき市草野心平記念文学館で「没後40年吉野せい展」を見てきた。写真の右展示室は生まれてから、洟たらしまでの作品で、原稿や手紙の字の上手さに感心した。また、奥の展示室は洟をたらした神が中心で、その色紙など2枚も展示してあった。

明治32年いわき小名浜の裕福な網元の娘に生まれ、教員検定合格、1916年17才で代用教員後、 山村暮鳥らの文人と交流をもち、雑誌や新聞に作品を投稿する。

1921年(大正10年)阿武隈山系菊竹山麓で開墾していた詩人吉野義也(三野混沌)と22才で結婚し、それまで書いた原稿や日記をすべて焼払い、北好間で開墾生活に入った。

1970年(昭和45年)三野混沌が亡くなると、結婚してからこれまで、ほとんど作品を書いておらず、交流のあった直線で6.5㎞しか離れていな小川の蛙の詩人草野心平に作品を書くように勧められたことを契機に、再び執筆活動を始め1974年(昭和49年)『洟をたらした神』を出版、心平は「吉野せいさんは今年75才になる百姓バッパでる・・・」と帯文に寄せている。「暮鳥と混沌」「菊竹山と混沌」など出筆。

1975年76歳にして『洟をたらした神』が第6回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回田村俊子賞の2つの文学賞を受賞し、各界に衝撃を与えた。開墾生活の苦しい子育ての実体験の小説で、心平はせいさんの百姓やりながらのそのエネルギーに恐れ入ると。しかし、それより単なる農民記録ではなく文学であるという。今の菊竹は好間中学校や住宅が立ち果樹園となり荒れ地のイメージは全然ない。

1977年(昭和52年)11月4日、尿毒症のためいわき市立総合磐城共立病院で死去、享年78で、名を知られて2年、混沌が亡くなって7年の活躍で惜しまれた。