ブログ仙岩

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野口英世博士15年ぶりの帰国

2021-12-13 05:18:48 | エッセイ
野口英世(1876.11.9~1928.5.21)は西アフリカのアクラ(現在のガーナ共和国)で亡くなった。

1915年9月5日郵船横浜丸で15年ぶりで米国から帰国、「世界医学界の天才野口医学博士帰朝す」本県翁島出身の見出しで、8日の福島民報に載せていた。
子供の頃、火傷で親指と人差し指が付着したのを、切開治療してから、医学を志し医術開業試験に合格、順天堂病院に入り、英仏独米の各国に留学一昨年医学博士となった。
両親に面会すべく帰朝、15年の日本の現状を、日本医学会の視察、日本はドイツの関係が深く、もっと米国との関係を持つようにと・・・歓迎会と3時間の講演、「喜びに包まれた野口博士」の見出しで載せている。
また、大玉出身の玉応不三雄さんが上野公園の野口英世像を企画、募金から1951年3月21日に完成と。
そして、世界的医学の泰斗、野口博士の逝去を悼む、訃報に驚いて大原博士の過去十年想起を語るの見出しで。
玉応さんは、「野口博士の最期」として、博士の居住したアフリカのゴールドゴースト熱帯熱病研究所に居た博士の助手は「この研究所は全部博士に提供された」と、また、黄熱病菌を持つ蚊群に自分の手を入れて刺され、何時発熱するかわからないとき、ナイゼリア国首府から重要な黄熱病の資料があるから来てくれと電報が入り、アクラに寄港した英国船に乗って、ラゴスに行き資料を獲得した。その船でアクラに戻ってきた時にはすでに発病していた。博士の居住地ゴールドゴーストは雨が多く百人の墓地と称される不健康地帯であり、
「人類のために生き、人類のために死す」との故博士に寄せられた全アメリカの賛辞は日本文化の先駆者として世界に誇ると述べている。
公益財団法人野口英世記念会提供と上野公園の野口英世像。台石には「PRO BONO HUMANIGENERIS」(人類の幸福のために)と刻まれている。2021.10/14Timeより。