過ぎ去りし時の中で、忘れられないことがある。忘れたいこともある。
忘れられない人、時のことを記しておきたい。
35歳頃から10年ほど、夜毎酒場を徘徊していた。家族は在っても家庭は無いが売り文句だった。
仕事は、充実していた。やるべきこと、やらなければならないことが沢山あった。
吸収し、発散しなければ自分が保てなかった。
仕事は、2~3年で転勤を繰り返していた。
ある時期、古くからある業界を相手の仕事に就いていた。社員の被服を調達する仕事だった。
取引先は、総てこの業界の生え抜き。表もあれば裏もある。本音の処は自分達業界の秩序、パワーバランスの中で処理されている。
調達側の私達は、2~3年で変わっていくお客さん、であったろう。
私が、その職に着任して最初に考えたこと。「自分は何のためにこのポジションに就いたのか、何をすべきであるか」であった。
応えは、明白「最適な品を、最適なコストで調達すること。その品を着用する社員の満足度を如何に高めるか、社員がお客」である。
私の考えを徹底して行くと、業界との摩擦が生じてくる。彼等からすると、自分達が営々と築いてきた商権でありルールなのだ。
高々2~3年しか在職しない担当者に何が分かるか、これまでの遣り方を変えたくない。弄られたくない、と云う思いがある。
それは、既存の利権を守りたい云うこと。(私が、反対の立場であれば、当然そうしたい)
彼等にすれば、これまでの利益を守りたい。
私は、丼に3杯も4杯も喰うのは止めてくれ、適正値があるだろうと責める。
これまでの在庫方式を、直送方式に替え、在庫コストを削減する。国際調達方式を導入することで購入単価を下げる。せめぎ合いだった。
そんな或る日、お世話になった元上司から電話が入った。
「たまには飯でも食べよう」と。趣旨は即座に理解したが、断るような野暮はできない。
呼ばれた席には、業界を代表する会社の課長が同席していた。
「〇〇君(私)、気持ちは分かるが、田圃の畦道から石を投げると泥が跳ねて大変だよ」と諭された。
「いいえ、田圃の畦道から石を投げる気はありません。田圃の中に入り、泥だらけになるつもりです」と、生意気盛りの僕は応えていた。
その方には、その後もご厚誼を頂いたが、顔を潰すこととなった。
今なら、もう少し違う対応ができるのかもしれない。
この時、私が導入した調達方法は、その後、他官公庁に波及し定着していったと聞く。
業界にすれば、恨みを残しているかもしれない。
思い切ったことがやれたのは、時の上司がすべて任せてくれたこと。
実務を推進した、よき部下に恵まれたことにある。(僕は、5時以降は酒ばかり飲んでいたから)
そして忘れてならないことは、業界の人間でありながら、先駆的な取組に共感し、惜しみない協力とサポートをしてくれた人が居たからである。
何事も、周りの理解と協力を得ることが早道だと思う。
Yさんの想いで
そんな仕事をしていた頃にYさんと会った。Yさんは、靴メーカの営業担当で、我々の会社の担当に途中からなった。たまたまその会社は剣道が盛んで、私はその会社のことを知っていた。
Yさんは、かって剣道部の部長をしていたとのこともあり親しくなった。
業界のことを含めいろいろと教えてもらった。
初めて、靴メーカの工場を見させてもらったのもYさんの会社の工場だった。この時は、他の靴屋さん達も同行し、呉越同舟だった。
会津坂下のその工場は、廃校となった小学校跡を利用していた。
4月下旬、私と担当のK君が訪れた時は、鶴ヶ丘城の桜の蕾は固く、工場の校庭には雪の小山が残っていた。
整然とした工場で働く人たちは、折り目正しく、好感を覚えた。
夜、東山温泉で呉越同舟の宴会となった。
芸者さんが踊る、「白虎隊」「女白虎隊」の唱と踊りに、何故か涙した。
大年増のカルタ姐さんの、軽妙な唄と踊りに大いに湧いた。
夜中まで、飲んだ。愉しんだ。
工場での、真摯な作業風景。整然とした中を見て安心したこともある。呉越同舟で皆さんが喜んでくれたことも。会津の鄙びた風土と、戊辰戦争の無念の欠片を吸った所為も・・。
その年の秋、会津の芸者の姐さんから柿が一箱届いた。気の早い部長が齧った。
「渋い!」よくよく箱の上書きを見れば、食べごろが書いてある。名産の晒し柿だった。
後から、Yさんに聞いた。「あれは、あんたが送らしたろう」彼は、笑っていた。
体型に似合わず、そんな細やかな芸もできる人だった。
ある夜、K君とYさんの三人で赤坂で飲んだ。バブル前の景気が上向いた時代。
遅くなったので、僕は先に失礼した。YさんとK君はまだ残っていた。
翌日、出勤するとK君が顔を腫らしている。会議室に呼んで事情を聞いた。
どうしたんだ?
「実は、あの後ケーキを買って、僕の家に行くことになったんです。タクシーを止めたところ、他の人と取り合いになり喧嘩になりました」と云う。
「Yさんがあっと云うまに相手を殴り倒したんですが、僕はケーキも持って見ていたら、相手の連れに殴られてしまいました。お土産のケーキがグチャグチャになりました」
「Yさん喧嘩強いわ~」
馬鹿野郎、何故お前もやらなかったんだ。
暫くして、Yさんを呼んだ。
「Yさん、あんたとこは精々、数百億円の会社。内は何兆円規模だぜ。事件になっちゃ困るんだよ。気を付けてくれよ」と、嫌味な言い方を敢えてした。
一緒に飲むたび、それから暫くは「内は高々100億の会社だから」と云うのが彼の十八番となった。
良き時代と云える。
忘れられない人、時のことを記しておきたい。
35歳頃から10年ほど、夜毎酒場を徘徊していた。家族は在っても家庭は無いが売り文句だった。
仕事は、充実していた。やるべきこと、やらなければならないことが沢山あった。
吸収し、発散しなければ自分が保てなかった。
仕事は、2~3年で転勤を繰り返していた。
ある時期、古くからある業界を相手の仕事に就いていた。社員の被服を調達する仕事だった。
取引先は、総てこの業界の生え抜き。表もあれば裏もある。本音の処は自分達業界の秩序、パワーバランスの中で処理されている。
調達側の私達は、2~3年で変わっていくお客さん、であったろう。
私が、その職に着任して最初に考えたこと。「自分は何のためにこのポジションに就いたのか、何をすべきであるか」であった。
応えは、明白「最適な品を、最適なコストで調達すること。その品を着用する社員の満足度を如何に高めるか、社員がお客」である。
私の考えを徹底して行くと、業界との摩擦が生じてくる。彼等からすると、自分達が営々と築いてきた商権でありルールなのだ。
高々2~3年しか在職しない担当者に何が分かるか、これまでの遣り方を変えたくない。弄られたくない、と云う思いがある。
それは、既存の利権を守りたい云うこと。(私が、反対の立場であれば、当然そうしたい)
彼等にすれば、これまでの利益を守りたい。
私は、丼に3杯も4杯も喰うのは止めてくれ、適正値があるだろうと責める。
これまでの在庫方式を、直送方式に替え、在庫コストを削減する。国際調達方式を導入することで購入単価を下げる。せめぎ合いだった。
そんな或る日、お世話になった元上司から電話が入った。
「たまには飯でも食べよう」と。趣旨は即座に理解したが、断るような野暮はできない。
呼ばれた席には、業界を代表する会社の課長が同席していた。
「〇〇君(私)、気持ちは分かるが、田圃の畦道から石を投げると泥が跳ねて大変だよ」と諭された。
「いいえ、田圃の畦道から石を投げる気はありません。田圃の中に入り、泥だらけになるつもりです」と、生意気盛りの僕は応えていた。
その方には、その後もご厚誼を頂いたが、顔を潰すこととなった。
今なら、もう少し違う対応ができるのかもしれない。
この時、私が導入した調達方法は、その後、他官公庁に波及し定着していったと聞く。
業界にすれば、恨みを残しているかもしれない。
思い切ったことがやれたのは、時の上司がすべて任せてくれたこと。
実務を推進した、よき部下に恵まれたことにある。(僕は、5時以降は酒ばかり飲んでいたから)
そして忘れてならないことは、業界の人間でありながら、先駆的な取組に共感し、惜しみない協力とサポートをしてくれた人が居たからである。
何事も、周りの理解と協力を得ることが早道だと思う。
Yさんの想いで
そんな仕事をしていた頃にYさんと会った。Yさんは、靴メーカの営業担当で、我々の会社の担当に途中からなった。たまたまその会社は剣道が盛んで、私はその会社のことを知っていた。
Yさんは、かって剣道部の部長をしていたとのこともあり親しくなった。
業界のことを含めいろいろと教えてもらった。
初めて、靴メーカの工場を見させてもらったのもYさんの会社の工場だった。この時は、他の靴屋さん達も同行し、呉越同舟だった。
会津坂下のその工場は、廃校となった小学校跡を利用していた。
4月下旬、私と担当のK君が訪れた時は、鶴ヶ丘城の桜の蕾は固く、工場の校庭には雪の小山が残っていた。
整然とした工場で働く人たちは、折り目正しく、好感を覚えた。
夜、東山温泉で呉越同舟の宴会となった。
芸者さんが踊る、「白虎隊」「女白虎隊」の唱と踊りに、何故か涙した。
大年増のカルタ姐さんの、軽妙な唄と踊りに大いに湧いた。
夜中まで、飲んだ。愉しんだ。
工場での、真摯な作業風景。整然とした中を見て安心したこともある。呉越同舟で皆さんが喜んでくれたことも。会津の鄙びた風土と、戊辰戦争の無念の欠片を吸った所為も・・。
その年の秋、会津の芸者の姐さんから柿が一箱届いた。気の早い部長が齧った。
「渋い!」よくよく箱の上書きを見れば、食べごろが書いてある。名産の晒し柿だった。
後から、Yさんに聞いた。「あれは、あんたが送らしたろう」彼は、笑っていた。
体型に似合わず、そんな細やかな芸もできる人だった。
ある夜、K君とYさんの三人で赤坂で飲んだ。バブル前の景気が上向いた時代。
遅くなったので、僕は先に失礼した。YさんとK君はまだ残っていた。
翌日、出勤するとK君が顔を腫らしている。会議室に呼んで事情を聞いた。
どうしたんだ?
「実は、あの後ケーキを買って、僕の家に行くことになったんです。タクシーを止めたところ、他の人と取り合いになり喧嘩になりました」と云う。
「Yさんがあっと云うまに相手を殴り倒したんですが、僕はケーキも持って見ていたら、相手の連れに殴られてしまいました。お土産のケーキがグチャグチャになりました」
「Yさん喧嘩強いわ~」
馬鹿野郎、何故お前もやらなかったんだ。
暫くして、Yさんを呼んだ。
「Yさん、あんたとこは精々、数百億円の会社。内は何兆円規模だぜ。事件になっちゃ困るんだよ。気を付けてくれよ」と、嫌味な言い方を敢えてした。
一緒に飲むたび、それから暫くは「内は高々100億の会社だから」と云うのが彼の十八番となった。
良き時代と云える。