オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

仕事始め&飲み初め

2017-01-05 | Weblog

1/5(木) 昨日は平成29年の仕事始めの日。かといって、感慨もなければ意気込みもない、365日のうちの一日にすぎない。仕事始めと云うやつを、かれこれ46・7回はやってきたのだ。厭きもせずにと言われさうだが、正直言って厭きたな!創造や発見のある日々とは遠くなってしまった。それが現実だ。

そんなことを云いながらも、社内の年始会では、スタッフに今年の抱負などを語って貰う。矛盾しているように思えるかもしれないが、そうではない。若い人たちには夢や希望、目指すべきものが必要だから。それを聞き、目標を再確認させて背を押すのはオヤジの務めだ。

昨夕の年始会でもそんな話を聞いた。一人一人が語ったことがどれだけ実現できるのか、したのか、それは年末の納会で訊くことになるが、真摯に取り組む者への実現の為のサポートは惜しまない。しっかりとしたプロセスがあれば良い結果が生まれる。プロセスのない結果には、本当の果実は稔らない。

今年、社内における私自身の役目は「ただただ、見守る」それだけだ。必要なことはこれまでも散々伝えてきたと思っている。大人に対して、これ以上箸の上げ下げまでを云うのは失礼だ。夫々の自主性、主体性、創造性に委ねるのみ。

そんな訳で、今年はこれまで以上に社内に居ないようにする。さて、老兵はどこへ行くか・・・・。

正月らしく目出度い話ではないが、毎年頂く年賀状。この中に「今年をもって、賀状は失礼させていただく」というものが時々ある。今年は特に多かった。さほどの年齢でもない方の中にも、そう云うものが出てきた。加齢でとか、ボケがはじまりとか、或いはそろそろ始末を付けるためにとかある。そういう方に、こちらの一方的な思い(私の場合、生存証明書代わりなのだが)で賀状を出していいものか?其処が悩ましい。

翻って、己がそうした場合いはどうなのか。年賀状頂き、様子を知って喜びはするが、申し訳ないの思いが募るだろう。楽しさと申し訳なさ、合い半ばか?

年末のひと時、疎遠な方の顔を思い浮かべて。或いは頂戴した賀状を見ながら、その方のことを、その当時のことや現在の姿を思い浮かべる・・・・・、一年の風物詩とも云えるのだが。

 ― 飲み初め -

社内での軽い新年会の後、界隈の店にご挨拶がてらの飲み初めとなったが。処が店が開いていない、市場の初競りは今日なので魚を扱う店が開いていないのは判る。処がそういう店でなくても開けてないのだ。暮れは遅くまで開けたらから、正月はゆっくりしようと云うのか?

我がパトロール範疇の店で開いていたのは「ちょっぷく」だけだった。そんな次第で、折角新年の挨拶を、と思いながら果たせたのはYAMAちゃんとこだけだった。

新年と云うので、頼みもしないのに日本酒を散々振舞われた。そうこうする内に悪徳ちゃんが姿をみせ、ローカーボのマスターまでやってきた。ちょっぷく助っ人隊の面々と一緒に新年会もどきとなった。

                      

珍しく日本酒オンリー、白ワインはチェイサー代わりとなった。盛り上がっていたが、門限の22時を過ぎた頃合いには退散した。帰宅は23時過ぎか、冬の夜風が寒かった。街が賑わいを取り戻していないこともあるが。

 

では、今日の弁当だが。今朝は残り飯があったので「焼き飯」にしようと・・・。処がいつの間にか「炒飯」になっていた。鮭入りの炒飯である。

                            

菜の方は「豚ロースの粕漬け焼」「ヒレ肉とホタテのフライ」「シャブ用豚肉の素揚げ(ポン酢味)」と「パスタ&野菜(タマネギ・キャベツ・パプリカ・スナップ)のサラダ風」、以上である。

                          

本日と明日は二人分のお弁当だ。よかった

                         

 

 

 

 

 

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