8/26(木)既に日付は変わった時刻になったが・・・。短いながらも、仏壇の前に座り御霊よやすかれと祈りを捧げていた。
三十分ほど前にダーナから連絡があった。度々我が歌姫と記したことがある橋本葉子さん(本名 東郷典子)さんが一昨日、八月二十四に逝去したとの連絡であった。思いもよらぬ知らせであった。
帰郷前の七月八日午後、馬車道にあるダーナの店に出るとの連絡をもらい顔を出した。私の他には、唄を歌う常連客が一人だけいる店で、葉子さんのピアノ、ダーナとの唄を聴きお喋りをして別れたが・・・。
七月の下旬には秋田に戻り、一月ほど過ごしてから上京すると聞いた。秋にはまたお会いすると約して雨の馬車道を後にした。
あれが最後になるとは、余りにもあっけないサヨナラである。
電話の向こうのダーナは涙声で「妹分だと葉子さのお姉さんと二人で死に化粧をしてお気に入りのドレスを着せた」とのこと。
何処で罹患したか定かでないが、メグスタの翌日は青山のレストランクラブ、その後に新宿での仕事があったとか。
秋田に帰る前に微熱が出て帰るのを控え、受診すると新型コロナと診断された。すぐに入院ができないので何日か自宅で過ごしているうちに体調が悪化。聖マリアンナ病院に入院できたそうだが・・・。
三十五日にわたる闘病中、一時は元気になりメールや電話のやりとりをしたと云う。それが急に悪化して酸素吸入ではすまず気管支切開を進められと云う。が、唄が仕事と拒否したとのことである。
ダーナは青山と新宿の店の仕事が気になり、キャンセルするように勧めたそうだが「四十度の熱がでても仕事をキャンセルしたことがない」と応じたそうだ。ピアノと唄を命としていた。
葉子さんの唄とピアノを始めて聴いてから五十年近くなるか。赤坂東急ホテル十四階に「マルコポーロ」云うBARがあった。そこで彼女はピアノの弾き語りをしており人気であった。
その後、東郷好彦氏と結婚して六本木・麻布警察署の裏手で「禅」と云う店を開いた。夫妻と親しく付き合うようになったのは禅の時代からである。勤務していた東京通信局が六本木二丁目にあり、長い勤務が終った遅い時間に駅に向かう坂道を上がり顔を出した。電電公社が民営化する前の頃のことである。
ダーナはその頃からのスタッフ、未だ初々しいさが残っていたか?。店に出ていたミュージシャンとも親しく会話をしたものである。
そして、葉子さんと生年月日が同じと判明した。更に、夫妻が住んでいたマンションが学芸大学駅で近隣であった。思い返せば長い。
店は六本木から乃木坂、一ッ木通りと変わり、一ッ木通りの店の時代に東郷さんが胃がんで亡くなられた。葉子さんは、数年後に店を閉めてフリーで歌うようになった。そんなこともあり、顔を合すのは年に数度になっていた。
葉子さんが歌う「あなたは旅人」(東宝映画。東京湾炎上の主題歌)が好きで、よくリクエストをしたものだが、最近は高音が辛いと応じてくれなくなった。「愛してます青森」は彼女の出身地(弘前)でもあり、六本木・禅時代のギタリスト福家チャンの曲で歌い継がれている。
東郷夫妻との思い出は数多あるが、二人とも逝ってしまった。葉子さんが荼毘に付されるのは三十日とか、安置されているのは偶々であろうか、因縁なのか、ダーナの住まいの直ぐそばと云う。ダーナな深夜その建物の前で「葉子さん一人じゃないよ」と声を掛けると云う。
橋本葉子さんの御霊よ、安らかに。サヨナラ葉子さん、僕は死ぬまで生きます。そして貴女の残した歌声をCDで聴いています。