小澤常敏先生が、1月10日、逝去されたとの葉書が奥様より届いた。
小澤先生は、富士市に或る臨済宗の寺「東光寺」のご住職をされていた。
尤も、私がお会いした時は、山梨県身延町下山の「南松院」の住職、その傍ら地元の学校の先生をされていた。(どちらが傍らとは云いがたいが)
20代の半ばでお会いして以来、三十余年が経つ。
当時、私は前に勤めた会社の剣道部のリーダであった。監督兼主将と云うべきか。
夏の合宿場所を探していたところ、地元出身の部員M嬢が、下山の南松院に道場があると云う事で、下見をさせてもらい、此処で合宿をさせて貰うこととなった。
南松院は、国道から田圃道を山懐に10分ほど入った処にあった。
山門を入った右手に庫裏、庭を経て左手にまだ新しい道場が建っていた。
小澤先生が建てられた道場で、地元の方々が10名ほど稽古に通っていた。
我々40名弱は、近所の民宿やお店の部屋を借り、二泊三日の合宿を2年続けた。
勤め人のことでもあり短い期間の合宿だったが、先生のご一家や地元の方たちからご厚情を頂いた。
小澤先生は、当時六段だったはず。夏休みの期間でもあり、我々と一緒に稽古をされた。
二度の合宿でのお付き合いで、その後は年賀状だけのやり取りが続いていた。
2~3年経ち、結婚した旨の手紙を出すと、合宿に同行していた妻のこともよく覚えていて、丁重な便りを頂戴した。
先生は、その後、ご実家の寺「東光寺」を継がれ、南松院との兼務が暫く続いていた。
毎年、賀状には富士川から程近いという寺に遊びに来なさいとのお誘いが書かれていた。
昨年、「辻政信と七人の青年僧」と云う本をお送り頂いた。
この本で知ったが、先生は学徒動員で南方前線に送られ、バンコクで終戦を迎えている。
終戦後、残置諜報員として僧の姿となり活動する辻参謀をサポートする為に、僧籍がある青年七人が集められた。
メンバーの一人としてバンコクの僧院で一緒に暮らし、その後、抑留生活。
辻参謀を中心に七人の青年の逃避行のノンフィクション物語であった。
35年渡り年賀状だけのお付き合いが続いたが、小澤先生は河岸へと旅立たれた。
何時か、東光寺に墓参が叶うであろうかと思いつつ、是までのご厚情に感謝し、ご冥福を祈念します。
小澤先生は、富士市に或る臨済宗の寺「東光寺」のご住職をされていた。
尤も、私がお会いした時は、山梨県身延町下山の「南松院」の住職、その傍ら地元の学校の先生をされていた。(どちらが傍らとは云いがたいが)
20代の半ばでお会いして以来、三十余年が経つ。
当時、私は前に勤めた会社の剣道部のリーダであった。監督兼主将と云うべきか。
夏の合宿場所を探していたところ、地元出身の部員M嬢が、下山の南松院に道場があると云う事で、下見をさせてもらい、此処で合宿をさせて貰うこととなった。
南松院は、国道から田圃道を山懐に10分ほど入った処にあった。
山門を入った右手に庫裏、庭を経て左手にまだ新しい道場が建っていた。
小澤先生が建てられた道場で、地元の方々が10名ほど稽古に通っていた。
我々40名弱は、近所の民宿やお店の部屋を借り、二泊三日の合宿を2年続けた。
勤め人のことでもあり短い期間の合宿だったが、先生のご一家や地元の方たちからご厚情を頂いた。
小澤先生は、当時六段だったはず。夏休みの期間でもあり、我々と一緒に稽古をされた。
二度の合宿でのお付き合いで、その後は年賀状だけのやり取りが続いていた。
2~3年経ち、結婚した旨の手紙を出すと、合宿に同行していた妻のこともよく覚えていて、丁重な便りを頂戴した。
先生は、その後、ご実家の寺「東光寺」を継がれ、南松院との兼務が暫く続いていた。
毎年、賀状には富士川から程近いという寺に遊びに来なさいとのお誘いが書かれていた。
昨年、「辻政信と七人の青年僧」と云う本をお送り頂いた。
この本で知ったが、先生は学徒動員で南方前線に送られ、バンコクで終戦を迎えている。
終戦後、残置諜報員として僧の姿となり活動する辻参謀をサポートする為に、僧籍がある青年七人が集められた。
メンバーの一人としてバンコクの僧院で一緒に暮らし、その後、抑留生活。
辻参謀を中心に七人の青年の逃避行のノンフィクション物語であった。
35年渡り年賀状だけのお付き合いが続いたが、小澤先生は河岸へと旅立たれた。
何時か、東光寺に墓参が叶うであろうかと思いつつ、是までのご厚情に感謝し、ご冥福を祈念します。
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