オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

矢口の渡し

2010-09-14 | Weblog

9/14(火) 今朝の散歩は近隣コース、約30分で戻る。最近、朝が涼しい所為かはたまたお疲れの所為か目覚めない。果たしていいことなのか、悪いのか・・・。

先日の日曜日、多摩川の「矢口の渡し」跡まで歩いた。予測では、2時間ほどで着くだろうと目論んでいたのだが・・・。

八時半に自宅を出る。環七から大岡山駅、洗足池に至るルート。洗足池には予定時間の40分で到着。ここで一休みがてらに池畔にある「勝海舟」夫妻の墓に参拝。そして池の名前の由来と云われる「日蓮」が袈裟を掛けた「袈裟掛けの松」がある御松庵を参拝し、三代目とかいわれる松の木を見物。特に面白みなし。

                  

こうして池畔で15分程遊んだ後、中原街道を下る。東急線の洗足池・石川台・雪谷大塚と過ぎて環八を越えて多摩川に至った時は一時間40分を要していた。気が付くと多摩川駅の近く、遠廻りをしている。ルート選定が間違っていた様子。

今度は多摩川沿いを下るばかりだが、堤の道は陽射しが強い。少し歩くと、河口より12Kmの表示あり。予測では3~4Kmで目的地のはずだ。

暑さと疲れで歩みが鈍くなった。リズムを変える為に走るが・・・モタン。(この続きは明日) とうとう、途中のスーパーに入り飲物を調達して一休み。店員に矢口の渡しまでの距離を訊くと「三駅目ですから、結構ありますよ」とのこと。止めるわけにも行かず、歩き始めた。

河口から10kmの表示が出た、後1km程だろうと目算を立てる。ガス橋を潜り、遥か先に橋が見えてきた。あの橋が目的地だろうと推定し、リズムを取り戻す。東横線多摩川駅からだと三つ目の橋となる。

                        

 漸く辿り着いた。が、渡し場の跡らしい表示も無し。橋の下で魚釣りをする家族を眺め、辺りを見回すが何もない。(後から大田区のwebサイトを見ると、多摩川の流れの変化で「渡し口」は何度か変わった、とあった)
この辺りになると川幅も広く、水量も多い。渡し舟が使われたのが分かる。昭和三十年代まで利用されたようだ?


取敢えずは目的地に着いたが、三時間も経過した。橋は「多摩川大橋」とあり第1京浜(国道1号線)に掛っている。多摩川の向こう側は川崎市となる。暫く河原をぶらついて、東急線の駅「やぐちのわたし」へと向かった。(要は適当に辺りをつけてだが、川から15分ほど要したか)

 11時48分発の電車に乗車、多摩川駅を経由し、学芸大学に戻る。30分も掛らずに着いた。帰路、電車を使うのは予定どおり、と念のために申し添える。

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店仕舞い

2010-09-13 | Weblog

9/13(月) 先週末の金曜日、我等が第二迎賓館と称している店「コナン」が今月末で店を閉めることとなり、サヨナラパーティとなった。要は貸切にして皆で飲んで騒いで有難うを云う趣旨のようだ。

「コナン」が近くにオープンしたのが五年前。間もなくして、私と宏さんで飲みに行ったのが始まりか。韓国は釜山出身のママさんが一人で切り盛りするカウンターだけの小さなお店。店名の由来は、息子が名探偵コナンのファンなところから命名したそうな。

我が社の韓流ファンの女性スタッフは、ママさんから韓国語や料理の手ほどきを受ける仲になっていた。そんな女性スタッフの呼掛けで金曜日のパーティとなった次第。

カウンターの上にママさん手作りの韓国料理が並び、飲み・食べ放題の賑やかな宴が始まる。隣のそば店「高松」夫妻も店を早仕舞いして参加。常連客のパン屋のオ ヤジや何処かで見かけた顔と、満杯で入れ替わり立代わりのスタンディングとなった。

                       

大年増の誰かサン達は「ピンクレディ」を唄い・踊る。お~い、お年が知れちゃうぞ!

そんな中、私は中抜けをして、H社のK大兄とお会いして、第三迎賓館なる「せい寿」にてカラオケ。H社の初御目文字のI常務の美声を聞くこととなった。K大兄十八番の「弁天小僧」は何時もながら味があっていい・・・。

かくして金曜日、久々の終電前のご帰還となった。

それにしても、五年か。早いものだった。俺が好きなチアキナオミの「赤とんぼ」の台詞と同じとは・・・「五年ありがとう、いろいろお世話になりました~唄ってよ~騒いでよ・・・国へ帰るの誰ももらっちゃくれないし」なんて云う台詞だったか。

この唄の台詞どり、釜山に帰るそうだ。
ただ、向うでは旦那が早く戻って来いと待っていると云うのが善い・・・明るく店を閉めることができる。「コナン」9月28日にて閉店。

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サンドイッチな朝

2010-09-09 | Weblog

9/9(木) 肌寒さを感じる朝を迎えた。今日は碑文谷ゴルフで40球と往復の散歩で終わる。家を出て戻るまでの所要時間は40分ほどであった。メダカ水槽の布袋草が花を咲かせていた。

 

作夜次女が泊まりに来たので、弁当にサンドイッチを準備してやることとした。処が、サンド用パンの買い置きがない。近所のコンビにへと仕入に行く。

今週は連日弁当を作っているようだ。休止の予定は何処へ?意志薄弱・いい加減・適当etcである。

サンドの具は「ベーコン&シメジのバター炒め」「ポテト&卵のタマネギ入り」「チーズと野菜」の三種類である。食材は、食パン八枚切り一袋、六枚切りを二枚、ゆで卵三個、胡瓜一本、タマネギ一個、レタス数枚、ジャガイモ大一個、シメジとベーコン三枚、スライスチーズ四枚、塩・胡椒・マヨネーズである。

                       

                      作成中                    K&me

四人分のサンドイッチの出来上がりとなった。仕上げ方は、焼き目の入ったクラブハウス風。
家人が余計な事を云い、小僧に一人分を持たす破目となった。私の分は諦めか・・・。

 

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雨でオムスビに・・・

2010-09-08 | Weblog
9/8(水)今朝も近所の碑文谷公園周回の散歩となった。が、明け方にパラついていた雨が公園を二週もすると本降りの様相となった。これ幸にジョキングを中止して帰宅。

そう云えばジョキング中にすれ違ったのは、近所に住まう脚本家のMITANI氏と愛犬の散歩姿だった・・・余り関係のない話ではあるが。ついでに云うと、歴史上の人物をテーマに物語を書く童門先生(私はこの先生の本のファンと云える)も近隣に住んでいるはずだが、最近姿を見ていない。

雨のおかげで、時間は十分ある。暇なオヤジは、弁当用の「オムスビ」を作ることとした。具は、紫蘇チリメンと昆布佃煮・自家製ジャコ佃煮である。ご飯を三合ほど炊いた。

家人用が二個、K君用に三個、私は一つにした。一昨日の二個のオムスビが重かった所為。お菜はなし。焼き海苔でくるみ、ラップで巻いて完成である。



昨日の午後、OGの民謡踊りサークル「すみれ会」の例会にお邪魔して話を伺った。平均年齢は75歳、メンバー70~80歳とか。新人の加入がなくて高齢化の一方の様子。それでも、週一度メンバーが集まって話をし、稽古をするのが元気の源と仰る。

その後、別のOB会支部事務所を訪問。旧知のI事務局長に、OBに協力頂く調査案件について相談する。OBと一口にいっても、其々状況は異なる。何か善い仕組みが出来ないかと話を訊くが、善い方法が浮ばない・・・。

夕刻となり、宇田川町「奈加野」へと案内する。30年近くも前になるが、Iさんとの付き合いはヒョンナことからだった。

東京駅の八重洲側にあるサントリー・バー「グリン」に、先輩に連れられて以来、通うようになった。其処のママと、Iさんが飲みに行く店のママとが姉妹と云うのが縁。要は飲んだ暮れて、こっちの店からあっちの店へと渡り歩いたのが始まりだった。偶々同じ会社の大先輩、偶然か必然か、花の係長で着任した先が同じ職場。Iさんはそこの大管理職で居られ世話になった。

喜美さんと云う気風のいいママは10年程前に死んだ。竹林の五賢人と称して遊んだメンバーの一人、読売新聞のW氏はその前に亡くなった。スマートで大人のNさんとは音信が途絶えた。そんなことを、あれこれと思いだしては喋り、時間が流れて行った。

『グリン』確かにこの店で過した時間も、思い出深きひとコマ。給料は安かったのに、よくまあ~飲み歩いたものだ。二階にあるこの店の床を、酔っ払ってドンドン踏むと、下の寿司屋からクレームがきたものだった。東南アジアに遊びに行く前夜、稟議書の局長説明の予定が延びて旅行社にキャンセルの電話を入れたのもこの店からだった。地方から会議などで本社に来るメンバーを二次会で案内するのもここ。札幌から出張できた客人が歌う、北島三郎の「風雪流れ旅」を初めて聞いたのもここ・・・その時、喜美ママが云った「アリちゃん、負けたね」が懐かしい。

何時の間にやら思い出話になってしまった。やだね~。
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弁当登場

2010-09-07 | Weblog

9/7(火) 今朝は小一時間ほど近所の碑文谷公園を周遊・・・。弁天池の厳島神社にお参りする。お宮に渡る太鼓橋の際にある松の木が中々のものと気付く。丁度ラジオ体操が始まり30~40人が広がって体操中、通行の邪魔たが・・・。

                  

帰宅して、出勤まで時間があるので急遽弁当を作ることとした。昨日のblogでは暫く弁当は休止と記したが、舌の根が乾かぬうちから弁当作りとは・・・。

な~に、冷蔵庫の残り物で簡単に作るだけのこと。
先ずは、シーフード(小エビとイカ)とアスパラ・シメジのオリーブオイル炒め。次いで豚小間とキャベツ・タマネギの焼肉のタレ炒め煮。それにお決まりの卵焼である。

                     

                    今朝の食材             ご飯の上は混布佃煮

家人とK君の三人分の弁当を用意した。弁当作りの手はずは忘れてないようだ・・・。

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新米でオムスビ

2010-09-06 | Weblog

9/6(月) 今朝の散歩は碑文谷公園周回コースで30分程と短い。公園内のグランド周回コースが424mと表示されている。体育館を含む外周の道路だと700~800mはあるか。公園の花々に蝶々が舞下りて蜜をすっている。(蝶は、ど~こだ?)

 早めに散歩を切り上げ、昨日、家人の従兄弟から届いた新米で久々に弁当用のオムスビを作ることとした。具は、鮭とオカカに梅干である。新米の味をK君にも味わって貰おう・・・。家人と私も二個を用意した。

                     

 

朝の日課を弁当つくりから散歩に変えて、一ヶ月も経てば体調に変化があると思ったが、全く変わらず。後、何ヶ月か体を動かすことに専念せざる得ない。その間は弁当作りは休止がつづくだろう。

土曜日から日曜に掛けて一人だった。土曜の夜は「マーボ茄子」と「土佐風五目すし」を作り一人で食す。夕食の準備をしながら、ついついビールを飲む。飲みながら作るのが最近の夕食作りの習慣。まさにキッチンドリンカーそのものである。

                     

 日曜日の散歩については改めて・・・。

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泳心一路

2010-09-03 | Weblog
9/3(金)今朝は今月のルート碑文谷公園周回である。今朝のタイトルは、公園の直ぐ脇にある日本大学水泳部の合宿所&プール玄関脇のモニュメントからとったものです。

戦後、世界の水泳会を席巻した「古橋広之進」さんの言葉である。魚になるまで泳げと、ハンディキャップを乗り越えて偉業を達成した人が語り残している。古橋:日本水漣会長の文化勲章受賞を記念して昨年作られたとある。

日大プールは随分古くからこの地にあるようだが、その歴史は知らない。私が懇意にしている会社、東洋物産の会長Mさんはここのプールで泳ぎ、ローマオリンピックに出場(水球だったそうだ)したと聞いている。

合宿所の前は何度も通るが、このモニュメントに気付いたのはつい先日のことであった。次にM会長にお会いしたおりに諸々尋ねてみたい。

四年間に渡り、練習と学業を真っ当するのは並大抵のことではない。体格の良い若者が大勢いるが、行儀よくキチンとしている。彼等の大成を願う。

さて、昨日は朝一番の飛行機で小松空港へ向かった。義妹が迎えてくれ、福井での祖母の葬儀に参列した。東京と同様に暑い夏だったが、少しは楽なようだ。
97歳で逝った祖母を送る葬列からは、色付きはじめた稲穂の海があった。

この日の午後、長女が女子を生んだ。滅び行く肉体と新たな生。生物としての、たおやかな輪廻の中にいることを実感する。
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長月

2010-09-01 | Weblog

9/1(水)今日から長月となるが暑熱は相も変らずつづいている。昨日、家人の祖母が身罷った。九十七歳、長寿であろうが、我が家の臨月を迎えている長女が予定どおりであれば「やしゃ孫」(玄孫)となり、四代が揃うはずだったが・・・。明日は葬儀の為、越前へ出向く。


昨夜、渋谷「奈加野」の店主より電話が入る。曰く「鮎が届いた、こんか」。「こんか」は土佐言葉で、来ないかの意である。郷里の先輩からの思し召しとならば致し方ない、遅い時間となったが顔を出し、ビールと鮎塩焼きを頂いた。

この鮎、先週郷里の町会議員をしている小松君(私の同級生の弟)が上京したので一席を設けた。その際に盛んに「鮎を送ります」と言っていた。丁重にも御礼の志しであろう。

今朝は碑文谷公園をゆっくりと散策。グランド・池の周りを歩く。
池の名は弁天池というそうな。この池が、立会川の水源とか。また碑文谷は江戸の頃、旗本神谷氏の知行地だったとある。ここらの事は、以前にも何度か読んでいるはずだがすっかり失念している。

池には鯉が泳ぎ、水鳥が遊ぶ。近隣の誰かが放した亀が其処かしこで水面から首を出して餌を待っている。池越えの民家の屋根の上に、上りの東横線の車両を臨む。長閑な朝である。  

公園の樹木の下で目立のを避けるかのように石碑が立っている。傍に寄って見ると「1960年3月15日」の日付、チマチョゴリと着物姿の女性が手を取り合っている姿が彫られている。二人の女性が持った旗には「朝、日友好親善萬歳」とあり、目黒在住朝鮮民主人民共和国 帰国団一同の文字がある。

この碑が作られて五十年、半世紀を迎えたことになるか・・・。夢と希望を胸に海を渡った大半の人が、厳しくも過酷な運命に導かれるとは五十年前に思いもしていないはず。幸せってなんだろうな・・・。

私が敬愛するK大兄の姉君も、彼の国出身の伴侶に寄り添い海を渡ったと聞いている。目に入ったモニュメントを見、さまざまな事に思いが繋がっていった。

 

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